『楽しさ』を見誤った日本


『楽しい』って何だろう?


『楽しい』というのはどういうことなのか、という問いを突き詰めて行くと、非常に深淵な哲学的な問題になる。試しに、今あなたが楽しいのは何ですか? どうしてそれが楽しいんですか? と誰かを問いつめて行くと、ほとんど確実に、『楽しいから楽しいんだ!』ということになって終わるだろう。十中八九ロジカルに答えが出てくることは期待できないはずだ。


では、どうすれば『楽しい』ということが何なのかわかるのか? 答えは意外に簡単だ。やってみること。これしかない。


ただ、非常に問題なのは、やってみて簡単に誰でも楽しめるものやことは、大抵簡単に飽きてしまう。飽きるともっと刺激を強くするしか楽しくなくなる。どんどんエスカレートする。するとどこからか、楽しかったはずが、苦痛になっていく。ただ苦痛になるだけではなく、時には社会生活との折り合いもつかなくなることも少なからずある。(だから、ほどほどにしておいた方がよいということは、いわば大人の知恵として尊重されて来たはずだ。また、社会がまだ貧しくそれを許すほどの許容量がない時代には、知恵というより社会的な強制力もより強く働くだろう。)



奥深い本当の楽しみとは?


そして、おそらくもっと重要なことは、楽しさには、『楽しさを知るために習得する必要のある技術、あるい何らかの超越や卓越性』がなければ、決して知ることのできない奥深いレベルがあるということだ。このことに気づいた人は、もはや単純で即物的な楽しさを追うことには興味を失うことになる。そして、その人が見つけた楽しみは、一生追求しても追求し尽くせない深遠な楽しみとなる。残念なことに、その中身、内容は何かと問われても、文章で書いたり表現できないため、直接伝えることはできない。ただ、自分の経験でも、そして、その経験をベースにして他の人(歴史上の人を含む)を見ても、同様に感じている人が明らかに存在するということはわかる。


例えば、上智大学名誉教授の渡部昇一氏がまだ貧乏な学生だったころの話として、次のような話を書いておられて、非常に印象に残った記憶がある。(詳細は忘れたので多少間違っているかもしれないが大方は正しいだろう) 正月か、お盆か、とにかく普通の人が楽しく遊んでいる時に、お金がなかった渡部氏は一人学生寮に残って、日本の古代の文学や詩歌の勉強をされていたそうだ。すると、古代の高貴な女性が詠んだ詩に込められた気持ちや感情を突然ありありと感じられたのだという。何百年も時代を隔て、しかも、身分もなくお金もない貧乏な学生の自分には、本来けしてわかるはずのない気持ちが、勉強を続けてきたおかげでわかる。これを実感して、渡部氏は学問の偉大さ、奥深さに非常に感動されたそうだ。


長い経験が必要な職人仕事や高い芸術等の魅力を知った人たちは、もはや金銭的な価値というようなものを超越してしまう、ということは確かにある。そして、その楽しみ、魅力を知るためには、そのためにかける時間や努力がいる。よって、その道に参入しようとする弟子には場合によっては厳しく接することになる。そういう伝承があってはじめて、いわゆるハイカルチャーは文化の中で生き続ける。必ずしも、勤勉とか道徳の問題ではない。


経営コンサルタント波頭亮氏と、脳科学者の茂木健一郎氏の、『日本人の精神と資本主義の倫理』*1を読んだ時、何より私が感じたのは、このお二人が、奥深い楽しみを十分に知った人であること、そして、その観点から今の日本の状況に深い憂慮を感じられておられる、ということだった。もちろん、西洋のノブレス・オブリージュ*2のような高い倫理観の喪失というような、倫理/道徳/モラルの劣化ということも語られているのだが、このモラルというのも、一方でそれを持ち続ける人に多くの苦痛やプレッシャーを与えることはありながら、そうしている自分に深い満足を感じ、いわば、爽快でいられること(=一種の楽しみ)と言っても良いのではないかと思う。 


この本で、茂木氏らは、ハイカルチャーの危機に言及されているのだが、サブカルチャーも『楽しむための技術習得努力』がなくなってしまうと、結局劣化して消えてしまうことになると思う。(この点では、先日も書いたが、岡田斗司夫氏のおっしゃる通りではないかと思う。『オタクはすでに死んでいる』んですか? - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る  ) 



方向を誤った日本


おそらく、80年代以降の日本は、みんなが楽しいこと、楽しむことを求めたはずなのに、社会全体が『簡単な楽しさ』中でも『金銭で簡単に買える楽しさ』を追うあまり、刺激をどんどん強くし、従来の社会の道徳やモラルや価値観、習慣、コミュニティや家族の束縛というようなものも振りほどく形で、徹底的にそれを追求したものの、結果得られたのは、『苦み』や『苦痛』でしかなかったのではないか。 


今、日本は全体として方向喪失感が強く、若年層の意欲減退が盛んに指摘されている。だが、およそ意欲を感じるような楽しみ、中でも永続的と感じられて、場合によっては人生をそれにかけても良いというような『楽しみ』は、『簡単な楽しさ』から得ることはできない。成熟した社会であれば、熱狂的な経済成長というような一面的で荒っぽい価値より、もっと永続的な価値を重視するする人が多く存在するもので、そうであれば、活力が失われるようなことはないはずだ。日本が方向を誤ったとしたら、どうもそういうところにあるのではないかと私は以前から考えていたのだが、茂木氏、波頭氏の対談を読んで、あらためてそう感じる次第である。


ちなみに、私は、『日本人よモラルを取り戻せ』式の大上段の目線が苦手なので、この方向喪失感に対しては、自分が取り組む仕事を通じて(あるいはこのブログで書くことを通じて)、軌道修正ができるような貢献をすべく努力したいと思う。