格差問題に見る日本人の意識の危うさと今後向かうべき方向について

 


◾️ 進む格差社会

 

貧困と不正を根絶するための持続的な支援/活動を100カ国以上で展開している、オックスファム・インターナショナルは『99%のための経済(An Economy for the 99%)』という最新の報告書で、富める者と貧しい者の間の格差は、これまで考えられていたよりも大きく、世界で最も豊かな8人が世界の貧しい半分の36億人に匹敵する資産を所有していること(以前の試算では62人)、1988年から2011年にかけて、世界人口の最も貧しい1割の人々の収入増は、わずか65ドルだったが、同時期に、最も豊かな1割の人々の収入増は、11,800ドル、彼らのおおよそ182倍も増加していること等を報告している。

格差に関する2017年版報告書を発表「99%のための経済」 | カテゴリー | プレスリリース | オックスファム・ジャパン

 


前作の『超・格差社会アメリカの真実*1により米国の格差社会化の現状を解りやすくに描いて見せた、経営コンサルタントの小林由美氏は新作『超一極集中社会アメリカの暴走』*2 で、『1%とその他』どころか、さらにその状況はエスカレートしていて、0.01%とその他』とも言うべき状況になっていることを様々な資料によって説明している。

 

米国の超格差社会化については、昨今様々な立場の論者が数多くの発言をしているが、異口同音に語られているのは、状況に改善の兆しは見られず、むしろ時を追うごとにエスカレートしているということだろう。しかも、これは米国だけではなく、世界に広がるトレンドであり、その意味では無論、日本もその例外ではない。

 

ただ、そうはいっても、日本は米国と比較すれば、その程度にはかなりの違いがあり、フォーブズ誌によれば2017年の日本のビリオネア(資産を10億ドル以上持つ人)は33人、ビリオネアの国別ランキングでは14位となっている(1位は米国、2位は中国)*3これについては、日米の企業文化や制度の違い、プロテスタントの宗教観、経営者のマインドの違い、日系企業の競争力の減退等、様々な分析や説明があるが、米国の超格差化の中核にいる二匹のモンスター、すなわちウオール・ストリートに住まうヘッジファンド等の金融モンスターと、シリコンバレーに住まうITジャイアントの超絶とも言える影響力のある存在が日本にはいない(逆に言えば、日本企業に競争力がないともいえるが)ことが大きかろうと思う。

 

このように述べると、競争自体や、資本主義に対して疑念を持っているように誤解されかねないが、そうではない。まして、『資本主義の終焉』などと騒ぎ立てる意図は毛頭ない。健全な競争環境、敗者復活の仕組み、社会的弱者に対する十分な手当、教育格差の解消等が建前ではなく、実際に機能していて、社会的に許容できる格差の上限という概念が存在しているのなら、格差もある程度許容していくことがむしろ社会の健全性を担保すると考える。『機会はできるだけ平等に、結果の格差は許容するが、弱者を追い詰めないようにする』というのは、資本主義が持続可能なシステムとして機能するための基本原則のはずだ。そういう意味では、米国の場合、その原則を踏み外して、『金融カジノ経済』化しており、崩壊過程に入っているように見えてしまう。小林氏の報告を始め、どの報告書(著書等)を読んでも感じるのだが、今の米国の後をそのまま追うようなことをすれば、日本社会も崩壊してしまうだろう。(よって日本の将来像は米国とは別のオールタナティブ、別の資本主義が必要だと思う。)


 

 ◾️ 階級が固定しつつある日本

 

以前に別のところでも述べたが、統計で見ても日本も明らかに格差社会に突入しつつある。OECDのデータによれば、すでに日本の相対的貧困者比率*4は先進国中最上位レベルにあり、日本より上位にあるのは米国だけで、米国の場合、自由競争が徹底していて、二極化を緩和する社会保障制度が整備されていない『例外』であることを考慮すれば、事実上日本が最上位と言っても過言ではない。さらには、日本の子供貧困率は高水準でであるだけではなく上昇しており、一人親家庭貧困率OECD諸国で最悪の水準にある。

第3−2−14図 相対的貧困率の国際比較

第3節 子どもの貧困|平成26年版子ども・若者白書(全体版) - 内閣府


 

また、先日も、ビートたけしが、319日放送の『ビートたけしTVタックル』で、『すでに(日本は)完全に格差社会になっちゃってる』と憂いて話題になっていた。また、貫井徳郎のミステリー小説『愚行録』(妻夫木聡満島ひかり主演で映画化)でも、今の日本が格差社会どころか歴然とした階層社会であることを露わに描いている。ビートたけしを含めて、映画人の感性というのは、時代の空気を読むという意味では、しばしどの先行指標より鋭敏で、しかもそれを映像で表現することに長けている。実際、米国とは違うとはいえ、日本は日本なりに格差社会が急速に進行している。そして、それは特に教育格差となって、社会を階層化する。

 

東京の大学の医学部出身の医師のブログがとても面白かったのだが、彼の同級生のほとんどは東京の一流進学校出身で、あまり大学に入るのにガツガツと勉強してはいないということを知って衝撃を受ける。いわゆる進学校出身ではなく、両親とも勉強はしないタイプという彼は、自分は受験のために死ぬほど勉強をしてボロボロになったのに、医学部に入学してみると、彼のような経歴の人間はほぼ皆無で、物凄い疎外感に囚われたという。同級生の両親はいずれも高学歴で、その両親の遺伝を引き継いでそもそも素質が高い。その上、子供の頃から学業に自然に取り組む環境がある。だから超難関の医学部への入学試験も、特にそのために特別の『受験勉強』が必要という認識がないのだという。

医学部入学者から読み解く、現代の閉塞感について | Books&Apps

 

一方では、地方から子弟を中央の大学に送るための親の経済余力は急激になくなってきている。それは、関東などの私大の教職員組合でつくる東京都私立大学教職員組合連合の調査でも明らかだ。1990年代の半ば以降、急速に仕送り額が減少しているのに(16年連続で下落)、家賃は下がっていない。


このままでは、もう一二世代の間に、崩すことが難しい『階級』が出来上がるであろうことは容易に想像がつく。 

 

 

◾️ 東日本大震災を機に変わった日本人の意識

 

 だが、そうしてあらためて振り返ってみると、妙に違和感があるのは、格差社会化は明らかに進行しているはずなのに、必ずしも怨嗟の声が社会全体を揺るがす世論となっているわけではないことだ。2000年代の中盤くらいから、格差や貧困の問題はかなり強い世論のメッセージとして、世を騒がしていた。手元に200912月に出版された『格差社会という不幸』*5 という本があって、それをあらためて見てみると、当時、格差や貧困が問題として取り上げられ、社会問題化していたことをまざまざと思い出す。

 

確かに、自民党が政権に返り咲いて以降、経済環境や雇用情勢はかなり改善されたことは事実だ。だが、当時も語られていた構造問題は今も変わっていないし、社会的な包摂が社会の仕組みとしても、システムとしても崩壊過程にあるのも変わっていない。それどころか、今後、格差や貧困を助長する主要な要因の一つと考えられる、超高齢化/総人口・生産年齢人口減少については、その深刻さが当時よりもっと鮮明になりつつある。

 

この点については、大変興味深い記事がある。早稲田大学教授の橋本健二氏が、東日本大震災6年目のタイミングに寄稿している記事だが、現状認識について、あまりに自分の感じていた違和感と符合するので、驚いてしまった。橋本氏は次のように述べている。

 

思えば震災前は「格差社会」が流行語となり、「格差社会論」と呼ばれる言説が世に満ちあふれていた。毎月何冊もの本が出版され、中身は玉石混淆だったとはいえ、それぞれに一定の読者を獲得していた。格差と貧困が現代日本の解決すべき課題だということが、共通認識となりかけていた。

ところが震災の後になると、さっと潮が引いたように、「格差社会」という文字を見かけなくなった。どうでもいいことだが、震災前には私のもとにも格差社会に関する本を書いてくれという依頼が続々と舞い込んだのに、最近ではさっぱりで、こちらから提案しても渋い顔をされることが多い。

大震災で「格差」を忘れた日本人~いったい何が起こったのか(橋本 健二) | 現代ビジネス | 講談社(1/2)

 

まさに我が意を得たり、という思いなのだが、では、どうしてこういうことになったのかといえば、東日本大震災が日本人の意識に変化をもたらしたのだと言う。その点について、橋本氏は次のように語る。

 

国民生活に関する世論調査によると、現在の生活について「満足」と答える人の比率は、21世紀に入ってから低迷を続けていたが、震災のあった2011年から顕著な上昇傾向を示し、2013年には70%を越えた。

震災があり、不景気も続いているのに、人々の生活満足度が上がったというのか。人々の政府への要望をみると、「防災」が大幅に増えた反面、「高齢社会対策」「雇用・労働問題への対応」が大幅に減っている。

どうやら震災は、日本人の意識に次のような変化をもたらしたらしい。

震災で命を落としたり、家を失ったり、避難生活を余儀なくされている人々に比べれば、自分たちはまだまだマシだ。自分を「下」だなどとは考えないようにしよう。老後の生活や雇用、そして格差の問題などは、震災復興と防災に比べれば二の次だ、と。

大震災で「格差」を忘れた日本人~いったい何が起こったのか(橋本 健二) | 現代ビジネス | 講談社(1/2)

 

東日本大震災の後には、熊本地震等もあり、確かにこのような意識は継続中なのかもしれない。だがこれは大変困った問題だ。この記事の後段で、橋本氏も嘆いているが、格差が階級に固定しつつある現状には一刻の猶予もない。早急に対処しないと手遅れになる。

 

 

◾️ 米国市場との接続の危機は去っていない

 

しかも、このタイミングで、日本と米国の市場を直結して経済の活性化を図ろうというプラン(TPP)が進展していたことを考慮すると、実に危うい状況にあったし、今もあると言わざるをえない。繰り返すが、私は資本主義も自由貿易も原則賛成の立場だ。昨今評判の悪い、いわゆる『グローバル・エコノミー』についても、世界各国の貧困層を大量に中間層に押し上げたように、正当に評価すべき点もあると考えている。だが、TPPには、ISD条項のような、米国企業の意図を日本の主権よりも優先させるような仕掛けが織り込まれていたことを勘案すると、手放しで賛成というわけにはいかない。

TPP恐怖のISD条項とはなにか?

 

幸か不幸かTPPはトランプ新大統領が批准を拒否したことで、『日本と米国の市場の直結』は一旦回避されたかに見えるが、依然、日米二か国間の協定で、ISD条項が押し付けられる可能性は低いとは言えず、そういう意味でも、日本人の世論が格差問題の恐ろしい面に目が向いていない現状には危惧しないではいられない。金の力で政治を動かし、経済のルールを自分たちの都合のよいように書き換える。しかも、パナマ文書が明らかにした通り、納めるべき税金さえ回避する。そのような存在(米国の富裕層や大企業)が日本の国家主権にまで及び、米国流を日本に持ち込むことは、やはり安易に認めるわけにはいかない。

http://www.gizmodo.jp/2016/04/post_664410.html


 

◾️ オールタナティブとしてのアジア型資本主義

 

では、先に述べた、オールタナティブとしての資本主義をどう考えていけばよいのだろう。これは、実際問題として大変な難題であることは確かだが、政治学者の進藤 榮一氏の著書『アメリカ帝国の終焉 勃興するアジアと多極化世界』*6はその点で非常に参考になる。進藤氏は、中国を中核とした欧米型とは異なる新興アジア型資本主義の興隆について、詳細な資料を駆使して述べており、終焉にあるアメリカ帝国には距離をおいて、日本は『連欧連亜』を目指すべき、と説く。嫌中感情が非常に高まっている今の日本人には、中国と聞いただけで、拒否反応を示し、遮断してしまいたくなる情報かもしれないが、現実は現実として受け止めないと、このままでは日本は幻想の中で窮乏して潰えてしまいかねない。      


進藤氏によれば、アジア経済圏では大方のイメージ(中国やシンガポール等の強権的で帝国主義を思わせるような政治手法)と正反対に、帝国主義的でない、アダム・スミスがいう『本来』の資本主義が興隆していることを実証的に述べている覇権国家としての中国には正直私自身目を背けたくなる気持ちを抑えきれないが、言われてみれば、今の若手の中国人の友人を見ていると、日本に対する偏見もなければ、政治的なバイアスもなく、非常にレベルの高いビジョンを持っていることを感じて驚かされることが多い。彼らは中国だけではなく、アジア経済圏全体、さらにはその先の市場(アフリカ等)を視野に入れており、公正で勤勉だ。

