Googleがアパレル企業の競合者となる日

 

 

◾️ アパレル業界は殺されつつある?

 

業績が急速に悪化しているアパレル業界(百貨店等の小売も含む)の現状、および勃興しつつある新しい取り組みについて、丹念な取材の結果を通じて日経ビジネスの記事としてまとめ、それをベースにして加筆修正した著書、『誰がアパレルを殺すのか』*1が予想以上に面白かった。売れ行きも好調らしい。

 

 

タイトルがまさにこの業界で今起きていることを端的に表していると言えるが、国内のアパレル業界は、今、かつてないほどの不振にあえいでいる。本書によれば、オンワードホールディングス、ワールド、TSIホールディングス三陽商会という業界を代表する大手アパレル4社の売上高は激減(ここ数年毎年1割ずつ減少)しており、店舗の閉鎖やブランドの撤退も相次いでいる(2015~2016年度に4社が閉鎖した店舗数は合計1600以上)。またアパレル業界と歩みをともにしてきた百貨店業界も、地方や郊外を中心に店舗閉鎖が続き、『洋服が売れない』事態は深刻さを増しているという。

 

 

◾️ 日本企業全般にみられる衰退の構造

 

私はアパレル業界のことは一般の報道程度のことしか知らないが、かつて自動車の商品企画や販売に関わっていたことがあるため、高額商品が飛ぶように売れたバブルの頃の日本人の消費行動/ユーザー嗜好が、バブル崩壊から失われた20年、さらにはリーマンショック等を経て、およそ同じ日本人のそれとは思えないくらいの大転換を遂げたことはよく知っている。そして、その後関わったIT・電機業界でも、ユーザーの消費行動の変化もさることながら、GoogleApple等の予想だにしなかったライバルの登場とそれらの強力な企業が主導することになった『ビジネスモデル革命』に対応できずに急速に衰退していった実態を現場の近くで見ていたこともあり、日本企業の衰退というテーマには関心を持たざるを得ない環境を過ごしてきたと言える。だから、同じようにバブルの頃に繁栄と栄光の頂点にあった日本のアパレル業界が今辛酸をなめているとすると、同様の構図があるに違いないと思えてしまう。

 

特にIT・電機業界に関しては、市場構造やユーザーの消費行動の変化、技術進化、他分野からの参入等の急激な変化に対して、古い慣習や思い込みから抜け出ることができない既存の企業(特に大手企業)が右往左往している間に、GoogleApple、さらにはAmazonといった『プラットフォーマー』と呼ばれることになる勢力が古いルールを押しのけて市場の新しいルールを作り上げ、そこに、そのルールを熟知した上でICT関連技術を駆使して、市場を席巻する『創造的破壊企業』と呼ばれる一群の企業(タクシーの配車Uber、民泊のAirbnb等)が次々と立ち上がって来る状況もかなり早い段階から把握していた。だから、このトレンドは早晩アパレル業界を含むあらゆる業界・業種に波及して、既存の市場や旧来の企業を破壊して回るようになるのは時間の問題と考えていた。そういう意味では、同様の現象がアパレル業界でも起こり、同様の『法則』が顕現していることを本書で確認させていただくことができた、というのが率直な感想だったりする。

 

だが、その一方で、アパレル業界で起きている事例は、また巡り巡って新たな成功事例として他産業の『創造的破壊企業』を刺激し、あらたな破壊が起ることが予想される。しかも、昨今では、業界ごとの垣根は極めて低く、どこでどのようなことが波及してくるかわからないから、アパレル業界の特殊事情として傍観するのではなく、自らのビジネスに置き換えて理解しておく必要がある。私自身、本書から読み取れるその『法則』の類似性と再現性、およびその広範な展開可能性にあらためて戦慄した。あまりに自分が想定してきたストーリーに近い展開となっていることにある種の感動すら覚えた。

 

 

◾️ アパレル業界の歴史

 

ここで、本書が説明する、この業界の現在の苦境に至る歴史をざっと通観してみよう。

 

 70年代および、80年代については、本書の見出しに、『栄光の1970年代、熱狂の1980年代』とある通り、この時期が日本のアパレル産業の全盛期だった。日本人デザイナーがファッションの本場パリでデザイナーとして活躍するようになり、国内の大手アパレル企業は、海外ブランドのライセンスを次々と取得、デザイナーズブランドは人気の頂点を極め、80年代になると、デザイナーズ&キャラクターズブームが到来して、商品は飛ぶように売れた。この時期自動車業界で商品企画や海外営業に関わっていた私自身、バブルの熱狂的な消費の只中で翻弄された口なので、その熱気はよく覚えている。学生時代に学んだ『記号消費』がこれほど圧倒的な形で顕在化するとはさすがに予想できなかった。

 

だが、このバブルは90年代になるとあっけなく崩壊し、その後、関係者のバブル再燃の願いもむなしく、長い景気低迷とデフレが時と共に深刻化する。そして、この時期を象徴する、SPA(製造小売業)が台頭する。国内ではユニクロが代表例で、90年代後半のアパレル産業は『ユニクロの時代』となった。2000年に大規模小売店舗法が廃止されると、郊外を中心に大型ショッピングセンター(SC)が出店を拡大する。ユニクロの成功を見ていたアパレル各社は、『より速く、より安く』という商品づくりを強化、海外生産とOEMメーカー依存を深めていった。このスキームでは、大量の在庫が発生することになったが、この頃全国で開業したアウトレットモールがその受け皿として機能した。

 

 だが、景気悪化がさらに進むと、小売業界では、大手企業の再編・淘汰が加速する(百貨店のそごうの破綻、総合スーパーのマイカルの民事再生法の適用申請、かつての小売日本一のダイエーへの産業再生機構の支援等)。2000年代後半にかけてデフレ傾向がさらに強まると、欧米発のファストファッション*2スウェーデンH&M、スペインのザラ等)が急速に存在感を増す。

 

2010年代になると、この構造の中、矛盾を抱えながらも何とか生き延びていた、老舗のアパレル企業の深刻な行き詰まりが表面化していく。さらに直近では、SPAを代表するユニクロファストファッション大手さえも収益が悪化する事態となる。この惨状を非常に端的にデータで裏付けるレポートが経済産業省から2016年に公表されている。『アパレル・サプライチェーン研究会報告書』*3

である。この報告書によると国内アパレルの市場規模は1991年に約15.3兆円あったが、2013年には10.5兆円に縮小した。(ここ数年の訪日外国人の爆買特需を除けば10兆円割れしている可能性もある)。一方、供給されるアパレルの数量は1991年時点で約20億点、2014年には約39億点に増えている。市場規模が2/3に落ちているのに市場に出回る商品の数は倍増している。これはどうみても異常事態だ。

 

海外生産は、80%とも90%とも言われる高い比率で中国に依存してきたが、中国での生産コストの上昇(労賃の上昇、インフレ、通貨の切り上げ等)でシフトを余儀なくされており、東南アジア(ベトナム等)、南アジア(バングラディシュ等)、アフリカ等の候補地があがっているものの、コストメリットがあっても、中国程の品質が確保できない上に、日本から離れれば離れるほど輸入コスト増の圧迫が大きくなるため、実際にはシフトは困難だ。ユニクロのように店舗を全世界展開していれば、生産地が日本から離れても対処は可能だろうが、日本の老舗の多くは海外の販路は開拓していないからそれもできない。国内回帰しようとしても、生産の海外シフトの影響で、日本の製造者の能力は衰え、寂れてしまっている。絵に描いたような八方塞がりだ。

 

 

◾️ アパレル業界の創造的破壊企業

 

だが、これは既存の業界の崩壊ではあっても、市場の死滅ではない。そのことは、はからずも、次々と登場するこの業界における『創造的破壊企業』が証明することになる。本書でも先ずその典型例として紹介されているのは、『オンラインSPA』と呼ばれる業態であり、その代表格の米国のエバーレーンだ。

 

2010年に設立されたエバーレーンは、最初から大規模な店舗開発や卸売りをせずに、インターネットを通じて直接消費者に自社開発の商品を届ける手法で市場を席巻している。以下の記事にこの企業の詳述がある。

 

世界中にある素材の産地・生産地と付き合い、自ら商品をデザインし、開発し、オンラインで商品を販売する。商品を出すタイミングや季節は、従来の商習慣にとらわれず、小ロットで売り切る。ソーシャルメディアを効果的に使い、世界観を伝えることで、多くのファンを虜にしている。基本的に「売る」ための店舗は持たず、中間マージンを省けるため、その分、高品質の商品を手ごろな価格で消費者に届けられることが特徴だ。(中略)エバーレーンが多くの支持を得る理由の一つが、生産過程の透明性にある。生地や縫製、流通コストがどれくらいかかり、エバーレーンがどれくらいマージンをとるか、といった情報をオンラインで明確に開示する。例えば、下記のシャツであれば、1枚当たり生地に16.81ドル、生産地の労働力に7.59ドル、関税で1.79ドルなど費用合計が28ドル、エバーレーンがそこに40ドルを上乗せし、68ドルで販売すると開示されている。一方、“伝統的なブランド”では、同じ商品が140ドルで販売されているということも併記される。

ファストリが恐れる米アパレル「エバーレーン」:日経ビジネスオンライン

  

既存のアパレル業界にとっては驚くべきアンチテーゼだろう。特に、コストの透明化など、既存企業のビジネスモデルの破壊者以外の何物でもない。だが、これがユーザーに好感されてエバーレーンが非常にその規模を拡大してきている現実があり、エバーレーンが切り開いた『隙間』には(もはや隙間とは言えないかもしれないが)、これからさらに革新的な『破壊者』が殺到することになるのは確実だ。

 

日本の『破壊者』の代表は、今ではアパレルネット通販で最大規模を誇る『ZOZOTOWN(ゾゾタウン)』だろう。2017年2月13日終値ベースでの時価総額三越伊勢丹ホールディングズの約1.5倍、高島屋の2倍以上の価値があるという。利用者にとっては、ブランドを横断して統一した基準のサイズで商品を比較できるため、郊外のSCをめぐるより効率的に買い物ができる。アパレル企業にとっては、百貨店より圧倒的にメリットのある条件を提示されている上に、ゾゾタウンの倉庫に商品を収めれば、その先の撮影や検品、梱包といった作業は任せることができるという。

  

しかも、メリットはそれだけではない。出店するアパレル企業だけが閲覧できる管理サイトで、自社の在庫確認だけではなく、他社の商品トレンド等も分析できる。現在人気ブランドで何が売れているのか、アイテム別に過去の売り上げを参照でき、これが他社を含めた商品全体でできるという。私の憶測だが、この機能は今後加速度的に洗練化されて、一層インテリジェントとなる可能性が大きい。情報が多量に流入し、蓄積される仕組み(ビッグデータ)が構築された場では、AI(人工知能)の分析が圧倒的な能力を発揮してくと考えられるからだ。これに、加えて、ゾゾタウンはICT(情報通信技術)やIoT(モノのインターネット)をフル活用して、2017年中にSPA事業に参入することを発表している。すでに認知度が高く、膨大な顧客・販売データを保有し、しかも先端技術を駆使するとなると、ものすごいアパレル企業が誕生する可能性がある。だが、EC(eコマース)企業のSPA参入という意味では、米Amazonが先鞭をつけており、日本にも参入しようとしているというから、ゾゾタウンも安閑とはしていられない。この『破壊者』の激闘の最中で、既存のアパレル企業はいったいどうやって生きていくのか。よほどの覚悟が必要であることだけは間違いない。

 

