電機メーカーが消えても日本人の創造のスピリットは死なない

 

■ 日本の電機産業の終焉?

 

東芝がいよいよ本当に倒産(法的整理)するかもしれない。2~3年前にこのように書いたら、釣り記事(釣りタイトル)と揶揄されて炎上したかもしれないが、もはやさほど違和感はないのではないか。実際、特に今年に入ってから、『東芝倒産』をタイトルに掲げた記事が激増した。もうそれは既定事実で、秒読みに入っていることも誰もが当然視していて、後はそれがいつ、どんなきっかけで起きるのかということに関心が移ってしまっているようにさえ思える。

 

 幾つかの記事を、比較して読み込んでみると、元日経新聞の記者である、ジャーナリストの大西康之氏の記事が情報量も多く、歴史的な経緯や構造をよくまとめてあって一番わかりやすい。さらに、その大西氏の近著『東芝解体 電機メーカーが消える日*1を併せて読むと、東芝の問題が一人東芝だけの問題ではなく、広く日本の電機産業全体の終焉の象徴、あるいは終わりの始まりであることが理解できる。

 

斯く言う私も、ゼロ年代以降は、IT・電機業界を、その端の方からとはいえ、内側から見ることができる立場にあり、この業界が一旦は世界の頂点に立ちながら、その頂点から転げ落ちる、凋落の有様を見せつけられることになった。2008年より描き始めたこのブログにも何度もその関連の記事を書いてきた。但し、私の場合、電機業界の中でもいわゆる『弱電』(電気の利用方法として、通信・制御・情報に関する分野)に関心の中心を置いてきたから、いわゆる『重電』(電気機械のうち特に大型のものを指す。発電施設や工業施設、商業施設などで用いられる設備等)については、あまり触れておらず、そういう意味では、業界全体の構造問題にまでは十分には分析が及んでいなかったことを認めざるを得ない。

 

 その点、大西氏の近著はその両方にまたがって電機メーカー全体(具体的には8社)を俯瞰しており、極端に言えば、この国の『電機産業衰亡史』として、あるいは『電機産業の失敗の本質』として読むことが可能だ。(歴史家のギボンの『ローマ帝国衰亡史』や経営学者の野中郁次郎氏らによる名著『失敗の本質』を念頭に置いていることは言うまでもない)。まさに、一種の文明史としても、日本の戦略論/組織論の構造分析としても読むことができる。

 

 

■ 勝利条件の変化

 

日本では、経済学者の野口悠紀雄氏が『1940年体制』と命名した、官民一体となった戦争遂行のための経済体制が、戦後も連続して生き残り、これが目標がはっきりした『追いつけ追い越せ』の高度成長時代には絶妙に機能した。そこでの電機業界の勝利条件は、効率良く、高品質で、国際競争に負けない技術力を背景とした製品を提供することに限定されていたため、どのメーカーも必死にこの目標を追求した結果、世界の頂点に立つまでに成長することができた。

 

 しかしながら、どの産業も成熟してきて、価値観が多様化し、しかも発展途上国からも多数の競合相手が参入してくるようになると、従来の競争軸だけに固執していては、市場の新たな勝利条件にうまく対処できなくなった。特に近年では、インターネット本格導入、アナログからデジタルへの移行等に伴い、勝利条件は劇的に変化してきている。ところが、日本の電機メーカーは、過去の成功体験にとらわれ、技術力や品質の高さを過信して、消費者視点を忘れ、新たな競争軸を理解して全力投入してくる新手の競争相手との競争に勝てなくなってしまった。このため、消費者を相手にする家電・弱電メーカーは先んじて苦境に陥り、凋落の一途をたどるようになる。

 

 ただ、その時点でもまだ重電の領域は一見踏ん張っているように見えた。だが、実はそうではなかった。東芝をはじめとする日本の大手電機メーカーは、国内の巨大な二つのファミリー、すなわち、NTTグループを中心とした『電電ファミリー』および東京電力を中心とした『電力ファミリー』からの設備投資等に関わる優先発注等の優遇(大西氏の言う、『ミルク』供給)を受けることによって支えられてきていた。しかしながら、新規参入により価格競争が本格化するようになると、NTTグループ、電力10社とも設備投資は、ピーク時の半額以下にまで落ち込み、リーマンショックによる消費不況が追い打ちをかけると、傘下の電機メーカーは壊滅的な打撃を受けることになる。加えて、電力ファミリーにとっては、致命的とも言える衝撃が襲う。2011年3月に起きた東京電力福島第一原子力発電所の事故だ。以降、国内での新規原発建設は絶望的となり、新たな販路を海外に求めざるをえなくなる。これがまさに今回の東芝の致命傷になろうとしている、米原子力企業のウエスチングハウス(WH)買収につながっていく。こうなってみると、ミルク補給を受けてきたことがかえって仇になってしまった。競争企業としての足腰(競争力)が明らかに弱ってしまっている。

 

環境が激変して経営環境がいかに厳しくなろうとも、根幹にある経営能力が健在なら、企業は生き延びることは可能だ。それは、本業での競争に負けて存亡の危機に瀕しながら、経営の妙で企業再生に成功して、再び世界的な競争力を持つにいたった海外のメーカー、『ノキア』や『フィリップス』等の事例を見ればわかる。だが、ミルクに甘えて競争力、経営力を弱体化させてしまった日本の電気メーカーには、残念ながらそのような余力や反発力が残っているようには思えない。

 

大西氏による、電機メーカー8社の評価で言えば、自力で経営の構造改革を成し遂げ、今後とも生きながらえる可能性が見えてきているのは、三菱電機と最近のソニーという見立てだが、個人的な感想を言えば、まだソニーの復活には疑問符をつけざるをえない。三菱電機とて、現段階まで乗り切ってきたことは評価できるが、さらに新しい時代の競争に備えた準備ができてきているかどうか、という点になると評価は難しいところだ。いずれにしても、現状の日本の電気業界は、大西氏の近著のタイトルである、『電機メーカーが消える日』を『日本の電機メーカーがすべて消える日』と読み替えてもさほど大袈裟とはいえない段階にまで来ている。

 

大西氏は、日本の電機メーカーが消えても、そこで切磋琢磨した優秀な人材が完全に死に絶えたわけではなく、むしろ新たな環境で新たな挑戦を始めている例があることに最後に言及しつつ、日本復活の希望を託している。確かに、日本は国家として戦争に負けて東京は焼け野原になったが、若々しく進取の気性に富む若者がいなくなってしまったわけではなかった。むしろ彼らは、過去の柵が崩壊して、ゼロから始まる自由を謳歌しつつのびのびと活動することができた。それは後に、世界に名だたるソニーやホンダのような企業として結実することになる。人材さえ死なずに生き残っているのなら、中途半端に組織が生き延びるより、徹底して負けた(潰した)ほうが再生し易いということかもしれない。

 

 

■ 復活のための留意点

 

ただ、再生について言えば、今の日本には若干気になる点がある。雄々しく復活することを可能とする材料はあり、人材もいるが、それをうまく生かしていくことができるかどうかという点では、まだ高いハードルが待ち構えていると言わざるをえない。その点につき、以下に申し述べておきたい。3点ある。

 

(1)金融経済化の罠に落ちないこと

 

バブル崩壊以降のいわゆる『失われた20年』の間中、日本的経営は、あらためて批判にさらされ続けた。その中には甘んじて受けるべき貴重な意見も多く含まれてはいた。ただ、日本の市場の仕組みを米国を真似て、金融経済化する動向を良しとする傾向には、否を唱えておきたい。米国では、80年代のレーガンサッチャー革命以降、金融の徹底した自由化が進み、企業のステークホルダーとしては株主一強となり、企業経営者は、短期に収益をあげ、同時に株価時価総額を上げることばかり求められるようになった。その結果、今ではどの企業も、4半期収益を上げるために、長期投資をせず、従業員を育てようともしない。また株価時価総額を上げるために、余剰資金を投資に回さず、自社株を買い漁る。その結果、米国企業のイノベーションを起こす力は、全体で見ると、明らかに衰退してしまった。

 

 実際、今世界を席巻している米国のITジャイアントは、短期収益拡大を求める株主を押さえこめる力量のある企業ばかりだ。中でも、EC大手のアマゾンなど、徹底した顧客目線で、多額の長期投資を継続して行い、売り上げは増えても、収益は何季にも渡って赤字を続けた。Googleも株式公開にあたっては、『外部からの圧力に負けずに長期的な投資を続けるために、創業者が支配権を維持することが株主とユーザーにとっても最良と判断した』と説明し、一般株主向けの1株1議決権のクラスA株式と、経営陣が保有する1株10議決権のクラスB株式を分けた。アップルの創業者スティーブ・ジョブズに典型例が見られる通り、新しいことをやるためには、短期的(時には長期的にも)収益を気にせず、クレージーとも言える信念(世界を変える、火星に人類を移住させる等)を維持することが必要だ(維持できる体制も必要だ)。

 

 

(2)エクスポネンシャル(指数関数的)な技術の進化の本質を理解する

 

今後は、どの産業分野でも、デジタル技術の持つ特質である、エクスポネンシャル(指数関数的)な進化の意味するところ、その本質を理解できないのでは、経営の中枢を担うことはできなくなる。だが、今の日本企業の経営者にその理解が浸透しているようにはとても思えない。

 

この概念の一端を理解するのに、適切なガイドブックと言えそうなのが、エクスポネンシャル・ジャパンの共同代表を務める斎藤和紀氏の近著『シンギュラリティ・ビジネス AI時代に勝ち残る企業と人の条件』だ。*2斎藤氏は、シンギュラリティ大学*3エグゼクティブプログラムを修了して、その経営思想を伝えるエバンジェリストとして活動している。斎藤氏の説明はいずれもわかり易く興味深いが、シンギュラリティ大学の共同創設者の一人、ピーター・ディアマンディスが提唱する『エクスポネンシャルの6D』という部分は特にわかり易い(そして恐ろしい)。

 

ディアマンディスは、物事がエクスポネンシャルに成長するとき、多くのケースで『D』の頭文字を持つ次の事象が連鎖的に起きると述べているという。

 

  1. デジタル化 (Digitalization)
  1. 潜行 (Deception)
  1. 破壊 (Disruption)
  1. 非収益化 (Demonetization)
  1. 非物質化 (Dematerialization)
  1. 大衆化 (Democratization)

 

デジタル化により、エクスポネンシャルの軌道*4に乗った場合、初期段階ではほどんど上昇しないから、直線的な成長をイメージする人にとっては期待を下回るレベルにしかならない(潜行)。今この段階にある新技術の例は多いから、少し注意していれば、多くの人の幻滅の声を沢山拾うことができる。(『ブロックチェーンなど調べてみると使えないことがわかった』『電子書籍は所詮使えず本は紙にかぎる』『スマートフォンは日本人には馴染まず売れない』『デジタルカメラはオモチャにすぎない』等)ところが、ある段階から突如、直線的な成長予想を突破する(破壊)。そして、そうなると既存の市場はあっという間に破壊される。デジタルカメラをオモチャとしか考えていなかったコダック社は市場から撤退し、ガラケーはマイナーな製品の立場に追いやられた。そして、その次の非収益化、非物質化は、スマートフォンが飲み込んだ製品やサービスの数々を見ていればその意味するところはわかるはずだ。アナログカメラフィルム、高額な長距離電話料金、音楽プレーヤー、百科事典等々、いくらでも事例を指し示すことができる。今現在でも続々と数多くのサービスや製品がこの列に並びつつある。このようなことが起きることを理解できない人にとって、最後に訪れるDはDeath (死)ということになる。だが、物事がこのようなステップで進んで行くことを理解できる人にとっては、チャンスは無限に開けている。