 

進藤氏の著作を読んでいると、昨今話題になる中国の『山寨モデル』*7(日本では今でも、始めから拒否反応を示す人が非常に多い)についても、冷静に再評価してみる必要があるように思えてくる。今回は、準備もなくこれ以上踏み込めないが、偏見は自分自身の目を曇らせるだけ、ということを思い出すべき時だと思う。

 

 

◾️ 夢から覚めるべき時

 

すでに、2010年代も最終コーナーに入り、世界は従来の常識とか思い込みを温存したままでは生き残れない場所になっている。日本も対岸の火事どころか、すでに火は燃え移っているのに、冷静な自己認識が出来ているどころか、自分に都合の良い夢の中をさまよっているのではないかと思えることが少なくない。価値判断は個人個人で異なってしかるべきだが、事実の認識に霧がかかったままでは、いかんともしがたい。それを反転するきっかけはたくさんあるし、日本人の持つ潜在力は、最近の日本人が卑下するほど低いわけでは決してない。この機会に『自分はもしかして夢の中にいるのでは』、という問いによって自分の考えを再評価してみることをお勧めしたい。今回のエントリーがそのための資となれば幸いである。

*1:

超・格差社会アメリカの真実

超・格差社会アメリカの真実

 

 

*2:

超一極集中社会アメリカの暴走

超一極集中社会アメリカの暴走

 

 

*3:2017年、Forbes(フォーブス)世界の長者番付ランキング トップ30

*4:

相対的貧困率とは何か:6人に1人が貧困ラインを下回る日本の現状(小林泰士) : BIG ISSUE ONLINE

*5:

 

格差社会という不幸(神保・宮台マル激トーク・オン・デマンドVII)

格差社会という不幸(神保・宮台マル激トーク・オン・デマンドVII)

 

 

*6:

 

*7:山寨 - Wikipedia

ネット広告の現状と今後について

 

 ◾️ 首位をうかがうネット広告

 

4月7日付の日経新聞が報じているが、世界の広告費は、2017年にはとうとう首位のテレビを抑えて、ネット広告が首位になる見込みのようだ。きっとそういう時代が来ることには確信があったものの、それはいつのことになるのか、ほんの数年前でさえ、無限に時間がかかるように思えたものだ。雑誌や新聞は目に見えて部数を落とし、今でも凋落が続いているが、一方テレビ広告は、様々な問題もありながら、依然強く、雑誌や新聞の凋落を尻目に増加の趨勢にさえあった。だが、近年、特にソーシャルメディアが普及すると、ネット広告がテレビを急追、とうとう2017年には追い抜くであろうことが予想されている。(ただ、日本に目を向けるとまだネット広告が首位になるには時間がかかりそうに見えるが、それでも隔世の感があることは確かだ。遠からずネット広告が首位になる日が来ると予測しても、今ではそれを笑う人はいないだろう。)

 


だが、ネット広告には、まだ固有の、未解決の問題が多いことを忘れるわけにはいかない。しかも、ネット広告のボリュームが非常に大きくなって、首位を目前にする現在では、その固有の問題がもたらす影響も相応に大きくなり、対処を誤るとネガティブな印象ばかり強くなり、最悪の場合、停滞を余儀なくされる可能性もある。

 

 昨今では(従前からかもしれないが)広告宣伝というとネガティブな事件ばかりが世を騒がすことが多く、それがもたらすメリットの部分にあまり光があたらないことは残念なことだと思う。旧来のメディアの牽制役としても、本来、ネットメディアの健全な成長は社会全体にとっても好ましいことのはずだし、昨今のYouTuberに見られるように、広告宣伝がバックアップすることで、従来にはなかった活動によって生計を立てることができる可能性を開いたことは(そこにネガティブな側面もあるにしても)素直に評価してよいと私は思う。そういう意味で、広告宣伝関係者は、もっと危機感を持つと同時に、自らの活動に胸を張れるような環境整備に精励する必要がある。

 

 

◾️ PV至上主義の問題点

 

問題点といえば、何と言っても、ネット広告のPV(ページビュー)至上主義に根ざす問題が最も大きく見える。ネット広告のメディア選定に際して、スポンサー企業がメディアの内容に関心を持たず、単純に人が沢山見にくる、という部分にしか注目しないのであれば、『内容の真偽がどうあれ面白さえすればいい』『記事の数さえ多ければいい』ということになり、フェイクニュースであふれたメディア、誹謗中傷を含み下劣で強い感情を惹起するようなメディア、著作権法抵触すれすれ(あるいは実際に抵触)で他人のコンテンツをかき集めたメディアが溢れるであろうことは当然予想されることだった。実際、ソーシャルメディアが本格的に普及し始めた、2000年代の終わり頃からこちら、悪い意味での『キュレーションメディア』『バイラルメディア』が雨後の筍のように、ものすごい勢いで増えた。

 

直近でこの問題が世間を騒がせて耳目を集めることになった例は、ご存知の通り、昨年炎上して閉じることになった、DeNAの傘下で真偽の怪しい情報を垂れ流した医療系キュレーションメディアの『WELQ』である。だが、そもそもそれ以前から市場では『モラル無きバイラルメディア』の問題はとっくに問題視されていたし、そのような話題が出る都度、関係者は、もうPV至上主義の時代は終わってユーザーとのエンゲージメント重視が主流になる、と期待を込めて述べて来た。例えば、2015年の11月に行われたイベントで、NewsPicksの編集長の佐々木紀彦氏は次のように述べている。

 

まず、「2016年の5つのメディアトレンド」についてお話しする前に、ちょうど今年の1月に、「今年のメディア業界はこうなる!」ということで、5つ予測いたしました。その予測がどうだったかということを、自己採点していきたいと思います。 まず1つ目。「PV至上主義が終わり、新王者をめぐる戦いが過熱する」という例えをしました。PV至上主義が終わるということはかなり強調していたんですが、最近メディア業界のジャーナリズム側の方に聞いても、マーケティング側の方に聞いても、「PVは売ってもしょうがない」とまでは言いませんけども、「あんまり有効じゃないよね」という声をかなり聞くようになってきまして、このトレンドはかなり浸透したんじゃないかなと思っています。

http:// http://logmi.jp/117756

 

何も佐々木氏を揶揄するつもりもなければ、予想が外れたとあげつらうつもりは全くないのだが、2016年の秋、『WELQ 』の問題が大々的に報じられ、併せて、いかに同様のキュレーションメディアが氾濫しているか、あらためて問題になったことは事実として認識しておく必要がある。佐々木氏の言うように、広告宣伝に通じた者の間では、この時点でPVがさほど有効ではないという認識が広がっていたことは確かだと私も思う。だが、クライアントの企業までその認識が浸透しきったとは言えず、依然、PVの影響力は非常に大きかったと言わざるを得ない。しかもこの年はトランプ旋風が吹き荒れて、世界的にフェイクニュースの問題が大々的に報じられ、『ポスト真実』が時代を代表する用語として浸透するまでになった。

 

 

◾️ Googleアルゴリズム vs SEO

 

しかも、少なくとも日本の状況を見る限りでは、『キュレーションメディア』や『バイラルメディア』の問題の直接の原因は、メディアのモラルや、PV至上主義の是非との関連以上に、Google検索のアルゴリズムとそれの裏をかこうとする、いわゆるSEO対策*1(その結果として検索上位となることを目指す)とのイタチごっこにあったと見るべきだろう。

 

 Googleのwebサイトの評価のロジックが被リンクの数に頼っていた頃、多くのwebサイトはひたすらリンクの獲得に取り組み、当時のSEO対策業者は、多数の(必ずしも質の良くない)リンクを売りに来たものだ。だが、それに対して、Google2012年4月、初めての『ペンギン・アップデート』と呼ばれるアルゴリズムのアップデートで作為的なリンクを検知して評価の対象から外すようになった。ところが、今度は検索キーワードに関連するテーマに関する情報やコンテンツが多くあれば、検索上位に表示されることがわかって、特定のテーマに合わせたコンテンツを大量に投下するタイプのwebメディアが現れるようになった。そうなると、とにかく『効率的に大量のコンテンツを集めること』が検索上位を実現する成功フォーミュラと見なされ、その結果、低報酬でアルバイトを雇って、ネット上にあるコンテンツを掻き集めて、若干の(著作権法を回避できる程度の)リライトを施して、キュレーションメディアと称して宣伝費を稼ぐ手法が大流行することになった。この頂点にいたのがまさに『WELQ』ということになる。

  

WELQ』の場合、医療関係者が記事の内容の問題点を指摘したことをきっかけに炎上状態となり、閉鎖を余儀なくされただけでなく、DeNAが運営する他のキュレーションメディアもドミノ倒しのように閉鎖されていった。炎上は問題点も多いので、ポジティブな評価は与えにくいところもあるのだが、この場合は、SNSが浄化作用を促す点で一定の役割りを果たすことになった。

 

これを受けて、Googleは、今年の23日に、品質の低いwebサイトの順位を下げる狙いで、日本語検索結果に与えるwebサイトの評価を方法を改善にした旨、公式ブログで発表した。その結果、旅行を扱う『RETRIP』、商品情報の『KAMUMO』、健康情報の「カラダノート』、育児情報の『マーミー』等、情報が薄いキュレーションメディアやテキストを中心とした新興メディア等が軒並み検索順位を落とすことになった。

 

PV至上主義を否定するのはいいとしても、『Google検索で表示されなければ存在しないのも同じ』という条件を課せられたwebサイトであってみれば、とにかくSEO対策で検索上位に位置し、その結果としてPVを増加しなければ、そもそも始まらないという本音を一概に否定することは難しい構造にあったことは認めざるをえない。ゴミのようなコンテンツを集めることは論外であることは言うまでもないが、検索上位となることが(十分条件ではないにせよ)必要条件として残り続ける構造は原則変わらないと考えられる。そういう意味では、このイタチごっこは多かれ少なかれ原則これからも続くと見るのが現実的だろう。しかも、検索に関わる広告という点では、根拠不明のランキングや商品比較によるステルスマーケティング*2行為を行う悪質なアフィリエイト業者(一部上場企業を含む)が、SEO対策によって、今でも検索上位に表示され続けているという指摘もある。完全な浄化までには、今しばらく時間が必要と考えられる。

「検索」を汚染するアフィリエイトの闇 広告主をも騙す、ステマの手口

 

 

◾️ YouTube広告ボイコット事件

 

ただ、Google/ 広告宣伝という点で、その後もう一つの象徴的とも言える事件が起きた。Google傘下のYouTubeで、広告のスポンサー企業が大量にボイコットを始めた。概要は次の通りだ。

 

YouTubeに掲載されたテロや反ユダヤ主義をあおる過激派グループの動画コンテンツにイギリス企業の広告が表示されているとタイムズ紙が報じた後、これまでに少なくとも250の企業がYouTubeとグーグルから自社の広告を引き揚げている。22日(現地時間)には、アメリカ最大の広告主であるAT&TベライゾンがグーグルとYouTubeの検索以外のすべてのサービスから広告の掲載を停止している。

ロイターやブルームバーグなど複数の海外メディアによると、23日(現地時間)にはアメリカのJPモルガン・チェースやヘルスケア大手のジョンソン・エンド・ジョンソンフォード・モーターなどが広告の引き揚げを決めたと言う。日本企業の中ではトヨタ自動車がすでにイギリスでの広告を取りやめたとブルームバーグが報じている。

JPモルガン、J&J、ベライゾン……。相次ぐYouTube広告の掲載停止 —— グーグル元CEO「時にアルゴリズムに翻弄されることも」 | BUSINESS INSIDER JAPAN

 

 野村グループ傘下のインスティネット証券のアナリストによれば、今回のボイコットで75000万ドル(約830億円)の損失が出る可能性があるという。YouTubeの広告収入は、Googleの総収入の7.5%を占め、広告支出の多い米国の上位20社うち、5社が広告掲載を凍結してこれは全米の7.5%を占めるというから、これでは日本のキュレーションメディア対応どころではない。案の定、Googleは早々と対処を約し、スタッフを増員して監視を強化、さらに大規模な増員で動画の審査を行う旨を発表している。