さらにその上に、ゾゾタウンは新品を売ってからそれを引き取って中古を売るまでのサイクルを既に自前でつくっており、今後もっと拡大していきたいのだという。新品の販売情報はすでに持っているから、売った時期から経年変化等を勘案し逆算して適切な価格を提示できるし、情報提供のタイミングも最適な時期を見込むことができる。これまでアパレルに自動車のような大きな二次流通市場がなかったのは、アパレルが自動車ほど高価ではなく仲介手数料がさほど見込めなかったからだ。だが今ではインターネットにより価格が透明になって、仲介手数料が省けるようになってきて、中古市場が成立するようになってきている。そして、大きく拡大していく兆しがある。本書では、さらに中古市場の拡大を後押しする存在として、昨今テレビCM等も流して非常にその名を市場に知らしめている、フリマアプリの王者、メリカリ*4のことも紹介している。

 

 

◾️ 服は情報そのもの

 

ここまで見ただけでも、既存の大手企業のつくった市場や慣行の隙間を、新興の『破壊者』がどんどん突いて巨大化してきているのがわかる。もちろん、本書も述べている通り、慣行の矛盾を正す、あるいは隙を突くのは、必ずしも先端技術を駆使する企業とは限らない。だが、ユニクロの(ファーストリテイリングの)柳井会長の一言が、やはりこの業界の行く末を正確に見据えているように私には思えてならない。

 

「情報化が進み、まず国境の差がなくなりました。それから業界の差がなくなった。いまや世界中に飛び交うニュースをインターネットで得て、それを人工知能で全て分析できるという時代です。その胴元が米アマゾン・ドット・コムや米グーグル。服は情報そのものなので、彼らはファッション業界に入ってきています。必ず次のメインプレーヤーになりますし、近い将来、大きな競争相手になるでしょう」

ユニクロ柳井氏「いずれ、グーグルと競合する」:日経ビジネスオンライン

 

『服は情報そのもの』と断言する柳井会長には、重厚長大産業のGEをIT企業のような情報産業にすると語る米GEのジェフ・イメルトCEOの姿が被って見える。優れた経営者の透徹したビジョンと言える。およそあらゆるビジネスはデジタルに置き換えられ、すべての産業にとってGoogleやアマゾン等のIT企業が競合になる日が来ると繰り返し述べて来た私としては我が意を得たりの思いではある。

 

 

◾️ 日本企業はどうしていくべきなのか

 

ただ、この状況で日本企業がどのように勝ち抜いていく(生き残っていく)のかという重い課題を解いていく必要がある。そういう意味でも、柳井会長ももちろんだが、ゾゾタウンの(スタートトゥデイの)前澤 友作社長、メリカリの山田進太郎社長の発言や動向には今後とも注目していきたいと考えている。それが、アパレルだけではなく、日本の全産業に関わる問題を解く鍵となる可能性があると考えるからだ。だから、最初に述べた通り、本書はアパレル業界関係者だけではなく、あらゆるビジネスに関わる人が自らのビジネスに重ねて読んでみる価値があると考える。そして、できることなら各々の感じるところを広く発信して共有してくれることを切に願う。

*1:

誰がアパレルを殺すのか

誰がアパレルを殺すのか

 

 

*2:ファストファッション - Wikipedia

*3:

www.meti.go.jp 

*4:https://www.mercari.com/jp/

『勉強』により『同調圧力』から抜け出ないと大変なことになる?

 

 

◾️ 千葉雅也氏の『勉強の哲学』

 

買ったまましばらく放置していたのだが、ふと読んでみると非常に面白くて、また自分自身を振り返るきっかけとなった本がある。哲学者の千葉雅也氏の『勉強の哲学 来たるべきバカのために』*1である。勉強といっても、受験勉強だとか社会人の実務的な勉強のためのノウハウ本ではない。そのような本と間違えて買うと、がっかりするか驚いてしまうと思われるのだが、もしかすると、まったく新しい人生を始めるきっかけになるかもしれない。

 

千葉氏は、まず冒頭にガツンと、こう言い放っている。

 

『勉強とは、自己破壊である』

 

多くの人(大抵の人と言っていいと思うが)にとっては、勉強とは新しい知識やスキルを付け加えるためにするものだろう。だが、千葉氏はそういうイメージを捨てろというのだ。では、勉強して何の得になるんだという当然の質問が出るわけだが、これまでの『ノリ』から自由になるためにやるのだ、という。もうすこし丁寧に言い換えると、次のようになる。

 

私たちは、同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた。不自由だった。その限界を破って、人生の新しい『可能性』を開くために、深く勉強するのです。

 『勉強の哲学』より

 

この『不自由』は、ある程度意識の高い大学生なら、卒業して社会人になれば、十中八九感じると断言できる。大学生の頃の自分は大丈夫という思い込みは(もしあればだが)、大抵就職して企業に入ると砕け散ることになる。そしてその頃になってやっと、もっと学生の時分に勉強しておけば良かったと嘆くことになる。

 

 

 ◾️ 自分のことを振り返ると・・

 

私が、大学生くらいの頃にこの本に出会っていたら、どう感じただろう。きっと高く評価して、もしかすると繰り返し読んだのではないかと思う。というのも、私も大学時代に恩師のおかげで、千葉氏がいうところの『勉強』に目覚める体験をして、そういう『勉強』をすることによる自由をはっきりと感じる体験をしたからだ。今までの自分の視野の狭さに気づき、視界が広がり、そのことによって新しい友人と知り合うこともできた。少なくとも大学生でいる間は、大学生でいることの良い部分を最大限楽しむことができた。

 

だが、学生生活が終わりに近づき、家族や親戚や友人のような周囲の『環境』が人生の果実(お金、周囲からの承認等)をチラつかせて誘惑しだすと、私も人並みにその罠に落ちて、大企業に就職することになった。実際に企業に入ってみると、とたんにものすごい苦難にさいなまされることになる。千葉氏は、『勉強とは自己破壊であり、自由になるために行うものだが、同調圧力が強い場に適応が求められる環境では、能力の損失が起きる。そういう意味で勉強はむしろ損をすることであり、わざと『ノリが悪い』人になることである』と述べているが、まさにその通りの体験をすることになった。

 

日本企業の場合、どの企業でも多かれ少なかれ、この『同調圧力』は強い。もちろん、この強度には企業による違いはある。当時の印象だが、競争力があって、勢いよく伸びている企業であるほど『同調圧力』は強く、外部からの批判にも動じない傾向があった。私の場合、最初に入った企業が、この『同調圧力』という点では日本有数とでもいえそうな会社であり、勤務地の風土もそれを助長する雰囲気があった。しかも、輪をかけるように最初に配属されたのが人事部であった。この会社、当時から世界有数の企業でありながら、田舎に本社があり、その周辺に工場を集中させ、そこに全国から直接生産労働者だけでも3万人以上を集めていた。街には遊ぶ場所とてほとんどなく、仕事は昼夜二交代(当時)でものすごく厳しい。私ならずとも、ここが凄まじい場所であることはすぐに気がつき呆然としてしまうような環境だった。だが、その茫然自失した従業員を、会社の目的に整合するような思想で統御し、金銭や福利厚生である程度報い、何よりコミュニティを幾重にも作り、そこでの役割を与えて自主的にそのコミュニティにコミットするように仕向ける。そのような施策を人事部が主導していた。

 

ここで一番楽になる方法は、できるだけ早くここの『ノリ』を理解し、コミュニティに積極的に参加して(飲み会や、運動会のようなイベントに積極的に参加する等)、『自分の苦しみこそ日本経済を支えている』『仲間と共に生き残るため』、というような、会社に与えられた『大きな物語』や『信念』を受け入れ、それを仲間内で確認し合うことだ。さらに良いのは、そのような思想を強固にする言説を組み上げ、日常の仕事や人間関係の中で語って見せることだ。しかしながら、なまじ千葉氏の言う意味で、『勉強』の道に踏み出していた私は、これになじむことがどうしてもできず、ある意味いらぬ苦労を背負いこみ、何年にも渡ってもがき苦しむことになった。今なら、そんな会社すぐに辞めればいいだろう、ということになるし、確かに後年辞めるのだが、当時は転職マーケットなどほとんど整備されておらず、しかもなまじ名の売れた会社からの転職は、親や親戚の顔を思い起こすととてもではないが口にできたものではなかった。

 

この会社と当時の友人たちの名誉のために言っておけば、ここでの勤労哲学、滅私奉公の精神、仲間との絆等、いずれも一方で非常に論理的かつ強固な思想的な背景があり、日本の古い思想に繋がる歴史性も併せ持ち、正面から論争を挑んだところで簡単には論破できない備えができていた。そうであればこそ、この会社の人的な凝集力は凄まじく、世界一とも言える高品質を誇り、世界市場でもトップを争うような企業に成長することができたとも言える。

 

だが、少なくとも当時の自分にとっては、どうしても違和感を払拭することはできなかった。しかも、ここに集まった『エリート』たちの少なからぬメンバーは、この場の思想を自分の頭で解読する努力をすることなく当然のものとして盲目的に受け入れ、あろうことか自分の部下や周囲の従業員に盲目的に服従することを強いていた。これが何よりきつかった。仮にこの労働哲学の根幹を理解し、その優越性を学問の領域として順々に説くことができるような上司や先輩に恵まれていれば、自分の思想とは相いれないとしても、稀有な学びの場と認識して、切磋琢磨することに意義を見出していた可能性は高い。だが、実際には、少し議論をしてみれば、すぐに底の浅さの馬脚を現してしまうような人が多く、逆にそのような議論をしたことで、普通以上に苛められたりつらく当たって来るようなケースが多かった。(逆にこの場で真剣に議論できた友人や先輩たちは、終生の友人になったし、忙しくて会えずとも今でも心から尊敬している)。

 

当時の私は、この環境にあって、『同調するふり』を学びはしたが、一方では、自分の浅学さを痛感して、歴史と哲学を基礎からもう一度じっくりと勉強した。そのため、この会社にある強固な思想の何が問題で、どうすればいいのか説明するための『言葉』を持つことができるようになった。何もない安楽な環境にいるより、自分の学びを深くすることができたのだと思う。しかも、その後、海外商品企画や海外マーケティング、海外プロジェクト等の仕事にかわると、ここでの学びは大きく生きることになり、様々な価値観が混在する場(海外市場)での仕事を乗り切る基本が身についていることを実感することできた。

 

 

 ◾️ 納得できる人生のために

 

千葉氏は、『学ぶことはあらゆる前提やそれを構成する言葉を疑い、それによって広い境地に出ることにはなるが、無限に疑うことを追求していっても、最終目的地に到達できるわけではない』と述べており、哲学者のウィトゲンシュタインに言及している。言語は一定のゲームのルールの元に成立しているものであり、ビジネスという土俵で生きることを選択する限り、そのゲームのルールを前提とすることは避けられない。それでも言語の奥の真実を追求したければ、私見だが、言葉の構成する世界を突き抜け、宗教的な境地を目指す生き方もあるのだと思う。だが、ゲームのルールがあることを受け入れ、なお『勉強』し、ビジネスにも生かす道がありうることについて、私も長い時間をかけてだが、一定の納得できる境地があることがわかってきたように思う。もっとも、大学を卒業してからかなりの年月が流れたが、いまだに上で述べたような苦労は形を変えて何度でも襲ってくるし、他人からみると随分不器用な生き方をしているように見えるのではないかと思う。それでも、自分にとっては、大学時代に『勉強』の大事さに気づくことができたのは、かけがえのない、何にも勝る出来事だったと思う。そのおかげで、環境がどうあれ、一貫して自分に納得のできる生き方をしてこれたと本当に思っている。だから、今でも亡き恩師、その当時の友人、諸先輩方には心から感謝しているし、千葉氏の著書をきっかけに、一人でも多くの人が、私と同じ体験をして欲しいと願う。