 

シスコシステムズは2017年6月2日、『デジタル変革に向けたビジネスモデル』と題した説明会を開催して、デジタルディスラプター(デジタル変革による破壊者)の脅威について言及し、『既存のトップ10社の4社は淘汰される。破壊が起こるまでの時間は3年だ』と述べている。対象は日本企業だけではないが、日本企業に限ってみた場合、今のままでは淘汰される側の比率はもっと高いのではないかと思えてならない。*5 

 

 

(3)日本人の真の創造性に気づく

 

今の日本人の多くは、自分たちがイノベーションを担いでベンチャー企業を立ち上げることに不向きな、改善は得意だが創造は苦手な民族であると思い込んでいる。だから、創造性が勝利条件となるこれからの世界の競争で日本人は負けていくに違いないというような、悲観的な展望を持つ人が多くなってきている。だが、本当にそうだろうか。アドビシステムズによる、クリエイティビティに関する意識調査『State of Create: 2016』は、米国、英国、ドイツ、フランス、日本の18歳以上の成人約5,000人を対象とした調査だが、それによれば、最もクリエイティブな国は日本であり、最もクリエイティブな都市は東京、という結果となっている。そして、興味深いことに調査対象国のなかで自らをクリエイティブとする回答者が41%もいるのに対して、日本人は13%と極端に低いという。世界からは評価されているのに、日本人自身が気づいていない創造性が存在するということを意味している。今回はその創造性自体の分析には立ち入らないが、このギャップを深く分析して、自らの強みを認識しておくことは非常に重要だ。日本が起死回生をはかるには不可欠の要素といっても過言ではない。*6

 

 

■ 復活は可能だ

 

日本は、敗戦によって滅びることはなかった。むしろ、敗戦によって、過去の縛らみや、旧弊が瓦解することによって得た自由こそ、再生のための重要な要因だった。『日本の電機メーカーの敗戦』の暗黙のメッセージは、負けた原因をそのままにしておいたのでは、復活はおろか、電機業界での敗戦が他の産業にも波及していく恐れが大きい、というものだろう。だが、この『失敗の原因』に学ぶことができれば、再生できる余地はある。あるどころか、大きな可能性に満ちている。そのことを深く考えてみるべき時期に来ていることはいくら強調してもしきれない。極端に悲観的になる必要もないが、虚勢に満ちた自信過剰は破滅への道に続く。冷静に現実を見て、賢い対処ができる人には道は開ける。それは私の願望でも、妄想でもなく『現実』だ。私はそう確信している。

『自動機械化する人間とその上位に立つ人工知能』という可能性

 

 

◾️ 人工知能は人類を滅ぼすか

 

人工知能AI)関連の最近の話題の中で、皆が最も関心を持っているのは、一つには、人の仕事が人工知能に奪われてなくなってしまうのではないかという議論だと思われるが、一方、特に欧米を中心に、遠からず人工知能が人間を上回る知性を獲得してしまい、その結果人類が滅びるような壊滅的な影響を被るのではないかというシナリオへの関心も相変わらず高い。

 

『シンギュラリティ(技術的特異点)』という本来専門家しか耳にすることのなかった用語が、その用語をポピュラーにした、米国を代表するフューチャリストで、Googleの技術ディレクターでもあるレイ・カーツワイル氏の名前とともに、すっかり一般人にも知られるようになったことでもそれはわかる。

 

カーツワイル氏は、シンギュラリティの時期を当初2045年と述べていたが、最近のインタビューでは16年も早い、2029年にコンピューターは人間レベルの知性を獲得すると述べて世界を驚かせた。*1人工知能は人類を滅ぼしかねないと早くから危惧を表明していた、理論物理学ホーキング博士らをよそに、当のカーツワイル氏は極めて楽観的だ。

 

他ならぬ私自身、この問題について早い段階から強い関心を持って、かなり真剣に識者の意見を精査して、自分なりに探究してみたわけだが、人工知能が人間を超える知性を持つこと、すなわち、『幅広い知識を持って、何らかの自意識を持ち、問題設定や、自律的な判断までできるようになること』につき、合理的に納得できる理由は見つからなかった。2029年はおろか、2045年を待っても(それどころかもっとずっと長い将来に渡って)、実現できると確実に判断できる材料を見つけることができなかった。

 

これは、いわゆる『強い人工知能』あるいは『汎用人工知能AGIArtificial General Intelligence)』の実現可能性の問題と置き換えてもよいと思う。そのほうが、現在行われている主要な議論により整合して語ることができそうだ。これに対して、現在急速な進化発展の途上にあるのは、『弱い人工知能』あるいは『専用人工知能/特化型人工知能』ということになるが、こちらのほうは、予想をはるかに上回るスピードで日進月歩で進化している。だが、汎用人工知能の進化は特化型人工知能の進化と基本的には関係がないとされる。つまり、いくら特化型人工知能が進化したからといって、その延長上に汎用人工知能の出現はないということだ。すなわち、何らかの別の大きな飛躍がなければ、汎用人工知能はできないし、今の所その飛躍については何も目処がたっていない。

 

そういう意味では、極論すれば『サルが30年ほどすると人間になる可能性もあるかもしれない』という物言いとさほど違わないように聞こえる。もちろん、サルも人間になったのだとすれば、汎用人工知能が生まれる可能性をまったく否定はできないが、少なくとも進化論のアナロジーを使うのであれば数十年といったようなショートレンジの間尺に合うようには思えない。実際、人工知能の専門家の中にも、カーツワイル派の議論を絵空事と斬って捨てる人は少なくない。

 

厳密に可能性をすべて否定したわけではないとはいえ、自分なりにこのような結論に達して以降、正直、汎用人工知能は私の主たる関心事ではなくなったことは確かで、最近ではそちらの探求は一旦中止して、特化型人工知能の進化と社会への影響のほうにもっぱら関心を向けていた。

 

だが、どうやらそれは少々甘い見通しだったようだ。汎用人工知能が近いうちに完成するという見込みは相変わらず持っているわけではないが、『特化型人工知能の進化と人類の未来』に範囲を絞っても、どうやらあまり楽観ばかりはしていられないのではないかと思えてきた

 

 

◾️ 特化型人工知能の恐るべき可能性

 

もともと、この特化型人工知能の進化についても、東京大学大学院の松尾豊准教授の工程表に示されている通り、第三世代の人工知能を特徴付けるディープラーニングの発展は、現状は主として画像認識のような『認識』、すなわち画像からの特徴量を抽出することが可能な程度のレベルだが、これが音声、動画と範囲を広げ、さらに、さまざまな(マルチモーダルな)データから特徴量を抽出し、それを相互に連関できるようになる。認識のレベル自体も人間並みから人間以上を実現していく。そして、その延長上に、さまざまな運動ができるようになり、プランニング、推論、言語の理解と進み、この段階に至ると、人間の経済活動(すなわち仕事)の大半は人工知能/ロボットが行うことができるようになると考えられる。

 

この実現のスピードは当初の想定を超えて明らかに加速度がついて上がっている。と同時に、できることの範囲が広がっている。画像認識で、Google人工知能YouTube上の猫の画像を認識することを学習した、と大きな話題になったのは、2012年のことだったが、2015年には、もう人工知能の画像認識能力は人間を上回る精度を出せるようになった。音声認識でも、先ごろ、Google音声認識は、エラー率が1年経たずに8.5%から4.9%まで改善して、もはや人間レベルに近くなったとの報道があった。自然言語処理についても、Facebook人工知能DeepText』など、人間の文章はほぼ理解できるという。Google翻訳も、文脈が読み込めるようになってきて、ますます精度が上がってきている。昨今では、人間の感情の認識、すなわち『感情認識AI』への取り組みも盛んで、こちらのほうも、人間のレベルを超えていくのもそう遠くではなさそうだ。

 

だが、それより何より、人工知能の急激な進化を強烈に印象付けたのは、Google傘下のDeepMind社が開発した、囲碁人工知能『AlphaGo』だろう。短期間に急激に強くなり、トップレベルの棋士との勝負に完勝した。10年は無理と言われてきたことをあっさりと実現してしまったことは、囲碁関係者だけではなく、広く世界に人工知能の進化の凄まじさを知らしめることになった。(先ごろ行われた、世界最強の囲碁棋士・柯潔(カ・ケツ)氏と、AlphaGoによる一連の対局も、AlphaGoの勝利で終わった。)

 

 

◾️ ビジネスの頂点に君臨するであろう人工知能

 

日本の将棋ソフト『ポナンザ』を開発して、現役の名人のタイトルホルダー、佐藤天彦名人を撃破した開発者の山本一成氏は自著『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?―最強の将棋AIポナンザの開発者が教える機械学習・深層学習・強化学習の本質*2で将棋のみならず、囲碁のことについても言及しているが、ポナンザもAlphaGoも、人間が長い間の歴史の中で編み出して蓄積した定石を超える新しい手筋を次々に開発しているという。これは巷間その存在を誰もが知るようになってきたいわゆる機械学習(評価基準は人間が与える。いわゆる教師付き学習)に加え、強化学習と言われる人間(教師)が不要で、未知の領域であっても人工知能が調べた結果をフィードバックすることを通じて学習を進める手法、さらにはAlphaGoの能力を強化することに大きく寄与したと言われる、モンテカルロ法という、直接の評価が困難でも、ランダムな試行の反復結果をもとに、有望な行為を確率的に選択できる方法によって実現されているが、現段階ですでに、人工知能に対戦相手に勝利するという最終目的を与えておけば、教えられた以上のことを自ら学び、勝利のための新たな手段(手筋)を無限に開拓していけるようになっている。

 

このことが示唆する将来像は、実に恐るべきものだ。人間の経済活動に関わる、いわゆる『仕事』は、山本氏の言うように、囲碁ほど複雑だろうか。例えば、すでに株式トレーディングについては、株取引を完全自動化する『人工知能ヘッジファンド』が登場しているが*3世界最大級の投資銀行であるゴールドマン・サックスでも、ニューヨーク本社では2000年には600人のトレーダーが株式の売買を行っていたのが、2017年現在で本社に残っているトレーダーはわずか2人だという囲碁は対戦相手に勝利する、という最終目的があり、ゴールが明確に定まっていれば、人工知能の能力が人間を上回るということがわかった。株式トレーディング(もちろん、債権、商品、為替等何でも同じだ)では、同じく収益の極大化という最終ゴールがあれば、人間を上回るパーフォーマンスを発揮することを証明し始めているともいえる。ヘッジファンドのトレーダーと言えば、高給取りの代表格のようなもので、大変人気のある仕事だが、その分、高いパーフォーマンスを求められる難易度の高い仕事ではなかったのか。いわば、ビジネスの中で最も難易度が高い仕事の一つが人工知能に置き換わろうとしている、という言い方もできる。通常我々が取り組むホワイトカラーの仕事で、囲碁や株式トレーダーのレベルを超える難易度があるものがどれだけあるのだろうか。

 

