日本再創造は必ず成る

茫然自失


東日本大震災発生から10日が過ぎたが、かなり大きな規模の余震がいまだに続き、原発事故の状況はまだ予断を許さない。犠牲者数はすでに阪神淡路大震災を上回り、死者・行方不明者合計で2万人を超えている。加えて36万人以上の避難者がいて、原発事故の状況次第ではさらに大幅にこの数が増える恐れもある。あらためてこの震災のスケールの大きさに慄然とする思いだ。


震源からかなりの距離にある神奈川県にオフィスと自宅がある私の周辺も、停電や通勤の便の混乱もあって自宅待機や早退を余儀なくされ、 イベントや行事も軒並み中止となっている。私生活でもガソリンや米等の生活物資は驚くほど品薄で、夜停電したりすると何もできなくなってしまう。正直、公私ともに茫然自失状態からまだ回復できないでいる。



自分の役割


ただ、そんな中でも、Twitter、ブログ、FacebookUstreamを利用したNHK放送等を中心に情報収集は懸命に続けてきた。それでけではなく、著名な発信者始め、できる限り多くの人の発信を可能な限り追い続けた。何だかそれをやるのが今の自分の役割(使命とまでは言わないまでも)のようにさえ感じていた気がする。そして、その意義は十二分にあった。平常時ではけして得ることのなかったであろう様々な気づきは数えきれないほどあったし、自分が『歴史』や『思想』のように、いわば化石やミイラのような乾いた塊としてしか持っていなかった知識に、いきなり生命が吹き込まれて生き生きとその全存在を感じ取れるような体験をすることもできた。



際立つTwitter


利用したツールの中でもその有用性が際立っていたのは、何よりまずTwitterである。緊急時の情報収集、連絡用インフラとしての卓越性をあらためて実感した人は本当に多かったと思う。デマの類いもものすごく多いことは確かだが、様々な視点やソースの情報が刻々と発信されてくるため、相互に比較検討することができる。140という字数の制限も、長い説明が必要なものはブログやニュースにリンクされているため、弱点になるようなことはない。もちろん、この中から本物の情報を選り分けるにはそれなりの『情報リテラシー=情報を理解・整理し、活用する能力』が必要であることは言うまでもない。だが、如何に整理され、飲み込みやすくなっていようと、情報ソースが限られていることに比べればずっと健全だろう。



権威を押し流した津波


ちなみに、今回は情報の発信者として既存のマスコミも他の発信者とほぼフラット/横一線だった印象が強い。中には優れた情報もあることを認めるのにやぶさかではないが、それを裏付ける力の源としては、もはや旧来の権威とか資本がほとんど役に立たないことは明白になった。それどころか資本関係やスポンサーシップ(東京電力が広告宣伝の大スポンサーである等)がバイアスとなる懸念があるため、マスコミ情報は括弧つきで、信頼性に乏しいというような扱いをされるケースも少なくなかった。


そういう意味では津波が押し流したのは家屋や工場だけではなく、牢固な既得権益や権威こそ押し流されたのではないか(それはもちろん、マスコミに限らない)。押し流された後の土壌にそのまま雨後のタケノコのように同じものがはえることはもうないだろう。少なくともこの情報/言論空間では従来の権威に象徴としての死が訪れ、再建は真の実力を蓄えた若々しい感性に託されることが決定的になったように私には思える。それはまさに『戦後』そのものではないか。もちろんそこには無限の『希望」がある。



選別される発信者


話を少し戻すと、この期間中、Twitterを中心にネットで発信される発言をよく観察していると、情報としての内容もさることながら、発信者や受信者の『感情』の流れが非常にはっきりと感じられて興味深かった。著名な発信者もほとんど例外無く感情が揺さぶられ、動揺し、恐れ、意見がぶれ、怒り、罵倒し合う、というような過酷な状況に巻き込まれ苦闘していた。この限界的な状況の中では、それは必ずしも非難されるべきものではない。その揺れる感情を含めて包み隠さず真摯に語りかける人の中には、従来以上に信頼を勝ち得た人もいる。逆に化けの皮がはがれてしまった人も少なくない。ここにも津波は押し寄せた。そして、生き残り、より強くなった人と、沈んでしまう人を選り分けた。発信者もしっかりと試された。(私も含めてだが・・)


ネットでの情報発信者のあり方がどういうものなのか、どうあるべきなのか、考え直す貴重な機会を与えられた。個人の感情を完全に排して理性と知識だけで語ることがよい発信とは限らない。特に何らかの意見や思いを世に問うような発信(それがなければ発信することにさほど意味があるとは思わないが)をする人が持つ刀は学識があって頭がよく刃が鋭いだけでは足りないことを少なくとも私は再認識した。まるで大木にカミソリで斬りつけるような感じなのだ。大木を切るにはナタのような鈍刀がいる。(この例えは、小林秀雄氏か吉本隆明氏が語っていた記憶があるのだが、どこでなのかどうしても思い出せない。)



