フラット革命(佐々木俊尚氏著)を読んで

佐々木俊尚氏のフラット革命を読んだ。それ以前に読んだ氏の作品とは、だいぶん系統が違う印象を受けたが、言論を取り扱うプロの目線というか、まさに本人が言及されているとおり、『背景事情や歴史的経緯などのコンテキスト』への理解が十分に咀嚼されていることが感じられて、大変読み応えがあった。

深みのある作品というのは、そこにある情報への興味以上に、自分自身の内側にあって、普段は忘れているものの、以前に考えたことがあったが、どこかでそれ以上に考えることをやめてしまって未解決になっている問題を喚起させてくれることがある。そして、そういう時に、自分は何者であったのかということに気づかされる。

そういう意味で、自分が一番反応した部分は、ブロガー論壇が形成されてくる背景と、既存のマスコミのとまどいであった気がする。自分自身の大学時代、それ以前には想像もできなかったような感動が、学問・研究・発表というプロセスにあることに気づき、月並みな就職以上にこのリスキーな世界に身を投じることを夢見たこともあった。ところが、目の前に非常に現実的で、周囲の称賛を得ることもできる、一流企業(メーカー)への就職を前にして、学問・研究・発表という道は、企業に就職してもできる、という今にして思えば、非常に安易な心の声に従うことになった。 

ところが、就職して新しい企業人としての生活が始まってみると、まさにこの本、フラット革命で指摘されている現実を徹底して感じることになる。当時感じたことがそのまま言葉になっていることを見て、それ自体に感動を覚えるくらいだ。

具体的に言うと、まず、言論を発表する場は事実上どこにもないことを痛感した。大学生時代というのは、そういう意味では大変恵まれた場所で、どんなに稚拙でも、自分から何かを発表することが歓迎される場が構築されていたし、その良質なものは、指導教授の権威の元、もっと広い発表の場も与えられていた。しかしながら、いわゆるマスコミでもない一企業の、しかも一介のサラリーマンにとって、いったいどこにそのような場があるのか。当たり前のことかもしれないが、当時の自分にとってその事実の衝撃は実に大きかった。

ところが一方で、マスコミの言論というのは、氏が指摘されているように、思想的には実にナイーブで牧歌的な社会正義以外には何もないような記事であふれかえっている。大学を出て一年目の自分でも、そのことはすぐにわかった。こんな記事よりも、自分ならもっと深く、多くの人に共感を得るような記事や論文を書くことが可能なはずだ、といううずきを強く感じたものだ。しかし、その発表の機会というのはどこにもない。(これは余談だが、後年海外のマスコミの記事を読むようになって、衝撃を受けた記憶も鮮明だ。これこそマスコミの仕事ではないのか、と感じることのできる記事や論文がすごく多いことに驚いたものだ。)

だから、本当に素晴らしい時代がやってきている、と率直に感じてしまう自分を感じる。もちろん、そこには非常に深遠な問題が並行してやってきていることもわかるし、まさにパンドラの箱を開けてしまったことに関する得体のしれない不気味さにあふれた時代であることもわかる。ただ、言論を封じられた安全安心を選ぶのか、リスクに溢れているが言論の自由があるほうを選ぶのか、という選択になると、自由を選んでみたい。

これには、もうひとつの伏線がある。以下、著書より引用する。(P80より)

『かつての日本の共同体、たとえば日本企業のような戦後社会を象徴するような共同体は、人々に安心をもたらすのと同時に、そこに息苦しい隷従の関係性をも持ち込んでいた。  だからこそ、人々は戦後社会を覆ってきたわれわれにたまらない息苦しさと隷従を感じ、そこから抜け出したいと願ってきた。その願いは、戦後の文学や映画、音楽などいたるところで自己表現のモチーフとなっている。』

日本の会社に在籍してきた企業人として、これはどう表現してよいかわからないくらいの共感を感じる部分だ。 前に、『下流志向』の項でも書いたことだが、日本社会で暮らすことの窮屈さの源泉はにひとつがここにある。 氏が指摘する通り、今やこの日本の共同体が崩壊しつつあることは事実だし、その影響はこれからが本番だと思うが、一方でまだ企業内部でも、特に地方の親族共同体など(最後の抵抗の可能性もあるが)まだ同調圧力と隷従の強制の実例は数多く見られる。特に、今の局面は、これが世代間の衝突という形で現れているようにも思われる。自分は、共同体を壊してしまうことに賛同するものではないが、『たまらない息苦しさと隷従』を強制することが共同体を維持するための必要悪というのなら、それは一度解体することをまさに必要悪として認めるほうに賛同したい。

さらに言えば、日本の企業共同体維持による競争力というのは、確かに戦後から80年代位までの、特に製造業には確かに必要とされたものだったと思う。しかしながら、すでに2000年代も後半を迎える現在、日本企業には、もはや競争力の源泉となるどころか、負の遺産、競争力の障害となってことも多いように思えてならない。

日本社会をあまりに広く覆った、同調圧力、息苦しい隷従の関係に対する反発は、日本人の潜在意識ではことのほか大きく、これ以上耐えられないというメッセージの表出が、未婚、離婚、人口減少、フリーター、ニート、教育崩壊、若年層の無気力、といった社会問題にあらわれてきているのではないだろうか。だとすれば、ネット言論やネット共同体構築の活況は、多大なリスクを覚悟してでも、日本社会の再活性化のためのレバレッジとしての期待感は大きいのではないだろうか。