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ショッピングモールから都市論の深みにはまってみる

どれも興味深い速水健朗氏の著作


編集者・フリーライター速水健朗氏の著作は、『ケータイ小説的、”再ヤンキー化”時代の少女たち』*1を読んでファンになって以来、すべて読ませていただいている。『ほとんど誰にも注目されなかったり、一般にはネガティブなイメージなのに、その実重要な存在』を探り当てる速水氏の洞察力は非常に鋭く、その語り口も小気味いい。そのため、どの著作も大変興味深く、かつ読みやすい。おかげで、ヤンキー、ケータイ小説、バンド、歌謡、ラーメン等々、それまでまったく自分の視界に入っていなかった(あるいは見ることを避けてきた)もの、事象等が、俄然、時代を読み解く『鍵』に見えてくるという体験を何度もさせてもらってきた。



新著:『都市と消費とディズニーの夢』


その速水氏の新著である、『都市と消費とディズニーの夢』*2も、お盆休み前に早速手に入れて拝読した。今回も、自分が『ショッピングモール』にネガティブな印象を感じて直面を避けてきたことと同時に、そのことが自分の『現代都市論』、ひいては『現代文明論』に関する認識をゆがめていたことに気づく機会を与えてもらうことになった。速水氏のショッピングモール論については、『思想地図β Vol.1』*3等でもすでに概略が披露されており、今回が全く初めてというわけではなかったが、コンパクトにまとまった今回の著作を読むまで恥ずかしながら、速水氏の真意を把握できていなかった。



この本だけではすまなかった


このような自己発見の感動が新鮮なうちに書評を書いておこうと思い、早速書き始めてみてはたと気がついた。どうしても書けない。感じたことをそのままに書こうと思うのだが、あらためて疑問がいくつも出てきたり、異なった観点や、別の議論が折り重なるように去来して収集がつかない。結局この問題については、ある程度の知識や情報は持っていても、基本的な理解が追いついていなかったようだ。このままほではだめだ。理解のための『補助線』がいる。やむなく、いくつかの関連図書を漁った後に、かなり前に一度読んでいながらいい加減に読み飛ばしていた、思想家の東浩紀氏と北田暁大氏の対談をまとめた『東京から考える』*4という本をきちんと再読してみることにした。(本書は発行当初から関係者の間では評判だった。現代の都市論を扱う論者に繰返し引用されている名著である。)



忌み嫌われているショッピングモール


速水氏の新著で取り上げられているショッピングモールだが、本人がいう通り、建築家、政治学者、社会学者等の、いわゆる知識人(だけではないと思うが)からは忌み嫌われている存在なのだと思う。かく言う私も、ショッピングモールと聞けば、当ブログで何度も言及させていただいている、マーケティング・アナリストの三浦展氏が語るファスト風土化(大型店やチェーン店などが郊外に進出することで、その地域の個性が失われてしまう現象)の印象が強く、どうしても、『地域共同体を崩壊させ、地域の特色をなくし、グローバルな大資本の横暴を象徴する存在』、というようなネガティブな概念ばかりが思い浮かんでくる。こんな感じなので、本来私の仕事や研究課題にとって都市論は避けて通れない領域のはずなのに、どうしても今ひとつ探求しきれないできた。



避けて通れない現実


だが、確かに速水氏の言う通り、先進国の成熟した都市は、土地の単位当たりの収益、すなわち経済効率性の観点抜きに語ることはできない。都市に限らず、多数の人が集まる場所はすべからく(公共スペースを含めて)、競争原理を入れて最大有効活用されてきている(速水氏の造語、『ショッピングモーライゼーション』の意味するところでもある)。この趨勢は、その気になって周囲を見渡せばあらゆるところにその証拠を見いだすことができる。かつては殺風景な通過点でしかなかった駅の中は、今や多彩で個性的な店が所狭しと並んでいてとても華やかだ(駅ナカ)。羽田空港のターミナルビルなど空港の概念を変えてしまうくらいに洗練された集客装置として整備された。去る8月の帰省では久々に自動車を使ったが、サービスエリアの充実度は半端ではない。しかも、とんどん進化している。病院に行っても、市役所のような施設でさえ、スターバックスがあったりする。



良い方向への変化


『官から民へ』ではないが、公平に見て、従来より利便性があがり、賑わいがあり、センスもよい環境につくりかえられている場所が増えていることは間違いない。私自身、胸に手をあてて自らに問えば、その恩恵を十分に感じている自分がいる。(もちろん、ひなびた、殺風景な旧来の風景のほうが風情があるという向きもあろう。それも理解できないわけではない。)少なくとも自分の住む関東圏で新たにショッピングモールを中心に開発された場所は、『ファスト風土化』で語られるような荒涼とした風景というよりは、『安全』、『清潔』、『バリやフリー』、『テーマパーク的な面白さ』等のキーワードが似つかわしく、より一層洗練されてきている印象が強い


