未来の詰まった玉手箱『PLANETS Vol.8』(前編)

前回に引き続き


前回の記事の後半で、行き詰まってしまった今の日本にあって、インターネットによって無意識が可視化されることで、フロンティアが拡大する可能性があるという点につき、評論家の宇野常寛氏が編集長をつとめる『PLANETS Vol.8』*1が非常に面白かった旨言及したものの、記事が長くなってしまったこともあり、内容にはまったく立ち入らなかった。案の定、具体的には何が書いてあって、どこが評価できるのかという質問を受けることになったので、今回は(私が理解した限りではあるが)、内容について感じたことを書いておこうと思う。



ゲームのルールが変わった世界市場


日本の戦後社会システムは、個別の会社から系列に至るまで、閉鎖的な縦社会を組み上げ、その縦社会を非常に精密に機能させることで世界との競争に勝ってきた。ところが、インターネットの導入によって、欧米(主として米国)主導で、国をまたいだ水平分業的なシステムが構築された。すると、あっという間に世界のゲームのルールが変わり、日本がこの中で生き残るためには、新しいルールに適応するしかない、という『正論』が横行した(している)。如何にそれが日本人には不得手なことであっても、それ以外に道はない、というわけだ。英語を勉強し、MBAを取得し、米国のロースクールで弁護士の資格を取得しなければならず、グローバルなルールに合わせることが出来ない人は脱落する、と脅かされた(脅かされている)。 明治維新のアナロジーが取り上げられ、あのときは和魂洋才ですんだが、今度は魂の部分も欧米化するべき、というような極論さえ出てきた。



自分を変えるしかない?


だから、インターネットについても、曖昧さを排して論理的な言葉で世界中の人と議論を交わし、水平分業システムに適応していくためのツールとして使うべき、という論調になるのは無理もなかった。だが、実際には、日本人でこれを実行できるのはほんの一握りで、国際化していたはずの大手日本企業でさえ、内実はさほど変わりはなかった。インターネット内のコミュニケーションのほうも、匿名ばかりで、議論どころか個人の交換日記レベルのコミュニケーションしかできていない。早くそんな迷妄を脱していくことこそ至上命題、というのが日本の『識者』の論調だった(と思う)。



夜の世界のイノベーション


だが、いくら建て前を押し通そうとしても、ほとんどの日本人はついてこない。しかも、迷妄でしかなかったはずの、日本の奇形的なインターネットやサブカルチャーの世界をあらてめてよく見ると、実はそこは本家のカルチャーとは大きくことなるものの豊かな生成力をもつ豊穣な可能性のるつぼになっている。一方、米国流グローバル化は、多国籍企業国民国家が乖離しはじめた結果、米国内でさえ支持を失いつつある。(オキュパイ・ウオールストリート等)これまで社会的には日の目を見ることのなかった日本の<夜の世界>のイノベーション(奇形的な発展を遂げた日本のカルチャーに基づくイノベーション)によって、危機的な閉塞状態になっている日本のOSをアップデートできるだけではなく、従来の近代西洋型の社会システム以上に普遍的な<原理>を見いだせるのではないか。



日本流が世界の先端モデルへ


中国やインド等、近代西洋型社会の常識や基盤(キリスト教的な背景や西欧的な市民社会の伝統等)のない国が続々と消費社会/市場に突入し、その人口比率は世界の過半を占める勢いだ。ゆえに、先んじて欧米市民社会型のモデルを導入しながら独自のローカライズを成し遂げた日本が、暗黙知を明晰知とし、ポスト近代のモデルとして洗練し、明示して行くことができれば、同様の他国の先例になりうるという意味で、世界の先端モデルになることも十分ありえる。ざっとこんなストーリーが読み取れる。


