下流志向を読んで その2

引き続き、『下流志向』について感じたことを書いてみる。(少々人様とは食いつく場所が違うかもしれない。)  P214に次のような記述がある。『僕は日本が決して恵まれた社会だとは思わないのです。たしかに物質的には豊かになりましたけれど、生き方の多様性は制限されていますし、人間同士のコミュニケーション関係はどんどん貧しくなっていますし、子供に課せられている規格化、標準化の圧力は創造を絶するほど巨大になっている。とても、彼らを恵まれているとは言えないですね。』 本当にそうなのか。 本当だとするとどうしてそうなのか。

バブルの絶頂期、1989年から1999年頃、私は仕事でフィリピンに何度か出かけた。日本はバブルの絶頂で、自信たっぷりだ。日本は本当にいい国だ、と誰もが言っていた。それに比べて、フィリピンは、国がいつも騒然としていて、マルコスを国外追放してコラソン・アキノ大統領が政権を取ってこれから大いに発展するのかと思いきや、しょっちゅうクーデター続き。アジアの他国、特に当時はタイやマレーシア、インドネシアが大きな発展を遂げる兆しが出てきている中、すっかり取り残された国、それが大方のフィリピンのイメージだった。私もそんな風に漠然と考えて国に入ったものだ。国民はさぞ暗い表情だろうなと想像していたように思う。ところが、どういうわけか、国民は(少なくとも自分の周囲にいる人は)みなやけに明るいのだ。物もなく、行くところもなさそうだ。観光地と言ってもさびれた感じでほとんど賑わっている場所とてない。でも、みんなフレンドリーでとても楽しそうだ。自分だったら、こんな状況におかれたら、さぞ暗い表情をしているだろうなと思ったものだ。いったいどうなっているのか。

よく日本人駐在員が説明してくれたのは、いわゆるラテン系の明るさ、というやつだ。確かにみんなおどるとリズム感はいいし、そもそも歌ったり踊ったり大好きだ。でも、そうだとすると、ラテン系器質というのは、なんて便利なものなのだろう。こんなに物もなくて荒涼とした土地に住んでなおこれだけ明るく過ごせるのはすごい気質ではないか。スモーキーマウンテンという当時アジア最大と言われていた広大なスラム街をよく自動車で通りすぎたものだが、子供たちも実に楽しそうに遊んでいる。

そうして、出張して3日も立つと、自分自身の気持ちが変化してくるのを感じる。なんだか自分も楽しいではないか。この国にいることでうきうきしてくる。日本人の駐在員にそのことを話すと、実は彼らもそうなのだという。日本にいるときの、じとっとした感じ、不機嫌な気持ち、そういうのがフィリピンにいるとあまり感じないのだそうだ。だから、日本に必ずしも帰りたいとは思わないという人がずいぶんといる。日本に帰れば、掃除と照明のいきとどいた、すばらしくきれいな住居に住み、清潔でおいしい食事をし、豊かなライブラリーから本を読んだりビデオを鑑賞したりできる。買い物も驚くほど豊かなものにうずもれて楽しむことができる。それなのに、日本に帰りたくない? 日本よりここのほうが良いというのか? 

内田氏の引用文は、おそらく最近の日本のことを言われているはずだが、バブル絶頂期の日本ですら、すでに住みよい場所とは感じられないという認識を持っている人は多かった。当時私はこの事実に衝撃を受け探究を続けていた。自分なりにある程度納得のいく答えではないか、と感じたのはミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだ時だ。灰色の男たちが、モモが楽しく過ごしていた仲間たちにすり寄ってきて、いかにみんな無駄に過ごしているか、その時間を仕事にまわすことでいかに豊かになれることができるか、というようなことを説いて回る。そして、説得されてしまったモモの友人たちは、無駄な時間(友人と過ごす時間、空想にふける時間など)を惜しんで懸命に働きだす。ところが、みんなちっとも楽しそうではない。お互いによそよそしく過ごし、多少のお金があったも使う時間もない。何とも日本の当時のサラリーマン社会の特徴をよく捉えていて驚いたものだ。そして、モモのほうにこそ、人間が本当に人間らしく生きる秘訣があるのではないか、と考えたものだった。ここにも時間というものに対する深い思想があり、本来合理的に計測して無駄を省いていくというような扱いでは到底把握できないはずの時間を、人間は自分たちが支配できると勘違いしてしまった結果、生気を抜き取られた灰色の男達のあふれる社会をつくってしまった、そういったあたりに結論を持ってきていたように思う。

実は、ゆとり教育というようなことが言われた背景にも、このような灰色の男たちを畏怖した日本人の今までの生き方に対する嫌悪感があったのだと思う。ところが残念なことに、現象に対する正しい対策は講じられなかったということになる。内田氏は、教育や労働を時間概念を無視した単純あ等価交換を行おうとしたこと、そういう意味での時間概念が単純化され、合理的となってしまったことに根本的な原因を見ておられるようだが、それも確かに問題の原因の一つではあるとは思うが、それ以上に、生きることが計測できる時間の中にあると誤解してしまったことにあるように思えてならない。生きることが計測できる断片時間の積み重ねだとすれば、1秒も無駄にせずにはいられなくなるし、そのような心理状態を生むことになるのも当然だ。そして、無駄ではない=有用であることが貨幣という計測できる価値に置き換えられていくと、これはもう迷妄のラビリントスに入ったのも同然だ。そのような計測を拒み、自由に飛び回ろうとするのが、生の本来の姿のはずだ。この理解なく教育改革をやると、ゆとり教育というのは、『計測できる絶対時間の低減』ということになるが、それでは灰色の男達の思うつぼだったのではないか。

時間を計測できる連続体とみなすのは、フィクションであり、このフィクションは市場を機能させるための必要悪ではある。しかしながら、フィクションであることを忘れてしまうと、時間を使う側から、使われる側へ転落することになる。多くの日本人が非常に倦怠感、疲労感に包まれているのも、時間に使われているから、ということではないだろうか。