これも、これも速水氏の指摘どおり、元祖のアメリカでも、日本でも、ショッピンモールの中核になる優良コンテンツが、小売業からサービス業へ移行し、より時間消費型になりつつあり、『誰もがそこで長い時間過ごしたい場所』になっていることの現れだろう。単なる商品展示場所ではなく、シネマコンプレックス、フードコートから、アミューズメントパークに至るまで、より文化の香り高いコンテンツが集客の核になってきている。本書で例としてあげられている、サン・ディエゴのホートンプラザなど、かつて一ヶ月ほどサン・ディエゴにホームステーした時に日々通っていたのでとても懐かしいが、あれほど楽しくて、毎日のように通いたくなる施設はなかった。

Westfield Horton Plaza



観光業の目玉


また別の観点もある。昨今急激に増えた海外、特にアジア(中でも中国が多い)からの観光客は、福島第一原発の事故の影響もあってしばらく激減していたが、すでにこの春の段階で過去最高のレベルまで復活し、さらに拡大する勢いだ。この観光客の一番の目当てはショッピングなのだという。富士山のような日本を代表する観光地より、御殿場プレミアムアウトレットのほうが人気があるというのは、日本人としては少々残念な思いもあるが、これは海外を含めた最近の観光の常識で、むしろ日本はこの点では他国の後塵を拝しているのだという。銀座は今では外国人観光客が最も多く集まる東京の街なのだそうだが、その銀座の老舗デパートである銀座松坂屋に家電量販店のラオックスが出店しているというのがこの現象を象徴している。お台場など、海外の観光客をターゲットとする作戦で生き返った場所といっていいが、作戦があたりすぎて今では日本人には違和感のある場所になっている。


大量の中国人観光客が一時に増えれば、当然日本人の中には、街の雰囲気の変化を嫌う人も少なくないと思う(それはかつて日本人観光客が殺到したアジアの都市でも同じことだったろう)。 だが、人口が減少して市場が縮小し、製造業が海外に出て行って仕事がなくなることが懸念される日本では、観光業は極めて重要だ。他国の事例を見ても、観光業は日本にとってフロンティアが残された貴重な産業であるといってよく、より促進していくことが国益にも叶う。このごとく、ショッピングモーライゼーションには、沢山の『ポジティブ』が伴っている。



払拭できない懸念点と違和感


だが、それでも、『ファスト風土化』の言説に代表される懸念点が完全に払拭されるわけではないし、私自身心の奥でうずく違和感は簡単には消えない。おそらく、それは私のブログを読んでいただいている皆さんも同じではないだろうか。といっても、単なる『グローバル化批判』や『新自由主義批判』で使われる分析装置では、この違和感をすくいとることはできそうもない。どうしても今一歩突っ込んだ探求が必要なようだ。


そこで、上記の『補助線』だ。



古びない論点: 東氏 v.s. 北田氏


『東京から考える』の論点は、すでに5年以上経過した今でも全く古びていない。それどころか、速水氏のような論者によって、何度も再発見され、より本質的な問いかけとして繰り返し立ち現れてくる。どうして今の東京(現代の都市、と言い換えることも可能だろう)では街の個性がなくなっていくのか。グローバル資本の横暴なのか? 地元のコミュニティー崩壊が原因なのか? 対談の一方の当事者、思想家の東浩紀氏は語る。

こういう話では、街の個性が市場主義で覆われて消滅した、という図式が立てられることが多いんだけど、僕はむしろここでは、街の個性が衝突している対象は、ポストモダンの多様性肯定の論理だと思うんです。1990年代後半の秋葉原がそうだけど、たしかに、ある特定の趣味の共同体しか受けつけない街作りをやるならば、面白い街はできる。けれど、その街をどう改良するかといわれたら、いくらそれが面白くても、現代ではその特殊性を伸ばそうとは言いにくい。ポストモダン社会は多様な人間集団の共生を公準としている。したがって、街には老人も子どもも来られなくてはならないし、いろいろなひとが楽しめなければならない。だとすれば、やはり清潔で安全な『人間工学的に正しい』街区を作るしかない。そう考えたら、あとは細部に金をかけるかどうかぐらいで、全体としては似たような街ができるに決まっている。だからこそ、いまは全体的に待ちに個性がなくなっているんだろうし、六本木ヒルズジャスコ的に見えてしまうという逆説も起きるのだと思う。 同掲書 P194


