結局、携帯電話の使用制限? 

結局こういう方向に?


教育再生懇談会の最新の報告を拝見して、結局、携帯電話の使用制限という方向に議論が戻って行く状況を見て、大変大きな危機感を感じた。以下、毎日新聞の記事の抜粋である。

政府の教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾塾長)は17日、東京都内で開いた会合で、6月初めにまとめる報告書に小・中学生の携帯電話の使用制限を盛り込む方針で一致した。報告書は小・中学生に極力、携帯電話を持たせないよう保護者らに促す一方で、所持する場合には法規制をかける内容となる見通しで、今後、論議を呼びそうだ。


4月12日付けの私のエントリーでも書いた通り(青少年ネット規制法案の背後にある深刻な懸念 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る)、私は、このような思考停止&無菌化(=臭いものに蓋)的な対応は反対である。 自分の所属する会社の商売がインターネットのサービスプロバイダーでもあるため、その商売の妨げになることを嫌って強弁しているのだろうと見られることもあるが、それは違う。本当に一日本人として、業界人としての立場を超えて、大きな危機感を感じている。


この点で、駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部の山口浩准教授のブログ記事(H-Yamaguchi.net: テレビも見せるな、本も読ませるな)に、ほぼ全面的に賛成だ。山口氏は、以下のように怒りをあらわにされている。

この方針、政府のえらい人も支持している。記事にはこうある。

町村信孝官房長官は会合で「携帯を使った犯罪に子供が巻き込まれている以上、ある程度の規制の検討も必要だ」と明言。

首相も

「子供の場合は携帯電話の必要性がそれほどあるとは思わない。むしろ有害情報の心配をした方が良い」

との見解。なるほど。有益な場合があるとしても、幣害が生じた事例が少しでもあるなら規制が必要だということか。さすが首相。日本中の個々の子どもやその家庭の事情をすべてお見通しなんだな。すばらしき慧眼である。携帯電話を持つかどうかは選択の問題ではなく必要性の問題なわけだ。いやまったくそのとおり。


そして、そんなに有害なものが混ざることを避けたければ、いっそテレビも新聞も見せるな、とおっしゃっている。


その通りだ。無菌化することが教育だというなら、何も見せない方がいい。 だが、今の日本の一番の問題は、自立し社会性を持つことができない子供が溢れてしまっていることだろう。無菌社会で、コンフリクトなく育てば自立した社会性のある子供が増えて行くのだろうか。正反対ではないのか。この点にもっと議論が尽くされることをせつに望むものである。



自立も社会性も不要と言わんばかりの現代の日本


日本社会は、欧米と比べて母系性社会であることはすでに『常識』と行って良いと思うが、最近の傾向を見ると、特に少子化が極端に進行する中で、あまりに『過保護』『マザコン化』『よい子化』が進みすぎていると思う。その安全で楽しい環境で親や年長者の言うことをよく聞くよい子が、一定年齢に達して、コンフリクトの多い大人社会に出るべきタイミングで、適応不全を起こし、ニートや引きこもりとなる一番基本的な原因となっているのではないのか。それは子供にとって、本当に良い教育と言えるのだろうか。


しかも、これは子供だけの問題ではない。大人になることを拒否し続け、すでに30〜 40才台まで来ている人たちを果たして子供と呼んでよいかは難しい問題だが、実はもっと上の年代にまで、この『子供化』は及んでいる。それが必ずしもすべて悪いこととも思わないが、多くの実害を目にする昨今では、あまり寛容になれないのも確かだ。大人と言われる人たちも、同質な人とのあたたかでコンフリクトのない関係に引きこもる。異質なものを排除する。産業全体で見ればそれは『日本の鎖国化』を助長し、日本の国力を弱め、合理的な正論より政治と談合が優先され、有為でやる気のある若者をスポイルする。


もちろん一日本人として、自分自身にもその毒の一部が回っていることは否定できない。だが、そういう自分を各自が見直し、大きな流れを変えるきっかけにできないものだろうか。