 

 

◾️ 渡部昇一氏の『知的生活の方法』との比較

 

ちなみに、自分の場合、大学時代に、千葉氏の著作に相当する何かはなかったのかと問われれば、最近亡くなられた上智大学名誉教授の渡部昇一氏の著書『知的生活の方法』*2がそれに該当するのだと思う。この本は累計120万部近く売れているベストセラーであり、私が大学生の頃には、読んでいるかどうかは別として、こんな本があるということは誰でも知っていたという印象がある。この本の基本的なメッセージは、『手段としての(大学入試、昇給等)勉強ではなく、勉強の本当の面白さを知って、どんな環境においてもそれを追求し続けることの素晴らしさを知って欲しい』というものだと私は理解した。当時、『勉強』に目覚めていた私はこのメッセージに深い感動を覚えた。

 

両著書とも、『手段としての勉強』は重視せず、あくまで勉強自体への取り組みの重要性を説いているが、それぞれの底流にあるメタ・メッセージにはかなりの違いがある。千葉氏は自分の推奨する『勉強』を『ラディカル(過激な、急進的な)・スタディ』と呼んでいる通り、その底流に流れるメッセージはかなり過激だ。勉強をして、自らの環境の根拠を問い、その虚構性を知ることで、そこに執着せず、同調圧力にも屈せず、そうすることで『自由』を得ることができると説く。この方向を突き詰めると、普通なら自分の今いる組織(会社)を飛び出すか、組織の改革を求めるか、あるいは、環境から切り離された『身体なき言語』自体を享楽の対象として生きるか選択を迫られるような切迫感に襲われるのではないか。いずれにしても勉強することの満足感を得ることはすごく大変なことに思えてしまう。それに比べると、渡部氏のほうはかなりマイルドだ。自らの環境は環境として受け入れ、自分の精神の自由は自分の内側で得ることを初めから前提としていて、いたずらに組織を飛び出したり、組織を変革することは薦めない。そして何より、勉強すること自体の満足を強調する。

 

渡部氏の学生時代は、まさに極貧状態であったというが、氏はこのように述べている。

 

こういう生活をして何が楽しいかと、はた目には見えたであろう。ところが心の中は、なかなか豊かなものであった。まず語学では外人の英語の授業が聞き取れ、また、答案でもレポートでも論文でも、そのまますらすら英語で書けるようになった。(中略)英語だけではなく、日本やシナの古典を読む時間があった。『古事記』も『伊勢物語』も『源氏物語』も、また唐詩も孔孟も読めた。(中略)これは式子内親王の歌であるが、この内親王の歌が好きになったのも、すきっ腹を抱えて、人気のない学生寮にいたころの話であった。千年以上もへだてている上に、相手は女性でしかも皇女であり、新古今の代表的歌人として感受性の洗練の極致にあった人である。その人の歌が東北の田舎から出てきた貧乏学生にひしひしとわかるとはなにごとだろうか。その当時は別に不思議に思わなかったが、これがまさに知的生活の本質なのである。さきに言ったように、知的生活の流れは、貧富、身分、性別、時代のすべてのワクを越えて、それを理解するものだけのあいだを、外からは見えないで、あたかも雪の下水のごとくひそやかに流れてくるのである。

 『知的生活の方法』より

 

 

この一節に感動した私は、古今の哲学者の著作をあさり、ほんの少しでも理解できたと感じた瞬間が訪れた時は、自分なりに驚くほどの満足を感じ、それを感じている自分にまた感動したものだ。

 

千葉氏と渡部氏の言説には背景にある思想に明確に違いがある。千葉氏は、本書で語ることの根拠には、フランス現代思想があることを明言し、巻末には詳細に彼が述べていることに対する、フランス現代思想家の思想を明示している。では、渡部氏のほうなどうなのだろう。それはおそらく『ストア哲学』だろう。実際、渡部氏自身、この『ストア哲学』のことは別の著書で何度も引用しているし、若いころの渡部氏は特にこの思想を生きていると自覚していたのだと私には思える(どこかで言及されているのかもしれない)。では、その『ストア哲学』とは何なのか。Yahoo!知恵袋にある回答が比較的わかりやすい説明となっているので引用させていただく。

 

「ストア」はストイック、の語源でもあります。この名から分かるように、基本的には、欲望を厳しく節制して人格の完成と心の平穏を追及した思想です。言いかえれば、自制心により人間としての内面を充実させることで、知的、道徳的な賢者になることを目指した思想です。また、運命論的でもあり、不幸が起きるのはコントロール出来ないから、あくせくと外の世界の事象に心をくだくよりは、この世で何があっても動じない心(アタラクシア)という真の宝を得るんだ!という考えでもありました。

哲学のストア派について、どんな思想なのか、簡単に教えてください。 - ... - Yahoo!知恵袋

 

さらに、次のエピソードのほうが、ストア哲学の核心の一端が理解できるかもしれない。解放奴隷でありながらストア哲学者であった、エピクテトスの有名な逸話である。

 

ある日、主人がエピクテトスを虐待して脛をねじったので、エピクテトスは物柔らかに「そのようにしては私の脛は折れてしまいましょう」と言ったところ、主人は聴くことなくして更にねじったので遂に折れてしまった。

これにエピクテトスは従容として「だから私は脛が折れると言ったではないですか」と述べたという。

エピクテトスとは - 語彙

 

環境とは自分ではなく、自分ではないものには価値を置かない。自分の身体でさえ、自分の『意志』とも『幸福』とも関係ない、と平然としていられる境地に至っているということを強烈に示すエピソードだ。これに比べれば、企業でひどい目にあうことなどたいした問題ではない。『勉強』によって至る境地を何ら妨げるものではない、ということになる。

 

かつての日本企業は同調圧力が強かったと言っても、この当時の奴隷の身分に比べれば、天国のようなものだろう。そんなものはほっておいて『勉強』に邁進せよ、というメッセージが渡部氏の著作の節々に流れているように私には思えた。

 

 

◾️ 奈落の底に引きづり込まれかねない

 

今の日本企業、あるいは日本の労働環境は、私の若いころとはまったく違っている。いわば革命前夜のようなものだ。日本企業の多くは昨今の例で言えば東芝のように、かつては盤石だったのが、今では崩壊寸前だ。渡部氏の思想以上に、千葉氏の思想がなじみの良い時代になっているようにも思える。

 

もっとも、両者の思想は特に相矛盾するものではなく、その両方の良いとこ取りは可能だろう。一番危ういのは、『勉強』を選択せずに『同調圧力』に安易に身を任せることだ。かつての日本企業、特に私が最初に入った企業であれば、それは一定期間、ある程度の安楽な生活を保障してくれたことは確かだ。だが、どうやらこれからは期待薄と言わざるをえない。同調圧力』に屈したままでは、近い将来、奈落へ引きづり込まれる可能性が非常に高い。千葉氏が『自己破壊』とまでいう『勉強』のほうが安全いうのも皮肉なものだが、時代がそうなっているからとしか言いようがない。平時の思想は乱世には通用しない。いずれにしても、私の言うことを鵜呑みにするのではなく、両著書とも自分で読んで自分で答えを出して欲しい。それが『勉強』の世界に参入する第一歩なのだから。

 

*1:

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

*2:

知的生活の方法 (講談社現代新書)

知的生活の方法 (講談社現代新書)

 

 

電機メーカーが消えても日本人の創造のスピリットは死なない

 

■ 日本の電機産業の終焉?

 

東芝がいよいよ本当に倒産(法的整理)するかもしれない。2~3年前にこのように書いたら、釣り記事(釣りタイトル)と揶揄されて炎上したかもしれないが、もはやさほど違和感はないのではないか。実際、特に今年に入ってから、『東芝倒産』をタイトルに掲げた記事が激増した。もうそれは既定事実で、秒読みに入っていることも誰もが当然視していて、後はそれがいつ、どんなきっかけで起きるのかということに関心が移ってしまっているようにさえ思える。

 

 幾つかの記事を、比較して読み込んでみると、元日経新聞の記者である、ジャーナリストの大西康之氏の記事が情報量も多く、歴史的な経緯や構造をよくまとめてあって一番わかりやすい。さらに、その大西氏の近著『東芝解体 電機メーカーが消える日*1を併せて読むと、東芝の問題が一人東芝だけの問題ではなく、広く日本の電機産業全体の終焉の象徴、あるいは終わりの始まりであることが理解できる。

 

斯く言う私も、ゼロ年代以降は、IT・電機業界を、その端の方からとはいえ、内側から見ることができる立場にあり、この業界が一旦は世界の頂点に立ちながら、その頂点から転げ落ちる、凋落の有様を見せつけられることになった。2008年より描き始めたこのブログにも何度もその関連の記事を書いてきた。但し、私の場合、電機業界の中でもいわゆる『弱電』(電気の利用方法として、通信・制御・情報に関する分野)に関心の中心を置いてきたから、いわゆる『重電』(電気機械のうち特に大型のものを指す。発電施設や工業施設、商業施設などで用いられる設備等)については、あまり触れておらず、そういう意味では、業界全体の構造問題にまでは十分には分析が及んでいなかったことを認めざるを得ない。

 

 その点、大西氏の近著はその両方にまたがって電機メーカー全体(具体的には8社)を俯瞰しており、極端に言えば、この国の『電機産業衰亡史』として、あるいは『電機産業の失敗の本質』として読むことが可能だ。(歴史家のギボンの『ローマ帝国衰亡史』や経営学者の野中郁次郎氏らによる名著『失敗の本質』を念頭に置いていることは言うまでもない)。まさに、一種の文明史としても、日本の戦略論/組織論の構造分析としても読むことができる。

 

 

■ 勝利条件の変化

 

日本では、経済学者の野口悠紀雄氏が『1940年体制』と命名した、官民一体となった戦争遂行のための経済体制が、戦後も連続して生き残り、これが目標がはっきりした『追いつけ追い越せ』の高度成長時代には絶妙に機能した。そこでの電機業界の勝利条件は、効率良く、高品質で、国際競争に負けない技術力を背景とした製品を提供することに限定されていたため、どのメーカーも必死にこの目標を追求した結果、世界の頂点に立つまでに成長することができた。

 

 しかしながら、どの産業も成熟してきて、価値観が多様化し、しかも発展途上国からも多数の競合相手が参入してくるようになると、従来の競争軸だけに固執していては、市場の新たな勝利条件にうまく対処できなくなった。特に近年では、インターネット本格導入、アナログからデジタルへの移行等に伴い、勝利条件は劇的に変化してきている。ところが、日本の電機メーカーは、過去の成功体験にとらわれ、技術力や品質の高さを過信して、消費者視点を忘れ、新たな競争軸を理解して全力投入してくる新手の競争相手との競争に勝てなくなってしまった。このため、消費者を相手にする家電・弱電メーカーは先んじて苦境に陥り、凋落の一途をたどるようになる。

 

 ただ、その時点でもまだ重電の領域は一見踏ん張っているように見えた。だが、実はそうではなかった。東芝をはじめとする日本の大手電機メーカーは、国内の巨大な二つのファミリー、すなわち、NTTグループを中心とした『電電ファミリー』および東京電力を中心とした『電力ファミリー』からの設備投資等に関わる優先発注等の優遇(大西氏の言う、『ミルク』供給)を受けることによって支えられてきていた。しかしながら、新規参入により価格競争が本格化するようになると、NTTグループ、電力10社とも設備投資は、ピーク時の半額以下にまで落ち込み、リーマンショックによる消費不況が追い打ちをかけると、傘下の電機メーカーは壊滅的な打撃を受けることになる。加えて、電力ファミリーにとっては、致命的とも言える衝撃が襲う。2011年3月に起きた東京電力福島第一原子力発電所の事故だ。以降、国内での新規原発建設は絶望的となり、新たな販路を海外に求めざるをえなくなる。これがまさに今回の東芝の致命傷になろうとしている、米原子力企業のウエスチングハウス(WH)買収につながっていく。こうなってみると、ミルク補給を受けてきたことがかえって仇になってしまった。競争企業としての足腰(競争力)が明らかに弱ってしまっている。

