文化を感じる時


東浩紀氏と、笠井繁氏の往復書簡本である、『動物化する世界の中で』*1を読んでいたら、内容には直接関係ないのだが、すごく共感を感じるというか、自分自身の昔を思い出させてくれる場所を見つけた。

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溝の口や新百合ケ丘で『本』と言えば、まず第一に、郊外型書店に山積みされたベストセラーやマニュアル本、それにライトノベルの類いでした。しかしここ西荻窪から高円寺、中野に至るエリアには多くの個性的な古書店があり、高校生や大学生のころの僕が貪り読んだ、あるいは読みたいと思っていた、哲学書や小説、サブカル本がいまだに流通している。


私も、田園都市線の鷺沼やあざみ野に住んでいたことがあるし、その前には、中央線の高円寺に住んでいた。田園都市線沿線というのは、高級住宅街が多く、町並みも本当にハイソで、小ぎれいで、レストランに入ったり、ちょっとした普段の買い物をするには申し分ない場所だ。だが、本屋はどこに行っても、まさに東氏のおっしゃる通りで、『殺伐』としているとしか言いようがない。 


一方で、高円寺は街はお世辞にも奇麗とは言えないし、そもそも古い建物も多いのだが、いきなりタイムスリップしてきたような古本屋があったり、何でもない通りの地下にある店で、夜中まで肩を寄せ合うようにライブをやっていたりする。夜になると、アジアのどこかの街を思い出すような不思議な空間から、はみ出るようにバブが開いている。高円寺の古本屋にひょっこり立ち寄って、200円で売っている英語の本を手に取ってみると、アルビン・トフラー氏の初期の名著、『Future Shock』*2だったりする。200円? そりゃまた何かの間違いなのではないかと本を振ってみる。すると、その本を売った人のすっかり色あせてしまったメモ用紙がこぼれ落ちる。 


田園都市線と中央線の間には、体験したものでないとわからない、根本的な違いがある。それは、月並みだが、『文化』としか言いようがない、『あるもの』だ。確かに、中央線沿線の文化は、古き良き虚構かもしれない。高円寺だって、その全盛期は70年代に遡るだろう。だが、今なお、何と分厚い存在感があることか。


一体どっちが本当の虚構なのか。すくなくとも、どっちの虚構に、在って欲しいのか。


今? 今は鎌倉にいる。今はここを離れようとは思わない。

*1:

*2:

Future Shock

Future Shock