企業のYouTube広告取りやめ問題、グーグルは約830億円損失の可能性 | BUSINESS INSIDER JAPAN

 

人工知能等のアルゴリズム対応ではなく、人力対応というのが、Googleの慌てぶりを表しているとも言える。だが、今後は本件に限らず、検索広告関連でも、このような問題に対処するために、人工知能の本格導入が進むことは間違いない。というより、今回の事件はそれを早急に進めるべく、Googleにとっても大きなプレッシャーになったはずだ。(人工知能と言えば、ランジェリーブランドの『コサベラ』は、デジタル広告会社との契約を解消して、人工知能プラットフォームに切り替えたら、ROIは3倍以上、顧客基盤も30%拡大した、というような話もあるから、人工知能の進展により広告の構造自体が変質してしまう可能性もある。*3 )

 

今回の騒動は、やっとクライアント企業が自分たちの広告が表示される動画(メディア)の内容について本格的にクレームすることになったという意味で、非常に象徴的な事件と言える(しかも規模も影響金額も大きい)。現段階では検索広告には波及していないようだが、これをきっかけにして、こちらのほうにもクライアントの厳しい監視の目が及ぶようになる可能性は十分にある。そもそもいい加減なコンテンツばかりのキュレーションメディアに広告を掲載されたクライアント企業こそもっと怒ってしかるべきだろう。PV至上主義に決別して、それ以外の指標にメリットがあることをクライアントが一目でわかるように、可視化するような具体的な仕組みの導入を提案する業者もあり、今回のような事件があると耳を貸すクライアントが増えていくことは期待できる。

PV至上主義から脱却する、メディア運営のゲームチェンジャー:「オートマティック イールド」の革新性 | DIGIDAY[日本版]

 

 

◾️ 今後の見通し

 

このごとく、ネット広告には、大変多くの問題があるものの、その問題解決に向けた取り組みも進みつつある。ここまで書いてきた内容のまとめとも言えるが、少なくとも下記の3点で今後は改善は多少なりとも進んでいくだろう(但し、もうしばらく時間はかかりそうだ)。

 

1. GoogleFacebook等のアルゴリズム対応が進むこと

       未解決な問題もあるが、今後人工知能等のハイテクの

   活用も進み、ある時点から急速に改善することは期待できる。

 

 2. クライアント企業のチェックがもっと厳しくなっていくこと

       広告宣伝の熟達者が期待するほど、全体で見ればまだ

   クライアントの成熟が進んでいるとは言えない段階だが、

   象徴的な事件をきっかけに、状況が一変することはありえる。

   その過程で、PV至上主義信仰も徐々に崩れていくと考えられる

 

3. SNS等の監視がもっと激しくなっていくこと

      反面に炎上等の問題はあるが、少なくとも衆目を欺くことは

   今以上に難しくなっていくことは確かだ

 

楽観的過ぎるというお叱りがあるであろうことは覚悟の上、長期的にはネット広告の問題は、解決に向け収束していくだろうと私は考えている。特に、人工知能等のハイテクの浸透が本格的になれば、かなりのスピードで改善が進んでいくと考えられる。もちろん、そのような技術革新を待つだけではなく、関係者には現在できる最大限の努力を期待したい。

 

ちなみに、この延長でフェイクニュースの抑制も実現して欲しいところだが、こちらのほうは、もう少し複雑な事情もあり、同列に論じることができる部分とできない部分がある。政治的な情報等、価値観が相違すると、同じ出来事が違って見えるような場合には、一律の価値で機械的に対処することが難しい。この点、商品やサービスであれば、その人の属性(男女、年齢、学歴等)によって多少の好き嫌いの違いがあったりはするとはいえ、その情報の真偽ははるかに分別しやすい。よって、今回はフェイクニュースについては、意見を保留した上で、別の機会に取り上げることにしたい。

人間と機械の共生・合体について考える/人間理解が粗雑すぎる

 

◾️ 進化する義足

 

最新の技術の成果として、素直に喜び、また今後の明るい展望を信じることができる(と思える)案件に、義手や義足の進化がある。中でも思考制御型という、人間の思考で動く義足の話が最初に出て来たときには、正直そんなものが本当にできるのだろうかと率直に驚いた記憶がある。初の思考制御型ロボット義足が発表されたのは、2013年なので今から4年前のことだ。時間の感じ方の問題もあるが、それほど昔、というわけでもない。しかしながら、その後の進化はそれこそ目を見張るものがある。以下の動画をみればわかるが、実に自然な動きが可能で、通常の生活で利用するには、ほとんど問題ないように見える。

 


昨今では、人間だけではなく、ネコの義足についても大変な話題となったことは記憶に新しい。『義足』と言ったが、もちろん義手も同様に進化しており、最近ではより微妙な動きが必要とされる義指についても、開発が進んでいるようだ。

 

2020年には、オリンピックとパラリンピックが開催されるが、この分では、オリンピックの記録より、パラリンピックでの記録のほうが上回る可能性も十分にありそうだ。(すでに、トップの義足の選手の短距離走の記録はオリンピックの記録と遜色がない。)

パラリンピックの記録がスゴい。オリンピックを超える障害者スポーツの世界 | ケアラー

 

それどころか、オリンピックの陸上競技自体に義手の選手の参加も認められる方向となると、オリンピックの記録自体が義足の選手の独占となりかねない。 すでに、人間の手足に似せなくとも(ダチョウの脚をモチーフにする等)機能自体を追求する試みも出てきているが、この方向が今後エスカレートすると、そして、記録を出すことが第一優先でそのための前提条件に制限がないとすると、オリンピックもパラリンピックも一種のサイボーグの見本市になりかねない。だが、さすがにそれには違和感を持つ人が多く、批判も多い。

 

 そもそもパラリンピックの趣旨は、身体に障害を持つ人でも競技者として活躍できて、夢を追いかけることができるような機会を提供することにあったはずだ。そうして競技者を頂点にリクリエーションスポーツとして広がれば、心身ともに傷害を持つ人が健全にすごすことができると考えられる。だが、記録に焦点が当たりすぎ、記録を出すために、健常者が健康な体を機械に置き換えるような、いわばサイボーグ化にまでエスカレートするとなると、意味はまったく違ってくる。

 

 

◾️ 人間拡張工学

 

だが、人間の生身の体を機械に取り替えてしまうようなことではなく、あくまで『機能拡張』を前提として、それを『超人化』と呼び、ポジティブな可能性として定義しなおしてスポーツ自体の意味を革新しようという『超人スポーツ』という取組もあり、偏見を捨ててこの活動を公平に評価すると、確かに様々な『明るい未来』を見出すことができそうだ。

超人スポーツとは | ABOUT | 超人スポーツ協会

 

このコンセプトの考案者で、超人スポーツ協会の共同代表である、東京大学大学院の稲見昌彦教授は、人間とテクノロジーの一体化をもっと広義にとらえる『人間拡張工学』を提唱している。技術についても、特定の技術分野ではなく、あらゆる可能性のあるものを取り込んでいこうとしている。よって、バーチャルリアリティ、拡張現実感、ウエアラブル技術、ロボット技術、テレイグジスタンス(遠隔臨場感)など、身体にフォーカスするという観点から横断的にさまざまな研究分野にまたがっている。稲見教授はこの『人間拡張工学』のもたらす恩恵として、『自在化』という概念について述べている。

 

この概念を理解するには、ロボスーツ(ロボットスーツ)をイメージすると分かりやすい。ロボスーツといえば、以前からアニメや映画等では様々な形で出現しているし、最近では実際に建設現場等への導入が始まっているから、その利便性についてあらためて語る必要もなさそうだ。危険な場所での作業や、生身の人間には不可能な力作業ばかりではなく、今後は人間以上に精緻な作業もできるようになることが想定されている。しかも人間は何もスーツを着込まなくても、遠隔地からこれを操作し、ロボスーツの感覚機器を通じて、その場にいるような臨場感を持たせることができるから、いわば、一種のテレポーテーションが可能となる。テレポーテーションと言えば、それをサポートする技術として、仮想、拡張、複合現実(それぞれVRARMR)技術が今本格的に開花しつつあるが、これにロボットスーツが合体することで、人間が実際に臨場感をもってその場にいるような感覚を持てるだけではなく、その場での作業/作用も可能になり、本当に人間がその場に存在するのに近い状態を実現できる。つまり、テレポーテーションが現実になるわけだ。人間はより自由で自在な存在になる。これはものすごく多様な可能性に満ちている。そして社会のパラダイムを大きく変えてしまうインパクトがある。

 

稲見教授は、ハーバード・ビジネスレビューのインタビュー記事で、その具体的な影響について幾つか語っている。例えば、製造業などこの影響を受けてもっとも大きく変わるものの一つと考えられる。今の製造業は、労働者が生産設備のあるところ(工場)に集まって行うものだが、今後は労働者は世界中に散らばっていても、作業時間になったら、遠隔ロボットスーツを着て作業することが可能となる。ロボット化という意味では、人間を完全に置き換えるロボット化ばかりが話題になるが、精緻な作業等、作業の中にはなかなかロボット化できないものがある。だからこういう作業は当面人間がやり続けることになるかもしれない。だが、それはあなたかあなたのとなりの労働者が担当する必要はなく、遠隔地にいて、賃金が安く、しかも技能も高い労働者が担当すれば済む。そのような労働者は、世界中から引っ張りだこになるだろうから、世界中の工場の仕事を引き受けて、マルチな活躍をすることも当然考えられる(外科医が遠隔地の手術を行うのに似ている)。また、稲見教授が語る『人間のメディア化』というのは、どの人の経験であれ、遠隔地でVRの機器を使って追体験したり、その体験をパッケージにして送ったりすることを言うようだが、確かにこれも工夫次第で、ビジネスであれ、レジャーであれ様々な用途が考えられる。

“人機一体”で人間はどう変わるのか「人間拡張工学」がもたらす新しい世界 | Going Digital インタビュー|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー

 

 製造業に本格的に『人間拡張工学』が導入されるようになると、ロボットが人間の仕事に置き換わるだけではなく、人間に残った仕事も、必ずしも高度な技術が必要な仕事でなくても(通常のライン作業等)、世界中の労働者が国を出ることなく参加できるようになることを意味するから、賃金相場は世界の最低賃金のレベルに下落していくだろう。これには良い面と困った面の両面あるが、いずれにしても社会は大きく変わらざるをえない。

 

 

◾️ 機械と人間の共生/ポジティブとネガティブ

 

それでも、ここで語られる『機械と人間の共生』は比較的ポジティブで楽観的といっていいだろう。どうしてそう感じられるかと言えば、このコンセプトのコアの部分にある思想が、人間の『存在』や『身体』を毀損しないことを前提としているように思えるからだ。実際にはVR等、人間の感覚が一種の錯覚に置き換わることが前提とされていて、そのことを問題とする向きもあるが、それを言えば、メガネ、双眼鏡、顕微鏡なども問題ということになる。先に述べたような、人間の身体を機械に置き換えるような方向にエスカレートする危険もないとは言えないが、そこに一定の歯止めがあれば、概ね人間の倫理観を損ねることもなさそうに見える。

 

どのような形であれ、今後はこの共生はもっと様々な形を持ってこの世界に現れてくる。だから、その限界ラインを知り、見極める努力が否応なく必要になる。その努力次第で、『機械と人間の共生』が人類に明るい未来をもたらすこともあれば、大変な混乱、場合によっては破壊的な影響を及ぼす可能性もある。

 

人間と機械(人工知能)の共生・共同・協働・合体(やや定義の厳密性は欠くがご容赦いただきたい)という点で、現在ポジティブに見えるものの一つに将棋がある。実際に羽生善治氏のような将棋のトッププロと人工知能の直接的な対決は実現していないとはいえ、すでに人工知能のほうが人間を上回っているだろうことは暗黙の了解というべきだろう。だが、興味深いことに、現在最強なのは、単独の人間でも人工知能でもなく、人間と人工知能が協力した場合なのだそうだ。これは相互の能力が完全に相互代替的ではなく、それぞれの特性を持って補完しあうことが可能で全体としての能力を上げていけるという非常にポジティブな事例でありメッセージと言える。このことが示唆する共生のあり方を模索することは今後何より重要になっていくと考えられる。