 

環境が激変して経営環境がいかに厳しくなろうとも、根幹にある経営能力が健在なら、企業は生き延びることは可能だ。それは、本業での競争に負けて存亡の危機に瀕しながら、経営の妙で企業再生に成功して、再び世界的な競争力を持つにいたった海外のメーカー、『ノキア』や『フィリップス』等の事例を見ればわかる。だが、ミルクに甘えて競争力、経営力を弱体化させてしまった日本の電気メーカーには、残念ながらそのような余力や反発力が残っているようには思えない。

 

大西氏による、電機メーカー8社の評価で言えば、自力で経営の構造改革を成し遂げ、今後とも生きながらえる可能性が見えてきているのは、三菱電機と最近のソニーという見立てだが、個人的な感想を言えば、まだソニーの復活には疑問符をつけざるをえない。三菱電機とて、現段階まで乗り切ってきたことは評価できるが、さらに新しい時代の競争に備えた準備ができてきているかどうか、という点になると評価は難しいところだ。いずれにしても、現状の日本の電気業界は、大西氏の近著のタイトルである、『電機メーカーが消える日』を『日本の電機メーカーがすべて消える日』と読み替えてもさほど大袈裟とはいえない段階にまで来ている。

 

大西氏は、日本の電機メーカーが消えても、そこで切磋琢磨した優秀な人材が完全に死に絶えたわけではなく、むしろ新たな環境で新たな挑戦を始めている例があることに最後に言及しつつ、日本復活の希望を託している。確かに、日本は国家として戦争に負けて東京は焼け野原になったが、若々しく進取の気性に富む若者がいなくなってしまったわけではなかった。むしろ彼らは、過去の柵が崩壊して、ゼロから始まる自由を謳歌しつつのびのびと活動することができた。それは後に、世界に名だたるソニーやホンダのような企業として結実することになる。人材さえ死なずに生き残っているのなら、中途半端に組織が生き延びるより、徹底して負けた(潰した)ほうが再生し易いということかもしれない。

 

 

■ 復活のための留意点

 

ただ、再生について言えば、今の日本には若干気になる点がある。雄々しく復活することを可能とする材料はあり、人材もいるが、それをうまく生かしていくことができるかどうかという点では、まだ高いハードルが待ち構えていると言わざるをえない。その点につき、以下に申し述べておきたい。3点ある。

 

(1)金融経済化の罠に落ちないこと

 

バブル崩壊以降のいわゆる『失われた20年』の間中、日本的経営は、あらためて批判にさらされ続けた。その中には甘んじて受けるべき貴重な意見も多く含まれてはいた。ただ、日本の市場の仕組みを米国を真似て、金融経済化する動向を良しとする傾向には、否を唱えておきたい。米国では、80年代のレーガンサッチャー革命以降、金融の徹底した自由化が進み、企業のステークホルダーとしては株主一強となり、企業経営者は、短期に収益をあげ、同時に株価時価総額を上げることばかり求められるようになった。その結果、今ではどの企業も、4半期収益を上げるために、長期投資をせず、従業員を育てようともしない。また株価時価総額を上げるために、余剰資金を投資に回さず、自社株を買い漁る。その結果、米国企業のイノベーションを起こす力は、全体で見ると、明らかに衰退してしまった。

 

 実際、今世界を席巻している米国のITジャイアントは、短期収益拡大を求める株主を押さえこめる力量のある企業ばかりだ。中でも、EC大手のアマゾンなど、徹底した顧客目線で、多額の長期投資を継続して行い、売り上げは増えても、収益は何季にも渡って赤字を続けた。Googleも株式公開にあたっては、『外部からの圧力に負けずに長期的な投資を続けるために、創業者が支配権を維持することが株主とユーザーにとっても最良と判断した』と説明し、一般株主向けの1株1議決権のクラスA株式と、経営陣が保有する1株10議決権のクラスB株式を分けた。アップルの創業者スティーブ・ジョブズに典型例が見られる通り、新しいことをやるためには、短期的(時には長期的にも)収益を気にせず、クレージーとも言える信念(世界を変える、火星に人類を移住させる等)を維持することが必要だ(維持できる体制も必要だ)。

 

 

(2)エクスポネンシャル(指数関数的)な技術の進化の本質を理解する

 

今後は、どの産業分野でも、デジタル技術の持つ特質である、エクスポネンシャル(指数関数的)な進化の意味するところ、その本質を理解できないのでは、経営の中枢を担うことはできなくなる。だが、今の日本企業の経営者にその理解が浸透しているようにはとても思えない。

 

この概念の一端を理解するのに、適切なガイドブックと言えそうなのが、エクスポネンシャル・ジャパンの共同代表を務める斎藤和紀氏の近著『シンギュラリティ・ビジネス AI時代に勝ち残る企業と人の条件』だ。*2斎藤氏は、シンギュラリティ大学*3エグゼクティブプログラムを修了して、その経営思想を伝えるエバンジェリストとして活動している。斎藤氏の説明はいずれもわかり易く興味深いが、シンギュラリティ大学の共同創設者の一人、ピーター・ディアマンディスが提唱する『エクスポネンシャルの6D』という部分は特にわかり易い(そして恐ろしい)。

 

ディアマンディスは、物事がエクスポネンシャルに成長するとき、多くのケースで『D』の頭文字を持つ次の事象が連鎖的に起きると述べているという。

 

  1. デジタル化 (Digitalization)
  1. 潜行 (Deception)
  1. 破壊 (Disruption)
  1. 非収益化 (Demonetization)
  1. 非物質化 (Dematerialization)
  1. 大衆化 (Democratization)

 

デジタル化により、エクスポネンシャルの軌道*4に乗った場合、初期段階ではほどんど上昇しないから、直線的な成長をイメージする人にとっては期待を下回るレベルにしかならない(潜行)。今この段階にある新技術の例は多いから、少し注意していれば、多くの人の幻滅の声を沢山拾うことができる。(『ブロックチェーンなど調べてみると使えないことがわかった』『電子書籍は所詮使えず本は紙にかぎる』『スマートフォンは日本人には馴染まず売れない』『デジタルカメラはオモチャにすぎない』等)ところが、ある段階から突如、直線的な成長予想を突破する(破壊)。そして、そうなると既存の市場はあっという間に破壊される。デジタルカメラをオモチャとしか考えていなかったコダック社は市場から撤退し、ガラケーはマイナーな製品の立場に追いやられた。そして、その次の非収益化、非物質化は、スマートフォンが飲み込んだ製品やサービスの数々を見ていればその意味するところはわかるはずだ。アナログカメラフィルム、高額な長距離電話料金、音楽プレーヤー、百科事典等々、いくらでも事例を指し示すことができる。今現在でも続々と数多くのサービスや製品がこの列に並びつつある。このようなことが起きることを理解できない人にとって、最後に訪れるDはDeath (死)ということになる。だが、物事がこのようなステップで進んで行くことを理解できる人にとっては、チャンスは無限に開けている。

 

シスコシステムズは2017年6月2日、『デジタル変革に向けたビジネスモデル』と題した説明会を開催して、デジタルディスラプター(デジタル変革による破壊者)の脅威について言及し、『既存のトップ10社の4社は淘汰される。破壊が起こるまでの時間は3年だ』と述べている。対象は日本企業だけではないが、日本企業に限ってみた場合、今のままでは淘汰される側の比率はもっと高いのではないかと思えてならない。*5 

 

 

(3)日本人の真の創造性に気づく

 

今の日本人の多くは、自分たちがイノベーションを担いでベンチャー企業を立ち上げることに不向きな、改善は得意だが創造は苦手な民族であると思い込んでいる。だから、創造性が勝利条件となるこれからの世界の競争で日本人は負けていくに違いないというような、悲観的な展望を持つ人が多くなってきている。だが、本当にそうだろうか。アドビシステムズによる、クリエイティビティに関する意識調査『State of Create: 2016』は、米国、英国、ドイツ、フランス、日本の18歳以上の成人約5,000人を対象とした調査だが、それによれば、最もクリエイティブな国は日本であり、最もクリエイティブな都市は東京、という結果となっている。そして、興味深いことに調査対象国のなかで自らをクリエイティブとする回答者が41%もいるのに対して、日本人は13%と極端に低いという。世界からは評価されているのに、日本人自身が気づいていない創造性が存在するということを意味している。今回はその創造性自体の分析には立ち入らないが、このギャップを深く分析して、自らの強みを認識しておくことは非常に重要だ。日本が起死回生をはかるには不可欠の要素といっても過言ではない。*6

 

 

■ 復活は可能だ

 

日本は、敗戦によって滅びることはなかった。むしろ、敗戦によって、過去の縛らみや、旧弊が瓦解することによって得た自由こそ、再生のための重要な要因だった。『日本の電機メーカーの敗戦』の暗黙のメッセージは、負けた原因をそのままにしておいたのでは、復活はおろか、電機業界での敗戦が他の産業にも波及していく恐れが大きい、というものだろう。だが、この『失敗の原因』に学ぶことができれば、再生できる余地はある。あるどころか、大きな可能性に満ちている。そのことを深く考えてみるべき時期に来ていることはいくら強調してもしきれない。極端に悲観的になる必要もないが、虚勢に満ちた自信過剰は破滅への道に続く。冷静に現実を見て、賢い対処ができる人には道は開ける。それは私の願望でも、妄想でもなく『現実』だ。私はそう確信している。

『自動機械化する人間とその上位に立つ人工知能』という可能性

 

 

◾️ 人工知能は人類を滅ぼすか

 

人工知能AI)関連の最近の話題の中で、皆が最も関心を持っているのは、一つには、人の仕事が人工知能に奪われてなくなってしまうのではないかという議論だと思われるが、一方、特に欧米を中心に、遠からず人工知能が人間を上回る知性を獲得してしまい、その結果人類が滅びるような壊滅的な影響を被るのではないかというシナリオへの関心も相変わらず高い。

 

『シンギュラリティ(技術的特異点)』という本来専門家しか耳にすることのなかった用語が、その用語をポピュラーにした、米国を代表するフューチャリストで、Googleの技術ディレクターでもあるレイ・カーツワイル氏の名前とともに、すっかり一般人にも知られるようになったことでもそれはわかる。

 

カーツワイル氏は、シンギュラリティの時期を当初2045年と述べていたが、最近のインタビューでは16年も早い、2029年にコンピューターは人間レベルの知性を獲得すると述べて世界を驚かせた。*1人工知能は人類を滅ぼしかねないと早くから危惧を表明していた、理論物理学ホーキング博士らをよそに、当のカーツワイル氏は極めて楽観的だ。

 

他ならぬ私自身、この問題について早い段階から強い関心を持って、かなり真剣に識者の意見を精査して、自分なりに探究してみたわけだが、人工知能が人間を超える知性を持つこと、すなわち、『幅広い知識を持って、何らかの自意識を持ち、問題設定や、自律的な判断までできるようになること』につき、合理的に納得できる理由は見つからなかった。2029年はおろか、2045年を待っても(それどころかもっとずっと長い将来に渡って)、実現できると確実に判断できる材料を見つけることができなかった。

