人間不在のユビキタス社会

ユビキタス社会の到来


いつのころからか、ユビキタス*1などいう、特殊な言葉が現代社会を象徴し、インターネットを介在に、すべての人と物をつなぐという意味を持ち始めた。そして、ユビキタス社会*2到来が近いと言われ、様々な企業からその未来像が提案されるようになった。今や自動車にしても、電化製品にしても、スタンドアローンでその将来像を描くことは不可能で、すべてのものがネットを介して繋がり、そこから発信された情報は適切に分析され付加情報を与えられて、最適なフィードバックを受けることで、物がインテリジェントな存在となって行く。あまねく情報が行き渡り、必要な情報は必要に応じて最適なものをどこからでも受け取ることができる。それは輝かしい未来到来! と喧伝されている。


しかしながら、『ユビキタス社会』というのは、本当に誰が求めているのだろうか。そして、その求める理想像やビジョンは一体何なのか。


断っておくが、私自身は、ユビキタスという言葉が好きかどうかは別として、インターネット社会の到来と未来像には基本的には肯定的で、アップルのiPodにもiPhoneにも熱狂したたぐいなので、むしろこのユビキタス社会到来をおおいに喧伝すべき立場にいると言ってもいいくらいなのだ。 それでも、多くの日本企業、政府関連のパンフレットに踊るユビキタス世界像には、ほとんど心躍るような気持ちになれたことがない。『みんなつながったら楽しいだろ? えっ? 楽しいに決まっているじゃないか』というような押し付けがましさ、無神経さはかえって嫌悪感を感じることも少なくない。美しくも楽しくもない。まして、世界が大きく変わっていくことを予感させられたときのわくわくする気持ちを感じることはほとんどない。


どうしてなのか?



多くの日本企業が語る『人間不在のユビキタス社会』


日本企業の多くが語るユビキタス社会というのは、雑駁にまとめれば、究極の改善の積み重ねの結果でき上がった超便利な無菌空間をめざしているように感じてしまう。不便の解消が社会的な強い要求であった時代の利便性の追求は実体もあり、人々に心から豊かさを感じさせることもできたかもしれない。だが、利便性追求自体が経済成長を支えるエンジンとなリ、さらに利益機会を求めて自動運転を始めてしまうと、人間は置き去りにされ、無機質で醜悪なものになってしまう。


そこでは、本来非常に大事なはずな、『安全/安心』でさえ、どうも型通り『安心』できない。そのために豊穣な豊かさを切り捨てて、個人の表現の自由を抑圧し、安全と引き換えに大幅な制限と規制を当然のこととする姿勢は、その延長上に『ビッグブラザー*3』を感じてむしろ不安にさせられる。

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)


楽しいコンテンツが溢れるように出て来て、しかもテレビの前で釘付けとなる必要もない、個々人が時間と場所の制約を解き放たれて、自由に好きなコンテンツを楽しむことができる、というようなメッセージも巷にあふれているが、その一方で同じテレビ番組を見ることで共同幻想を共にした家族をバラバラにし、共通の話題に連帯感を感じ合った仲間(コミュニティ)は分断されてしまった。 そういう実態に配慮が感じられない、システム優位の発想をする企業のブランド訴求は、意図と正反対の効果を生んでいると思う。


端的に言えば、社会の未来像を思想的に深く追求する哲学やビジョンもなく、美的クリエイティビティを持って社会再構築する意欲もなく、会社共同体で見えやすいマージナルな効用を積み上げてその場をしのいでいるようにしか感じられない事例が多すぎる。結果的に、『人間不在のユビキタス社会』が追求されている。この点、グーグルの哲学性、アップルの美的クリエイティビティを対置してみるとよくわかる。


ただ、その日本でも、ニコニコ動画や、モバゲータウンのようなケータイコミュニティーサイトが熱狂的に受け入れられているように、反転のヒントは出て来ていると思う。残念なことに今は『サブカルチャー』扱いでしかないものが多いが、実はこちらの方が、普遍性や世界性の素質あり、と私には感じられる。来るべき『ユビキタス社会』を本当に楽しく夢のあるものにすることは、国全体として将来の展望を失ってしまったかに見える日本に最も求められるところでもある。だから、サービス提供側にいる私たちは、堂々と胸をはってこのようなサービスを創り上げることをやって行きたいものだと思う。同時に、『人間不在のユビキタス社会』の不毛をもっと多くの人に再考してもらいたいと願う。

*1:ユビキタス - Wikipedia

*2:ユビキタス社会 - Wikipedia

*3:ジョージ・オーウェルの小説『1984』に登場する独裁党の党首。自由圧殺、抑圧の象徴。スターリンをモデルにしたと言われている。