ソーシャル・メディア新時代を生き残る条件とは

ソーシャル・メディアへの強い関心


今回の震災発生以降、ソーシャル・メディア、中でもTwitterFacebookUstreamおよびいくつかのブログに張り付いて、できるだけ幅広く発信される情報をキャッチアップすることで、この情報空間で何が起こっているのか把握すべく取り組んできたことはすでに述べた。そして、前回、前々回とその時々の感想をブログでまとめてみると予想以上の反響があり、ここに集う人たちの関心がソーシャル・メディアに強く引きつけられていることを再認識した。



内容それ自体によってしか評価されない


それ以降も、降り注ぐ大量の情報の中でふと感じた微妙な気づきをブログにまとめるべく構想を練っているとその最中にも他の人が自分の言いたかったことを先に文章にして表明し、次いでその意見に対してまた新たな賛否双方の意見が折り重なるようにして出て来る。もはや生半可なことでは意見表明などできないほど厳しいフィールドになっていることを実感する。


こうして出てくる他の人の意見の中には、はっと息を呑むような新鮮な観点の切り口や指摘を見つけることも多いし、私の表明した意見に対しても手厳しいが納得の行く反論をいただいたり、時には驚くべき鋭利な言説の刃で切り刻まれることも少なくない。ソーシャル・メディアの言論空間では従来は比較的安全圏の高見から高説を述べていたマスコミや学会関係者等も容赦なく飲み込まれ、選別され、強い批判にさらされるというようなことが起きている。その点においては、先のエントリーでも述べたことだが、まさにフラット化が進みつつあり、従来は言論の内容以上にハロー効果(ある対象を評価をするときに顕著な特徴に引きずられて他の特徴についての評価が歪められる現象)*1の源泉であった権威(大新聞、テレビ、大学等)のパッケージは容赦なく脱がされ、言論の内容そのものが問われるようになってきている。そもそもWeb2.0以降そのような傾向が顕著になってきていたのだが、今回の震災を機に一気に前に進んだ印象が強い。



増加したノイズ


一方でノイズも増えた。Twitterはここまで『2ちゃんねる』や『はてなブックマーク』のコメント等に比べて、比較的誹謗中傷といえるようなノイズが少ないと言われてきたし、今でもその傾向に変わりはないと思うが、特に賛否の二項対立が激しい原発電問題を巡るやり取りを見ていると、荒れたコメントが目立って多くなった。はっきりとデマと分類できるコメントも大量に出回った。しかも、出所がはっきりしなかったり、如何にも怪しくデマ然としているものならともかく、普段ならその能力や判断力に定評がある著名ブロガーや大学教授等がデマをデマと見抜けずに拡散して混乱を増幅してしまうようなことも沢山起きている。だから、デマを取り上げて検証記事を書いている評論家の荻上チキ氏が、自身、デマ記事を事実と誤認して失笑を買うというような珍妙な出来事も起きたりする。(これ自身デマかもしれない?)

デマ検証の荻上チキ,町山智浩のcoolantのデマ記事を載せる | 思想館



慣れて行くしかない?


特にTwitterは伝播力が非常に強く、発信する側も正確性よりもスピードが重要とばかりに発信/拡散することも少なくないから、普段ブログ記事や雑誌記事等では比較的事実の確認に時間をかける人からも意外に安易に誤った情報が流れやすい。(自分でも少なからずそういう傾向があることを認めざるをえない。)だから、ある程度Twitterに慣れていても俄には真偽が判断できないような情報は少なくない。Twitterに限らず、ソーシャル・メディア全般が持つこのような問題には簡単な解決策があるとは考えにくく、当分シリアスな課題であり続けるだろう。一方で有用な情報収集に役に立つソーシャル・メディアは時には間違った情報を短時間に拡散してしまうことがありうることを知った上で注意して使うしかない。ガソリンは自動車燃料として効率的だが引火しやすいことを知りつつ注意して使うのと同じだ。



浄化作用もある


ただ、同時にソーシャル・メディア内ではそのような誤った情報が比較的早い段階で修正され浄化されていくことが多いのも確かだ。情報を発信した本人が誤りに気づいて訂正することももちろんあるし、その情報を受取った側から誤りであることを指摘されて瞬時に正されていくことも多い。特に単純な事実誤認のようなケースでは、ソーシャル・メディアに情報の浄化作用があることは従来から指摘されていたことだ。



良き情報発信者であるためには


こうした中、『良き情報発信者であること』のためには何が必要なのかろうか。


新聞や雑誌等の旧来メディアでは、自分の発信/発言の間違い等を指摘された場合、それを認めて訂正記事を書くようなケースもないわけではないが、これはむしろ例外で、自分のイメージを毀損しないためには間違いを指摘されてもあえてそれを認めないという戦略(言いっぱなし戦略?)が得策であるようにさえ見える。(旧来メディアでは発信する機会が限られ、訂正記事に紙面を割く余地が少ないという構造問題もある。)だが、ソーシャ・メディアで活動することを志向する人にとっては、これは危険な戦略と言わざるを得ない。