 

これは、いわゆる『強い人工知能』あるいは『汎用人工知能AGIArtificial General Intelligence)』の実現可能性の問題と置き換えてもよいと思う。そのほうが、現在行われている主要な議論により整合して語ることができそうだ。これに対して、現在急速な進化発展の途上にあるのは、『弱い人工知能』あるいは『専用人工知能/特化型人工知能』ということになるが、こちらのほうは、予想をはるかに上回るスピードで日進月歩で進化している。だが、汎用人工知能の進化は特化型人工知能の進化と基本的には関係がないとされる。つまり、いくら特化型人工知能が進化したからといって、その延長上に汎用人工知能の出現はないということだ。すなわち、何らかの別の大きな飛躍がなければ、汎用人工知能はできないし、今の所その飛躍については何も目処がたっていない。

 

そういう意味では、極論すれば『サルが30年ほどすると人間になる可能性もあるかもしれない』という物言いとさほど違わないように聞こえる。もちろん、サルも人間になったのだとすれば、汎用人工知能が生まれる可能性をまったく否定はできないが、少なくとも進化論のアナロジーを使うのであれば数十年といったようなショートレンジの間尺に合うようには思えない。実際、人工知能の専門家の中にも、カーツワイル派の議論を絵空事と斬って捨てる人は少なくない。

 

厳密に可能性をすべて否定したわけではないとはいえ、自分なりにこのような結論に達して以降、正直、汎用人工知能は私の主たる関心事ではなくなったことは確かで、最近ではそちらの探求は一旦中止して、特化型人工知能の進化と社会への影響のほうにもっぱら関心を向けていた。

 

だが、どうやらそれは少々甘い見通しだったようだ。汎用人工知能が近いうちに完成するという見込みは相変わらず持っているわけではないが、『特化型人工知能の進化と人類の未来』に範囲を絞っても、どうやらあまり楽観ばかりはしていられないのではないかと思えてきた

 

 

◾️ 特化型人工知能の恐るべき可能性

 

もともと、この特化型人工知能の進化についても、東京大学大学院の松尾豊准教授の工程表に示されている通り、第三世代の人工知能を特徴付けるディープラーニングの発展は、現状は主として画像認識のような『認識』、すなわち画像からの特徴量を抽出することが可能な程度のレベルだが、これが音声、動画と範囲を広げ、さらに、さまざまな(マルチモーダルな)データから特徴量を抽出し、それを相互に連関できるようになる。認識のレベル自体も人間並みから人間以上を実現していく。そして、その延長上に、さまざまな運動ができるようになり、プランニング、推論、言語の理解と進み、この段階に至ると、人間の経済活動(すなわち仕事)の大半は人工知能/ロボットが行うことができるようになると考えられる。

 

この実現のスピードは当初の想定を超えて明らかに加速度がついて上がっている。と同時に、できることの範囲が広がっている。画像認識で、Google人工知能YouTube上の猫の画像を認識することを学習した、と大きな話題になったのは、2012年のことだったが、2015年には、もう人工知能の画像認識能力は人間を上回る精度を出せるようになった。音声認識でも、先ごろ、Google音声認識は、エラー率が1年経たずに8.5%から4.9%まで改善して、もはや人間レベルに近くなったとの報道があった。自然言語処理についても、Facebook人工知能DeepText』など、人間の文章はほぼ理解できるという。Google翻訳も、文脈が読み込めるようになってきて、ますます精度が上がってきている。昨今では、人間の感情の認識、すなわち『感情認識AI』への取り組みも盛んで、こちらのほうも、人間のレベルを超えていくのもそう遠くではなさそうだ。

 

だが、それより何より、人工知能の急激な進化を強烈に印象付けたのは、Google傘下のDeepMind社が開発した、囲碁人工知能『AlphaGo』だろう。短期間に急激に強くなり、トップレベルの棋士との勝負に完勝した。10年は無理と言われてきたことをあっさりと実現してしまったことは、囲碁関係者だけではなく、広く世界に人工知能の進化の凄まじさを知らしめることになった。(先ごろ行われた、世界最強の囲碁棋士・柯潔(カ・ケツ)氏と、AlphaGoによる一連の対局も、AlphaGoの勝利で終わった。)

 

 

◾️ ビジネスの頂点に君臨するであろう人工知能

 

日本の将棋ソフト『ポナンザ』を開発して、現役の名人のタイトルホルダー、佐藤天彦名人を撃破した開発者の山本一成氏は自著『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?―最強の将棋AIポナンザの開発者が教える機械学習・深層学習・強化学習の本質*2で将棋のみならず、囲碁のことについても言及しているが、ポナンザもAlphaGoも、人間が長い間の歴史の中で編み出して蓄積した定石を超える新しい手筋を次々に開発しているという。これは巷間その存在を誰もが知るようになってきたいわゆる機械学習(評価基準は人間が与える。いわゆる教師付き学習)に加え、強化学習と言われる人間(教師)が不要で、未知の領域であっても人工知能が調べた結果をフィードバックすることを通じて学習を進める手法、さらにはAlphaGoの能力を強化することに大きく寄与したと言われる、モンテカルロ法という、直接の評価が困難でも、ランダムな試行の反復結果をもとに、有望な行為を確率的に選択できる方法によって実現されているが、現段階ですでに、人工知能に対戦相手に勝利するという最終目的を与えておけば、教えられた以上のことを自ら学び、勝利のための新たな手段(手筋)を無限に開拓していけるようになっている。

 

このことが示唆する将来像は、実に恐るべきものだ。人間の経済活動に関わる、いわゆる『仕事』は、山本氏の言うように、囲碁ほど複雑だろうか。例えば、すでに株式トレーディングについては、株取引を完全自動化する『人工知能ヘッジファンド』が登場しているが*3世界最大級の投資銀行であるゴールドマン・サックスでも、ニューヨーク本社では2000年には600人のトレーダーが株式の売買を行っていたのが、2017年現在で本社に残っているトレーダーはわずか2人だという囲碁は対戦相手に勝利する、という最終目的があり、ゴールが明確に定まっていれば、人工知能の能力が人間を上回るということがわかった。株式トレーディング(もちろん、債権、商品、為替等何でも同じだ)では、同じく収益の極大化という最終ゴールがあれば、人間を上回るパーフォーマンスを発揮することを証明し始めているともいえる。ヘッジファンドのトレーダーと言えば、高給取りの代表格のようなもので、大変人気のある仕事だが、その分、高いパーフォーマンスを求められる難易度の高い仕事ではなかったのか。いわば、ビジネスの中で最も難易度が高い仕事の一つが人工知能に置き換わろうとしている、という言い方もできる。通常我々が取り組むホワイトカラーの仕事で、囲碁や株式トレーダーのレベルを超える難易度があるものがどれだけあるのだろうか。

 

もちろん、ビジネスといっても、例えば会社経営には、短期的な利益だけではなく、長期的な観点での視野や洞察力、ビジョン構築力が必要で、そこには政治的な配慮、地域との調整、従業員の心理状態の理解、企業の経済価値以外の存在価値の追求等、様々な要素が複雑に絡み合っているのであり、株式取引での利益極大化や、囲碁のような勝敗というような単純なゴールで必要な判断以上の判断要素がある、との声が聞こえて来そうだ。だが、本当にそうだろうか。

 

昨今のように、あらゆるデータを取得することが可能になってきており、さらにそれが強力に推進されている状況では、長期的な利益、投資の収益から、政治的への対処、従業員の心理状態にいたるまで、データを取り数値で測り、分析し、それをもとに合理的な判断が可能となると考えられるようになってきている。山本氏は、チェスに比べて将棋のコンピューターが人間のチャンピオンに勝てるようになるのに、20年の年月の差があったのは、将棋の方が局面の数が多かったからではなく、勝つために将棋の何をどのように計算すれば良いかわからなかっからだという。勝利条件を数式に置き換えることができなければ、従来のコンピューターでは、勝利することはできない(逆に、それができればすぐに人間には負けなくなる)。まして、囲碁など、皆目見当もつかなかったという。

 

ところが、上記で述べたような機械学習+強化学習+モンテカルロ法の組み合わせで、最新の人工知能は、将棋でも囲碁でもこれを乗り越えた。だからこそ、人間に勝利するまでに成長し、さらに人間にはもはや理解できない成長を続けている。現段階で、ビジネスには、人間が数式やフォーミュラに置き換えることができるものとできないものがある。できたものは、すぐにコンピューターのほうが人間を上回ることができる。だが、これからの人工知能は、人間がそのプロセスを理解することのできない何らかの方法で(山本氏の言う黒魔術により)、ビジネス上のあらゆる解決策を見つけていくと考えられる。

 

 

◾️ インパルス・ソサイエティ

 

しかも、最近の米国企業を見ていると、ステークホルダーは株主に一元化され、短期収益中心主義がますますエスカレートし、そのために、経営者が従業員の雇用に配慮することはなくなり、政治的な障害はロビーイングにより取り除き(有利な方向に誘導し)、市場のあらゆるデータを取得し、それ合算することにより、さらに一層分析を精緻に行い、その結果を市場予測、製品/サービス開発から、広告宣伝等に利用するのみならず、選挙の結果にまで影響を及ぼそうとする。しかも、人工知能のようなテクノロジーが現れ、進化する度に、そのような方向に最大限利用されるようになってきている。人間の経済社会のほうが、特化型人工知能を最大限生かす方向に歪曲化されてきているとさえ思えてしまう状況が確かに起きてきている。

 

米国のジャーナリスト、ポール・ロバーツ氏は近著『「衝動」に支配される世界---我慢しない消費者が社会を食いつくす*4で、米国では社会全体が効率的市場の価値観に支配され、自己の欲求を満たすためであれば、社会的な責任も他者への配慮も生態系への負担も一切無視した、モラルの欠片もない社会が出来上がってしまったと嘆く。脳の辺縁系、爬虫類脳に対する刺激で人間の行動は制御されてしまい、欲しいもの、短期的な利益にユーザーは誘導され、ユーザー自身それを求める(求めさせられる)。だれもが、短期的な利益、欲しいものに突き動かされ、その他の社会に重要な価値(自己犠牲、献身等)が忘れられてしまった。これをロバーツは『インパルス・ソサイエティ』呼ぶ。昨年のトランプ大統領誕生を契機に米国の現状についての情報が大量に流れ込んでくるようになったが、同様の状況報告は一人ポール・ロバーツだけではなく、多方面から入ってくるようになった。そして、人工知能はこのタイプの社会に非常に相性が良く(短期的な利益は最も計算フォーミュラに落とし込み易い)、だとすれば、その社会の問題の解決方法は人工知能のほうが良く知っていて、人間が下位に置かれるような悪夢が本当に実現する方向に向かっている、ということにならないだろうか


アレクサンドル・コジューヴは戦後の米国で台頭してきた消費者の姿を『動物』と呼んで批判したが、今のままでは、米国の行き着く先は動物どころか、まさに映画マトリックスで表現されたような、即物的な欲望の達成のみを求めて眠りこける(あるいは夢遊病者のように彷徨う)自動機械のようになってしまいかねない。マトリックスでは、人間は機械のエネルギーとしてしか存在価値がなかったが、このままでは米国も同じような状態になってしまうのではないか。

 

 

◾️ 岐路いる人類

 