 

一方、一見有効に見える共同に見えながら、本質的な問題に突き当たっている最近の事例に、『レベル3の自動運転車における機械と人間の運転のスイッチ』がある。レベル3の自動運転というのは、ごく単純化して言えば、人間が運転できる既存のシステム(ハンドルやブレーキ)は装備されているものの、緊急時には車両が退避行動をとるのではなく、ドライバーに運転をスイッチすることを前提としたシステムだ。

 

だが、これは言うほど簡単ではない。緊急時にドライバーが寝ていたり、意識が完全にない場合等はどうするのか。突然運転スイッチと言われても、まさにその瞬間が最も危険ということになる。とすれば、ドライバーは常に緊急時に備えて、周辺の状況を確認しておく必要があるということになるが、それではそもそも自動運転にする意味はないことになる。緊急時にも車両が自分で退避行動をとるレベル4以上か、あるいは普段はドライバーがメインで運転していて、緊急時に車両が補助にまわるようなレベル2以下の車両のほうが、合理性がある。しかも、自動運転を使えば使うほど人間の運転能力は落ちていくと考えられる。カーナビを多用すると方向感覚まで狂ってしまうのが人間だ。緊急の回避行動を行うことができる能力は、時がたてばたつほどあてにならなくなる。いつも自分で運転して、運転の能力を維持しているか、そうでなければ、完全自動運転車に運転はお任せというのでなければ、路上は大変危ない場になってしまう。

 

また、人工知能と人間の脳の合体というコンセプトについても、昨今比較的安易に語られることが多い印象があるが、これも実は要注意だ。記憶能力や計算能力等については、現在でも機械のほうが人間の脳に勝っているのだから、この弱点を補うべく合体することが可能となれば超人間が出現するだろうという考え方だ。実際現在でも、脳の中に知識はないが、それはGoogle検索で補っている、というようなあり方は、世界規模で一般化しつつあるわけだから、いわゆる『外部脳の合体』は、すでに段階的に普及しつつあるとも言える。(もっとも、合体というのは、最終的に人工知能と人間の脳が、いわば義足が人間の神経回路に繋がるがごとく、繋がることをイメージしているので、もう一段ステージが上の概念ではある。)

 

 これは私のような記憶力に自信のない者には本来朗報以外の何物でもないし、記憶力重視の日本の教育のあり方に危惧を抱く者は我が意を得た思いかもしれない。人間の能力は本来思考能力や創造力等が一番大事で、記憶などGoogleのような外部脳に任せて、必要に応じて引き出せばよいのだ、というわけだ。これは一見大変もっともな意見に聞こえるし、一端の真実があることも確かだろう。だが、一見もっともらしいからこそ要注意だ。確かに一定以上の知識を持つ人がGoogle検索を利用することのメリットははかりしれない。その人よりちょっと(かなり)記憶力が良くて、Google検索を利用しない人に勝つことは造作もないはずだ。だが、問題なのは、圧倒的に情報の記憶量が少ない人は、Google検索があっても(それ以上に優秀な検索エンジンが出て来ても)使いこなすことはできない、ということだ。しかもそのような人は興味の範囲は狭く問題意識を持つ機会も少ないだろうから、現状の記憶もどんどん劣化させてしまう可能性が高い。そのような人はフェイクニュースや、怪しげな主張や意見にもやすやすとのせられてしまう可能性が高い。普通のビジネスマンとして見ても、能力が高いとも、伸びる余地があるとも思えない

 

この点については、『クラウド時代の思考術』*1という書籍に、現在の米国の若年層が知識を持つことを軽視して、特に一般常識や教養等が上の年代と比べても圧倒的に劣る傾向にあり、その結果、玉石混交の中から、玉を見つけることがどんどん難しくなっている事例を数多くあげている。しかも、知識の量と収入についても、統計的に優位な差がある(知識が多いほうが収入も多い)と主張する。このような事例は自分の周囲にも沢山見られるようになってきている印象がある。おそらく、あなたの周りも同様の事例で溢れているのではないか。

 

 人間の思考能力はもちろん思考することによって練磨されるが、その材料は過去に蓄積した情報である。また、創造力というが、基本的に創造力というのは、まず第一に既存のものを真似たり、様々に組み合わせるところから始まる。すなわち、情報の多寡が創造力にも大いに関係している。脳に蓄積すべき情報は、できるだけ過去に歴史や科学、あるいは傑出した頭脳による検証を経たものであることが好ましいし、そのような情報を一旦受け入れた上で、その真偽を自分でも確かめ、思索することを繰り返して不断に精度を上げていく必要がある。そのような努力の結果蓄積した情報こそ、真に役立つ情報であり、そういう情報のベースがあってこそ、Google検索から最大価値を引き出せるのであり、その逆ではない

 

 

◾️『人間であること』とは

 

以前に私自身ブログにも書いたことだが、情報過剰時代の現代では、MAX24時間しかない人間の注意をめぐって可能時間を広告宣伝、ニュース、SNS等ありとあらゆる情報が争奪合戦を繰り広げている。そして、その背後には広告宣伝等のロジックが常に働いていて、人は何を買うか、何をするか、SNSでどの友人の情報を見るか、選挙で誰に投票するか、すべてアルゴリズムによって決められているといってもいいくらいだ。人間の脳の側にしっかりとした判断基準があれば、溢れるように入ってくる情報や誘導についても、自分で見極めることもできるが(それでも情報の量に圧倒されてしまいかねないが)、そうでなければ、しまいには判断するのは自分の脳ではなく、すべて外部脳ということになってしまう

 

哲学者のカントは『純粋理性批判』で、人間には、人間の五感で受容した感覚データを取りまとめる『超越論的統覚』があり、それがなければ、受容した情報がバラバラとなり、同じ物体なのに別の物体があると勘違いしてしまうと述べているが、脳に蓄積した情報がすべてアルゴリズムでもたらされた怪しげな断片情報ばかりで、しかも24時間そのジャンクのような情報にさらされて、自分で統合し真偽を検証するべく思索する時間がない、というのは、(少なくとも現段階では)人間だけが持つ、人工知能と人間を明確に別つ能力といえる『統覚』を手放すことに等しい。これはまさに、最悪の形で人工知能が人間の脳の置き換わること、とも言えるかもしれない。


先に、人間の身体を機械に置き換えることの違和感について触れたが、物理的な機能はともかく、人間の身体の感覚というのは、少なくとも現段階では、簡単に機械に置き換えられるほど単純にはできていない。人間の感覚は一般には五つ(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)あるといわれるが、健全な常識が教えるところでも、それだけでは収まりきれない。シュタイナー教育で知られる哲学者のルドルフ・シュタイナーは、(以下の通り)人間は12の感覚を持つと述べている。

 

意志と深い関わりを持つ下位感覚『触覚』『生命感覚』『運動感覚』『平衡感覚』

感情と深い関わりを持つ中位感覚『嗅覚』『味覚』『視覚』『熱感覚』

思考と深い関わりを持つ上位感覚『聴覚』『言語感覚』『思考感覚』『自我感覚』

 

これを『統覚』によって統合しているのが人間だとすると、人間は脳だけ残して、あとは機械に置き換えればよい、というような議論が如何に乱暴な議論なのかご理解いただけるだろう

 

機械/人工知能の進歩がめざましいことを認めることはやぶさかではないし、今後の可能性についても非常に大きなものがあることを私自身確信しているが、同時に、人間の側の解明がまだあまりに進んでいないことも忘れず、人間の可能性の大きさを過小評価しないことは戒めとしておく必要があると思う。

*1:

クラウド時代の思考術―Googleが教えてくれないただひとつのこと―

クラウド時代の思考術―Googleが教えてくれないただひとつのこと―

 

 

素行の悪い企業トップにあまり寛容になれない理由

 

 

◾️ 評判の悪いUber

 

タクシー配車のUberと言えば、操業開始わずか4年で世界200カ国に進出し、企業価値180億ドルを上回る、世界を驚かせたベンチャー企業であり、昨今その非現実的とも思える成功ぶりで『ユニコーン企業』(企業としての評価額が10億ドル以上かつ非上場のベンチャー企業 巨額の利益を生む可能性のある非常にレアな価値のある企業としてユニコーンという想像上の生き物の名前が冠される)の代表格とされる。一方、その成功が既存のビジネスモデルを破壊して急成長している企業を『創造的破壊企業』と呼ぶことも多くなってきているが、こちらの方でも、代表格そのものだ。各国のタクシー会社のビジネスモデルはUber影響でまさに破壊され、存亡の危機に立たされているが、既存のタクシー会社のサービスでは満たされなかったユーザーのニーズを満たし、ユーザーの利便性は格段に上がり、そのためユーザーの強い支持を得てサービスは急拡大している。

 

さらに、Uberは次世代のビジネスとして、自動運転車への参入を宣言していて、そのための人材を確保したり多額の投資をしているだけではなく、ボルボトヨタ等とのパートナーシップを組んで着々と準備を進めているように見える。少なくとも外から見る限り、さらなる巨大企業へと成長できる絶好のポジションにいる優良企業だ。

 

だが、最近、このUberの評判が大変悪い。そもそも『破壊企業』なのだから、既存のタクシー会社からは事のはじめから嫌われているし、嫌われることは『創造的破壊企業』の宿命ではある。だが、どうやら問題になっていることはそんなことではない。以前からこのUberという会社、セクハラが多いとか、企業文化が悪いとか、基本的な素行の悪さについては時々指摘されて我々にも伝わって来ていた。だが、こんなことは急に成長した企業にはありがちなことでもあり、成長過程では他のベンチャー企業でもよく見られることと、さほど問題視されなかったような印象があるのだが、どうやらそれとも違うようだ。


特に最近批判されているのは、同社共同創設者でCEOのトラビス・カラニック氏その人だったりする。しかも、セクハラはもちろんだが、勝つためにはなんでもやるというその姿勢には一線を越えた違法の匂いさえ漂ってくるし、何より美しくない。ドライバー側に配分されるはずのチップを横取りしているとか、競合会社のリフトの運営妨害とか、運賃を操作しているといった疑惑が絶え間なく出てくるという。仮に違法であっても、悪法や巨悪に対する抗議の意図が明確で、その意味で世間では同情されたり、時には賞賛されるケースというのもないわけではないが、それも違う。どうやら少々筋が悪そうだ。

 

このため、最近ではUberの将来性についても疑問視する声が大きくなってきている。特にIPOを本気でやろうと考えているなら、このまま放置しておくわけにはいかないだろう。

Uberの元エンジニアが上司の度重なるセクハラ行為を暴露 | TechCrunch Japan

 

 

それでも、このような『創造的破壊企業』は、ユーザーの意向に背を向けて、自分たちだけの既得権益に汲々とする既得権益者/抵抗勢力を破壊してくれる存在として喝采を受けている面もある。既得権益者の力が強く『世界で最も起業がしにくい国』とさえ言われている日本でも、『創造的破壊企業』待望論は根強い。だからこそ、元ライブドア社長で、有罪判決を受けて服役までした、堀江貴文氏など、今でも大変人気がある。発言も行動も既存の価値にとらわれず破天荒と言っていいし、お行儀がよいとはお世辞にも言えないが、それがまた何かを変えてくれるパワーの現れのように感じられる。もちろん、既存の大企業の経営者等から見れば、大変疎ましい存在に見えるだろう。生理的に受け付けないという人も少なくないと思う。だが、堀江氏のような『アイコン』にとっては、そのような彼を嫌う存在がまた、彼を信奉する人たちからの人気を煽る要素にもなっているとも言える。『創造的破壊者』は強い敵がいてこそ輝くと言ってもいいくらいだ。だから、Uberに対する批判も、既得権益者の秩序の破壊者というプラスの評価でしばらくは相殺され続けるようにも思える。

 

 

◾️ 悪い奴ほど出世する?