重要な『ウィッフィー』


しばらく前に、ジャーナリストの津田大介氏も解説記事を書いている『ツイッターノミクス』*2という本で、『ウィッフィー』という概念が取り上げられて話題になった。なかなか日本語にしにくい造語だが、狭義ではウェブの中での『評価』や『評判』というくらいの意味になるだろうか。ソーシャル・メディアでのプレゼンスを上げようと思えば、確かにこの『ウィッフィー』を増やすことが重要であることは、誰しも認めるところだろう。これはいわゆるサービスを提供する事業者だけの問題ではない。とすれば発言の間違いを指摘されて逆上するような人に、はたしてこの『ウィッフィー』が増えるだろうか。言いっぱなしで、自らの間違いも訂正しない人の評価は上がるだろうか。知識が多いこと、頭が切れること、弁が立つこと、論理的で破綻がないこと、等々従来メディアでプレゼンスを上げるための要素はニューメディアでも同様に重要ではあろうが、どうやらそれだけでは足りなさそうだ『間違いがあれば率直に認めて表明する柔軟さ』、『自分がどのような経緯で間違ったのかを自己分析できるという意味での客観性』、『すぐに感情的になってしまわない冷静さ』等の要素がより重要になってきている。そして、その要素に欠ける言論人は『ウィッフィー』を失い、遠からずソーシャル・メディア内ではプレゼンスを失っ行くことになるのではないか。現に、この震災を機に、従来メディアの延長でソーシャル・メディア内で発言をしていた人たちの中にも、私が述べたような意味で、『ウィッフィー』を減らし『評判』『評価』を下げてしまった人が非常に多い。



もっと問題なのは


同様の観点で、私がどうしても気になることがもう一つある。


原発事故や原発政策に対する発言/情報提供の洪水を見ていて痛感するのは、如何に人の意見というのは自分が置かれた立場や思い込みで曇り、バイアスがかかってしまうのか、ということだ。


原発促進で明らかに利益を得てきた人など本人が如何に客観中立になろうと努めても、周囲から見ればやはり多かれ少なかれバイアスが見えてしまうだろうし、反原発で高い名声や評価を受けてきた人も当然そういう方向のバイアスがかかることは残念ながらさけられないだろう。だが、明らかに『利益』が見えやすいケースはまだましだ。それよりもっと深刻な問題になりがちなのは、本人が気づかないうちにいつの間にかどこかで受入れてしまった『信念』、『思い込み』、『思想』等の影響に振り回されているようなケースだ。


周囲にこんな思い込みに凝り固まっている人はいないだろうか。

『科学の進歩を妨げることは絶対に良くない』


『自然は絶対で人間の欲望でこれをけがすことは許されない』


『資本主義経済の自由競争を妨げることは絶対にさけるべきだ』


・・・・

気づかずに振り回されるている人達


実は、このような信念の背景には、それを支える思想の階層では長く論争が続き、決着していない根深い問題をはらむものも少なくない。ところがたいていの人は、自分がどのような思想や議論によってその意見を言わされているかがわからないでいる。そうなると、そういう深く対立する思想を背景にした当人同士が表面的な議論をいくら繰り返したところで納得のいく決着を望むことは難しい。大抵は感情的な対立のボルテージが上がって双方が不快感を残したまま分かれることになる。しかも、双方ともなぜそれほど不快になるのか自分でも理解できないから始末が悪い。それほど大きな思想を背景していない場合でも、自分が信頼する人の意見だから、自分の嫌いな人が支持しているから、長年の恨み(ルサンチマン)があるからという類いの感情や思い込みが、論理や信念の仮面を被って潜在することも少なくない。いずれにしても、人は誰でも多かれ少なかれこのような傾向を持つものだ。


自分を支配する信念や感情に自分で気づくことは大抵は非常に困難で、本人の目には見えないことが多い。これは実に厄介で、なまじ論旨明快な人の意見も本当に注意して聞いていないと、非常におかしな結論に巻き込まれて迷惑を被ることになる。もちろん、結果的にそういう人の『ウィッフィー』『評判』『評価』はがた落ちだろう。



決定的に重要な自己分析


このように本人には見えない信念や感情も、他人にははっきりと見えていることが多い。そして、ソーシャル・メディアの一番恐ろしい側面は、こういう本人が気づいていない『信念/思想/感情』を他人の目に今以上にはっきりと簡単に見えるようにしてしまうことだ。本人は気づかないのに周囲からは丸見え、しかもその悪評はあっという間に伝播してしまう。


逆に言えば、ソーシャル・メディアのスクリーニングを生き延びて『評価』される発言者やキュレーターでいるためには、自己分析がきちんとできていることが不可欠ということになる。自分が気づかないままに自分に張り付いてしまっている信念/思想/感情にどれだけ気づくことができるか、どれだけ自由でいることができるか、これが決定的に重要になると考える。


だから、ソーシャル・メディア新時代を生き残ろうと思えば、他人を批判している暇などないはずだ。まず、自分がおかしな、もうまったく耐用年数がつきてしまっているような、信念、思想、信条、感情等に捕われていないか、徹底的に反省し、しかも日々自分自身を見張っていることがどうしても必要だ。そして、そういう言論人、キュレーターがスクリーニングの結果残っていけば、言論は偏見から自由になり質的に格段に向上していくことが期待できる。自分に自信が無い人達は、そういう意味で『ウイッフィー』『評判』を積み上げた人を信頼して意見を聞くことになるだろう。ここに至って、ソーシャル・メディアは本当に新時代を迎えることになるだろう。

*1:ハロー効果 - Wikipedia

*2:

ツイッターノミクス TwitterNomics

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