では、具体的には日本の何が評価できるのか。例が沢山ありすぎて、ほんの一部しかご紹介できないが、私の関心をひいた順番にいくつかピックアップしてみる。


未成熟で幼い?:日本人の自我


Facebookに典型例が見られるように、米国流のSNSは実名性で、個人を拡張するツールとして設計されている。だから、匿名による発言は例外扱いされ、実名で堂々と発言して、それを評価されることで、自らの実名というブランド価値をあげて行くことがインターネットの正しい使い方とされている。その観点から言えば、日本では、確かに昨今Facebookユーザーの拡大は目覚ましいとはいえ、相変わらず匿名中心で、発言の内容自体にほとんど価値のない膨大な発信が溢れていて、米国流を正当とすれば、奇形的といわれても仕方がない状態ではある。西洋的なコミュニケーションにおける、環境に左右されない明晰な自我のあり方から見れば、空気を読み、状況に応じて七変化し、常に自分以外の何かに隠れることで安定する傾向のある日本人の自我は、未成熟で幼く見えるはずだ。



個人ではなく分人


だが、一方で、この日本人の自我のあり方は、世界に類例のない『キャラクター文化』が花開く土壌ともなっている。このキャラクターを通じてコミュニケーションする(しかも複数のキャラクターを使い分ける)ことが、日本のネット文化を豊穣なものにしている面がある。


そもそも、欧米人は自我の殻が非常にしっかりしていて、自分は常に『I = アイ』でしかない。ところが、日本の一人称は、状況に応じていかようにも変化する。(僕、俺、私・・等) この辺りを、芥川賞作家の、平野啓一郎氏が自身のブログでわかりやすく語っている。

「個人」の中には、対人関係や、場所ごとに自然と生じる様々な自分がいる。それを僕は、「本当の自分が、色々な仮面を使い分ける、『キャラ』を演じる」といった考え方と区別するために、「分人(ディヴ)」*2と言っています。


好きな友達や家族の前での自分は、必ずしも「演じている」、「キャラをあえて作っている」のではないし、逆にあわない人間の前では、イヤでもある自分になってしまうわけで、人間が多様である以上、コミュニケーションの過程では、当然、人格は相手ごとに分化せざるを得ません。その分人の集合が個人だという考え方です。詳しくは、『ドーン』を読んでいただきたいのですが。

『クローズアップ現代』再放送 - 平野啓一郎 公式ブログ 


実名性で、発言にしっかりと責任を取る態度は基本的には非常に重要で、近代西欧型社会形成の基礎をなす行為態度といえるが、一方で、創造性が制約され、自由で奔放な表現ができなくなる場合がある。実際、この『分人/キャラ化/匿名性』によって、奇形的といわれながらも、日本のネットカルチャーは一面、非常に活性化している。



半分虚構化した現実空間


ただ、従来は、それは特定のバーチャル空間に限定されていたこともあり、オタクという特定の集団が自宅にこもってリアルとは切り離された場所でコンタクトする特殊なものだった。ところが、昨今のスマートフォンの浸透で、誰でも、いつでもどこでもリアルな現実空間を、バーチャルな空間につなぐことが簡単にできるようになり、現実空間での行動も、人間関係も、自我のあり方も、バーチャルやキャラクターとはっきりと分けることができなくなってきた。宇野氏の表現をかりると『現実のコミュニケーション空間そのものが半分虚構化』し、現実空間の意味そのものが、従来とは変わってしまった。こうなると、日本人のこの分人的な自我のありかたのほうが、半分虚構化した現実には適応しやすいともいえる。

かつてパソコンの前に座って『ネットサーフィン』するものだったインターネットは、現実とは別の『仮想現実』として捉えられていましたが、今ではネットを介していつでもどこでもつぶさにアクセスできる情報が人々の現実空間での活動をダイレクトに作用している。その結果、現実の活動をゲームに見立てて促進する『ゲーミフィケーション』という手法も登場したわけです(後略)

同掲書P16 宇野氏の発言より

非言語的知性のほうがレベルが高い


さらに踏み込んだ発言もある。欧米人も、それに影響された日本の知識人も、論理的に言語化されることを過度に重視しすぎてきたこと自体が問題ではないか、とチームラボの猪子寿之社長は語る。

言語=知性レベル高い、非言語=知的レベル低いってことではないってこと。非言語としての人間の行為は文脈依存的なわけだけど、無自覚でも動物的でもない。
同掲書P26


言葉の領域とか論理的な領域というのは、知的領域の中で最も低水準なものにもかかわらず、みんなそれを最も高度だと言い、それ以外のことを低俗だと扱っていること自体がまったくおかしいと思う。
同掲書P27