もちろん、ビジネスといっても、例えば会社経営には、短期的な利益だけではなく、長期的な観点での視野や洞察力、ビジョン構築力が必要で、そこには政治的な配慮、地域との調整、従業員の心理状態の理解、企業の経済価値以外の存在価値の追求等、様々な要素が複雑に絡み合っているのであり、株式取引での利益極大化や、囲碁のような勝敗というような単純なゴールで必要な判断以上の判断要素がある、との声が聞こえて来そうだ。だが、本当にそうだろうか。

 

昨今のように、あらゆるデータを取得することが可能になってきており、さらにそれが強力に推進されている状況では、長期的な利益、投資の収益から、政治的への対処、従業員の心理状態にいたるまで、データを取り数値で測り、分析し、それをもとに合理的な判断が可能となると考えられるようになってきている。山本氏は、チェスに比べて将棋のコンピューターが人間のチャンピオンに勝てるようになるのに、20年の年月の差があったのは、将棋の方が局面の数が多かったからではなく、勝つために将棋の何をどのように計算すれば良いかわからなかっからだという。勝利条件を数式に置き換えることができなければ、従来のコンピューターでは、勝利することはできない(逆に、それができればすぐに人間には負けなくなる)。まして、囲碁など、皆目見当もつかなかったという。

 

ところが、上記で述べたような機械学習+強化学習+モンテカルロ法の組み合わせで、最新の人工知能は、将棋でも囲碁でもこれを乗り越えた。だからこそ、人間に勝利するまでに成長し、さらに人間にはもはや理解できない成長を続けている。現段階で、ビジネスには、人間が数式やフォーミュラに置き換えることができるものとできないものがある。できたものは、すぐにコンピューターのほうが人間を上回ることができる。だが、これからの人工知能は、人間がそのプロセスを理解することのできない何らかの方法で(山本氏の言う黒魔術により)、ビジネス上のあらゆる解決策を見つけていくと考えられる。

 

 

◾️ インパルス・ソサイエティ

 

しかも、最近の米国企業を見ていると、ステークホルダーは株主に一元化され、短期収益中心主義がますますエスカレートし、そのために、経営者が従業員の雇用に配慮することはなくなり、政治的な障害はロビーイングにより取り除き(有利な方向に誘導し)、市場のあらゆるデータを取得し、それ合算することにより、さらに一層分析を精緻に行い、その結果を市場予測、製品/サービス開発から、広告宣伝等に利用するのみならず、選挙の結果にまで影響を及ぼそうとする。しかも、人工知能のようなテクノロジーが現れ、進化する度に、そのような方向に最大限利用されるようになってきている。人間の経済社会のほうが、特化型人工知能を最大限生かす方向に歪曲化されてきているとさえ思えてしまう状況が確かに起きてきている。

 

米国のジャーナリスト、ポール・ロバーツ氏は近著『「衝動」に支配される世界---我慢しない消費者が社会を食いつくす*4で、米国では社会全体が効率的市場の価値観に支配され、自己の欲求を満たすためであれば、社会的な責任も他者への配慮も生態系への負担も一切無視した、モラルの欠片もない社会が出来上がってしまったと嘆く。脳の辺縁系、爬虫類脳に対する刺激で人間の行動は制御されてしまい、欲しいもの、短期的な利益にユーザーは誘導され、ユーザー自身それを求める(求めさせられる)。だれもが、短期的な利益、欲しいものに突き動かされ、その他の社会に重要な価値(自己犠牲、献身等)が忘れられてしまった。これをロバーツは『インパルス・ソサイエティ』呼ぶ。昨年のトランプ大統領誕生を契機に米国の現状についての情報が大量に流れ込んでくるようになったが、同様の状況報告は一人ポール・ロバーツだけではなく、多方面から入ってくるようになった。そして、人工知能はこのタイプの社会に非常に相性が良く(短期的な利益は最も計算フォーミュラに落とし込み易い)、だとすれば、その社会の問題の解決方法は人工知能のほうが良く知っていて、人間が下位に置かれるような悪夢が本当に実現する方向に向かっている、ということにならないだろうか


アレクサンドル・コジューヴは戦後の米国で台頭してきた消費者の姿を『動物』と呼んで批判したが、今のままでは、米国の行き着く先は動物どころか、まさに映画マトリックスで表現されたような、即物的な欲望の達成のみを求めて眠りこける(あるいは夢遊病者のように彷徨う)自動機械のようになってしまいかねない。マトリックスでは、人間は機械のエネルギーとしてしか存在価値がなかったが、このままでは米国も同じような状態になってしまうのではないか。

 

 

◾️ 岐路いる人類

 

山本氏は、人工知能は、いかに人間の理解できない学習を重ねていくことになろうと、人間の情報を元に学習する存在であることはかわりはなく、人工知能に高い倫理観を期待したいのであれば、人間の側がそのような存在であることが必要と述べている。だが、今は人工知能が劣化した倫理観を持つことを恐れる以上に、人間が知性(あるいは、人間性)を眠らせようとしていることこそ、恐れるべきではないのか。ここに問題があると認識すれば、解決策はある。だが、問題を見ずに知性を眠らせてしまえば、解決に至る道は開けない。そういう意味では、人間(というより人類)は今、非常に重要な岐路にいるのではないかと思えてならない。

 

欲望の自動機械になったほうが、人類にとっては幸福なのでは、というシニカルな見解を持つ人も決して少なくないが、人間の奥深い真の満足感、きらめくような感動、友愛を通じて持つことができる深い信頼関係、狭い自分の枠を突破して広がる自由の素晴らしさ等は、脳の辺縁系、爬虫類脳の部分をフルに刺激できても、経済合理性が究極まで達成されたとしても、それだけで得ることができるわけではない。人間は本来それ以上の高い価値を求めていくことができる可能性を秘めていると信じたい。

 

葬儀やお墓が消失してもなくならないもの

 

 ■「死」に対する意識

 

私たちの年代になると、友人の両親がちょうど亡くなるタイミングに当たっていることもあり、年末になると年賀状の代わりに喪中ハガキが沢山届くことになる。年途中の今頃でもそのような連絡をしょっちゅう貰っている印象がある。それをきっかけにして、最近死亡した著名人一覧を見ると、一時代をつくった数多くの著名人のうち、自分にも記憶が鮮明で、中にはすごく思い入れのある人達が沢山亡くなっていて唖然としてしまう。もちろん、キューバの独裁者フィデル・カストロのように世界的な著名人であれ、90歳の高齢であれば、天寿を全うしたという納得感のようなものを感じるが、「エビ中」の松野莉奈のように18歳にして逝ってしまう人もいることを思うと、無常というしかなく、普段はあまり考えない『死』についてしばし考えてしまう。

 

但し、さすがに今では、学生時代の頃に感じた自分の死についての実存的な不安感は無くなっていて、従容として受け入れようというような諦念が定まってきた気がするが(意外に、私の友人にもそういう思いでいる者が多いが)、悩ましいのは両親や親族のお墓をどうするのか、という問題だ。自分自身については、昔から、葬儀もお墓も不要とずっと思ってきたし、できるだけ残された人たちに迷惑をかけたくない、という一点しか気にならないが、自分の両親や親族についてはそうはいかない。私の場合も地方から東京に出てきて、普段はあまり意識することはないのだが、いざとなると本当に時間もお金もかかることを思い知って、正直あまり考えたくない問題だったりする。

  

 

■ 寺院消滅

 

だが、そのように感じるのは私だけではないようだ。『日経ビジネス』の記者にして僧侶でもある鵜飼秀徳氏の『寺院消滅』*1という本を読むと、都会で働くビジネスパーソンにとって、お寺やお墓は遠い存在になりつつあり、お寺との付き合いは『面倒』で『お金がかかる』ばかりと考え、できれば『自分の代からは、もうお寺とは付き合いたくない』と思い始めているという。そして、葬儀は無宗教で行い、お墓もいらない、散骨で十分と言っているという。そんな不謹慎なことを考えているのは自分だけかと思いきや、最近は誰でもそうなのだという。それでも、その一方で、まさに私だけではなく、多くのビジネスパーソンも、地方に残る親戚縁者の顔を思い浮かべると、中々簡単には割り切れない、複雑な思いがあるようだ。そんなところも、自分の実感に物凄く近い。

 

もちろん、今後少子化の影響が色濃く出てきて、特に地方では、お墓もどころか、人間もどんどんいなくなっていくことは避け難い。そして人がいなくなれば相応にお寺もなくなっていく。『寺院消滅』でも、今後25年の間に現在日本に存在する約7万7千の寺院のうちの約4割が消滅すると予測している。仮に寺院の維持のために、一人当たりの負担額が増えていくようだと、お寺との縁切りを本気で決断する人が今の想定以上に激増することになるだろう。そもそもまだ死んでいない高齢者の年金も負担できなくなりそうなのに、どうして死者への負担を増やすことができるだろうか。

 

 

無縁社会

 

2010年にNHKにより製作されたテレビ番組で使われた『無縁社会』という造語は、荒涼とした語感ながら思い当たる人が沢山いたと見えて、その後長く使い続けられるようになった。少子化もそうだし、高齢化、生涯未婚率の増加等の影響もあいまって、地縁血縁社会が維持できなくなり、それに加えて、戦後、地縁血縁コミュニティに代るコミュニティとしてそれなりに活性化していた企業コミュニティも終身雇用制度の崩壊、海外進出等の影響により衰退の一途だ。その結果、今の日本社会は、単身者が増え、しかもその単身者が孤立しやすい社会になってきている。これを悲観的な感情を煽る言葉に乗せて語ったものだから、非常に大きな反響を呼んだ。感情は別としても、冷静に現状を分析すればするほど、葬儀もお墓も今後とも簡素(あるいは消失?)な方向に向かうと考えざるをえない。

 

実際、特に関東では、葬儀は急速に簡素になってきている。月刊誌『仏事』を出版する鎌倉新書(東京都中央区)が全国の葬儀社217社を対象に平成26年に実施した調査によると、参列者31人以上の『一般的葬儀』は全体の42%。30人以下の『家族葬』が32%。『1日葬』が9%、『直葬』が16%だった。都市部の葬儀社のなかには『家族葬が5割を超えている』との声も多くあるという。

www.sankei.com

 

 

普段はほとんど意識しなくなっているから、実感はなくなっているが、いわゆる檀家制度(寺院が檀家の葬祭供養を独占的に執り行なうことを条件に結ばれた寺と檀家の関係)は少なくとも地方ではまだ生き残っていると考えられるため(しがらみをなかなか振り払えない)、都市部と比較すれば、まだ地方では、『一般的葬儀』が多いと思うが、その地方こそこれからは檀家制度の維持が難しくなっていく(それが『寺院消滅』のメインテーマでもある)から、地方でも葬儀の簡素化は避けられないだろう。

 

 

■ 葬儀は日本人のアイデンティティを顕す?