 

だが、リーダーの素行という点にあらためて焦点を当ててみると、優れたリーダーと賞賛される人が、実のところとんでもない欠点の持ち主である例はすごく多い。スタンフォード大学ビジネススクールの人気教授である、ジェフリー・フェファー氏の『悪いヤツほど出世する』*1にはそのような事例が山のように出てきて、ため息が出てきそうだ。少し長くなるが、たくさんの事例があることがポイントなので、ご紹介しておく。事例には企業経営者だけではなく、政治家等を含む(敬称略)。


 

カーリー・フィオリーナ

年商190億ドルのルーセント・テクノロジーの社長、ヒューレッド・パッカードのCEOを歴任。

自分の決定に反対する人間を容認しない。反対する意見を言うものはどんな背景があれ、容赦なく更迭した。

 

レベッカブルックス

ルパード・マードック率いるニューズ・コーポレーションの英国部門のCEO

頭脳明晰で冷酷無情、権力者や資産家との人脈作りに長けている。マードックにかわいがられる。

 

リンドン・ジョンソン

第36代米国大統領

部下をどなりつけ、叱りつけることで有名。トイレを使用中に部下を呼びつけ命令を与えていた。他人の弱みを嗅ぎつける動物的な嗅覚を備えていた。

 

ジョン・エドガー・フーバー

FBI初代長官

冷酷な支配者。数十年にわたってFBIを私物化。大統領から議員にいたるまでありと

あらゆる人物を恫喝。違法な盗聴や監視に関与し、上司である司法長官も脅迫。

反対意見を述べた部下はすぐにクビにした。

 

ヘンリー・キッシンジャー

元米国国務長官

スタッフの電話を盗聴、自分に対する部下の忠誠心を確かめていた。部下に対して情け容赦なかった。


ロジャー・エイルズ

フォックス・ニュース社長

独裁者。企業文化は脅迫的。誰もがいつもびくびくしている。

 

スティーブ・ジョブズ

アップル共同同業者

叱られた挙句クビにされることを『スティーブされる』と言われるくらい、部下は皆そのリスクに直面していた。グーグルで、『著名なCEOの名前+イヤなやつ』とAND検索すると、二位をはるかに引き離して一位になった。

 

ジェフ・ベゾス

アマゾン創業者

癇癪と罵倒で有名。

 

ビル・ゲイツ

マイクロソフト創業者

ゲイツと働くのは生きた心地がしない』(マイクロソフト共同創業者、

 ポール・アレン

 

 

ジェフリー・フェファー氏は、『君主論』で有名なマキアベリを引用して、政治や経営はきれいごとだけでは済まない面があることについても言及しているが、確かに、上記に例の上がったリーダーは、少なくともそれぞれの立場で、トップに上り詰めた成功者であり、稀に見るビジョナリーであり、改革者でもあった。日本にももちろん例はある。日本史上最も優れたビジョナリストと賞賛される織田信長は一方で稀に見る残虐非道であったことは有名だ。


このような例を並べてみると、Uberのトラビス・カラニック氏が必ずしも特別な存在とは思えなくなってくる。何より、素行の悪さでは折り紙付きだった共和党のトランプ氏は、大方の予想を覆して米国大統領になった。政治的なリーダーも経営者も、国家や企業等の組織運営を行うにあたっては、常に時間の制約や限られた選択肢の中での決断を迫られており、理想的な選択をしたくてもできないことがほとんどではあるだろう。『より悪くない』選択をやむなくし続けるというのが最もありがちなことだ。そうなると、当然、時には世間常識から言えば非道な決断もせざるをえないだろう。世間でいうところの良い子であり続けることが至難の技であることは、理解しておく必要がある。彼らは全能でもなければ、聖人君子でもない。場合によっては犯罪者すれすれどころか、中には本物の犯罪者もいる。だが、少なくとも環境不適合を起こした既存のプラットフォームを新たなプラットフォームに取り替える能力を持った人たち、そういう意味での『優れた技能者』であることは確かだ。ただ、それ以外の能力が優れているかどうかはしばしあまり意味がないとさえ言えそうだ。人格的に優れているとも限らない。トラビス・カラニック氏もそんなリーダーの一人と考えれば、素行が悪いことも特段とりたてて言うほどのことではないのかもしれない。ただ、昨今、これを仕方がないと見過ごすわけにはいかなくなっている。どういうことだろうか。

 

 

◾️ 自浄作用が働かない米国

 

資本主義も、民主主義も、かつて信じられたように世界共通の統一概念ではなく、各国の事情によって千差万別といってよいようなバリエーションがあることは今では常識と言っていい。もちろん、米国には米国の資本主義自由市場があり、民主主義がある。世に言う、『グローバル市場』というのが『米国流』の概念であることも、今ではさほど違和感なく受け入れられていると思う。そして、それを前提に昨今注意しておくべきことは、どうやらその米国流にはおそるべき『歪み』があると考えられる点だ。

 

米国では、できるだけ市場の規制をはずして自由な競争を推し進めた結果、企業は豊富な資金をつぎ込み優秀な弁護士やロビーイストを抱え込み、政治家と結託して、自分たちの有利なようにルールを書き換えた。その結果、企業の力は強くなりすぎ、普通の国民・市民の政治的な対抗力は弱まり(ほとんどなくなり)、貧富の格差が極端に広がり、中間層は疲弊し、およそ民主主義が機能しているとはいえない状態になりつつある。このような現状については、クリントン政権で労働長官を務めた、ロバート・ライシュ氏の一連の著作を始め、最近では優れた分析を多数手にすることができる。米国企業のトップの多くは、上記で見た通り聖人君子はあまりいなさそうだ(まったくいないかもしれない)。民主主義を信奉しているかどうかも怪しい。弱者や貧困層のことど気遣ってくれるとは考えにくい。だが、市場の、社会のルールは彼らが書いている。こうなると、リーダーの素行が悪さや人格的な問題はあらためて大変気になってくる。


国史上にも、短期的な利益を度返しして、社会に利益を還元するような優れた企業経営者はたくさんいたし(今もいる)、そのような行動は、その企業のブランドイメージの向上につながり、長期的にその企業を繁栄させてきた。さらに、SNSが普及した現代では、企業や企業トップが不正をしたりすればすぐに世に知れるところとなり、逆に本当に誠意があってユーザーとのコミュニケーションを大事にしていれば、企業のファンを増やし、良い口コミが市場に溢れることになり、企業の安定的な成長につながる、そのように私など信じていたし、そのような考えを持つ人は米国でも少なくないと思っていた。しかしながら、どうも今の米国では、社会の浄化の仕組みが機能しなくなっているのではないか。企業は社会的な存在であり、社会に調整能力があれば、どんなとんでもない経営者でも、徐々に社会に調和していかざるを得なくなるはずである。だが、昨今その社会の調整能力は少々疑わしくなってきている。

 

 

ロバート・ライシュ氏の『暴走する資本主義 *2の書評で、編集者の松岡正剛氏はこのあたりの事情について次のように述べている。

 

  それなら、どうするか。CSR(企業の社会的責任)を求めるというのは、どうなのか。コーポーレート・ガバナンス(企業統治力)によってバランスをとるというのは、どうなのか。これはこれまで、スーパーキャピタリズムに対するひとつの有力な回答のひとつになってきたものだった。

 スターバックスは世界のコーヒー生産量の70パーセントを購入し、マクドナルドは牛肉と鳥肉の市場の半分を動かしているのだから、その責任たるやたしかに重大である。そうではあるのだが、これについては著者のほうが疑問を呈する。あまりに失敗が目立つからである。

 企業として社会的貢献をはたしていたと思われてきたデイトンハドソンやリーバイストラウスは、この20年間で敵対的買収を受けたり、工場閉鎖を余儀なくされている。メセナ企業として知られていたポラロイド社は倒産し、労働基準においてはトップクラスのマーク・アンド・スペンサーは買収され、やはりCSRの先駆者と見られていたボディショップアニタロディックは顧問に追いやられ、ベン・ジェリーズ(アイスクリーム・メーカー)はユニリーバに買収された。

1275夜『暴走する資本主義』ロバート・B・ライシュ|松岡正剛の千夜千冊

 

 

これは大変な事態だ。やはり今の米国では、現状の仕組みを変えないと、自浄作用は働かなくなっているようだ。ところがその仕組みづくりが一部企業に牛耳られているのでは如何ともしがたい。ロバート・ライシュ氏は国民の政治意識に期待し、カナダの経営学者のヘンリー・ミンツバーグ氏は、民意を代表する存在として、NGO、社会運動、社会事業などから構成される『多元セクター』が第三の柱になる必要があると説く。だが、いずれもそんなに簡単にうまくいくようには思えないから困ったものだ。


 

◾️ 対岸の火事と済ませるわけにはいかない

 

幸か不幸か日本ではまだ、『リーダーとして成功した人物は、人格も優れていて、市民として公共の利益を代表するリーダーともなり得る』という神話がわずかながらとはいえ生き残っているように思うが、ただ、それも風前の灯かもしれない。昨今の経営者には、かつての経営者のモラルを期待することがどんどん難しくなっている。しかも、市場では旗色の悪い日本資本の企業が競争に敗れ、米国資本の企業が主流になると(そうなりそうな気配も濃厚にあるのだが)、本当に米国で起きたことが日本でも再現されることも覚悟しておく必要がある。そう考えると、既存の既得権益者の壁を打ち壊してくれる『創造的破壊企業』であったとしても、Uberのトラビス・カラニック氏素行の悪さについても、あまり寛容にはなれない。

 

また、今回はトランプ大統領の登場で、土壇場でTPPは阻止されたが、米国の業界団体の後押しでTPP案に織り込まれていた、ISD条項が本格的に日本でも猛威を振るうようになっていれば、この懸念は一気に現実となった可能性もあった。ISD条項とは、要は「例え国が定めた制度だとしても、自由貿易を邪魔するならそれを外すように訴えられる」ことを決める条項だ。これがあれば、企業が貿易や経済活動を邪魔しているという理由で各国政府を訴え、国が負けると制度廃止や損害賠償を求められる。これにはすでに数多くの事例があって、メキシコやカナダが環境保護のために禁止したり輸入制限しようとした措置に対して、米国企業が訴訟を仕掛けた結果、政府の側が負けて当該の法律を撤廃したり、多額の賠償を迫られることになった。このごとく、日本も対岸の火事と傍観してはいられない。火事は油断すると日本にも燃え移りかねない。ロバート・ライシュ氏同様、今の米国の現状を嘆くノーベル経済学者のジョセフ・E・スティグリッツ氏も、『ISD条項で日本国の主権が損なわれる』と述べていたという。

 

日本の場合、今でもマインドだけ『昭和』が生き残り、現実と整合しなくなっていると、社会学者の西田亮介氏は著書『不寛容の本質』*3で語る。西田氏によれば、油断どころか幻想の中にいるのが今の日本ということになる。気がつくと日本も大火事、とならないよう、火の用心につとめたいものだ。

*1:

悪いヤツほど出世する

悪いヤツほど出世する

 

 

*2:

 

暴走する資本主義

暴走する資本主義

 

 

*3:

 

 

日本のマーケティングはもっと進化すべきだと思う

 

◾️ AMNの提唱するアンバサダー・マーケティング

 

先日、日本におけるブログ・マーケティングあるいはカンバセーション・マーケッティング早くから手がけ、最近ではその延長で、『アンバサダー・マーケティング』を推進する、アジャイルメディア・ネットワーク(AMN)社の首脳二人(藤崎実氏、および徳力基彦氏)の共著による、『顧客視点の企業戦略:アンバサダープログラム的思考』*1という新著が発刊されたため、早速拝読してみた。

 

この本の感想を含めたコメントを読んでいただくにあたって、ここで言う『アンバサダー』の定義が理解できないと始まらないので、AMNの公式サイトより、この用語の説明を引用しておく。

 

AMNが提唱するアンバサダーとは

アンバサダー(Ambassador の意味は一般的に「大使」と翻訳され、日本では著名人や芸能人などがブランド大使として任命される時に使われることが多いようです。

 

AMNが提唱するアンバサダーは、ソーシャルメディアの発展により、個人が情報を発信できるようになった環境変化を反映させたものとなります。

 

近年、自分の好きな企業やブランドについて積極的な発言や推奨を行うだけでなく、他のユーザーへのサポートや、ブランドの擁護まで自発的に行うファンの存在が注目されています。

 

AMNではこのように企業やブランドに積極的に関わり、自発的に発言・推奨する熱量の高いファンを、「アンバサダー」と定義しています。

 

アンバサダーの活用|アジャイルメディア・ネットワーク(AMN)