鈍刀の陶冶


『鈍』をどう陶冶すればいいのか。私にも安直な答えはないが、おそらく、恐れ、恐怖、怒り、そのような厳しい感情的な限界体験に直面し、それを乗り越える『苦闘』は不可欠なのではないか。例えば、震災後に発信された記事として秀逸だと私が感じたものの中に、佐々木俊尚氏のメールマガジンの論文(Facebookに公開されている)と東浩紀氏のニューヨークタイムズへの寄稿文がある。客観的に見ても非常に厳しいの今の日本および日本人に、『希望』をもたらす素晴らしい論文なので、是非実際に読んでみていただきたいが、二人ともTwitterでの発言も非常に多かったが、一方でものすごい数の心ない罵詈雑言に近いTweetを沢山浴びていた。私も非常に驚いたのだが、普段は剛胆で沈着冷静な佐々木氏でさえ、『不謹慎』の連呼には心痛めていることが伝わってきた。だが、その姿から、普段二人が『鈍』を陶冶している場面の一端を伺い知ることができた気がする私は二人の秀逸な論文を読んで、日本がこの破滅的な状態から立ち直るためには、『鈍』な刀をふるって語る人が絶対に必要であることを確信した。


この危機は大いなる変化のきっかけになるかもしれない


木蓮の陰から : 東浩紀氏、東北関東大震災についてNew York Times紙に寄稿



集合的な感情


個々の発信者もそうだが、大量の発信を読んでいくと、集合的な感情の揺れ動き、動揺、恐怖、感動、憎悪、尊敬、祈り等々、あらゆる感情の塊を身をもって感じる取ることができる。それは非常に強く激烈なものもあれば、微かにしか感じられない微妙なものもある。それをどう呼べばいいだろう。『集合的無意識』『空気」『世間』・・・今回のような国家的な危機と言っていい状況下では、普段は潜在していて見つけにくいものも、一度に表に出て来るようだ。



賞賛すべき日本人の態度


震災が起きてすぐに、海外メディアから、大災害という非常時でも略奪もせず、整然と忍耐強く行動する日本人の姿を賞賛する声が沢山届いた。確かに、これこそ日本がかつて何度も危機的な状態に直面した時に一致団結して苦難を乗り越えるにあたってよすがになって来た、『日本人の無意識に厳然として存在する心的態度』だ。戦後の瓦礫の山の中から立ち上がって一致団結して再び世界に名だたる奇跡の成長を遂げながら、万事控えめで譲り合いの気持ちを忘れない、そんな世界に誇れる精神性はちゃんと死なないで生きていた。私の世代はある程度それを知っていたはずなのに、バブル以降いつの間にか忘れてしまっていた気がする。まして、バブル以前を知らない若年層は、話に聞いたことはあっても、実際にこの存在をかいま見ることは無かったかもしれない。だが、そんな若年層の心の深層にも民族の財産とも言える輝ける精神性はちゃんと宿っていることがわかった。(Twitter等に見る若年層の発言の多くを見ていて私はそれを確信した。)少なくともそれに感動できるのであれば、ちゃんと持っているということを信じていい。



世界中から寄せられる善意


それだけではない。危機に瀕している日本に対して、世界中の人たちが祈り、励ましの言葉を送り、実際に救援に立ち上がってくれている。それがどれほど分厚いものなのか知りたければ、海外のTweetを読んで見ればいい。間違いなく驚くことになるだろう。しかも、普段はあれほどいがみ合っている韓国や中国の援助隊も先を争って駆けつけてくれた。その善意にはまぎれも無く本物の誠意がある。この先、現実の利害や国益のぶつかり合いがあろうと、この善意をかいま見ることができた人は、『世界の連帯』が絵空事ではないことを確信しただろう。



希望の足下の落とし穴


もちろん、この素晴らしい『希望』のすぐ足下には、非常に恐ろしい落とし穴もある。再建に明確な目標を持って一位団結する日本人の意識はまた、それに同意しない人を強く非難し、排除する空気を生んだり、無闇に同調圧力を高めてしまう懸念もある。復興のための経済を萎縮させないために、できる消費はしようと呼びかける佐々木俊尚氏の『自発的不謹慎のすすめ』に非常にネガティブに反応する多数の人などその典型例だ。それは、そういう感情的な反応をする人たちの個別の問題というよりは、危機に瀕した日本人の『無意識』がそういう反応をさせてしまうと考えるべきだろう。また、このような危機的な状況では、政府をいたずらに論難せず、協力していこうという呼びかけは原則正しいし、日本人は素直にそれに応じる人が多い。だが、それも一歩間違うと、戦争中の『翼賛体制』のように、『戦争中は文句を言わずに従え!』というような空気を安易に作ってしまうことになりかねない。



鈍刀をふるう言論人


だが、だからこそ、ここに『鈍刀を持つ言論人』が必要なのだ。日本人が再発見した『宝』が雑草で覆われてしまわないように、場合によっては鈍刀をふるい、道を示し、この明治、戦後に続く、日本史上でも最大規模の再生期にあたって、ただの再建ではなく、再創造を実現すべく働く必要があるのだと思う。そして、それは可能だ。いや、可能にしなくては、無念の死を遂げた犠牲者がうかばれない。



世界の恩義に答える時


奇しくも、リビアではカダフィ大佐を政権から引きずりおろすべく、『リビア戦争』が始まったようだ。この中東の新たな危機は憎悪が憎悪を呼ぶ世界規模の危機にエスカレートしかねない。であればよけい、日本は日本を見捨てなかった世界の人々の恩義に応え、苦難に負けず、再創造を見事実現して世界に『善意の力』を示すことで恩返しをする機会を与えられていると受け止めるべきだろう。覚悟を決めて共に前を向こう。