社会変革の原動力

20世紀最大の実験の挫折


20世紀最大の壮大な実験であった、共産・社会主義革命の根幹にあったのは、社会を理性により改革できるという思想であった。そして、それが機能しないことを歴史が証明し、ほぼその実験の結果は出たと言っていい。(最低限それが有力な仮説だ、くらいには言えるはずだ。) 旧ソ連でも、共産中国でも、どんなにイデオロギー教育を行い、厳罰で臨んでも、それだけで共産主義イデオロギーを浸透させることが難しかったし、逆に最近の中国を見ても、道徳教育ではどうにもならなかった規律のない非効率な国営企業しかなかった国が、資本主義的なシステムを導入すると、あっという間に世界を席巻する経済力を見せつける。



理性/理想/知性の過信の危うさ


共産主義に対する資本主義の勝利という意味は、人間の理性、理想、知性で国家を構築するより、市場の神の見えざる手に任せたほうが、結局うまく行く、すなわち理性、理想、知性だけに頼ることの限界が明確になったということだと思う。人間にも社会にも、固有の性格があり、その最適な法則性を見つけて、最も自然な流れを利用する(または任せる)ことが賢明だ。そして、人間や社会を理解するのに、理性、理想、知性だけに頼ることの危うさを知るもののほうが、社会を賢明に統治し、企業を本当の意味で効率化し、競争力を保つことになる。



いまだ教訓は生かされず


ところが、なかなかここから教訓を引き出すことは簡単ではないようだ。先日も取り上げた、池田信夫氏のブログ、あるいは、そこで取り上げられた山岸利男氏のご指摘にもあるように、変質しつつある日本社会を、武士道等の道徳や精神論で語ってしまうことの問題点に始まって、教育改革、企業改革等あらゆる場で、いまだに非常に短絡的な理想論や牽引狂気なロジックが振りかざされる例が後を断たない。官僚主導が機能するという神話も今だに完全には消えてはいない。(ただ、すでに変革の波は押し寄せている。)


シンボリックなアナロジー


現代社会、というかインターネットの世界で起きていることを理解する上でも、非常にシンボリックで重要なアナロジーがここにあると考える。


集合知というキーワードが、非常に重要視されてきていることは、インターネットの世界に身を置く人なら、誰もが認める事象だろう。各分野の専門家が知恵を絞って作り上げるブリタニカと、集合知で出来上がっているWikipediaが正確さでも遜色ない、というような例は、もはや常識の域と言って良いように思う。個人の知恵、知性を過信するより、集合知に任せてみる方が良いことも多いわけだ。経済を効率よく運用したければ市場に任せるのがよく、知識を得たければ集合知に任せるのがよい、そんな時代になりつつある。 一企業の優秀な企業のエンジニアに頼るよりも、オープンソースのほうがレベルが高いというようなことも起こっている。今後は企業の製品企画においても、優秀な企画マンが調査を重ねて企画書を作成して、ROIを計算して、採算性を厳密に検討して望むという手法より、β文化と言われるような、まず市場に出してユーザーの声を聞きながら修正していくというような方法は主流になって行くだろう。


このように、実はインターネットが社会に浸透する前に、世界は反転して動き始めていた、ということができるだろう。


本当の変革はこれから


そのすべての原動力は何だったのかと言えば、『情報とコミュニケーション』の変革だ。共産主義国家崩壊も、CNNの画像が国境を超えて広がったことがきっかけだった。そういう意味では、社会変革が本格的に起きるのは、今まさにこれからだ。情報とコミュニケーションに関して言えば、インターネットの成熟と共に、驚くような自己変革が起こりつつある。日本では、特にモバイルの周辺で、世界にも例のない、コミュニケーションの形が生まれている。現在の社会の枠組みも、今後予想もできなかったような再構築がなされて行くことになるだろう。