山本氏は、人工知能は、いかに人間の理解できない学習を重ねていくことになろうと、人間の情報を元に学習する存在であることはかわりはなく、人工知能に高い倫理観を期待したいのであれば、人間の側がそのような存在であることが必要と述べている。だが、今は人工知能が劣化した倫理観を持つことを恐れる以上に、人間が知性(あるいは、人間性)を眠らせようとしていることこそ、恐れるべきではないのか。ここに問題があると認識すれば、解決策はある。だが、問題を見ずに知性を眠らせてしまえば、解決に至る道は開けない。そういう意味では、人間(というより人類)は今、非常に重要な岐路にいるのではないかと思えてならない。

 

欲望の自動機械になったほうが、人類にとっては幸福なのでは、というシニカルな見解を持つ人も決して少なくないが、人間の奥深い真の満足感、きらめくような感動、友愛を通じて持つことができる深い信頼関係、狭い自分の枠を突破して広がる自由の素晴らしさ等は、脳の辺縁系、爬虫類脳の部分をフルに刺激できても、経済合理性が究極まで達成されたとしても、それだけで得ることができるわけではない。人間は本来それ以上の高い価値を求めていくことができる可能性を秘めていると信じたい。

 

葬儀やお墓が消失してもなくならないもの

 

 ■「死」に対する意識

 

私たちの年代になると、友人の両親がちょうど亡くなるタイミングに当たっていることもあり、年末になると年賀状の代わりに喪中ハガキが沢山届くことになる。年途中の今頃でもそのような連絡をしょっちゅう貰っている印象がある。それをきっかけにして、最近死亡した著名人一覧を見ると、一時代をつくった数多くの著名人のうち、自分にも記憶が鮮明で、中にはすごく思い入れのある人達が沢山亡くなっていて唖然としてしまう。もちろん、キューバの独裁者フィデル・カストロのように世界的な著名人であれ、90歳の高齢であれば、天寿を全うしたという納得感のようなものを感じるが、「エビ中」の松野莉奈のように18歳にして逝ってしまう人もいることを思うと、無常というしかなく、普段はあまり考えない『死』についてしばし考えてしまう。

 

但し、さすがに今では、学生時代の頃に感じた自分の死についての実存的な不安感は無くなっていて、従容として受け入れようというような諦念が定まってきた気がするが(意外に、私の友人にもそういう思いでいる者が多いが)、悩ましいのは両親や親族のお墓をどうするのか、という問題だ。自分自身については、昔から、葬儀もお墓も不要とずっと思ってきたし、できるだけ残された人たちに迷惑をかけたくない、という一点しか気にならないが、自分の両親や親族についてはそうはいかない。私の場合も地方から東京に出てきて、普段はあまり意識することはないのだが、いざとなると本当に時間もお金もかかることを思い知って、正直あまり考えたくない問題だったりする。

  

 

■ 寺院消滅

 

だが、そのように感じるのは私だけではないようだ。『日経ビジネス』の記者にして僧侶でもある鵜飼秀徳氏の『寺院消滅』*1という本を読むと、都会で働くビジネスパーソンにとって、お寺やお墓は遠い存在になりつつあり、お寺との付き合いは『面倒』で『お金がかかる』ばかりと考え、できれば『自分の代からは、もうお寺とは付き合いたくない』と思い始めているという。そして、葬儀は無宗教で行い、お墓もいらない、散骨で十分と言っているという。そんな不謹慎なことを考えているのは自分だけかと思いきや、最近は誰でもそうなのだという。それでも、その一方で、まさに私だけではなく、多くのビジネスパーソンも、地方に残る親戚縁者の顔を思い浮かべると、中々簡単には割り切れない、複雑な思いがあるようだ。そんなところも、自分の実感に物凄く近い。

 

もちろん、今後少子化の影響が色濃く出てきて、特に地方では、お墓もどころか、人間もどんどんいなくなっていくことは避け難い。そして人がいなくなれば相応にお寺もなくなっていく。『寺院消滅』でも、今後25年の間に現在日本に存在する約7万7千の寺院のうちの約4割が消滅すると予測している。仮に寺院の維持のために、一人当たりの負担額が増えていくようだと、お寺との縁切りを本気で決断する人が今の想定以上に激増することになるだろう。そもそもまだ死んでいない高齢者の年金も負担できなくなりそうなのに、どうして死者への負担を増やすことができるだろうか。

 

 

無縁社会

 

2010年にNHKにより製作されたテレビ番組で使われた『無縁社会』という造語は、荒涼とした語感ながら思い当たる人が沢山いたと見えて、その後長く使い続けられるようになった。少子化もそうだし、高齢化、生涯未婚率の増加等の影響もあいまって、地縁血縁社会が維持できなくなり、それに加えて、戦後、地縁血縁コミュニティに代るコミュニティとしてそれなりに活性化していた企業コミュニティも終身雇用制度の崩壊、海外進出等の影響により衰退の一途だ。その結果、今の日本社会は、単身者が増え、しかもその単身者が孤立しやすい社会になってきている。これを悲観的な感情を煽る言葉に乗せて語ったものだから、非常に大きな反響を呼んだ。感情は別としても、冷静に現状を分析すればするほど、葬儀もお墓も今後とも簡素(あるいは消失?)な方向に向かうと考えざるをえない。

 

実際、特に関東では、葬儀は急速に簡素になってきている。月刊誌『仏事』を出版する鎌倉新書(東京都中央区)が全国の葬儀社217社を対象に平成26年に実施した調査によると、参列者31人以上の『一般的葬儀』は全体の42%。30人以下の『家族葬』が32%。『1日葬』が9%、『直葬』が16%だった。都市部の葬儀社のなかには『家族葬が5割を超えている』との声も多くあるという。

www.sankei.com

 

 

普段はほとんど意識しなくなっているから、実感はなくなっているが、いわゆる檀家制度(寺院が檀家の葬祭供養を独占的に執り行なうことを条件に結ばれた寺と檀家の関係)は少なくとも地方ではまだ生き残っていると考えられるため(しがらみをなかなか振り払えない)、都市部と比較すれば、まだ地方では、『一般的葬儀』が多いと思うが、その地方こそこれからは檀家制度の維持が難しくなっていく(それが『寺院消滅』のメインテーマでもある)から、地方でも葬儀の簡素化は避けられないだろう。

 

 

■ 葬儀は日本人のアイデンティティを顕す?

 

だが、それでも、今の日本人にとって、葬儀は数少ない、親族の存在を意識しその絆を確認しあうことのできる機会であることは確かだ。親戚の葬儀に行くと、自分にとっての親族がどういう人達なのか確認しあうことができる。意外なことに、それまでほとんど意識することはなかったはずなのに、ある種の親しみや、親近感を意識の奥底から引き出すきっかけとなったりする。そして、自分にも、そんな感情が残っていたことに驚くことになる。だが、その無意識にある感情こそ、日本の風土への親しみであったり、愛着であったり、普段は隠れているが、いざとなると表に出てくる感情の塊の一端なのだろう。それは一種の宗教感情とも言える。それがなくなっていくことの影響は、これからの日本社会にとってどのようなものになるのだろう。少なくとも私にとっては、あまり簡単に切り捨ててしまってよいものとは思えない。

 

日本の葬儀を(私の知る限りだが)見ていると、世界に例の少ない、非常にユニークな形式であり、それは、今の日本人が意識しているかどうかは別として、その背後にある特定の『意味』を象徴しており、日本人が非常にユニークなアイデンティティを共有していることを見て取ることができる。そもそも日本の葬儀は、大半は仏式で行われるが、仏陀が起こしたオリジナルの仏教とはほぼ無関係であることは意外に知られていない。何より、日本人は遺骨や位牌を死者そのものといってもいいくらいに大事にし、執着するが、オリジナル仏教では、死者と遺骨とは死ねば何も関係がない。だから、散骨が基本で原則お墓もない。必要がないからだ。もちろん位牌などもない。また、お盆のような先祖をお迎えする行事も仏陀自身がここにおられたら、自分の宗旨が伝わっていないことを知って、さぞ嘆かれることだろう。そもそも、人間は生まれ変わりたくもないのに何度も生まれ変わって来ていて、それは非常な苦しみであり(六道輪廻)、そこから離脱して二度と生まれ変わる必要がない道を説いたのが仏陀だ。だから、死者が悟っていれば、もう生まれ変わってくることもなく、輪廻の途上なら、どこかに生まれ変わっているのであり、いずれにしてもお盆に子孫に呼ばれて帰って来ることはできない。

 

日本の葬式およびその関連の風習は、大半は、儒教の元になった東アジアのシャーマニズムを起源としており、お骨や位牌を大事にして、先祖を奉ってしばし子孫の元に帰って来てもらうというような風習は皆、儒教の風習だ。仏教が中国に伝わった際に、儒教が混ざって、それが日本に伝わったという説もある。(このあたりの事情については、加地伸行氏の著書『儒教とは何か』*2に詳しい。)日本の葬式に出席したり、仏事に参加したりすると、先祖を思い起こさせられたり、親族(一族)の結束のことを意識してしまうのは、実は儒教の持つ思想の影響を受けた儀式だからということもありそうだ。葬式は、このような親族の結束を確認しあう場であるだけではなく、おそらく、それを敷衍することで日本人全体の結束、あるいはアイデンティティを確認しあう場となって来たと考えられる。このような意識は簡単に消えてしまうものなのだろうか。

 

 

■ 消えない宗教心

 

単身者の激増、特に、男性より平均寿命の長い女性の単身比率の激増という現実(および将来)をポジティブに受け入れて、いかに充実して過ごすか、という観点で書かれ、注目された著書がある。社会学者の上野千鶴子氏による『おひとりさまの老後』*3だ。そこには、葬儀のことも書かれており、簡素な『家族葬』ないし、場合によっては『直葬』を受け入れるべきことが書かれてあり、宗教心などまったく関心の外という感じで、ある意味、非常にさっぱりしている。だが、興味深いことに、彼女自身のお骨は、京都の大文字焼きの大の字を『犬』にする『、』の部分に埋めて欲しいのだという。そうすれば、『死後もずっと大好きな大文字焼きをそばで見続けることができるから』だという。これなどまさに、日本人の多くが共通して持っている、『お骨へのこだわり』そのものと言えるし、死後は、『草葉の陰』から見守るという、儒教的な死後の観念と言える。それは、仏教徒の死後でも、キリスト教徒の死後でもない。すなわち、いかに葬儀に関心がないとしても、背後にある宗教心は消えていないということだ。これは、おそらく、大半の日本人に共通するところではないだろうか。

 

また、さらに詳細に日本の葬儀を見るてみると、儒教とも仏教とも無関係の要素も混在していることがわかる。例えば、葬儀に出席すると清めの塩をもらうが、これは日本古来の宗教意識に基づく風習なのだそうだ。すなわち、日本人の葬儀を通じた宗教意識を腑分けすると、メインは儒教(というより東アジア的シャーマニズム)、そして、仏教的要素および神道的要素(というより日本古来の宗教心)が混在していることがわかる。だから、もしかすると、儒教的要素が社会的な条件により維持できなくなったとしても、それをきっかけにもっと日本人の元型に近い宗教意識が引き出されてくるかもしれない。

 

日本人は、やむない状況におかれて、葬儀等の儀礼を簡素化せざるをえなくなっている。だが、だからといって、両親のお骨や位牌を粗末にできるだろうか。できないとすると、やはりそれらに宗教心といっていい心性を残しているということではないのか。研究者の竹倉史人氏の著書『輪廻転生 <私>をつなぐ生まれ変わりの物語』*4によれば、現代の日本人の40%超が『輪廻転生』や『前世の記憶』を信じているという。葬儀は簡素化しても、日本人の宗教心は、形を変えながらかもしれないが、依然、消えることなく残っていると考えるべきではないのか。

 

 

■ 危惧される心の深い部分へのダメージ

 