テクノロジーが可視化し定式化


だが、この非言語的知性は、これまで個人の才能や訓練等に依存して、可視化されず、組織的な利用もできなかった。(個々の技能者のもつカンやコツのような暗黙値だった。)ところが、いよいよテクノロジーが非言語的な知性や認識能力(もっと広く言えば無意識)を可視化し、定式化することができるようになってきた。国際大学GLOCOMの客員研究員、井上明人氏は次のように語る。

人間の立体構造のパターン認識という、非言語的な知性は、コンピューターの情報処理も、研究者の論理的知性とも違っている。昔から論理的知性は活用しやすかったけれども、そうではない非言語的な人間知性を活用できる方法がついに本格化してきた。『ゲーミフィケーション』と呼ばれている現象はそうした潮流の現れ方の一種ですね。

同掲書P29


私の前回のエントリーではこのあたりに光をあて、『無意識の可視化が重要なフロンティアになる』、という内容のエントリーを書いた。ただ、この点では、米国のオバマ大統領の選挙戦に見られるように、むしろ米国で先んじて社会活用が進んでいるようにも見える。ポテンシャルは日本のほうが米国よりずっと大きいと思うが、社会での認知と活用という点では、日本では、まだスタートラインについてさえいない状況なのは残念なことだ。



デメリットとメリット


また、情報の流通でも、従来のデメリットがメリットに変わる可能性が出てきている。『実名性/厳格な責任』を徹底しすぎると、『即時性/スピード』は落ち、曖昧だが有用かもしれない情報が発信されない。ところが、『厳格さより即時性のある情報』、『曖昧でもいいから使えそうな情報』、『普遍性はないが、ある特定の限定された場所・時間では有用な情報』が、時として非常に重要であることを、3.11のような緊急時に日本人は学習し、そのあおりを受けてマスコミが勢いをなくし、TwitterのようなSNSが急進した。

日本人は完璧な智慧じゃないと自分の名前でいっちゃいけないと思うような変なプライドがあるけど、それをキャラクターに仮託すると中途半端でも言えますから。実は中途半端に言ってもらった方が人にとってはありがたい智慧っていっぱいある。

同掲書 P17  IT企業勤務の尾原和啓氏の発言より


宇野氏が指摘するように、ここのところはまだメリットとデメリットと相半ばし、『匿名と固有名の間のブリッジを、匿名空間のゆるいクリエイティビティを活かしながら(同掲書P17)』模索していく必要がある領域といえる。



食べログ」の研究


この点、日本を代表するレビューサイトに成長した、『食べログ』を取り扱った、ライターの川口いしや氏の記事『「食べログ」の研究』が興味深い。すでに日本に『匿名空間のゆるいクリエイティビティ』を活かしているサービスが存在することを思い出させてくれる。


食べログ』を利用するユーザー(プレーヤー)は大きく3種類に分類できる。実際にレストランを採点し口コミを投稿している『レビュアー会員』、点数や口コミでレストランを選ぶ『ゲスト会員』、食べログに登録せずに使っているライトユーザーの三つだ。そして、この三者を結び、サイトの価値をあげるべく構築されたアルゴリズムこそ、食べログの魅力の秘密ということになる。


この三者の行動が、食べログというアーキテクチャー上で互いに結びつけられて、各店の『点数』と『口コミ』の信頼度が形成されていく。そのアルゴリズムはユーザーには秘匿されているが、『口コミの投稿数が多いレビュアーの採点が優先される』『ジャンルによって点数が反映されない場合がある。たとえば、カレーに強い人がうどんのレビューをしても、それはあまり点数に影響を与えない』などの話があるようだ。 

同掲書P106


食べログを支えるプレーヤーとして、『レビュアー会員』の役割は非常に重要で、川口氏は実際のレビュアー会員にインタビューして、実態をレポートする、というのが本稿の仕立てになっている。これが実に面白い。