 

だが、それでも、今の日本人にとって、葬儀は数少ない、親族の存在を意識しその絆を確認しあうことのできる機会であることは確かだ。親戚の葬儀に行くと、自分にとっての親族がどういう人達なのか確認しあうことができる。意外なことに、それまでほとんど意識することはなかったはずなのに、ある種の親しみや、親近感を意識の奥底から引き出すきっかけとなったりする。そして、自分にも、そんな感情が残っていたことに驚くことになる。だが、その無意識にある感情こそ、日本の風土への親しみであったり、愛着であったり、普段は隠れているが、いざとなると表に出てくる感情の塊の一端なのだろう。それは一種の宗教感情とも言える。それがなくなっていくことの影響は、これからの日本社会にとってどのようなものになるのだろう。少なくとも私にとっては、あまり簡単に切り捨ててしまってよいものとは思えない。

 

日本の葬儀を(私の知る限りだが)見ていると、世界に例の少ない、非常にユニークな形式であり、それは、今の日本人が意識しているかどうかは別として、その背後にある特定の『意味』を象徴しており、日本人が非常にユニークなアイデンティティを共有していることを見て取ることができる。そもそも日本の葬儀は、大半は仏式で行われるが、仏陀が起こしたオリジナルの仏教とはほぼ無関係であることは意外に知られていない。何より、日本人は遺骨や位牌を死者そのものといってもいいくらいに大事にし、執着するが、オリジナル仏教では、死者と遺骨とは死ねば何も関係がない。だから、散骨が基本で原則お墓もない。必要がないからだ。もちろん位牌などもない。また、お盆のような先祖をお迎えする行事も仏陀自身がここにおられたら、自分の宗旨が伝わっていないことを知って、さぞ嘆かれることだろう。そもそも、人間は生まれ変わりたくもないのに何度も生まれ変わって来ていて、それは非常な苦しみであり(六道輪廻)、そこから離脱して二度と生まれ変わる必要がない道を説いたのが仏陀だ。だから、死者が悟っていれば、もう生まれ変わってくることもなく、輪廻の途上なら、どこかに生まれ変わっているのであり、いずれにしてもお盆に子孫に呼ばれて帰って来ることはできない。

 

日本の葬式およびその関連の風習は、大半は、儒教の元になった東アジアのシャーマニズムを起源としており、お骨や位牌を大事にして、先祖を奉ってしばし子孫の元に帰って来てもらうというような風習は皆、儒教の風習だ。仏教が中国に伝わった際に、儒教が混ざって、それが日本に伝わったという説もある。(このあたりの事情については、加地伸行氏の著書『儒教とは何か』*2に詳しい。)日本の葬式に出席したり、仏事に参加したりすると、先祖を思い起こさせられたり、親族(一族)の結束のことを意識してしまうのは、実は儒教の持つ思想の影響を受けた儀式だからということもありそうだ。葬式は、このような親族の結束を確認しあう場であるだけではなく、おそらく、それを敷衍することで日本人全体の結束、あるいはアイデンティティを確認しあう場となって来たと考えられる。このような意識は簡単に消えてしまうものなのだろうか。

 

 

■ 消えない宗教心

 

単身者の激増、特に、男性より平均寿命の長い女性の単身比率の激増という現実(および将来)をポジティブに受け入れて、いかに充実して過ごすか、という観点で書かれ、注目された著書がある。社会学者の上野千鶴子氏による『おひとりさまの老後』*3だ。そこには、葬儀のことも書かれており、簡素な『家族葬』ないし、場合によっては『直葬』を受け入れるべきことが書かれてあり、宗教心などまったく関心の外という感じで、ある意味、非常にさっぱりしている。だが、興味深いことに、彼女自身のお骨は、京都の大文字焼きの大の字を『犬』にする『、』の部分に埋めて欲しいのだという。そうすれば、『死後もずっと大好きな大文字焼きをそばで見続けることができるから』だという。これなどまさに、日本人の多くが共通して持っている、『お骨へのこだわり』そのものと言えるし、死後は、『草葉の陰』から見守るという、儒教的な死後の観念と言える。それは、仏教徒の死後でも、キリスト教徒の死後でもない。すなわち、いかに葬儀に関心がないとしても、背後にある宗教心は消えていないということだ。これは、おそらく、大半の日本人に共通するところではないだろうか。

 

また、さらに詳細に日本の葬儀を見るてみると、儒教とも仏教とも無関係の要素も混在していることがわかる。例えば、葬儀に出席すると清めの塩をもらうが、これは日本古来の宗教意識に基づく風習なのだそうだ。すなわち、日本人の葬儀を通じた宗教意識を腑分けすると、メインは儒教(というより東アジア的シャーマニズム)、そして、仏教的要素および神道的要素(というより日本古来の宗教心)が混在していることがわかる。だから、もしかすると、儒教的要素が社会的な条件により維持できなくなったとしても、それをきっかけにもっと日本人の元型に近い宗教意識が引き出されてくるかもしれない。

 

日本人は、やむない状況におかれて、葬儀等の儀礼を簡素化せざるをえなくなっている。だが、だからといって、両親のお骨や位牌を粗末にできるだろうか。できないとすると、やはりそれらに宗教心といっていい心性を残しているということではないのか。研究者の竹倉史人氏の著書『輪廻転生 <私>をつなぐ生まれ変わりの物語』*4によれば、現代の日本人の40%超が『輪廻転生』や『前世の記憶』を信じているという。葬儀は簡素化しても、日本人の宗教心は、形を変えながらかもしれないが、依然、消えることなく残っていると考えるべきではないのか。

 

 

■ 危惧される心の深い部分へのダメージ

 

このあたりの事情を無視して、経済性だけで、宗教儀礼や宗教心をあまりに安易に扱うことは、日本人の心の深い部分に決定的なダメージを与えてしまうことにはならないだろうか。場合によっては民族としてのアイデンティティも維持できず、いわゆるアノミー(社会の規範が弛緩・崩壊することなどによる、無規範状態や無規則状態)に陥る懸念はないのか。もちろんそれは現在の寺院を経済的に補助すれば済むような単純な問題ではないし、既存の宗教にできることは少なくなっているかもしれない。だが、考えなくなってしまうのと、問題ありと意識していることは無限と言っていいほど大きな違いがある。誰かの死というのは、本来厳粛であるべき瞬間だ。せめてそのような機会に、以上のような思考を深めてみることは決して無駄にはならないはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:

寺院消滅

寺院消滅

 

*2:

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

 

 

*3:

おひとりさまの老後 (文春文庫)

おひとりさまの老後 (文春文庫)

 

 

*4:

 

東浩紀氏の新著『ゲンロン0』の私なりの読み方

 

◾️ 経済人の立場

 

思想家/ 批評家の東浩紀氏の新刊、『ゲンロン0*1については、発売からおよそ一ヶ月が経過していくつか書評も出てきているが、予想通り総じて評価が高い。私も遅れじと書評を書こうと思っていたのだが、自分の書こうとしている文章に自分で納得できず、ついリリースを躊躇してしまっていた。

 

ただ、自分の感じたことを他者も同じように感じるのか、あるいは、全く反対されてしまうのか、確かめてみたい誘惑にかられてしまう。よって、全体の書評というのではなく、ポイントを絞って、私の思うところを少しずつ書いていこうと考えるに至った。取り敢えずその第一弾として(第二弾がいつになるかはわからないが)、リリースしておきたい。今回は、本書をビジネスマン、経済人の立場で読むとどういう感想が出てくるのか、という観点で書いたことをまず最初に述べておきたい。

 

 

◾️ 二層構造

 

東氏は環境認識として、今の世界は、かつてのような右翼/左翼の対立図式には収まらなくなってきており、あるのは、『グローバリズムリバタリアニズム』と『ナショナリズムコミュニタリアニズム』の二層構造で、リバタリアンには動物の快楽しかなく、一方、コミュニタリアンには共同体の善しかないため、このままでは妥協点は見いだせず、もちろん普遍的な他者も現れず、思想的にも解決の糸口が見いだせない、とする。

 

これは、実際ビジネスの現場を見ていても痛感することで、この二つを統合する活動ができればビジネスとしても理想的なはずなのだが、現状では如何ともしがたい。グローバルビジネスは、もちろんずっと以前から行われていたわけだが、かつては企業のグローバルな活動と国家との関係が一体化して分離していなかった。そのような幸福な時代は確かにあった。特に製造業の場合、国内で生産したものを海外にも輸出していた時代には、海外への輸出=国内生産の増大=雇用の増大/賃金の上昇、だったからだ。

 

だが、資本が自由に移動するようになり、金融の自由化が進み始めると、そうはいかなくなった。国内の労働コストが上昇すれば、当然コストが安い国に進出したり、そういう国にある会社のとの取引を増やすのはビジネスとしては当然だし、そうしなければ、株主等のステークホルダーから厳しく問い詰められることになる。だが、それは国内の空洞化を招くことになるから、国内の従業員や地域との関係はギクシャクせざるをえない。旧来の製造業にしてそうだから、初めから無国籍性の高いIT企業など、雇用どころか国家に収めるべき税金もタックスヘイブン等を利用して可能な限りセーブする。これも評判は悪くても、合法の範囲内であれば、合理的な企業行動の範疇と言うしかない。

 

 

◾️ 動物化する経済人

 

戦後の日本企業は、まさに『エコノミックアニマル』という蔑称を頂戴したが如く、必ずしも評判が芳しいとは言えない面もあった。本書でも指摘されているように、シュミット*2もコジューヴ*3アーレント*4も皆一致して(すなわち近代西洋思想の頂上にいるヘーゲル的成熟をベースとする限りは)、グローバリズムの到来を『人間ではないもの』の到来と位置付けており、経済の拡大は人間の消滅につながると考えていた。では、このような指摘を経済人がまったく意に介していなかったのかと言えば、少なくとも私の知る限り事はそれほど単純ではなく、『人間ではないこと』の居心地の悪さを十二分に感じ、その矛盾の解決のために一身を持って格闘し、思想として昇華しようとした経済人が少なからずいたことを私たちは知っている。

 

かつては日本にも、松下幸之助、あるいは本田宗一郎のように、企業活動は国家を支え、雇用や安価で豊富な商品の提供を通じて社会にも貢献すると高らかに宣言して、実際その通りになる、という幸福な時代があった。そのような経済人は国家にとっても尊敬に値する人物であり、経済学は国民を豊かにする学問と考えられていた。その高度な統合を目指してこそ、一流の名に値する経済人との認識もあったと思う。株主以外のステークホルダーにもバランスよく目を配り、海外進出した場合でも、進出先の現地社会との折り合いをつけることに腐心し、信頼や尊敬を勝ち得た傑出した経営者を少なからず日本も持つことができた。

 

米国企業でも地元との信頼関係を勝ち得ることが市場でのブランド価値を上げることに直結していると信じられていたから、企業がかなりの持ち出しを覚悟の上で、地域コミュニティに貢献することを当然のこととして実行していた(ブランド価値向上のための投資、との認識を持ち得た)。ところが、昨今ではその米国企業を中心に、そのような活動に資金を配分するくらいなら、ロビーイングに精を出して、企業に有利な法律制定を目指せ、というような方向に株主の関心が向かっている。

 

明らかにこのままではまずいのだが、真面目に考えても答えがでないからと、今では開き直ってそのようなことは考えないようにしている経済人は多い。いわば、自ら『動物』となることで内心の矛盾を顕在化しないようにしているとさえ言える。いや、それでも、そのような自覚がある経済人/経営者はかなりレベルが高い『人間』というべきかもしれない。実際には、『経済人は収益向上に専心することこそ最大の社会貢献』と無邪気に(本気で)述べている経済人の方がマジョリティだろう。彼らには、日本企業が幸福でいることができた環境が激変して、引き裂かれるような環境に放り出されていることの自覚がないし、その意味でまさに『動物化』している。環境さえ良ければ、『収益が一番』を唱えていれば良かったのだろうが、環境が激変した今でも同じようなお題目を(思考停止して)唱えている様は、まさに『動物』であり『自動機械』に見えてしまう。