 

 

 

◾️ 発祥と日本でのカスタマイズ

 

『アンバサダー・マーケティング』の概念は、ソーシャルメディアの浸透とともに発生し、開拓されてきたものであり、そういう意味では、2000年代の半ば頃以降に徐々に形を成してきた非常に新しい概念(およびその手法)である。発祥は米国である。新しいだけに、まだ『アンバサダー・マーケティング』という確立した存在があるというよりは、様々な関連領域を巻き込みながら成長途上にある概念であり手法というべきだろう。

 

この『アンバサダー・マーケティング』のパイオニアとされる、米国のズーベランスの創業者兼最高経営責任者CEO)である、ロブ・フュジェッタの著作をAMNの監修で翻訳して出版しているが(著書名は『アンバサダー・マーケティング*2 )、その原題は、『Brand Advocates: Turning Enthusiastic Customers into a Powerful Marketing Force』であり、『アンバサダー』という用語が使われているわけではない。『Brand Advocates = ブランド 提唱者』が正式な名称ということになる。ただ、だからと言って、AMNがこの概念を誤読して(あるいは意図的に曲げて)紹介している、というような誹りは少々AMNに気の毒だろう。そもそも、『アンバサダー』以上にこの『Advocates』という用語が日本人に馴染みにくいと考えたとしても、それは必ずしも間違った判断とは思えない。米国発祥の概念を日本に紹介したり、導入するにあたっては、多かれ少なかれ日本なりに再解釈する必要があることはこのケースに限らない。

 

日本のマーケティングの現場で、彼らなりに理解する『アンバサダー』という概念を日本の広告宣伝の現場に馴染む手法とともにパッケージ化して、『アンバサダー・マーケティング』という名称を与えてサービスを提供しているAMNであれば、『アンバサダー・マーケティング』は日本の概念、和製英語と言われてももはやそれを否定するどころか、むしろ自信を持って『Yes』と答えるように思える。広義の概念としては共通していても、具体的な展開を含めた細部は日本なりにカスタマイズされていくのは当然だ。そして、その日本の現場での経験の蓄積の集大成が今回の著作『顧客視点の企業戦略:アンバサダープログラム的思考』ということだろう。

 

 

◾️ ソーシャルメディアの普及で激変した市場

 

従来は企業と顧客の間には、いわゆる『情報の非対称性』(『売り手』のみが専門知識と情報を有し、『買い手』はそれを知らない状態のこと)があり、企業はかなりの程度顧客や市場をコントロールすることができた。だが、ソーシャルメディアが普及すると、顧客は思いのままに情報を発信し、互いに情報交換するようになり、顧客の情報は企業にひけを取らなくなった。そうなると、顧客は企業の宣伝を容易には信じなくなり、その企業の製品やサービスを使った他の顧客の意見や自分の身近な友人知人の意見を重視するようになる。

 

一方で企業の側では、従来は顧客が製品やサービスを認知してから、実際に購買行動を起こす(購入する)まではほぼブラックボックスで、企業の調査・アンケート・グループインタビュー等による断片的な情報以外には、ほとんど顧客の購買に至る思考プロセスをトレースすることはできなかったが、今では様々な手法で観察したり分析して購買行動の全行程を知り、その折々にコミュニケーションをとることができるようになった。また、影響力のある顧客(インフルエンサー)を見つけ、アプローチすることも可能になった。

 

この非常に大きな環境変化に対して、宣伝会社や企業マーケティング担当部門のマーケターは従来の手法に安住することはできなくなった。『インフルエンサー』『準拠集団』『顧客ロイヤルティ』『トライアルマーケティング』等、様々な概念と格闘しつつ、試行錯誤を繰り返す必要に迫られるようになった。

 

 

◾️ トリプルメディア

 

これをメディアの多様化と構造変化の問題として整理しなおすと、もう少し環境変化の構造自体が理解しやすくなるかもしれない。現在では、市場には3つの種類のメディア(トリプルメディア)があるとされており、マーケターはそれぞれの特性と、相互の関係を理解して使いこなすことが不可欠となった。それは次の3つである。

 

オウンドメディア(Owned:自社が所有するメディア)

ペイドメディア(Paid:広告費を払うメディア)

アーンドメディア(EarnedSNSなど自然拡散するメディア)


ソーシャルメディアがなかった時代には、メディアといえば、テレビ、新聞、雑誌等のペイドメディアが中心で、企業顧客、という一方通行で大量に情報を流して、一挙に認知を広げるタイプの広告宣伝が中心だったが、昨今では、顧客も発信が自由になっただけではなくて、企業もブログや自社アカウントのフェイスブック等を利用することができるようになり、発信の自由度が大幅に上がった。しかも、新しいメディアは従来と違って双方向性を持ち、企業と顧客の間は双方向で、距離も時間もはるかに縮まった。

 

その結果、マーケターはメディアの特性を考慮して、最適なメディア・ミックスを実現することが必須になった。従来、メディア・ミックスと言えば、テレビ、新聞、雑誌等の費用配分のことを意味したものだが、その時代と比較すると、マーケティングという活動ははるかに複雑化したと同時に、企業活動全体の中での影響範囲が格段に広がることになった。その結果、従来以上にマーケティングは企業経営の根幹に鎮座する活動であり概念と考えられるようになり、特に米国のようなマーケティング先進国では、先端のマーケティングの理解がCEOの必須要件の一つになっている(残念ながら日本ではまだそうとは言えない)。

 

 

現在でも、ペイドメディアの中心にあるテレビ宣伝等、大量生産・大量消費時代とはその位置付けや意味が変質して来ているとはいえ、ごく限られた時間で、大量の人に情報を伝達する役割として最適であることは変わりはない。だが、生活者の時間に強引に割り込むこの手法は従来から、潜在顧客をゆっくりと段階的に説得するような目的では有効には機能しないことはわかっていた。しかも、この情報過多の時代にあって、顧客はただでさえ情報が溢れているところにさらに聞きたくもない情報には、耳を塞ぎたいという気持ちは益々強くなっている。従って、テレビのようなマス広告の威力は減退していることが指摘されて久しい。

 

 

◾️ 企業と顧客の信頼の重要性

 

ところが、自社商品を強引に告知するのではなく、企業がオウンドメディアを使って商品やサービスで提供できる価値をもっと大きな括りでとらえて、生活者が真に知りたがっている情報を企業側から提供できるようなコンテンツをつくり、提供し続けることで、既存顧客だけではなく、潜在顧客とも良い関係を築くことができ、企業に対する信頼関係も向上し、企業やブランドへの根強いファン(アンバサダーの有力候補)を増やしていくことが可能になる。

 

この典型的な良例に、花王が開設したウェブサイト、『ピカ☆ママ コミュニティ』*3がある。これは同じ月齢の赤ちゃんを持つ新米のママが助け合うためのコミュニティサイドだが、当初は花王の社名は出さずに、場合によっては他社製品も使っているであろう新米ママに役立つ情報を発信し続けた。そのうちに、コミュニティ参加者に促されるようにして、花王の名前を出して商品情報も流し始めたというが、このような押し付けがましくない姿勢で、顧客層が真に必要としている情報提供に努め、その活動を通じて顧客層を深く理解し、商品開発に生かし、その商品を提供してコミュニティでフィードバックを受ける、という理想的なサイクルができていく。ここからは優良な口コミが自然発生的に生まれてくることは想像に難くない。そして、結果的にだが、その口コミこそ、情報過多で顧客が企業を容易には信用しない時代において、最も質が高く、効率もよい宣伝となるわけだ。しかも、これは一方通行の広告宣伝では届きにくい、商品に愛着を感じて何度も買ってくれるロイヤリティーの高い貴重な顧客との関係を一層強くする効果もある。昨今では、同様の試みは非常に多くなってきている。無印良品ネスカフェANA等、その代表事例として挙げることができ、いずれも学ぶところが非常に多い。

 

 

◾️ マーケティングの進化に追いつけていない日本企業

 

では、2017年現在、ここで述べたようなコンセプトは日本企業に正しく理解され、普及しているのかといえば、とてもそのようには思えない。一部企業、あるいは、企業内の優秀なマーケター、AMNのような宣伝会社等、日本でも、現在の市場での環境変化の意味を理解して、改革に取り組む企業や人が増えてきていることは事実だが、全体でいえばまだまだマイノリティと言わざるをえないのではないか。今だに、自分が若いころに経験した大量生産時代の広告宣伝しか理解できない経営層が多すぎる印象が強い。AMNのアンバサダー・マーケティングのイベントに出席すると、各社の成功事例のシェアが行われているが、非常に印象的なのが、『企業のマーケターや広告宣伝担当が企業内の上層部に対して、どうすればアンバサダー・マーケティングに対する理解を得ることができるか』というテーマに関わるシェアが行われていることだ。これが今の日本企業の実情を雄弁に物語っている。個人として理解している人が出てきていることと、組織全体、あるいはシニアが多い上層部・経営層が理解が浸透していることとはまったく意味が違う。日本企業の場合、まだこの断層は非常に深い。

 

世界的なマーケティング研究の第一人者、フィリップ・コトラー氏も、日本はマーケティングに対する正しい理解が進んでおらず、その結果昨今の市場の環境変化についていけていない会社が多く、それが日本全体の停滞の原因ではないかと述べている。

マーケティング4.0の時代に、日本企業は何をすべきか ――フィリップ・コトラー | フィリップ・コトラーが資本主義を語る|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー

 

 

コトラー氏は、マーケティングの進化について次のように語る。

 

マーケティング1.0は、1950年代のアメリカで生まれたモデルであり「製品中心のマーケティング」のことである。技術革新によって製造業が経済の中心となり、生産コストをできるだけおさえて安価な製品をつくり、マス市場を対象に売り込む。「製品を販売すること」を目的に、製品機能そのものが価値をもつ。

 

マーケティング2.0は、「顧客志向のマーケティング」である。顧客にとって多くの製品がコモディティ化し、製品そのもので付加価値を与えることが難しくなったことから、顧客ニーズを起点に考える時代になった。その結果、製品やサービスがもたらす価値は企業が決めるのではなく、顧客が決める時代となったのだ。

 

つまり、顧客主導のマーケティングでは、「顧客を満足させ、つなぎとめること」を目的に、企業は製品の機能ではなく、顧客のニーズをくみ取ることが大切になった。大量生産・大量消費型のビジネスモデルが崩れ、多品種少量生産型経済が到来したのである。

 

マーケティング3.0は、「価値主導のマーケティング」である。価値主導のマーケティングとは、潜在的な顧客の隠れたニーズを探ること、そして顧客を全人的な存在として扱うことを意味する。「世界をよりよい場所にすること」を目的とし、企業は、生活者に製品やサービスだけでなく、精神的価値や社会的価値を提供する存在へと変貌したのだ。

 

マーケティング3.0 時代は、マーケティング2.0 時代に有効とされたリサーチに頼っても他社との優位性を築くことはできない。顕在化したニーズで競争をすると、ただの価格競争しかもたらさないからだ。

 

それでは「マーケティング4.0」はどのようなマーケティングなのだろうか―。

それは「自己実現欲求」に焦点を絞ったマーケティングである。

 

の「自己実現欲求」のことを指す。ここでいう自己実現欲求とは、人間の最上位の欲求であり、「自分に注目してほしい」「自分の所属するグループは、ほかとは違う」というだけではなく、「自分が何者か」ということをはっきりと示せるようになりたいという欲求である。

 

日本に必要な「マーケティング4.0」とは何か | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)

 

すなわち、コトラー氏によれば、マーケティングはすでに4.0を語るべき段階に来ているという。

 

残念なことに、日本企業の経営者の多くは、コトラー氏が嘆く通り、マーケティング1.0の段階の止まっているとしか思えないし、どんなに良くても2.0を少し理解できている程度といったところだろう。今だに製品中心主義が抜けていない。そういう意味では、かつて製造業で成功し過ぎた日本企業の多くは、いまだにマインドの深い部分が切り替わっていないと言えるのかもしれない。

 

 

◾️ ビジネスモデルの危機:フェイクニュースの蔓延

 

もう一つ、AMNの活動の逆風は、昨今の『ポスト真実』『フェイクニュース』の風潮だ。米国大統領選挙に関連して、米国では間違った情報が場合によっては意図的に織り込まれた、いわゆるフェイクニュースの拡散が非常に大きな問題になって、フェイクニュース拡散の一翼を図らずも担うことになった、GoogleFacebookにも対処が迫られている。日本でも、情報の不正確さや制作体制について各所で問題視されて閉鎖に追い込まれた、医療・ヘルスケア情報のキュレーションメディア『WELQ(ウェルク)』(DeNAが運営に関わっていた) のケースなど、この風潮を代表する一例と言える。

 

WELQ』は、先に述べた花王『ピカ☆ママ コミュニティ』等とはまさに対局の存在であり、情報を見に来るユーザーの利益は二の次で、情報が不正確でもとにかくキャッチーなタイトルと目新しさや表面的な面白さで沢山人を集めて、バナー広告等の広告宣伝収入を上げることだけを目的として運営されていた。しかも、一人『WELQ』だけの問題ではなく、情報が不正確でも、他者のパクリでも、感情に訴えて人を集めることだけを目的とするようなビジネスモデルが日本で成立して見えるところが問題で、同種のサイトが現在でも大量に存在する。こんなことでは、市場の一般人は企業のオウンドメディアも、SNSから流れてくる情報も信用できなくなり、離れてしまう恐れがあるし、現実に今そのような兆しがある。『WELQ』については、 AMNの徳力氏も、ほとんど悲鳴のような記事を寄稿していたが、それはそうだろう。自社が渾身で取り組むビジネスモデルの危機につながりかねない大事件だからだ。(あまりに感情的になって書いた記事は、その趣旨を誤解されて批判も受けているようだが・・)。

 

 

◾️ マーケティングの進化が日本を救う?

