下流志向を読んで

今頃、と言われるかもしれないが、最近、内田樹氏の『下流志向』を読んだ。若年層の教育現場が非常に荒れているという話は聞いていたし、従兄の息子は典型的なニートだし、購買層という観点でも、若年層に上昇志向がなく購買意欲がないという情報は得ていた。何か、不思議な階層ができてきているのでないかと感じてはいた。ただ、内田氏が指摘されるような状況が起きているという認識までは遺憾ながらなかった。もっとも、指摘されて見ると、いくつも思い当たる点がある。


そして、細部の仮説は別としても、議論の大方の部分には納得のいく話が多かった。その大きな原因は、内田氏と私の年齢層というか、子供のころを過ごした時代が近いということにもありそうだ。昨年、昭和30年代を題材にした『ALWAYS三丁目の夕日』という映画が話題となったが、あの映画に非常なノスタルジーを感じた私は、まぎれもない旧世代、今や古き良き時代(だと思うが)となった日本の風景を知っている世代ということになる。


確かに、あのころあった地域コミュニティーは、驚くほど払しょくされてしまった。自分は地方出身なので、地方から若年層が都会に行ってしまって、コミュニティーが活性化しないことが原因ではないか、と感じていたが、どうもそんなレベルの問題ではないようだ。地方だからそれでもまだ東京と比較するとずっとコミュニティーに親しんだ老人たちがたくさんいて、相互扶助的な雰囲気もかろうじて残っているが、おそらくわれわれの世代の次の世代くらいまで維持されているかどうかは、たぶんに悲観的にならざるを得ない。しかも、実際にその地域コミュニティの内側にいた自分は、そのネガティブな面も数多く見てきたため、良いことばかりとも思わないが、自分たちが介護を受ける年代まで、現在のようなケアーを受けることのできる環境が維持されていることは、すでにあきらめの境地にいる。


氏の指摘される点のうち、なにより自分の未消化の感情が指摘されるのは、教育サービスが等価交換にさらされるようになったことが始まりとする部分だ。大学生のころ、先ごろ亡くなったミルトン・フリードマンの『選択の自由』を読んでいると、できるだけ多くのことを市場に任せるのがよいとされる中に、教育サービス・学校のことも含まれており、その部分を読んだ時に感じた違和感のことを思い出した。当時感じたのは、学問の種類によっては確かに実学のように、非常に費用対効果がわかりやすく、効果や成果が実感できる領域もあろうが、哲学、思想、歴史のような学問領域は(実は経済学もそうかもしれない)、簡単に評価を下すことは難しい。何より、その学問の良し悪し、それを教えてくれる先生の良し悪しをまがりなりにも評価することができるためには、その学問をある程度(というよりかなり深く)理解する必要がある。これを私は大学時代の恩師に教わることになった。恩師の授業を最初に受けたときなど、よくわかりもせず失望したものだが、その後本気になって恩師の指導のもと勉強して、内容のある本も理解できるようになったとき、いきなり自分の地平が開けて、いままでわからなかったことが一度にわかるようになる瞬間があった。その時初めて、自分の恩師が実に懐が深い偉大な師であることを悟ることになる。内田氏の話はどうやらこの私の体験知と同じことを言われているように感じる。


この体験は大学時代というより、それまでの人生を通じて一番大きな学びの一つであったことは、その後人生を重ねるにつれて確信に変わっていくことになる。この体験があったからこそ、その後本を読んだり勉強をするという、高校生時代まではただの苦行であったことが、大変なチャレンジであり楽しみになった。今の若年層がそのような体験をする機会をなくしているとすると、いかにも残念なことだ。日本のビジネス社会の将来に対する大きな懸念点という括りは、もっともなことだが、それ以前に実に大きな社会的な損失だと考える。なぜなら、その探究心がある限り、失業しようと、孤独になろうと生きていくことは可能だと思われるからだ。孤高でありながら、非常に充実した内面生活がありうるということは、他のどんな知識にまさる人生訓だと思う。