 

だが、今でも少なからず存在する、『人間』であることをやめない(やめたくない)経済人は何を究極の目的として、活動していけばいいのか。もちろん、経済人/企業人であるからには、利益の極大化が一方の目標であることを否定するものではないが、 それだけしか目標として示せないとすれば、貧しさの中から立ち上がってきた、後続の新興国企業のエネルギーに長く抗することは難しいと言わざるをえない人はパンだけを求めて生きているのではない。東氏が取り組むような、21世紀の現実の中で心身を引き裂くグローバリズムナショナリズムの相克を乗り越える思想を構築していくことは、実のところ(気づいているかどうかは別として)、経済人/企業人にとってこそ危急の課題となっている。

 

 

◾️ 企業コミュニティに代わるもの

 

さらに言えば、特に日本企業にとって非常に深刻な問題は、グローバリズムを推進すればするほど、企業内コミュニティが維持できなくなる点だ。特に日本の場合、地域コミュニティが崩壊して、西洋のような宗教コミュニティも一般的ではないため、特に戦後はそれを肩代わりする擬似コミュニティとしての企業コミュニティの役割は非常に大きいものがあった。だがそれが衰微するにつれ、グローバリズムに反対するナショナリズム/コミュニタリアリズムがこの日本でも大きな勢力として浮上することになった。困ったことに、今では企業として成功を目指すその方向には、旧来のコミュニティを温存できる余地は少ない。これに代わる『地球市民』という類のコミュニティを夢想する取り組みは、まさに東氏が指摘するように、思想家のネグリとハートが共著『帝国』で提示した『マルチチュード*5のような概念の中に新秩序を見出す方向に逢着することが多い。特にインターネットで世界中を接続することができる現代では、それによって動員し繋がることができれば、ネットの力で理想的な自己組織化が起きてくるという類の、ロマン主義的な自己満足を語る論者が大量に出現することになった。だが、それがあまりに都合の良い『空想』であることは、時間の経過とともに明らかになりつつある。下手をすると、動員された人々があっという間に衆愚化して、辺境なナショナリストや、逆に夢想的な左派の、筋の悪いコミュニティの中に取り込まれてしまいかねない。昨今ではそれゆえにネットコミュニティを忌避する人も増えてきている印象さえある。

 

では、そうではない第三の道を選択したい人(東氏の言う『観光客』)は、何を拠り所にして生きればいいのか。東氏は、『家族の概念を再構築、あるいは脱構築して、観光客の新たな連帯を表現する概念に鍛え上げられないか』と考えている、という。ただ、自身述べている通り、この『家族』という概念は昨今では、非常に誤解を招きやすいため、このままでは使えない。だが、消去法で絞り込んでいくと、家族(あるいはその変種である部族やイエなど)くらいしか残らないと嘆く。その絞り込みの過程は、私には非常に重要な前提条件を可視化しているように見えるので、ここに引用しておく。

 

まず、階級は使えない。それは共産主義の理論とあまりに深く結びついており、そしてその理論は歴史的使命を終えているからである。土地も使えない。だれもがネットワークを介して全世界とつながることができるいま、主体の拠りどころを特定の地理的な領域に求めることには無理がある。血や遺伝子も使えない。それは人種主義への道だ。ジェンダーは粗すぎる。それは人間を数種類にしか区別しない。思想信条に基づく結社や趣味の共同体は、そもそもアイデンティティの核にならない。それらへの所属は自由意志で変更可能だからだ。自由意志に基づいた連帯は自由意志に基づきたやすく解消される。それがマルチチュードの弱点である。このように考えていくと、個人でも国家でもなく、自由意志で変更が可能ではなく、そして政治的連帯に使えそうな拡張性を備えた概念としては、もはや家族(あるいはその変種である部族やイエなど)ぐらいしか残らないのだ。  

『ゲンロン0』P210より

 

 

◾️ 候補としての家族

 

東氏は、まだ家族の哲学について十分に考えがまとまっていないとしながら、その『概念を脱構築、あるいは高次元での回復』された『家族』について、留意すべき三つの論点をあげている。

 

1. 強制性

家族は自由意志ではそう簡単には入退出ができない集団であり、同時に強い『感情』に支えられる集団でもあり、合理的な判断を超えた強制力がある。

 

2. 偶然性

すべての家族は偶然の産物で、本当の意味で選ぶことができない。

 

3. 拡張性

日本の『イエ』など血縁より経済的な共同性を中心として、養子縁組によって柔軟に拡張が可能な組織だった。家族の輪郭は、性と生殖だけではなく、集団と財産だけでもなく、私的な情愛によって決まることもある。時に種の壁すら超えてしまう(犬や猫も家族になりうる)。

 

今回私が述べてきた文脈で言えば、日本企業は自らをしばし『家族』に例え、経済的共同性を超えた連帯性と強制性を併せ持ち、『イエ』的な秩序と情愛による凝集力を持つ独自の集団とし、さらには永遠性を成員に感じさせる、いわば共同幻想の主体となっていた。そういう意味では、東氏の言う三つの要素がすべて盛り込まれ、機能していたとも言える。

 

だが、かつての経済環境において最適であり最強と言えた、日本の『企業一家』は、もはやそのまま維持することは難しくなりつつある。だが、それに対する郷愁もあってか、現政権は、家族回帰を志向し、あまつさえ、それを元に憲法の修正にまで手をつけようとしている。個人的には、この現政権の提示する思想には素直に共鳴することは難しいが、動機の源泉について理解することはできる。少なくとも、アイデンティティの拠り所を再構築することの重要性の認識は共有しているとも言える。

 

ただ、この『家族の哲学』の形成は非常に厄介で骨の折れる作業になりそうだ。そもそも合意形成が可能なのだろうか。というのも、前提に、論理を超えた、感情(情愛、憐れみ等)があり、人間が合理的に辿りつくことができない偶然性(人間を超えた存在の領域)がある等、論理的思考を超える概念が中核にある『家族』を論理や哲学で語り、合意を得ることは大変な難事業に思える。場合によっては一種の宗教的信念のぶつかり合いになるのではないか。安易に良いところ取りをすることも難しいように思える。

 

だが、21世紀の経済人として生き、競争に伍していくるためには、仮説であっても、アイデンティティの問題を内的に処理できる哲学を持つことは必須のように思える。現行の企業経営者にとっては、早急に、従来の企業コミュニティに代わる『企業家族』を見つけていくことが課題と感じたかもしれないが、今の日本にとっては、それほど単純な問題ではないように見える。むしろ、一旦は旧来の企業組織を解体して、個人や新『家族』をベースに再構築するくらいの徹底した再編が不可欠なところに追い込まれているというべきではないのか。

 

現段階では、古い東アジア共同体の原型をとどめている中国の家族制度のほうが、上記でいう所の『家族』としての機能が生き残っているように見える。そういう意味でも21世紀は日本より中国の勢いが良くなりそうに思えるし(すでにそうなっている)、それでも日本企業のプレゼンスをあげたければ、中国の家族制度にはない日本の家族制度の優位性としての柔軟性(中国では血縁を日本のように養子等で代替することは原則できない)を効果的に生かして、日本らしい『家族』を再構築してアイデンティティの拠り所を確立することは、何にも増して緊急課題であるように思える。だから、東氏には是非、この家族の哲学の洗練にも早急に着手して欲しいと、『ゲンロン0』を読み終わった時に何よりまず最初に感じた。

 

東氏の立場で言えば、本書を日本経済や企業の再生のために読むというのは、おそらく誤読であり、誤配に満ちているということになるだろう。だが、そのような誤読も誤配も、有益に思えるのが本書のもう一つの懐の深さだと思う。経営を思想として最後まで追求していた、ピーター・ドラッカーや、マーケティングを社会の良い意味での再構築の手段に昇華させようとしている、マーケティング界のカリスマ、フィリップ・コトラーに、本書を読ませて感想を聞いてみたいと本気で思うし、その領域を自分の次のライフワークにできないものか、夢想を掻き立ててくれる。但し、これは、すでに誤読を超えて、個人的な幻想の世界なのかもしれない。

注目すべきフランス大統領選挙/テクノロジーが導く民主主義の崩壊?

 

 

◾️ 米国大統領選に似るフランス大統領選

 

決選投票が気になるフランス大統領選挙だが、何といっても焦点は、極右政党である国民戦線の党首、マリーヌ・ル・ペン氏の動向だろう。今のところ世論調査では、独立候補のエマニュエル・マクロン氏が優位でありその勝利は揺るがないと予想されている。だが、本当にそうなるのだろうか。私たちは、昨年2度も衝撃的な『ありえない』結果を見せられてきた。いうまでもなく、Brexit(英国のEU離脱)および米国の大統領選である。かつてのトランプ候補同様、ル・ペン氏も泡沫候補に過ぎなかったはずなのに、4月23日に実施された大統領選挙の第一回投票では堂々の2位だ。

 

その第一回投票は、すでにフランスにとって歴史的といえる結果となった。決戦投票に進んだマクロン氏もル・ペン氏も、いずれも既成政党の出身ではなく、これはフランス史上初めてのことなのだという。思えば、米国の大統領選挙で見せつけられたのも既存の伝統的な政党(共和党民主党)の崩壊だ。特にトランプ氏を最終的に大統領候補に選ばざるをえなかった共和党に至っては、実質的に党の体をなしていなかった。民主党でも、『共産主義者』とまで疑われたサンダース候補の躍進ぶりは凄まじく、最後の最後まで善戦してヒラリー・クリントン候補を脅かした。トランプ候補、サンダース候補共に、党こそ違えど、既存のエスタブリッシュメントによる『ワシントン政治』に反旗を翻し、それが多数の有権者の支持につながったわけだが、今のフランスも前回の大統領選挙当時の米国と非常に似通った構図になっている。ル・ペン氏がトランプ候補のフランス版なら、共産主義者に支持され、若年層の有権者の間で人気があるというジャン=リュック・メランション氏は、サンダース候補にそっくりだ。第一回投票では20%近くの票を獲得し、決選投票にも残りかねない勢いだった。

 

決戦投票に残った、元銀行家のマクロン候補は親EUで、主要政党、大物政治家の支持を受けており、ワシントンやウオールストリートから支持されていたクリントン候補にダブって見えるし、ル・ペン候補が地方の農村部やラストベルト(錆びついた工業地帯)の支持を得ていることも、トランプ候補に重なって見える。決選投票を前にして、優勢を伝えられるマクロン候補だが、こうなると、同じく選挙前には優勢を伝えられていたクリントン候補のように見えてしまうのは、少々穿ち過ぎだろうか。確かに、米国大統領選挙は集計の手法が異なる州ごとの集計であり、総得票数で300万票近く上回っていたクリントン氏が敗北してしまうような特殊な仕組みである点はフランスとは異なる。

 

だが、何より、政治的な対立構図の背景にあるフランスの国民感情に目を向ければ、米国同様、ポピュリズムが国を覆っており、有権者は論理より『感情』によって動かされやすい状態にある。火をつければあっという間に燃え広がりかねない危うい心理状態にあると見られる。

 

 

◾️ フェイクニュースとビッグデータ分析

 