 

このように、日本においては、正直現在のところ強い逆風にさらされているように見える『アンバサダー・マーケティング』だが、逆に言えば、逆風が吹く現状の原因こそ、日本企業停滞の真因とも言えるものであり、そこのところを徹底的に分析して、対処策を検討してみる必要がありそうだ。『アンバサダー・マーケティング』のようなマーケティング手法が日本企業に浸透することは、日本のマーケティングを1.0から上位シフトさせることにつながり、それは取り組んだ企業に繁栄をもたらすだけではなく、企業活動を浄化し、社会に信頼感の重要性を再認識させ、その結果として経済全般としても活性化することができる可能性を秘めている。少なくとも私はそう考えている。だから、AMNに限らず、マーケティングの新しい地平を開くべく取り組む人達にはこれからも注目し、応援もしていきたいと思う。

*1:

 

顧客視点の企業戦略: アンバサダープログラム的思考

顧客視点の企業戦略: アンバサダープログラム的思考

 

 

*2:

 

アンバサダー・マーケティング

アンバサダー・マーケティング

 

 

*3:

pikamama.community.kao.com

人工知能と人間の決定的な違いは何か?

 

◾️ 人工知能は人間を超えるとの信念

 

脳の解明が進み、人工知能の能力が拡大していけば、人間を超える存在となる、というシナリオがある(かなり広範に流布している)。日本ではそのまま賛同する人は少数派だと思うが(そう私が思っているだけなのかもしれないが)、欧米での議論を時々見ていると、時期は別として、そのようになることを信じきっている人が意外なほど多いことに驚く。それは何も、人工知能の明るい未来を語り、シンギュラリティを好意的に唱導する人ばかりではなく、逆に、人工知能により人類が滅びる恐れがあると語る人たち(ホーキング、ビル・ゲイツイーロン・マスク等)の暗黙の前提にこそ、ゆくゆくは人間を超える存在になるという信念があるように思える。

 

 

◾️ 人間と動物/人工知能の違いは?

 

この問題は、議論の前提を合わせるのが結構厄介で、そもそも『人間を超える』という概念自体が曖昧だ。現代のコンピュータはもちろん、簡単な計算機でさえ、すでにとっくに人間(人間の能力)を超えている。だが、もちろんここでは、計算能力とか記憶力といったような要素が議論の対象となっているわけではないことは明らかだ。

 

では、人間が人間であって、それを少なくとも今のレベルの人工知能や機械、あるいは動物を隔てているものは何なのか。ロボットや動物は身体的な能力という点では、人間の能力を上回るものはいくらでもある。だから、身体能力も該当しない。記憶力も、論理計算能力も、身体能力も違う。感情も動物にもある。となると常識として普通に考え付くのは、理性、そしてそれを可能ならしめている言語、ということになろう。この辺りは、古代ギリシアの哲学者、アリストテレスまでさかのぼれる人間の常識でもある。アリストテレスは、『人間の理性・魂は他の動物とは全然違ったものであり、その別物のあらわれは言語である』と考えた。そして、これは動物を人工知能と置き換えても該当する違いでもある。

 

 

◾️ 人間と動物/人工知能は繋がっている?

 

だが、ここで当然のように考えられる反論がある。進化論で有名なダーウィンは『種の起源』『人間の由来』で、種は下等動物から高等動物か連続的につながっていて、猿は人間につながって(連なって)いるから、人間の言語と動物の発する叫び声には、本質的な相違があるのではなく、『程度の差』だと主張した。したがって、ダーウィンの説によれば、時間がどれほどかかるかは別として、猿は時間が経つと人間の言語や理性を獲得するということになる。

 

これは、人工知能に関して、現代の、特に欧米に多い言説と非常によく似ている。『人工知能と人間の差は本質的な相違ではなく、程度の差であり、時間がかかれば人間に追いついて、言語であれ理性であれ獲得する』という信念がそれである。こうしてみると、ダーウィンの進化論の思想がこれらの言説の背景にあると考えられる。ダーウィンの結論が先にあるから、この問題をこれ以上自分自身で徹底的に考え抜くという姿勢があまり見られない。だが、本当にそれでいいのだろうか。

 

ダーウィンは若い頃には、当時世界で一番未開の地の人間と言われ、人間より類人猿に近いと考えていた、少なくともイギリス人との間に何千年か何万年かの差があると考えていたフェゴ人が、ロンドンに連れてこられるとわずか数年で英語を喋り、刺繍を器用にこなす等、文化的に数万年の差であるものが、なぜわずか数年で追いつくことができるのか、非常に不思議な感じを抱いていたという。この『感じ』は『進化論』には反映されなかったようだ。)

 

 

◾️ 人間の本質的な違い

 

この欧米の言説に対する違和感は、私自身以前から抱いていたものだが、これをうまく言語化して、記事にすることができずにいた。だが、書庫をひっくり返していて、以前買い置きして読まずにいた本を再発見して、ここのところを非常にうまく説明しているように思える文章が載る著作に遭遇した。『知性としての精神―プラトンの現代的意義を探る』*1という著作である。これは6人の論者による編著だが、中でも、全体のまとめ役としての、上智大学名誉教授の渡部昇一氏の小論にはとても考えさせられる。

 

渡部氏は、人間の言語の特徴を考えると、それは動物のものとは質的に違うことは明らかとして、人間の言語の特徴として、大きく次の3つを上げている。

 

1. 人間の言語には文節がある

2. 人間の言語は意味と音の結びつき方が恣意的である

3. 人間の言語は、ボキャブラリーを無限に増やせる

 

そして、この3つの特徴を備えたものこそ人間の言語であり、動物との差は『程度の差』ではなく『本質の差』だという。

 

もう少し具体的に本書の渡部氏の言説に沿って、ご説明してみよう。

 

1. 人間の言語には文節がある

 

人間の言葉には文節がある、ということは必ず子音と母音に分けることができるが(そしてそれは言葉を無限に数を増やせる前提となっている)、動物はこれができない(オウムのような真似はあるが人間の言語とは違う)。動物の声は言語ではなくて信号であり、文節した音でもなければ言語でもない。

 

 

2. 人間の言葉は意味と音の結びつき方が恣意的である

 

人間の言葉は意味と言葉の結びつき方が恣意的で、ある音にある意味をつけなければならないという決まりはない。だが、動物は例えば犬が悲しいときに嬉しそうな鳴き声をしろと言ってもできない。動物の声は恣意的ではない。人間の場合、感嘆詞だけは例外で、その代わり、ローマ人などこれを『間投詞』と呼んで、『人間の言葉があるところに、間投詞だけはどうも言葉でないものが投げ込まれた感じである』ということを言っていたという。

 

 

3. 人間の言語は、ボキャブラリーを無限に増やせる

 

人間のボキャブラリー(語彙)は無限に増やせ、実際日本語に限っても毎年のように新語辞典が出る。世界の言語の数は説によって異なるが3000~6000語と言われており、そのそれぞれで同様に語彙が増え続けている。それに対して、犬の言葉は何千年経っても20語前後だろうし、どんどん語彙を増やした犬という例は聞いたことがない。

 

 

この3つの特徴を備えたものこそ、人間の言語であり、これは程度の差ではなく、『本質の差』というべきだ。そして、この特徴は人間の独特の理性があるからこそ成り立つものである。かつてはアリストテレスが洞察したごとく、バイブルが言うがごとく、そして、世界中の常識が言うがごとく、ある段階で人間と動物を程度でなく質的に画然と区別する『理性』というものが突如生じたとしか考えられないとする。

 

これを受けて、実践女子大学教授(本書執筆時点での役職)の松田義幸氏は、『言語という名の奇跡』*2を書いた、リチャード・ウィルソンを引用して、『本質的な差』について、さらに説明している。

 

動物にも人間と同じように感覚も本能も感情もある。不安、恐怖、疑念、勇気、臆病、復讐心、嫉妬、恥かしさ、つつましさ、軽蔑、ユーモア、驚異の念、好奇心などの感情がある。また、模倣、決意、記憶、想像、推論といった知的な能力もある。しかしこれらのさまざまな感情や能力(下位能力)に似たところがあっても、『統覚』というこれらの下位能力に一定の秩序を与え、物事を総合的に統合する知的能力、つまり理性は動物にはない。これは人間の一番の特徴である。そして、人間の言語はこの理性から生まれたものである。人間はこの理性と言語を使って、原初の宇宙にもまた百年後の未来にも自由に思いを寄せることができる。また部屋にいながらにして、マスメディアを通して、世界でいまなにが起きているかを知ることができる。

『言語という名の奇跡』より

 

 

では、その本質的な差がどのようにして生まれたかという疑問については、今回は述べることはしないし、短い説明では到底それは成し得ないが、現実に明らかに『統覚』『理性』『人間に特徴的な言語』が人間にしかないものとして存在することは疑い得ず、しかも、動物であれ人工知能であれ、漸進的な変化により到達できる種類のものではないことは認めていかざるをえないと私には思える。もしかするとこれは現時点では少数意見なのかもしれないが、だからといって解けない疑問を前に、やすやすと思考停止しているようでは、現代世界の最大級の難問に真摯に立ち向かっているとは言えないと思う。

 

 

◾️ 人間たる本質を喪失しつつある現代人

 

ちなみに、『統覚』が人間を人間たらしめている本質だとすれば、もう一つどうしても考えておくべき問題がある。昨今の情報過多の時代においては、人間の注意(アテンション)の争奪戦が起きていて、MAXでも24時間しかない人間の注意可能時間を、広告宣伝、ニュース、SNSの友人の情報等、ありとあらゆる情報が争奪しようと争っている。しかも、昨今では特に、人は不正確な情報、あるいは早すぎて咀嚼/理解が及ばない情報によって振り回されるようになってきている。何を買うか決めるのも人間が決めるというより、アマゾンのレコメンドが決めている。あるいはSNSの友人の口コミによって決めている。しかもSNSでどの友人の情報を見るかはSNSアルゴリズムによって決められている。その元になっているのは過去の自分の行動履歴だ。人間の顕在意識の下位にアルゴリズムが形成したある種の意識層があって、人間の統覚を麻痺させ、人間の行動の真の源泉となりつつあるようにさえ思える。これは、かなり重要な問題で、人間が人間たる本質を喪失しつつあるとさえ言えるのではないか。少なくともその事実に気づき、人間理性の本来の働きを取り戻すことが人間の非常に大きな課題となっているように思えてくる。ただし、これは今回述べようとした内容のさらにその次の課題になるので、今回はそれを指摘したところで、止めておこうと思う。

 

 

*1:

知性としての精神―プラトンの現代的意義を探る (エンゼル叢書)

知性としての精神―プラトンの現代的意義を探る (エンゼル叢書)

 

 

 

*2:

 

言語という名の奇跡

言語という名の奇跡

 

 

 

パーソナルデータ活用で米国に敗北が決定的! 起死回生の妙案はあるか?

