昭和的価値観



先日、『華麗なる一族』(山崎豊子氏著)のDVDを見た。

華麗なる一族 DVD-BOX

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すると、同時に読んでいた、城繁幸氏の著作にある、『昭和的価値観』というキーワードが頭を離れなくなった。木村拓哉演じる、万俵鉄平の姿を見ると、自分が子供の頃に明らかに影響を受けていた価値観を思い出してぞくぞくしてきた。これは、確かに『昭和』的な『価値観』だろう。もちろん、昭和と言っても、昭和初期(戦前)、高度成長期、バブル期というように分けて行くと、かなりの違いがあるが、ここでは、高度成長期メンタリティーというのが一番近い言い方ということになる。 とても若々しく、あまり深く考えることもなくまっすぐな夢を観ていられた時代、東浩紀氏の言葉を借りれば、『大きな物語』の時代である。


今回このテレビドラマを見て、自分の中にはもはやその価値観の影響がほどんど残っていないことを感じた。とはいえ、大きな物語の時代に育った世代としては、この価値観に人生のかなりの部分を翻弄されたことは確かだ。そして、自分の同世代はまだ大半はこの価値観から逃れられないでいる。(もしかしたら、自分も客観的に見れば同じようなものなのかもしれないが。)


今、この『昭和的価値観』というやつの旗色がひどく悪い。世代間対立を通じた若年層の疲弊の原因、日本の競争力低下の原因、地域的コミュニティ崩壊の原因、環境破壊の原因等々。時代の狭間を生きて来た自分には、この言わんとするところが、痛いほどにわかる。弁解してやりたい気持ちもあるのだが、一方で確かにこれらの問題発生のドライビング・フォースであったことも間違いないことだし、自分自身とても窮屈な生き方を余儀なくされたという恨みもあったりする。


私自身が感じたこの価値観の一番の問題は、一種の『性懲りのなさ』である。いわば、戦国日本を統一した豊臣秀吉が性懲りもなく、朝鮮や明国に攻め入ったあの姿こそ、『際限のない自動エンジン』となってしまう危険性が具現化した姿と言える。そのやるせなさ、むなしさが、その後ゆとり教育のような施策を生む大きな一因だったと思えてならない。



すでに大きな物語はすっかり機能不全を起こしてしまった。だが、日本人のすべてから、昭和瀧価値観が消えてしまった訳ではなく、断末魔の叫びと対立があちこちで見られるのが現実だ。企業の改革も、シニアマーケティングもこのあたりの事情を熟知していないとけしてうまくいかないだろう。