米国で、トランプ大統領誕生に預かって大きく貢献したのが、大量に投下されたフェイクニュースとビッグデータ分析だ。フェイクニュースについては、一つには親ロシア政権誕生を目論むロシアの戦略的な仕掛けが話題となったが、今回のフランス大統領選挙でも、すでにロシア発の大量のフェイクニュースが投下されているようだ。

 

一方で、ビッグデータ分析のほうだが、トランプ氏の背後で暗躍したケンブリッジ・アナリティカというコンサルティング企業が大番狂わせに大きく貢献したとされ、しかも、英国のEU離脱国民投票の際にも、EU離脱派が同社のデータ分析を活用していたことが明らかになっている。そして、すでにフランス大統領選挙でも背後で活動していると伝えられる。

 

米国大統領選挙におけるフェイクニュースの発信についても、ケンブリッジ・アナリティカの関与があった可能性は高いという。というのも、ケンブリッジ・アナリティカの大株主は、著名ヘッジファンドルネッサンス・テクノロジーズで財を成した米国の大富豪、ロバート・マーサー氏であり、そのマーサー氏はトランプ大統領の側近、オルタナ右翼のオンラインメディア『ブライトバート・ニュース』で責任者を務めた、スティーブ・バノン氏のパトロンである。『ブライトバート・ニュース』はフェイクニュース発信で非難されたことはご存知の通りだが、トランプ選対に入る前のバノン氏はケンブリッジ・アナリティカの取締役だったというから、一蓮托生を疑いたくなるところだ。

 

ケンブリッジ・アナリティカについては、『兵器化されたAI宣伝マシーン』と高く評価される一方で、『証拠に乏しいまやかし』と非難する向きもある。だが、現在のようにSNS等で大量分析データを入手できれば、かなりの程度、選挙民の分析や、操作が可能であることについては、マーケティング等でユーザー・市場分析に関わった経験のある者にとっては常識の範疇といえる。同社は米国成人2億2000万人のデータベースを所有し、それぞれに対して4,000から5,000にもおよぶデータ要素を習得しているという。そして、データベースを他社の大量のデータとつないで、個々人のプロファイルをより鮮明に浮かび上がらせる。データが大量にあって、分析のためのCPU能力が幾何級数的に向上を続ける現代のデータ分析が可能にする範囲は、おそらく一般人が想像出来るレベルをはるかに上回っていることは確かだ。

 

心理学者のダニエル・カーネマンが2002年にノーベル経済学賞を受賞して以来、非常に注目を浴びるようになった『行動経済学』から派生する幾つかの成果など、昨今ではかなり広範に受け入れられるようになってきている。

(例えば、マーケティングでもすでに実践に取り入れられている、行動心理学の手法については、次のサイトを参考にして欲しいが、もしご存知なければこの機会に熟読してみることをおすすめする。http://liskul.com/wm_bpsychology28-3342  )

 

特に、昨今のように、個人のプロファイルが詳細に特定され、操作する流路があり*1、しかも操作される側が、『理性』や『論理』ではなく、『感情』に動かされやすくなっていれば、その効果は通常に倍加して効果的に機能すると考えられる。(経済は『感情』で動いている、というのが行動経済学のテーゼでもある。)

 

もちろん、昨今、このような手法を駆使するのは、ケンブリッジ・アナリティカに限られない。米国の社会心理学者、ジョナサン・ハイト氏オバマ前大統領の大統領選当時の指名受諾演説や就任演説にこそ『感情の動員』のオーソドックスな手法が見られ、大衆には“感情の押しボタン”が5つあり、従来、共和党は5つのボタン全てを押すのに対し、民主党は3つしか押さなかったが、民主党候補のオバマは5つのボタンを全て押した結果、大統領に当選できたという。トランプ大統領側ばかりが注目されるが、クリントン候補の側も、同様のコンサルティング会社を起用していたことは知られている。

 

 

◾️ 近代民主主義の崩壊?

 

トランプ大統領誕生の理由のすべてがビッグデータ分析、というわけではあるまい。今回のフランス大統領選挙も、ル・ペン氏は勝てないかもしれない。だが、世界中にこのような構図が見られるようになってきていること、それ自体をもっと真剣に問題にする必要がある。インターネットが浸透した社会では、『ビッグデータ分析→行動特性の把握→広告宣伝による購買行動の操作』という意味での、大衆操作はますます広がっている。購買行動とはいえ、いつの間にか自分が操作されていることに不快感を感じる人は少なくないと思うが、これが政治活動に浸透するとなると、問題の深度は格段に深くなる。『自立した個人による民主主義』という近代の前提自体が成立しなくなる恐れがある。今でもすでにそうなりつつあるわけだが、今後、技術進化に伴って加速度を上げて大きくなっていく『ビッグデータ人工知能(AI)』の影響力は想像を絶するものがある。さらに一層、心理操作の勝利者=政治の勝利者となりかねない。

 

そういう意味でも、今回のフランス大統領選挙は、あらためて、目を皿のようにして、動向を見守る必要がある。この後、6月にはフランスの国民議会選挙、9月にはドイツの連邦議会選挙、2018年にはイタリア総選挙が行われる。同様に、何が起きるのか自分自身の目で見極めていくべきだ。テクノロジーに駆動されたポピュリズムが勝つのか。それとも欧州の理性が歯止めとなるのか。しかも、問題の本質は実際にどちらの候補が大統領になるか、というところだけにあるのではない。民主主義の崩壊を目の当たりにせずに済むことを今は祈るばかりだ。

*1:例えばフェイスブックの『カスタム・オーディエンス』と呼ばれるツールを使えば、候補の支持者グループのリストに含まれたユーザーのみに広告を届けることができる。2012年の大統領選でロムニー氏やオバマ前大統領も利用している

格差問題に見る日本人の意識の危うさと今後向かうべき方向について

 


◾️ 進む格差社会

 

貧困と不正を根絶するための持続的な支援/活動を100カ国以上で展開している、オックスファム・インターナショナルは『99%のための経済(An Economy for the 99%)』という最新の報告書で、富める者と貧しい者の間の格差は、これまで考えられていたよりも大きく、世界で最も豊かな8人が世界の貧しい半分の36億人に匹敵する資産を所有していること(以前の試算では62人)、1988年から2011年にかけて、世界人口の最も貧しい1割の人々の収入増は、わずか65ドルだったが、同時期に、最も豊かな1割の人々の収入増は、11,800ドル、彼らのおおよそ182倍も増加していること等を報告している。

格差に関する2017年版報告書を発表「99%のための経済」 | カテゴリー | プレスリリース | オックスファム・ジャパン

 


前作の『超・格差社会アメリカの真実*1により米国の格差社会化の現状を解りやすくに描いて見せた、経営コンサルタントの小林由美氏は新作『超一極集中社会アメリカの暴走』*2 で、『1%とその他』どころか、さらにその状況はエスカレートしていて、0.01%とその他』とも言うべき状況になっていることを様々な資料によって説明している。

 

米国の超格差社会化については、昨今様々な立場の論者が数多くの発言をしているが、異口同音に語られているのは、状況に改善の兆しは見られず、むしろ時を追うごとにエスカレートしているということだろう。しかも、これは米国だけではなく、世界に広がるトレンドであり、その意味では無論、日本もその例外ではない。

 

ただ、そうはいっても、日本は米国と比較すれば、その程度にはかなりの違いがあり、フォーブズ誌によれば2017年の日本のビリオネア(資産を10億ドル以上持つ人)は33人、ビリオネアの国別ランキングでは14位となっている(1位は米国、2位は中国)*3これについては、日米の企業文化や制度の違い、プロテスタントの宗教観、経営者のマインドの違い、日系企業の競争力の減退等、様々な分析や説明があるが、米国の超格差化の中核にいる二匹のモンスター、すなわちウオール・ストリートに住まうヘッジファンド等の金融モンスターと、シリコンバレーに住まうITジャイアントの超絶とも言える影響力のある存在が日本にはいない(逆に言えば、日本企業に競争力がないともいえるが)ことが大きかろうと思う。

 

このように述べると、競争自体や、資本主義に対して疑念を持っているように誤解されかねないが、そうではない。まして、『資本主義の終焉』などと騒ぎ立てる意図は毛頭ない。健全な競争環境、敗者復活の仕組み、社会的弱者に対する十分な手当、教育格差の解消等が建前ではなく、実際に機能していて、社会的に許容できる格差の上限という概念が存在しているのなら、格差もある程度許容していくことがむしろ社会の健全性を担保すると考える。『機会はできるだけ平等に、結果の格差は許容するが、弱者を追い詰めないようにする』というのは、資本主義が持続可能なシステムとして機能するための基本原則のはずだ。そういう意味では、米国の場合、その原則を踏み外して、『金融カジノ経済』化しており、崩壊過程に入っているように見えてしまう。小林氏の報告を始め、どの報告書(著書等)を読んでも感じるのだが、今の米国の後をそのまま追うようなことをすれば、日本社会も崩壊してしまうだろう。(よって日本の将来像は米国とは別のオールタナティブ、別の資本主義が必要だと思う。)


 

 ◾️ 階級が固定しつつある日本

 

以前に別のところでも述べたが、統計で見ても日本も明らかに格差社会に突入しつつある。OECDのデータによれば、すでに日本の相対的貧困者比率*4は先進国中最上位レベルにあり、日本より上位にあるのは米国だけで、米国の場合、自由競争が徹底していて、二極化を緩和する社会保障制度が整備されていない『例外』であることを考慮すれば、事実上日本が最上位と言っても過言ではない。さらには、日本の子供貧困率は高水準でであるだけではなく上昇しており、一人親家庭貧困率OECD諸国で最悪の水準にある。

第3−2−14図 相対的貧困率の国際比較

第3節 子どもの貧困|平成26年版子ども・若者白書(全体版) - 内閣府


 

また、先日も、ビートたけしが、319日放送の『ビートたけしTVタックル』で、『すでに(日本は)完全に格差社会になっちゃってる』と憂いて話題になっていた。また、貫井徳郎のミステリー小説『愚行録』(妻夫木聡満島ひかり主演で映画化)でも、今の日本が格差社会どころか歴然とした階層社会であることを露わに描いている。ビートたけしを含めて、映画人の感性というのは、時代の空気を読むという意味では、しばしどの先行指標より鋭敏で、しかもそれを映像で表現することに長けている。実際、米国とは違うとはいえ、日本は日本なりに格差社会が急速に進行している。そして、それは特に教育格差となって、社会を階層化する。

 

東京の大学の医学部出身の医師のブログがとても面白かったのだが、彼の同級生のほとんどは東京の一流進学校出身で、あまり大学に入るのにガツガツと勉強してはいないということを知って衝撃を受ける。いわゆる進学校出身ではなく、両親とも勉強はしないタイプという彼は、自分は受験のために死ぬほど勉強をしてボロボロになったのに、医学部に入学してみると、彼のような経歴の人間はほぼ皆無で、物凄い疎外感に囚われたという。同級生の両親はいずれも高学歴で、その両親の遺伝を引き継いでそもそも素質が高い。その上、子供の頃から学業に自然に取り組む環境がある。だから超難関の医学部への入学試験も、特にそのために特別の『受験勉強』が必要という認識がないのだという。

医学部入学者から読み解く、現代の閉塞感について | Books&Apps

 