このあたりの事情を無視して、経済性だけで、宗教儀礼や宗教心をあまりに安易に扱うことは、日本人の心の深い部分に決定的なダメージを与えてしまうことにはならないだろうか。場合によっては民族としてのアイデンティティも維持できず、いわゆるアノミー(社会の規範が弛緩・崩壊することなどによる、無規範状態や無規則状態)に陥る懸念はないのか。もちろんそれは現在の寺院を経済的に補助すれば済むような単純な問題ではないし、既存の宗教にできることは少なくなっているかもしれない。だが、考えなくなってしまうのと、問題ありと意識していることは無限と言っていいほど大きな違いがある。誰かの死というのは、本来厳粛であるべき瞬間だ。せめてそのような機会に、以上のような思考を深めてみることは決して無駄にはならないはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:

寺院消滅

寺院消滅

 

*2:

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

 

 

*3:

おひとりさまの老後 (文春文庫)

おひとりさまの老後 (文春文庫)

 

 

*4:

 

東浩紀氏の新著『ゲンロン0』の私なりの読み方

 

◾️ 経済人の立場

 

思想家/ 批評家の東浩紀氏の新刊、『ゲンロン0*1については、発売からおよそ一ヶ月が経過していくつか書評も出てきているが、予想通り総じて評価が高い。私も遅れじと書評を書こうと思っていたのだが、自分の書こうとしている文章に自分で納得できず、ついリリースを躊躇してしまっていた。

 

ただ、自分の感じたことを他者も同じように感じるのか、あるいは、全く反対されてしまうのか、確かめてみたい誘惑にかられてしまう。よって、全体の書評というのではなく、ポイントを絞って、私の思うところを少しずつ書いていこうと考えるに至った。取り敢えずその第一弾として(第二弾がいつになるかはわからないが)、リリースしておきたい。今回は、本書をビジネスマン、経済人の立場で読むとどういう感想が出てくるのか、という観点で書いたことをまず最初に述べておきたい。

 

 

◾️ 二層構造

 

東氏は環境認識として、今の世界は、かつてのような右翼/左翼の対立図式には収まらなくなってきており、あるのは、『グローバリズムリバタリアニズム』と『ナショナリズムコミュニタリアニズム』の二層構造で、リバタリアンには動物の快楽しかなく、一方、コミュニタリアンには共同体の善しかないため、このままでは妥協点は見いだせず、もちろん普遍的な他者も現れず、思想的にも解決の糸口が見いだせない、とする。

 

これは、実際ビジネスの現場を見ていても痛感することで、この二つを統合する活動ができればビジネスとしても理想的なはずなのだが、現状では如何ともしがたい。グローバルビジネスは、もちろんずっと以前から行われていたわけだが、かつては企業のグローバルな活動と国家との関係が一体化して分離していなかった。そのような幸福な時代は確かにあった。特に製造業の場合、国内で生産したものを海外にも輸出していた時代には、海外への輸出=国内生産の増大=雇用の増大/賃金の上昇、だったからだ。

 

だが、資本が自由に移動するようになり、金融の自由化が進み始めると、そうはいかなくなった。国内の労働コストが上昇すれば、当然コストが安い国に進出したり、そういう国にある会社のとの取引を増やすのはビジネスとしては当然だし、そうしなければ、株主等のステークホルダーから厳しく問い詰められることになる。だが、それは国内の空洞化を招くことになるから、国内の従業員や地域との関係はギクシャクせざるをえない。旧来の製造業にしてそうだから、初めから無国籍性の高いIT企業など、雇用どころか国家に収めるべき税金もタックスヘイブン等を利用して可能な限りセーブする。これも評判は悪くても、合法の範囲内であれば、合理的な企業行動の範疇と言うしかない。

 

 

◾️ 動物化する経済人

 

戦後の日本企業は、まさに『エコノミックアニマル』という蔑称を頂戴したが如く、必ずしも評判が芳しいとは言えない面もあった。本書でも指摘されているように、シュミット*2もコジューヴ*3アーレント*4も皆一致して(すなわち近代西洋思想の頂上にいるヘーゲル的成熟をベースとする限りは)、グローバリズムの到来を『人間ではないもの』の到来と位置付けており、経済の拡大は人間の消滅につながると考えていた。では、このような指摘を経済人がまったく意に介していなかったのかと言えば、少なくとも私の知る限り事はそれほど単純ではなく、『人間ではないこと』の居心地の悪さを十二分に感じ、その矛盾の解決のために一身を持って格闘し、思想として昇華しようとした経済人が少なからずいたことを私たちは知っている。

 

かつては日本にも、松下幸之助、あるいは本田宗一郎のように、企業活動は国家を支え、雇用や安価で豊富な商品の提供を通じて社会にも貢献すると高らかに宣言して、実際その通りになる、という幸福な時代があった。そのような経済人は国家にとっても尊敬に値する人物であり、経済学は国民を豊かにする学問と考えられていた。その高度な統合を目指してこそ、一流の名に値する経済人との認識もあったと思う。株主以外のステークホルダーにもバランスよく目を配り、海外進出した場合でも、進出先の現地社会との折り合いをつけることに腐心し、信頼や尊敬を勝ち得た傑出した経営者を少なからず日本も持つことができた。

 

米国企業でも地元との信頼関係を勝ち得ることが市場でのブランド価値を上げることに直結していると信じられていたから、企業がかなりの持ち出しを覚悟の上で、地域コミュニティに貢献することを当然のこととして実行していた(ブランド価値向上のための投資、との認識を持ち得た)。ところが、昨今ではその米国企業を中心に、そのような活動に資金を配分するくらいなら、ロビーイングに精を出して、企業に有利な法律制定を目指せ、というような方向に株主の関心が向かっている。

 

明らかにこのままではまずいのだが、真面目に考えても答えがでないからと、今では開き直ってそのようなことは考えないようにしている経済人は多い。いわば、自ら『動物』となることで内心の矛盾を顕在化しないようにしているとさえ言える。いや、それでも、そのような自覚がある経済人/経営者はかなりレベルが高い『人間』というべきかもしれない。実際には、『経済人は収益向上に専心することこそ最大の社会貢献』と無邪気に(本気で)述べている経済人の方がマジョリティだろう。彼らには、日本企業が幸福でいることができた環境が激変して、引き裂かれるような環境に放り出されていることの自覚がないし、その意味でまさに『動物化』している。環境さえ良ければ、『収益が一番』を唱えていれば良かったのだろうが、環境が激変した今でも同じようなお題目を(思考停止して)唱えている様は、まさに『動物』であり『自動機械』に見えてしまう。

 

だが、今でも少なからず存在する、『人間』であることをやめない(やめたくない)経済人は何を究極の目的として、活動していけばいいのか。もちろん、経済人/企業人であるからには、利益の極大化が一方の目標であることを否定するものではないが、 それだけしか目標として示せないとすれば、貧しさの中から立ち上がってきた、後続の新興国企業のエネルギーに長く抗することは難しいと言わざるをえない人はパンだけを求めて生きているのではない。東氏が取り組むような、21世紀の現実の中で心身を引き裂くグローバリズムナショナリズムの相克を乗り越える思想を構築していくことは、実のところ(気づいているかどうかは別として)、経済人/企業人にとってこそ危急の課題となっている。

 

 

◾️ 企業コミュニティに代わるもの

 

さらに言えば、特に日本企業にとって非常に深刻な問題は、グローバリズムを推進すればするほど、企業内コミュニティが維持できなくなる点だ。特に日本の場合、地域コミュニティが崩壊して、西洋のような宗教コミュニティも一般的ではないため、特に戦後はそれを肩代わりする擬似コミュニティとしての企業コミュニティの役割は非常に大きいものがあった。だがそれが衰微するにつれ、グローバリズムに反対するナショナリズム/コミュニタリアリズムがこの日本でも大きな勢力として浮上することになった。困ったことに、今では企業として成功を目指すその方向には、旧来のコミュニティを温存できる余地は少ない。これに代わる『地球市民』という類のコミュニティを夢想する取り組みは、まさに東氏が指摘するように、思想家のネグリとハートが共著『帝国』で提示した『マルチチュード*5のような概念の中に新秩序を見出す方向に逢着することが多い。特にインターネットで世界中を接続することができる現代では、それによって動員し繋がることができれば、ネットの力で理想的な自己組織化が起きてくるという類の、ロマン主義的な自己満足を語る論者が大量に出現することになった。だが、それがあまりに都合の良い『空想』であることは、時間の経過とともに明らかになりつつある。下手をすると、動員された人々があっという間に衆愚化して、辺境なナショナリストや、逆に夢想的な左派の、筋の悪いコミュニティの中に取り込まれてしまいかねない。昨今ではそれゆえにネットコミュニティを忌避する人も増えてきている印象さえある。

 

では、そうではない第三の道を選択したい人(東氏の言う『観光客』)は、何を拠り所にして生きればいいのか。東氏は、『家族の概念を再構築、あるいは脱構築して、観光客の新たな連帯を表現する概念に鍛え上げられないか』と考えている、という。ただ、自身述べている通り、この『家族』という概念は昨今では、非常に誤解を招きやすいため、このままでは使えない。だが、消去法で絞り込んでいくと、家族(あるいはその変種である部族やイエなど)くらいしか残らないと嘆く。その絞り込みの過程は、私には非常に重要な前提条件を可視化しているように見えるので、ここに引用しておく。

 

まず、階級は使えない。それは共産主義の理論とあまりに深く結びついており、そしてその理論は歴史的使命を終えているからである。土地も使えない。だれもがネットワークを介して全世界とつながることができるいま、主体の拠りどころを特定の地理的な領域に求めることには無理がある。血や遺伝子も使えない。それは人種主義への道だ。ジェンダーは粗すぎる。それは人間を数種類にしか区別しない。思想信条に基づく結社や趣味の共同体は、そもそもアイデンティティの核にならない。それらへの所属は自由意志で変更可能だからだ。自由意志に基づいた連帯は自由意志に基づきたやすく解消される。それがマルチチュードの弱点である。このように考えていくと、個人でも国家でもなく、自由意志で変更が可能ではなく、そして政治的連帯に使えそうな拡張性を備えた概念としては、もはや家族(あるいはその変種である部族やイエなど)ぐらいしか残らないのだ。  

『ゲンロン0』P210より

 

 

◾️ 候補としての家族

 

東氏は、まだ家族の哲学について十分に考えがまとまっていないとしながら、その『概念を脱構築、あるいは高次元での回復』された『家族』について、留意すべき三つの論点をあげている。

 

1. 強制性

家族は自由意志ではそう簡単には入退出ができない集団であり、同時に強い『感情』に支えられる集団でもあり、合理的な判断を超えた強制力がある。

 

2. 偶然性

すべての家族は偶然の産物で、本当の意味で選ぶことができない。

 

3. 拡張性

日本の『イエ』など血縁より経済的な共同性を中心として、養子縁組によって柔軟に拡張が可能な組織だった。家族の輪郭は、性と生殖だけではなく、集団と財産だけでもなく、私的な情愛によって決まることもある。時に種の壁すら超えてしまう(犬や猫も家族になりうる)。

 

今回私が述べてきた文脈で言えば、日本企業は自らをしばし『家族』に例え、経済的共同性を超えた連帯性と強制性を併せ持ち、『イエ』的な秩序と情愛による凝集力を持つ独自の集団とし、さらには永遠性を成員に感じさせる、いわば共同幻想の主体となっていた。そういう意味では、東氏の言う三つの要素がすべて盛り込まれ、機能していたとも言える。

 