プロ以上の創造性


レビューのプロ、といえば、ミシュランやザガットが有名だが、日本でも『プロ』がレビューする雑誌や本がかつては非常に高く評価されていた。この『プロ』は、記事の内容をユーザーの批判にさらされ、記事の評価が低ければ失職することもあるという意味で、責任ある人たちと言える。その責任がこのような雑誌の信頼感を担保していた。一方、食べログの『レビュアー会員』はセミプロと言える人も少なくなさそうだが、その実像は『匿名空間でキャラをたててクリエイティブさを発揮する人たち』といってよさそうだ。プロのような責任はない代わりに、自由と創造性を発揮できる余地が大きい等、プロにはないメリットが実際にありそうに見える。インタビューで出てくるレビュアーの、グルメ雑誌のライターについての意見など、まさにそれを感じさせる。

「グルメ雑誌のライターさんってそれなりに行かれていると思うんですけど、1日にお店を何件も廻って、仕事で食べてるじゃないですか。そういう人の味覚と、普段の生活の中で食べている人の味覚と、どっちを信用していいんですか、っていったら後者ですよね。」 彼は、マスコミに登場するライターは、それを職業にしているが故に、信頼が置けないというのである。なぜなら、彼らは日常生活から食を切り離してしまった『異常者』だからだ。『普段の生活の中でどういう体験ができたかっていうのを、みんな知りたがっているわけです。『デートのときはどうだった』とか、『会社の飲み会ではどうだった』というのが一番重要なんですよ。『こういう体験が載っているから、同じ体験が自分でもできるはず』、というので食べログを信用するのだと思うんですね。食べログやっている人は日常でお店を使うプロなんですよ。『こういうシーンではこの店』ってちゃんと的確に選んで評価しています』

同掲書P109

日本のコンテキストあってこそ


具体的なコンテキストまで考慮したレビューというのは、グルメ雑誌のライターの立場では普通書ききれないし、仮にそういう特集を組んでも広範囲はカバーしきれないだろう。そこを食べログというサイトが、そのようなレビューを書きたいセミプロが集まりやすく、書きたくなるような場を提供し、そのレビューを読んでレストランに行くユーザーがまた評価者やレビュアーとなり、食べログは、そんな全体を総覧してアルゴリズムを適正化していく。単にアルゴリズムというだけではなく、このような共存関係/エコシステムが成立する『場』を設定することが食べログというサービスを設計する上での創造性ということになる


このようなサイトが海外で成立するかどうか、正直私には何とも言いようがないが、一つだけいえるのは、この『レビュアー会員』というのが、日本のコンテキストあってこその存在だと思われることだ。日本のレビュアー会員なくして、今の食べログの隆盛はないはずだ。



若手研究者の台頭


何かが違ってきている、という実感はこのような現場にいる人たちの共通了解になっていることは間違いないし、ここで起きていることのエッセンスは、ビジネスの領域だけではなく、政治、行政、司法、等あらゆる社会制度の変更を促し、ひいては社会思想そのものも置き換えられていくに違いないと私も感じる。だが、残念ながら、今のところ、社会的な認知、特にシニア層の理解を得ることが絶望的なほどに難しいといわざるをえない。ただ、日本の言論界も、昨年など非常に有能な若手が数多く表に出てきた印象がある。それこそ、日本人の無意識が新しい潮流に気づき始めた兆しといってよいのかもしれないし、その方向にしか日本の未来はなさそうに見える。宇野氏も次のように語る。

こうした若手研究者たちが台頭してきた背景には、インターネットの普及が代表するここ20年弱の情報化の進行が決定的に社会を変えている、変えていくという確信と、それに基づく世界観のようなものが、日本の文化空間の一部に確実に育ってきていることがあるのは間違いない。これはまだ生まれたばかりで、非常に弱く、広く社会に認知されているものとはとてもじゃないけれど言えない。しかし、これからの社会はこの潮流を伸ばしていくこと抜きには考えられない。
 
同掲書P61 宇野氏の発言より


諸手を上げて同意である。PLANETSのような場が、この潮流を伸ばしていくためにできる貢献ははかり知れないと思う。本当に頑張って欲しい。


ちなみに、これだけ長文のエントリーを書いても、尚、未達成感が非常に強いので、次回もう一度、今回書ききれなかった部分について書いておきたい。キラキラした未来の断片がいくらでも出てくる。未来の詰まった玉手箱、それが『PLANETS Vol.8』だ。

*1:

PLANETS vol.8

PLANETS vol.8

*2:オリジナルは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの分人(divieual)らしい