一方では、地方から子弟を中央の大学に送るための親の経済余力は急激になくなってきている。それは、関東などの私大の教職員組合でつくる東京都私立大学教職員組合連合の調査でも明らかだ。1990年代の半ば以降、急速に仕送り額が減少しているのに(16年連続で下落)、家賃は下がっていない。


このままでは、もう一二世代の間に、崩すことが難しい『階級』が出来上がるであろうことは容易に想像がつく。 

 

 

◾️ 東日本大震災を機に変わった日本人の意識

 

 だが、そうしてあらためて振り返ってみると、妙に違和感があるのは、格差社会化は明らかに進行しているはずなのに、必ずしも怨嗟の声が社会全体を揺るがす世論となっているわけではないことだ。2000年代の中盤くらいから、格差や貧困の問題はかなり強い世論のメッセージとして、世を騒がしていた。手元に200912月に出版された『格差社会という不幸』*5 という本があって、それをあらためて見てみると、当時、格差や貧困が問題として取り上げられ、社会問題化していたことをまざまざと思い出す。

 

確かに、自民党が政権に返り咲いて以降、経済環境や雇用情勢はかなり改善されたことは事実だ。だが、当時も語られていた構造問題は今も変わっていないし、社会的な包摂が社会の仕組みとしても、システムとしても崩壊過程にあるのも変わっていない。それどころか、今後、格差や貧困を助長する主要な要因の一つと考えられる、超高齢化/総人口・生産年齢人口減少については、その深刻さが当時よりもっと鮮明になりつつある。

 

この点については、大変興味深い記事がある。早稲田大学教授の橋本健二氏が、東日本大震災6年目のタイミングに寄稿している記事だが、現状認識について、あまりに自分の感じていた違和感と符合するので、驚いてしまった。橋本氏は次のように述べている。

 

思えば震災前は「格差社会」が流行語となり、「格差社会論」と呼ばれる言説が世に満ちあふれていた。毎月何冊もの本が出版され、中身は玉石混淆だったとはいえ、それぞれに一定の読者を獲得していた。格差と貧困が現代日本の解決すべき課題だということが、共通認識となりかけていた。

ところが震災の後になると、さっと潮が引いたように、「格差社会」という文字を見かけなくなった。どうでもいいことだが、震災前には私のもとにも格差社会に関する本を書いてくれという依頼が続々と舞い込んだのに、最近ではさっぱりで、こちらから提案しても渋い顔をされることが多い。

大震災で「格差」を忘れた日本人~いったい何が起こったのか(橋本 健二) | 現代ビジネス | 講談社(1/2)

 

まさに我が意を得たり、という思いなのだが、では、どうしてこういうことになったのかといえば、東日本大震災が日本人の意識に変化をもたらしたのだと言う。その点について、橋本氏は次のように語る。

 

国民生活に関する世論調査によると、現在の生活について「満足」と答える人の比率は、21世紀に入ってから低迷を続けていたが、震災のあった2011年から顕著な上昇傾向を示し、2013年には70%を越えた。

震災があり、不景気も続いているのに、人々の生活満足度が上がったというのか。人々の政府への要望をみると、「防災」が大幅に増えた反面、「高齢社会対策」「雇用・労働問題への対応」が大幅に減っている。

どうやら震災は、日本人の意識に次のような変化をもたらしたらしい。

震災で命を落としたり、家を失ったり、避難生活を余儀なくされている人々に比べれば、自分たちはまだまだマシだ。自分を「下」だなどとは考えないようにしよう。老後の生活や雇用、そして格差の問題などは、震災復興と防災に比べれば二の次だ、と。

大震災で「格差」を忘れた日本人~いったい何が起こったのか(橋本 健二) | 現代ビジネス | 講談社(1/2)

 

東日本大震災の後には、熊本地震等もあり、確かにこのような意識は継続中なのかもしれない。だがこれは大変困った問題だ。この記事の後段で、橋本氏も嘆いているが、格差が階級に固定しつつある現状には一刻の猶予もない。早急に対処しないと手遅れになる。

 

 

◾️ 米国市場との接続の危機は去っていない

 

しかも、このタイミングで、日本と米国の市場を直結して経済の活性化を図ろうというプラン(TPP)が進展していたことを考慮すると、実に危うい状況にあったし、今もあると言わざるをえない。繰り返すが、私は資本主義も自由貿易も原則賛成の立場だ。昨今評判の悪い、いわゆる『グローバル・エコノミー』についても、世界各国の貧困層を大量に中間層に押し上げたように、正当に評価すべき点もあると考えている。だが、TPPには、ISD条項のような、米国企業の意図を日本の主権よりも優先させるような仕掛けが織り込まれていたことを勘案すると、手放しで賛成というわけにはいかない。

TPP恐怖のISD条項とはなにか?

 

幸か不幸かTPPはトランプ新大統領が批准を拒否したことで、『日本と米国の市場の直結』は一旦回避されたかに見えるが、依然、日米二か国間の協定で、ISD条項が押し付けられる可能性は低いとは言えず、そういう意味でも、日本人の世論が格差問題の恐ろしい面に目が向いていない現状には危惧しないではいられない。金の力で政治を動かし、経済のルールを自分たちの都合のよいように書き換える。しかも、パナマ文書が明らかにした通り、納めるべき税金さえ回避する。そのような存在(米国の富裕層や大企業)が日本の国家主権にまで及び、米国流を日本に持ち込むことは、やはり安易に認めるわけにはいかない。

http://www.gizmodo.jp/2016/04/post_664410.html


 

◾️ オールタナティブとしてのアジア型資本主義

 

では、先に述べた、オールタナティブとしての資本主義をどう考えていけばよいのだろう。これは、実際問題として大変な難題であることは確かだが、政治学者の進藤 榮一氏の著書『アメリカ帝国の終焉 勃興するアジアと多極化世界』*6はその点で非常に参考になる。進藤氏は、中国を中核とした欧米型とは異なる新興アジア型資本主義の興隆について、詳細な資料を駆使して述べており、終焉にあるアメリカ帝国には距離をおいて、日本は『連欧連亜』を目指すべき、と説く。嫌中感情が非常に高まっている今の日本人には、中国と聞いただけで、拒否反応を示し、遮断してしまいたくなる情報かもしれないが、現実は現実として受け止めないと、このままでは日本は幻想の中で窮乏して潰えてしまいかねない。      


進藤氏によれば、アジア経済圏では大方のイメージ(中国やシンガポール等の強権的で帝国主義を思わせるような政治手法)と正反対に、帝国主義的でない、アダム・スミスがいう『本来』の資本主義が興隆していることを実証的に述べている覇権国家としての中国には正直私自身目を背けたくなる気持ちを抑えきれないが、言われてみれば、今の若手の中国人の友人を見ていると、日本に対する偏見もなければ、政治的なバイアスもなく、非常にレベルの高いビジョンを持っていることを感じて驚かされることが多い。彼らは中国だけではなく、アジア経済圏全体、さらにはその先の市場(アフリカ等)を視野に入れており、公正で勤勉だ。

 

進藤氏の著作を読んでいると、昨今話題になる中国の『山寨モデル』*7(日本では今でも、始めから拒否反応を示す人が非常に多い)についても、冷静に再評価してみる必要があるように思えてくる。今回は、準備もなくこれ以上踏み込めないが、偏見は自分自身の目を曇らせるだけ、ということを思い出すべき時だと思う。

 

 

◾️ 夢から覚めるべき時

 

すでに、2010年代も最終コーナーに入り、世界は従来の常識とか思い込みを温存したままでは生き残れない場所になっている。日本も対岸の火事どころか、すでに火は燃え移っているのに、冷静な自己認識が出来ているどころか、自分に都合の良い夢の中をさまよっているのではないかと思えることが少なくない。価値判断は個人個人で異なってしかるべきだが、事実の認識に霧がかかったままでは、いかんともしがたい。それを反転するきっかけはたくさんあるし、日本人の持つ潜在力は、最近の日本人が卑下するほど低いわけでは決してない。この機会に『自分はもしかして夢の中にいるのでは』、という問いによって自分の考えを再評価してみることをお勧めしたい。今回のエントリーがそのための資となれば幸いである。

*1:

超・格差社会アメリカの真実

超・格差社会アメリカの真実

 

 

*2:

超一極集中社会アメリカの暴走

超一極集中社会アメリカの暴走

 

 

*3:2017年、Forbes(フォーブス)世界の長者番付ランキング トップ30

*4:

相対的貧困率とは何か:6人に1人が貧困ラインを下回る日本の現状(小林泰士) : BIG ISSUE ONLINE

*5:

 

格差社会という不幸(神保・宮台マル激トーク・オン・デマンドVII)

格差社会という不幸(神保・宮台マル激トーク・オン・デマンドVII)

 

 

*6:

 

*7:山寨 - Wikipedia

ネット広告の現状と今後について

 

 ◾️ 首位をうかがうネット広告

 

4月7日付の日経新聞が報じているが、世界の広告費は、2017年にはとうとう首位のテレビを抑えて、ネット広告が首位になる見込みのようだ。きっとそういう時代が来ることには確信があったものの、それはいつのことになるのか、ほんの数年前でさえ、無限に時間がかかるように思えたものだ。雑誌や新聞は目に見えて部数を落とし、今でも凋落が続いているが、一方テレビ広告は、様々な問題もありながら、依然強く、雑誌や新聞の凋落を尻目に増加の趨勢にさえあった。だが、近年、特にソーシャルメディアが普及すると、ネット広告がテレビを急追、とうとう2017年には追い抜くであろうことが予想されている。(ただ、日本に目を向けるとまだネット広告が首位になるには時間がかかりそうに見えるが、それでも隔世の感があることは確かだ。遠からずネット広告が首位になる日が来ると予測しても、今ではそれを笑う人はいないだろう。)

 


だが、ネット広告には、まだ固有の、未解決の問題が多いことを忘れるわけにはいかない。しかも、ネット広告のボリュームが非常に大きくなって、首位を目前にする現在では、その固有の問題がもたらす影響も相応に大きくなり、対処を誤るとネガティブな印象ばかり強くなり、最悪の場合、停滞を余儀なくされる可能性もある。

 

 昨今では(従前からかもしれないが)広告宣伝というとネガティブな事件ばかりが世を騒がすことが多く、それがもたらすメリットの部分にあまり光があたらないことは残念なことだと思う。旧来のメディアの牽制役としても、本来、ネットメディアの健全な成長は社会全体にとっても好ましいことのはずだし、昨今のYouTuberに見られるように、広告宣伝がバックアップすることで、従来にはなかった活動によって生計を立てることができる可能性を開いたことは(そこにネガティブな側面もあるにしても)素直に評価してよいと私は思う。そういう意味で、広告宣伝関係者は、もっと危機感を持つと同時に、自らの活動に胸を張れるような環境整備に精励する必要がある。

 

 

◾️ PV至上主義の問題点

 

問題点といえば、何と言っても、ネット広告のPV(ページビュー)至上主義に根ざす問題が最も大きく見える。ネット広告のメディア選定に際して、スポンサー企業がメディアの内容に関心を持たず、単純に人が沢山見にくる、という部分にしか注目しないのであれば、『内容の真偽がどうあれ面白さえすればいい』『記事の数さえ多ければいい』ということになり、フェイクニュースであふれたメディア、誹謗中傷を含み下劣で強い感情を惹起するようなメディア、著作権法抵触すれすれ(あるいは実際に抵触)で他人のコンテンツをかき集めたメディアが溢れるであろうことは当然予想されることだった。実際、ソーシャルメディアが本格的に普及し始めた、2000年代の終わり頃からこちら、悪い意味での『キュレーションメディア』『バイラルメディア』が雨後の筍のように、ものすごい勢いで増えた。