だが、かつての経済環境において最適であり最強と言えた、日本の『企業一家』は、もはやそのまま維持することは難しくなりつつある。だが、それに対する郷愁もあってか、現政権は、家族回帰を志向し、あまつさえ、それを元に憲法の修正にまで手をつけようとしている。個人的には、この現政権の提示する思想には素直に共鳴することは難しいが、動機の源泉について理解することはできる。少なくとも、アイデンティティの拠り所を再構築することの重要性の認識は共有しているとも言える。

 

ただ、この『家族の哲学』の形成は非常に厄介で骨の折れる作業になりそうだ。そもそも合意形成が可能なのだろうか。というのも、前提に、論理を超えた、感情(情愛、憐れみ等)があり、人間が合理的に辿りつくことができない偶然性(人間を超えた存在の領域)がある等、論理的思考を超える概念が中核にある『家族』を論理や哲学で語り、合意を得ることは大変な難事業に思える。場合によっては一種の宗教的信念のぶつかり合いになるのではないか。安易に良いところ取りをすることも難しいように思える。

 

だが、21世紀の経済人として生き、競争に伍していくるためには、仮説であっても、アイデンティティの問題を内的に処理できる哲学を持つことは必須のように思える。現行の企業経営者にとっては、早急に、従来の企業コミュニティに代わる『企業家族』を見つけていくことが課題と感じたかもしれないが、今の日本にとっては、それほど単純な問題ではないように見える。むしろ、一旦は旧来の企業組織を解体して、個人や新『家族』をベースに再構築するくらいの徹底した再編が不可欠なところに追い込まれているというべきではないのか。

 

現段階では、古い東アジア共同体の原型をとどめている中国の家族制度のほうが、上記でいう所の『家族』としての機能が生き残っているように見える。そういう意味でも21世紀は日本より中国の勢いが良くなりそうに思えるし(すでにそうなっている)、それでも日本企業のプレゼンスをあげたければ、中国の家族制度にはない日本の家族制度の優位性としての柔軟性(中国では血縁を日本のように養子等で代替することは原則できない)を効果的に生かして、日本らしい『家族』を再構築してアイデンティティの拠り所を確立することは、何にも増して緊急課題であるように思える。だから、東氏には是非、この家族の哲学の洗練にも早急に着手して欲しいと、『ゲンロン0』を読み終わった時に何よりまず最初に感じた。

 

東氏の立場で言えば、本書を日本経済や企業の再生のために読むというのは、おそらく誤読であり、誤配に満ちているということになるだろう。だが、そのような誤読も誤配も、有益に思えるのが本書のもう一つの懐の深さだと思う。経営を思想として最後まで追求していた、ピーター・ドラッカーや、マーケティングを社会の良い意味での再構築の手段に昇華させようとしている、マーケティング界のカリスマ、フィリップ・コトラーに、本書を読ませて感想を聞いてみたいと本気で思うし、その領域を自分の次のライフワークにできないものか、夢想を掻き立ててくれる。但し、これは、すでに誤読を超えて、個人的な幻想の世界なのかもしれない。

注目すべきフランス大統領選挙/テクノロジーが導く民主主義の崩壊?

 

 

◾️ 米国大統領選に似るフランス大統領選

 

決選投票が気になるフランス大統領選挙だが、何といっても焦点は、極右政党である国民戦線の党首、マリーヌ・ル・ペン氏の動向だろう。今のところ世論調査では、独立候補のエマニュエル・マクロン氏が優位でありその勝利は揺るがないと予想されている。だが、本当にそうなるのだろうか。私たちは、昨年2度も衝撃的な『ありえない』結果を見せられてきた。いうまでもなく、Brexit(英国のEU離脱)および米国の大統領選である。かつてのトランプ候補同様、ル・ペン氏も泡沫候補に過ぎなかったはずなのに、4月23日に実施された大統領選挙の第一回投票では堂々の2位だ。

 

その第一回投票は、すでにフランスにとって歴史的といえる結果となった。決戦投票に進んだマクロン氏もル・ペン氏も、いずれも既成政党の出身ではなく、これはフランス史上初めてのことなのだという。思えば、米国の大統領選挙で見せつけられたのも既存の伝統的な政党(共和党民主党)の崩壊だ。特にトランプ氏を最終的に大統領候補に選ばざるをえなかった共和党に至っては、実質的に党の体をなしていなかった。民主党でも、『共産主義者』とまで疑われたサンダース候補の躍進ぶりは凄まじく、最後の最後まで善戦してヒラリー・クリントン候補を脅かした。トランプ候補、サンダース候補共に、党こそ違えど、既存のエスタブリッシュメントによる『ワシントン政治』に反旗を翻し、それが多数の有権者の支持につながったわけだが、今のフランスも前回の大統領選挙当時の米国と非常に似通った構図になっている。ル・ペン氏がトランプ候補のフランス版なら、共産主義者に支持され、若年層の有権者の間で人気があるというジャン=リュック・メランション氏は、サンダース候補にそっくりだ。第一回投票では20%近くの票を獲得し、決選投票にも残りかねない勢いだった。

 

決戦投票に残った、元銀行家のマクロン候補は親EUで、主要政党、大物政治家の支持を受けており、ワシントンやウオールストリートから支持されていたクリントン候補にダブって見えるし、ル・ペン候補が地方の農村部やラストベルト(錆びついた工業地帯)の支持を得ていることも、トランプ候補に重なって見える。決選投票を前にして、優勢を伝えられるマクロン候補だが、こうなると、同じく選挙前には優勢を伝えられていたクリントン候補のように見えてしまうのは、少々穿ち過ぎだろうか。確かに、米国大統領選挙は集計の手法が異なる州ごとの集計であり、総得票数で300万票近く上回っていたクリントン氏が敗北してしまうような特殊な仕組みである点はフランスとは異なる。

 

だが、何より、政治的な対立構図の背景にあるフランスの国民感情に目を向ければ、米国同様、ポピュリズムが国を覆っており、有権者は論理より『感情』によって動かされやすい状態にある。火をつければあっという間に燃え広がりかねない危うい心理状態にあると見られる。

 

 

◾️ フェイクニュースとビッグデータ分析

 

米国で、トランプ大統領誕生に預かって大きく貢献したのが、大量に投下されたフェイクニュースとビッグデータ分析だ。フェイクニュースについては、一つには親ロシア政権誕生を目論むロシアの戦略的な仕掛けが話題となったが、今回のフランス大統領選挙でも、すでにロシア発の大量のフェイクニュースが投下されているようだ。

 

一方で、ビッグデータ分析のほうだが、トランプ氏の背後で暗躍したケンブリッジ・アナリティカというコンサルティング企業が大番狂わせに大きく貢献したとされ、しかも、英国のEU離脱国民投票の際にも、EU離脱派が同社のデータ分析を活用していたことが明らかになっている。そして、すでにフランス大統領選挙でも背後で活動していると伝えられる。

 

米国大統領選挙におけるフェイクニュースの発信についても、ケンブリッジ・アナリティカの関与があった可能性は高いという。というのも、ケンブリッジ・アナリティカの大株主は、著名ヘッジファンドルネッサンス・テクノロジーズで財を成した米国の大富豪、ロバート・マーサー氏であり、そのマーサー氏はトランプ大統領の側近、オルタナ右翼のオンラインメディア『ブライトバート・ニュース』で責任者を務めた、スティーブ・バノン氏のパトロンである。『ブライトバート・ニュース』はフェイクニュース発信で非難されたことはご存知の通りだが、トランプ選対に入る前のバノン氏はケンブリッジ・アナリティカの取締役だったというから、一蓮托生を疑いたくなるところだ。

 

ケンブリッジ・アナリティカについては、『兵器化されたAI宣伝マシーン』と高く評価される一方で、『証拠に乏しいまやかし』と非難する向きもある。だが、現在のようにSNS等で大量分析データを入手できれば、かなりの程度、選挙民の分析や、操作が可能であることについては、マーケティング等でユーザー・市場分析に関わった経験のある者にとっては常識の範疇といえる。同社は米国成人2億2000万人のデータベースを所有し、それぞれに対して4,000から5,000にもおよぶデータ要素を習得しているという。そして、データベースを他社の大量のデータとつないで、個々人のプロファイルをより鮮明に浮かび上がらせる。データが大量にあって、分析のためのCPU能力が幾何級数的に向上を続ける現代のデータ分析が可能にする範囲は、おそらく一般人が想像出来るレベルをはるかに上回っていることは確かだ。

 

心理学者のダニエル・カーネマンが2002年にノーベル経済学賞を受賞して以来、非常に注目を浴びるようになった『行動経済学』から派生する幾つかの成果など、昨今ではかなり広範に受け入れられるようになってきている。

(例えば、マーケティングでもすでに実践に取り入れられている、行動心理学の手法については、次のサイトを参考にして欲しいが、もしご存知なければこの機会に熟読してみることをおすすめする。http://liskul.com/wm_bpsychology28-3342  )

 

特に、昨今のように、個人のプロファイルが詳細に特定され、操作する流路があり*1、しかも操作される側が、『理性』や『論理』ではなく、『感情』に動かされやすくなっていれば、その効果は通常に倍加して効果的に機能すると考えられる。(経済は『感情』で動いている、というのが行動経済学のテーゼでもある。)

 

もちろん、昨今、このような手法を駆使するのは、ケンブリッジ・アナリティカに限られない。米国の社会心理学者、ジョナサン・ハイト氏オバマ前大統領の大統領選当時の指名受諾演説や就任演説にこそ『感情の動員』のオーソドックスな手法が見られ、大衆には“感情の押しボタン”が5つあり、従来、共和党は5つのボタン全てを押すのに対し、民主党は3つしか押さなかったが、民主党候補のオバマは5つのボタンを全て押した結果、大統領に当選できたという。トランプ大統領側ばかりが注目されるが、クリントン候補の側も、同様のコンサルティング会社を起用していたことは知られている。

 

 

◾️ 近代民主主義の崩壊?

 

トランプ大統領誕生の理由のすべてがビッグデータ分析、というわけではあるまい。今回のフランス大統領選挙も、ル・ペン氏は勝てないかもしれない。だが、世界中にこのような構図が見られるようになってきていること、それ自体をもっと真剣に問題にする必要がある。インターネットが浸透した社会では、『ビッグデータ分析→行動特性の把握→広告宣伝による購買行動の操作』という意味での、大衆操作はますます広がっている。購買行動とはいえ、いつの間にか自分が操作されていることに不快感を感じる人は少なくないと思うが、これが政治活動に浸透するとなると、問題の深度は格段に深くなる。『自立した個人による民主主義』という近代の前提自体が成立しなくなる恐れがある。今でもすでにそうなりつつあるわけだが、今後、技術進化に伴って加速度を上げて大きくなっていく『ビッグデータ人工知能(AI)』の影響力は想像を絶するものがある。さらに一層、心理操作の勝利者=政治の勝利者となりかねない。

 

そういう意味でも、今回のフランス大統領選挙は、あらためて、目を皿のようにして、動向を見守る必要がある。この後、6月にはフランスの国民議会選挙、9月にはドイツの連邦議会選挙、2018年にはイタリア総選挙が行われる。同様に、何が起きるのか自分自身の目で見極めていくべきだ。テクノロジーに駆動されたポピュリズムが勝つのか。それとも欧州の理性が歯止めとなるのか。しかも、問題の本質は実際にどちらの候補が大統領になるか、というところだけにあるのではない。民主主義の崩壊を目の当たりにせずに済むことを今は祈るばかりだ。

*1:例えばフェイスブックの『カスタム・オーディエンス』と呼ばれるツールを使えば、候補の支持者グループのリストに含まれたユーザーのみに広告を届けることができる。2012年の大統領選でロムニー氏やオバマ前大統領も利用している