商業主義でも、法規制の横やりでもなく、ポストモダン社会の倫理、すなわち、『公共空間はだれにでも優しくなければいけない』という倫理(あるいは常識)があれば、都市は必然的に平板化する、というのである。『面白い街』にしたい、『街のにおいを残そう』というような、『べき論』を言う権利は当然あってしかるべしだが、この倫理や工学の力学は強く、抗しがたい、と東氏はいう。これに対して、対談のもう一方の当事者である、思想家の北田暁大氏は、その力学の強さを十分に認めた上で、それでも『権利』が『事実』を変える可能性に期待しているとして、次のように語る。

都市の風景と構造とが、ジャスコ的に郊外化していく趨勢を不可避と考えつつも、都市風景の総郊外化には違和を感じるし、一定の歴史性を帯びたコミュニティの価値観を都市風景に反映すべきだとも考えている。セキュリティとかバリアフリーといった論理は、最低限共有すべきだけれど、ある程度の多元性は保証されるべきではないか、すべてを人間工学的な論理に包摂すべきではないのではないか、ということですね。これは身体的・動物的な共感可能性に還元されない、されるべきではない問題がある。 同掲書 P278

不可避の前提


おそらく、昨今の種々の都市論のかなりの言説がこの二項対立のどちらかの陣営に吸収されてしまうといっても過言ではないのではないか。もちろん、これを超えて行く深淵な論理の存在をすべて否定するつもりはないが、少なくともこの二項、特に東氏の語る、身体的・動物的な共感可能性の力の強さを無視した議論は、その有効性や妥当性が著しく低いと看做されることになるだろう。とりわけ、速水氏が提示する資本の論理(ショッピングモーライゼーション)と動物的な共感との合体は、本能的とも言える無類の強制力があることを認めないわけにはいかない。そして、これにどう対抗するにせよ、この力学との整合とバランスが何らかの形で求められることは前提としておくべきだと思う。



ヘテロトピア(混在郷)


だが、その上で尚、単なる『権利』という以上に、ある種本能的な強さを持った別の力学が働く可能性はありうる。例えば、哲学者のミシェル・フーコーに『ヘテロトピア(混在郷)』という概念がある。

現代都市が近代都市計画概念で機能的な整備をされつつもそれと並行してそこでは常に別の何かが生まれているという現実をフーコーはつかまえ、そうした別の何かに潜む混在郷の存在を指摘するのである。フーコーは続けてこの混在郷の原理として弱者、死、異空間の並置、時間、開放等と言う都市の病理、歴史、タブーと言ったものをあげる。

O.F.D.A.:Taku Sakaushi | Text


ヘテロトピア(混在郷)』の概念自体に深入りすると、それこそ議論が収集不能になりそうなので、それは次回以降のお楽しみとしたいが、フーコー近代都市の整備と並行して、それ自体への意義申立てとして生まれてくるを場所をヘテロトピア(混在郷)と呼んで、その成り立ちの原理として、『弱者、死、異空間の並置、時間、都市の病理、歴史、タブー』等をあげているという。『東京から考える』では、かつてのパルコを中心に広告都市として人工的につくられた渋谷のような街も、時間が経つと都心郊外化=ジャスコ化せざるをえないという文脈だが、実はそれ以上に、渋谷の外縁を含めた東京都市圏全体で言えば、そのジャスコ化自体、混在郷を数多く潜在させるきっかけを作ったのではないか。そして、ジャスコ化が全面化すればするほど、潜在する混在郷は、エネルギーを蓄積して、思わぬ形で顕在化することにはならないか。少なくとも、リアルの背後でバーチャルにエネルギーを供給して、顕在化の機会を伺い続けることになるのではないか。まあ、このあたりは仮説という以上に私の戯言に過ぎないので、読み飛ばしていただければよいのだが。



深い理解が必要


都市論というのは、今回速水氏の著作を契機に、あらためて探求してみたが、思った以上に奥深い。ビジネスにも普段の生活にも関係ないと言うなかれ。今は変化が早く、現象は瞬時に変転し、あっという間に蒼茫を変える。位置情報関連のビジネス開発等に関しても、少しでも深いレイヤーを理解できたほうに勝ち味のある時代になったと思えるのだが、どうだろうか。私自身、もう少し時間をかけて探求してみたくなってきた。

*1:

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

*2:

*3:

思想地図β vol.1

思想地図β vol.1

*4: