世界は文化理解を通じて繋がって行く

GlobalVoicesについて


先日、私のブログが英訳された件について記事を書いたのだが、(自分のブログが世界に発信された日 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る )そのページをリンクしていただいた人のリンクから、この英訳(というより、多言語化)に係わる事業の『中の人』へのインタビューをもとに書かれた、アンカテ(ブログ名)のessaさんの記事にたどり着いた。

GlobalVoicesの中の人に会って来ました - アンカテ


 アサヒコムの記事でこの事業、GlobalVoicesの概要はわかったような気がしていたが、essaさんの記事はずっと詳細でしかも、本当に知りたいことが書いてある。メンバーのサルツバーグさんの人となりにも一層理解が深まった。


『バター不足について』、という記事が、英訳されて、反響が大きかったため多言語化されていった、というお話や、スペイン語アラビア語で書かれたブログが日本語になるなど、GlobalVoicesが、英語からさらに多くの言語に広がるコミュニケーションのキーステーションになっているということも、あらためてよくわかった。本当にすばらしいことだと思う。こういうインターネットやブログのポジティブな部分はもっと注目されていい。最近の日本の若者のコミュニケーションは、mixiモバゲータウン等に見られるように、非常に活発ではあるが、一方で内向きに過ぎるきらいがある。前回のブログでの主張の繰り返しになるかもしれないが、『外向き』の活動がもっと増えることで、日本のブログももっとバランスが取れて行くのだと思う。そして、まだ沈黙している多くの日本の『スマート・モブ』をブロゴスフィアに参入させるきっかけになると思う。



『空気』や『世間』への興味


また、サルツバーグさんの日本語のブログ記事を拝見して*1カナダの人が、日本人にとってもかなり難しい概念である、『空気』や『世間』に注目されていることに驚いた。アンカテのessaさんが書かれているように、サルツバーグさんが、『ここで言及している次の記事は、自分としてはけっこう面白い記事になったという自信があったけど、予想した程は反響がなくて少しガッカリした』とおっしゃっているのは、まあ無理もあるまいと感じる。日本人相手であっても、この話題に興味を持って応じてくれる人はそう多くはないのではないか。大変奥深いテーマではあるのだが、『言語化』することは必ずしも簡単ではなく、意識的に興味を持って探求する人は案外少ない。


実のところ、私自身にとっても、昔から『空気』『世間』は、かなりの興味を持って探求して来たテーマである。参考文献としては、『空気』なら、山本七平氏、『世間』なら、阿部謹也氏の著作が出色だと思うが、かなり前からこのお二人の著作を初め、いくつかの著作を読んで、自分なりの仮説を構築して、実際の日本の社会を観察してきた。その結果、自分の納得の範囲はそれなりに広がり、この『空気』や『世間』を知ることがマーケティング実務を行うにあたっても大変な隠し味として役立ってくれたり、交渉の場でも、自分の身を救う智慧となってくれた。そればかりか、海外市場開拓、特にアジア圏内の市場開拓やプロジェクトを担当するにあたっても、一国の文化を深く理解するための参考点として大いに役立ってくれたと思っている。しかしながら、これを言葉で他人に語ることには、本当に苦労した。誤解を受けることも多かった。どうしてそうなるのかは、難しいところだが、『空気』も『世間』も実際に間違いなく『あるもの』なのだが、それがある理由ははっきりわからないから、ということだと思う。


ただ、それでも、『空気』や『世間』と直接同じ概念ではないが、同心円上にあると考えられるいくつもの概念が、異口同音に語られ、一定の役割を果たして来ている現状を見ると、今でも探求を続けることに大きな意義があると思える。例えば、下記のような概念は、直接使われる場面も、意味さえも違うが、大きなカテゴリーとしては同一の要素を持っていると考える。

  • 潜在意識
  • 集合無意識
  • 風土
  • コード
  • 野生
  • 空/無

世界は文化理解を通じて繋がって行く


これらは、心理学、哲学、文化人類学民俗学等が様々な取組みをしてきた軌跡で語られて来た概念である。当然、日本だけでなく、世界中の識者が取組んで来たものだ。およそどの文化現象にも、表があれば裏もあり、この裏の部分の理解の厚みがなければ、その文化にある不文律の部分を理解することは難しい。民族や宗教の衝突は、そういう深層のレイヤーの無理解が原因であることは実に多い。だから、私は、ビジネスのニーズという意味でももちろんそうだが、それ以上に、こういう文化の深層の探求は、国家や民族の衝突回避や平和的な相互理解に絶対に欠かせないこと、と考えて来た。


西洋文化、中でも近現代のアメリカは、そういう文化の衝突を避けるためのルールとして、できるだけ誰でもわかる平易さと、明示的で、論理的な理解が可能であることを重視してきた。それは、実際にビジネスには大変大きな役割を果たしたし、そのレベルで合意を取って行くことは、世界をスムーズで住みやす場所にするためには大事なことだはと思う。だが、これは『歴史の終わり』を主張して、アメリカの一極政治支配の思想的バックボーンともなったフランシス・フクヤマ氏と、『文明の衝突』を書いて、支配的な文明は人類の政治の形態を決定するが、持続はしないと主張する、サミュエル・ハンティントン氏の論争を思い出させる問題だ。


現時点で見ると、世界はグローバル化が進み、フラットになったが、実際に世界の人々が近くに集まってみると、文化/文明理解なしにやっていくことは難しいということを再認識した、というのが本当のところだろう。そういう意味では、世界は文化理解によってこそ繋がって行くのだと思う。


長くなってしまったが、上記のように考えて来た私としては、日本に住み、日本人以上の美しい日本語を駆使する、サルツバーグさんのような人が『空気』や『世間』に興味を持っていただいている、これこそが、本当に文化の相互理解が進みつつある証なのだと思う。海外にこれを発信していくことは本当に大変だと思うが、是非何度もトライして欲しいと考える次第である。