 

直近でこの問題が世間を騒がせて耳目を集めることになった例は、ご存知の通り、昨年炎上して閉じることになった、DeNAの傘下で真偽の怪しい情報を垂れ流した医療系キュレーションメディアの『WELQ』である。だが、そもそもそれ以前から市場では『モラル無きバイラルメディア』の問題はとっくに問題視されていたし、そのような話題が出る都度、関係者は、もうPV至上主義の時代は終わってユーザーとのエンゲージメント重視が主流になる、と期待を込めて述べて来た。例えば、2015年の11月に行われたイベントで、NewsPicksの編集長の佐々木紀彦氏は次のように述べている。

 

まず、「2016年の5つのメディアトレンド」についてお話しする前に、ちょうど今年の1月に、「今年のメディア業界はこうなる!」ということで、5つ予測いたしました。その予測がどうだったかということを、自己採点していきたいと思います。 まず1つ目。「PV至上主義が終わり、新王者をめぐる戦いが過熱する」という例えをしました。PV至上主義が終わるということはかなり強調していたんですが、最近メディア業界のジャーナリズム側の方に聞いても、マーケティング側の方に聞いても、「PVは売ってもしょうがない」とまでは言いませんけども、「あんまり有効じゃないよね」という声をかなり聞くようになってきまして、このトレンドはかなり浸透したんじゃないかなと思っています。

http:// http://logmi.jp/117756

 

何も佐々木氏を揶揄するつもりもなければ、予想が外れたとあげつらうつもりは全くないのだが、2016年の秋、『WELQ 』の問題が大々的に報じられ、併せて、いかに同様のキュレーションメディアが氾濫しているか、あらためて問題になったことは事実として認識しておく必要がある。佐々木氏の言うように、広告宣伝に通じた者の間では、この時点でPVがさほど有効ではないという認識が広がっていたことは確かだと私も思う。だが、クライアントの企業までその認識が浸透しきったとは言えず、依然、PVの影響力は非常に大きかったと言わざるを得ない。しかもこの年はトランプ旋風が吹き荒れて、世界的にフェイクニュースの問題が大々的に報じられ、『ポスト真実』が時代を代表する用語として浸透するまでになった。

 

 

◾️ Googleアルゴリズム vs SEO

 

しかも、少なくとも日本の状況を見る限りでは、『キュレーションメディア』や『バイラルメディア』の問題の直接の原因は、メディアのモラルや、PV至上主義の是非との関連以上に、Google検索のアルゴリズムとそれの裏をかこうとする、いわゆるSEO対策*1(その結果として検索上位となることを目指す)とのイタチごっこにあったと見るべきだろう。

 

 Googleのwebサイトの評価のロジックが被リンクの数に頼っていた頃、多くのwebサイトはひたすらリンクの獲得に取り組み、当時のSEO対策業者は、多数の(必ずしも質の良くない)リンクを売りに来たものだ。だが、それに対して、Google2012年4月、初めての『ペンギン・アップデート』と呼ばれるアルゴリズムのアップデートで作為的なリンクを検知して評価の対象から外すようになった。ところが、今度は検索キーワードに関連するテーマに関する情報やコンテンツが多くあれば、検索上位に表示されることがわかって、特定のテーマに合わせたコンテンツを大量に投下するタイプのwebメディアが現れるようになった。そうなると、とにかく『効率的に大量のコンテンツを集めること』が検索上位を実現する成功フォーミュラと見なされ、その結果、低報酬でアルバイトを雇って、ネット上にあるコンテンツを掻き集めて、若干の(著作権法を回避できる程度の)リライトを施して、キュレーションメディアと称して宣伝費を稼ぐ手法が大流行することになった。この頂点にいたのがまさに『WELQ』ということになる。

  

WELQ』の場合、医療関係者が記事の内容の問題点を指摘したことをきっかけに炎上状態となり、閉鎖を余儀なくされただけでなく、DeNAが運営する他のキュレーションメディアもドミノ倒しのように閉鎖されていった。炎上は問題点も多いので、ポジティブな評価は与えにくいところもあるのだが、この場合は、SNSが浄化作用を促す点で一定の役割りを果たすことになった。

 

これを受けて、Googleは、今年の23日に、品質の低いwebサイトの順位を下げる狙いで、日本語検索結果に与えるwebサイトの評価を方法を改善にした旨、公式ブログで発表した。その結果、旅行を扱う『RETRIP』、商品情報の『KAMUMO』、健康情報の「カラダノート』、育児情報の『マーミー』等、情報が薄いキュレーションメディアやテキストを中心とした新興メディア等が軒並み検索順位を落とすことになった。

 

PV至上主義を否定するのはいいとしても、『Google検索で表示されなければ存在しないのも同じ』という条件を課せられたwebサイトであってみれば、とにかくSEO対策で検索上位に位置し、その結果としてPVを増加しなければ、そもそも始まらないという本音を一概に否定することは難しい構造にあったことは認めざるをえない。ゴミのようなコンテンツを集めることは論外であることは言うまでもないが、検索上位となることが(十分条件ではないにせよ)必要条件として残り続ける構造は原則変わらないと考えられる。そういう意味では、このイタチごっこは多かれ少なかれ原則これからも続くと見るのが現実的だろう。しかも、検索に関わる広告という点では、根拠不明のランキングや商品比較によるステルスマーケティング*2行為を行う悪質なアフィリエイト業者(一部上場企業を含む)が、SEO対策によって、今でも検索上位に表示され続けているという指摘もある。完全な浄化までには、今しばらく時間が必要と考えられる。

「検索」を汚染するアフィリエイトの闇 広告主をも騙す、ステマの手口

 

 

◾️ YouTube広告ボイコット事件

 

ただ、Google/ 広告宣伝という点で、その後もう一つの象徴的とも言える事件が起きた。Google傘下のYouTubeで、広告のスポンサー企業が大量にボイコットを始めた。概要は次の通りだ。

 

YouTubeに掲載されたテロや反ユダヤ主義をあおる過激派グループの動画コンテンツにイギリス企業の広告が表示されているとタイムズ紙が報じた後、これまでに少なくとも250の企業がYouTubeとグーグルから自社の広告を引き揚げている。22日(現地時間)には、アメリカ最大の広告主であるAT&TベライゾンがグーグルとYouTubeの検索以外のすべてのサービスから広告の掲載を停止している。

ロイターやブルームバーグなど複数の海外メディアによると、23日(現地時間)にはアメリカのJPモルガン・チェースやヘルスケア大手のジョンソン・エンド・ジョンソンフォード・モーターなどが広告の引き揚げを決めたと言う。日本企業の中ではトヨタ自動車がすでにイギリスでの広告を取りやめたとブルームバーグが報じている。

JPモルガン、J&J、ベライゾン……。相次ぐYouTube広告の掲載停止 —— グーグル元CEO「時にアルゴリズムに翻弄されることも」 | BUSINESS INSIDER JAPAN

 

 野村グループ傘下のインスティネット証券のアナリストによれば、今回のボイコットで75000万ドル(約830億円)の損失が出る可能性があるという。YouTubeの広告収入は、Googleの総収入の7.5%を占め、広告支出の多い米国の上位20社うち、5社が広告掲載を凍結してこれは全米の7.5%を占めるというから、これでは日本のキュレーションメディア対応どころではない。案の定、Googleは早々と対処を約し、スタッフを増員して監視を強化、さらに大規模な増員で動画の審査を行う旨を発表している。

企業のYouTube広告取りやめ問題、グーグルは約830億円損失の可能性 | BUSINESS INSIDER JAPAN

 

人工知能等のアルゴリズム対応ではなく、人力対応というのが、Googleの慌てぶりを表しているとも言える。だが、今後は本件に限らず、検索広告関連でも、このような問題に対処するために、人工知能の本格導入が進むことは間違いない。というより、今回の事件はそれを早急に進めるべく、Googleにとっても大きなプレッシャーになったはずだ。(人工知能と言えば、ランジェリーブランドの『コサベラ』は、デジタル広告会社との契約を解消して、人工知能プラットフォームに切り替えたら、ROIは3倍以上、顧客基盤も30%拡大した、というような話もあるから、人工知能の進展により広告の構造自体が変質してしまう可能性もある。*3 )

 

今回の騒動は、やっとクライアント企業が自分たちの広告が表示される動画(メディア)の内容について本格的にクレームすることになったという意味で、非常に象徴的な事件と言える(しかも規模も影響金額も大きい)。現段階では検索広告には波及していないようだが、これをきっかけにして、こちらのほうにもクライアントの厳しい監視の目が及ぶようになる可能性は十分にある。そもそもいい加減なコンテンツばかりのキュレーションメディアに広告を掲載されたクライアント企業こそもっと怒ってしかるべきだろう。PV至上主義に決別して、それ以外の指標にメリットがあることをクライアントが一目でわかるように、可視化するような具体的な仕組みの導入を提案する業者もあり、今回のような事件があると耳を貸すクライアントが増えていくことは期待できる。

PV至上主義から脱却する、メディア運営のゲームチェンジャー:「オートマティック イールド」の革新性 | DIGIDAY[日本版]

 

 

◾️ 今後の見通し

 

このごとく、ネット広告には、大変多くの問題があるものの、その問題解決に向けた取り組みも進みつつある。ここまで書いてきた内容のまとめとも言えるが、少なくとも下記の3点で今後は改善は多少なりとも進んでいくだろう(但し、もうしばらく時間はかかりそうだ)。

 

1. GoogleFacebook等のアルゴリズム対応が進むこと

       未解決な問題もあるが、今後人工知能等のハイテクの

   活用も進み、ある時点から急速に改善することは期待できる。

 

 2. クライアント企業のチェックがもっと厳しくなっていくこと

       広告宣伝の熟達者が期待するほど、全体で見ればまだ

   クライアントの成熟が進んでいるとは言えない段階だが、

   象徴的な事件をきっかけに、状況が一変することはありえる。

   その過程で、PV至上主義信仰も徐々に崩れていくと考えられる

 

3. SNS等の監視がもっと激しくなっていくこと

      反面に炎上等の問題はあるが、少なくとも衆目を欺くことは

   今以上に難しくなっていくことは確かだ

 

楽観的過ぎるというお叱りがあるであろうことは覚悟の上、長期的にはネット広告の問題は、解決に向け収束していくだろうと私は考えている。特に、人工知能等のハイテクの浸透が本格的になれば、かなりのスピードで改善が進んでいくと考えられる。もちろん、そのような技術革新を待つだけではなく、関係者には現在できる最大限の努力を期待したい。

 

ちなみに、この延長でフェイクニュースの抑制も実現して欲しいところだが、こちらのほうは、もう少し複雑な事情もあり、同列に論じることができる部分とできない部分がある。政治的な情報等、価値観が相違すると、同じ出来事が違って見えるような場合には、一律の価値で機械的に対処することが難しい。この点、商品やサービスであれば、その人の属性(男女、年齢、学歴等)によって多少の好き嫌いの違いがあったりはするとはいえ、その情報の真偽ははるかに分別しやすい。よって、今回はフェイクニュースについては、意見を保留した上で、別の機会に取り上げることにしたい。