 

 

先日( 2/9)、国際大学GLOCOM主催で行われた『パーソナルデータの自己活用と法的課題』というセミナーに出席した。これは、『マイデータ活用に関する連続セミナーシリーズ』の第2回目で、今回はマイデータ活用に関わる法的課題について講演およびパネルディスカッションが行われた。

 

開催概要は下記の通り。

 

 日時

201729日(木) 16001800

登壇者

板倉 陽一郎(弁護士、ひかり総合法律事務所)
川上 正隆(青山学院大学大学院法学研究科客員教授

会場

国際大学グローバル・コミュニケーション・センター

定員

80名(先着順)

概要

これまで、個人情報保護の議論においては、消費者の情報を事業者が活用する中で、個人の権利を保護するという形態が中心的に想定されてきました。しかし、個人情報の活用・流通をめぐっては、当事者である本人が積極的に関与し、本人の意思によって活用を行えるようにすべきとの考え方もあります。「情報銀行」や「マイデータ」、「PDS(パーソナル・データ・ストア)」と呼ばれるこうしたパーソナルデータの活用は、多くの分野でその適用可能性が考えられます。本連続セミナーでは、全3回の開催を通じて、こうしたパーソナルデータの自己活用について多方面から議論を行い、理解を深めることとします。
2回は、第1回で議論したPDS(パーソナル・データ・ストア)の考え方に対して、検討すべき法律的な論点やその解決の方向性について議論を行います。

 

パーソナルデータの自己活用と法的課題【マイデータ活用に関する連続セミナーシリーズ第2回】 | 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター

 

 

 

 ◾️ 背景

 

本格的なビッグデータ利用の時代に入り、企業にとっては、情報利用の巧拙が決定的な競争要因となることが避けられない状況になってきており、中でも付加価値の大きい『消費者の情報』活用のニーズは高い。だが、個人情報の活用/流通にあたっては、当事者である本人が直接関与し、本人の意思で活用が行えるようにするべきという議論も根強い。これは、企業に自分の個人情報を預けることで、情報が自分の意図しない使い方をされて、その被害を被ったり、流出したりするリスクがあることを鑑み、個人の情報に関して、その裁量と責任を個人の側に戻しておくべきという個人の側のニーズもあるが、一方で、個人が漠然とした不安を抱えたままでは、JR東日本のICカード、Suicaの情報販売中止騒動のように、法的には個人情報販売に相当しないと考えられるケースでさえ、ユーザーの不安が煽られると、騒動になってしまうような事例もあって、分かり易い仕組みができることは、企業側にもメリットがあるという事情もある。この仕組みの具体策として、『情報銀行』、『マイデータ』『PDS(パーソナル・データ・ストア)』等のアイデアが出てきており、その法的な課題や問題点について議論された。

 

 

◾️ 登壇者

 

今回の登壇者は、政府部内で『情報銀行』等の検討に直接関与した、板倉陽一郎弁護士(ひかり総合法律事務所)と、在野の立場で検討の経緯を批判的に論評する川上正隆氏(青山学院大学大学院法学研究科客員教授)であり、自然、両者の活発な討論を期待させる取り合わせだった。だが、実際にはそれほど対立的な議論とはならず、板倉氏は川上氏の発言の主旨も理解しつつ、現実の着地点を探すことに苦慮しているとの心情を吐露していた。立場の異なる両者とはいえ、それぞれの立場で、企業の競争力、ひいては日本の国力そのものに直結しかねない大問題をなんとか軟着陸させようという誠意は十分に感じられる。そして、この議論を通じて、現在の日本が抱える構造問題が見事に浮かび上がってくる。

 

 

◾️ 川上氏の主張

 

両者の説明内容についていえば、やはり私自身が企業内で、常にビジネスの側からの視点でこの問題を見ている立場でもあり、一貫して事業者の立場からこの問題を語る川上氏のご意見にどうしても賛意を感じてしまう。

 

川上氏の主張のポイントは明快で、本来、『情報銀行』等の案件は、比較的限定的なビジネスモデル(事業案)であり、その範囲において該当する法律を考慮すればすむ問題のはずなのに、法律家や研究者の手にかかると、どうしてもビジネスモデルの範疇とは関係ない、広い範囲の法律問題まで検討の範囲に入れようとする傾向があると嘆く。そして、このようなことになってしまうのは、何より検討メンバーに事業者がいないことが原因とする。

 

 

◾️ Yahoo! の別所氏の嘆き

 

川上氏も説明の中で引用しているが、個人情報保護法改正の検討の途上で、政府の『パーソナルデータに関する検討会』事務局より、パーソナルデータ(個人に関する情報銀行)に関する制度の見直し方針が示された際に、このままでは『日本のITが完敗してしまう恐れもある』と強い異議を唱えていた人がいる。ヤフーの別所直哉執行役員である。

 

別所氏は、特に次の2点について、問題を指摘していた。

 

1. 第三者機関の設置

       萎縮効果や過度にプライバシー保護に偏った執行が行われる懸念。

 

2. プライバシー保護という基本理念を踏まえて判断という規定

    個人情報保護法が規定する範囲より広がり、プライバシーという

   あいまいな概念による恣意的な規制につながる恐れ

 

別所氏の主張する『日本のあり方』は、米国のデータ流通の形に近く、事業者にプライバシーポリシーの策定を義務づける等の業界の自主規制を促しつつも、自由なデータ流通を推進するあり方であり、実際、米国のIT大手である、GoogleAmazon等と直接に対峙している立場であれば当然の主張といえる。米国大手IT企業は、日本でも、日本のサービス事業者を蹴散らす勢いで活動していて、影響力は甚大だが、彼らの準拠法は大抵は米国法であり(日本法ではなく)、法律で明確に禁止されていなければ『やってよい』と解釈し、問題が起きれば裁判で決着をつける、という姿勢だ。法律に明確に記載してなければ、『原則禁止』として竦んでしまうか、監督官庁からのガイドライン等で、やってもよいとのお墨付きを得るまで動かない(動けない)日本企業とは正反対で、どちらが市場で競争に勝つかは火を見るより明らかだ。

 

別所氏もこの時すでに主張しているように、一定の条件を満たさない限りデータを流さないという方式はEUのデータ流通に近く、ITビジネスで米国に敗れたEUの後を追うことになると嘆いているが、その嘆きは残念ながらその後の議論に生かされることはなかったようだ。これはEUの例を見るまでもなく、日本のIT企業が何度も泣かされていた構図を今また繰り返している、いわば『デジャブ』である。カドカワの川上会長など一方でダブルスタンダードを黙認しているのであれば、海外のIT企業を日本の市場から締め出す、鎖国をするべき、と述べていたものだが、その嘆きも、結局虚空に虚しく響くばかりだった。

 

 

◾️ 明るい未来像を描けない需要家

 

しかも、これだけ分厚い法律議論を重ねた結果、事業者が『情報銀行』等の仕組みを活用したビジネスに明るい未来像を描いているかというと、とてもそうは思えない。会場の質疑等での事業者の声を聞いても、議論の行方はウオッチしているし、仕組みができれば参加する意向はあるが、ビジネス的に成立する目処はたたず、実験的な参加となるだろうという意見が少なくない。

 

しかし、繰り返すが、これは本当にいつか来た道で、日本の法律は米国とは正反対で、法律で規定していないことは基本的には『やってはいけないこと』であり、法律に書いてなければ『やっていいこと』とされる米国とそもそもスピードが違いすぎる。しかも、個人情報保護法など典型的にそうだが、特に行政法では、法律そのものより、監督官庁の省令、ガイドライン、お知らせといった指導要綱が微細に整備され、この運用も監督官庁の解釈で恣意的に差配されているとしか考えられないケースも少なくない。自然、予測が極めて難しいから、とにかくガイドラインが出ることを待つしかない。しかも、多くの日本企業は、監督官庁の意向に逆らうような行動をすることのデメリットが骨の髄までしみており、スピード重視で勇み足をするよくらいなら競争を諦めてしまう。

 

これは、もはや個別企業が単独で対処できるような問題ではなく、戦後の日本に成功体験と共に構築されたシステムであり、よほどの覚悟で変革に取り組まなければ変わりようがない、というのが、非常に残念なことだが現状での結論と言うしかないのではないか。

 

 

◾️ 起死回生のチャンスはないのか

 

では、日本企業は、将来に渡って、いわば米国大手IT企業の後塵を拝するしかないのだろうか。しかも、個人の立場で言っても、いかにGoogleAmazon等の大手IT企業の情報セキュリティがしっかりしているとはいえ、情報が一企業に集中しているということは、そこを突破されれば一挙に情報が漏洩してしまう恐れは払拭できないということだ。しかも、これから益々あらゆる行動履歴を掌握されることになるから、一旦漏洩した場合の被害は甚大だ。加えて、情報を大量に持つことは、これからはあらゆるビジネスのパワーの源となることは確定的なので、このままでは米国大手IT企業と日本企業の差も、大企業と個人の力の差も広がりこそすれ縮まることはない。情報漏洩が恐くて抵抗しようとしても、大手IT企業の提供するサービスやモジュールを使わないと、生活も仕事も成り立たなくなっていくと考えられ、本格的な抵抗などやりようもない。

 

現在のGoogleなど、少なくとも自分が接点を持つ人からは、Evilな兆候はまったく見てとれないし、むしろ、フレンドリーでとても明るい雰囲気だ。だが、企業というのは、権力が集中して、競争がなくなれば、フレッシュな緊張感を長く持ち続けることは難しく、人が変われば会社の雰囲気などあっという間に暗転してしまうことなど珍しくない。実際、どんな国家でも、企業でも、長い時間同じ思想や雰囲気を維持したまま生きながらえることが如何に難しいか(というよりほとんど不可能であること)は歴史が証明している。このような状況がエスカレートして行くのが近未来の予想図だとすると、日本の法体系を米国式にすればそれで済むというような単純な問題でもない。こちらを立てればあちらが立たずで、今のままでは、矛盾のひずみは日を追うごとに大きくなる。

 

 

◾️ ブロックチェーンは万能の妙薬?

 

何とかこれを逆転する、あるいは逆転とまでは言わないまでも、解消する手立てはないものか。実は一つある。ブロックチェーンである。今回はブロックチェーンの仕組み自体を説明する余裕はなく、興味があれば是非ご自分で確かめてみていただきたいが、今回の文脈では特に、ブロックチェーンが起死回生の妙薬になると考えられる。ブロックチェーンが浸透すれば、次の3点で不安が解消される。

 

1.中央管理者がいらないから情報が集中せず外部の攻撃に強い

2.契約、商取引等に伴う、信頼を得るためのコストと時間をほぼゼロにできる

  (金銭の授受に伴うコストもほぼゼロにできる)

3.従来の社会経済活動を続ける前提でも個人情報を他者に預ける必要がなくなる

 

よって、日本の未来図を描くにあたっては、ブロックチェーン導入を基軸に考えることが現状の抱える問題への一番優れた対処方法ということになる。すでに国家単位でこの仕組を取り入れているエストニアのような国もあり、日本でもこの方向がスムーズに進むための施策が望まれるところだ。

 

 

◾️ 直前の問題をどうするか

 

だが、問題は、今すぐに理想的な形でブロックチェーン導入が進むわけではなく、当分紆余曲折が続かざるをえないことだ。『そのうちブロックチェーンで大方の問題が解消されるのであれば、今リスクを冒して、個人情報の流通を促進してもしかたがない』というようなノンビリした意見は、事業者の立場で言えばとてもではないが受け入れられない。競争は今ここで起きていて、しかも多くの日本企業は日々負けつつある。一日でも早い競争条件の改善を望まざるをえず、さもなければ、存続自体があやうくなってしまう。

 

しかもさらに困ったことに、ブロックチェーンの導入は決して魔法の妙薬ではなく、大変なメリットがある一方では、既存の既得権益者や既存のビジネス従事者の仕事がなくなってしまうというデメリット(人口減少を勘案すれば必ずしもデメリットではないとも言えるが)があり、導入が現実的になればなるほど、強い抵抗が予想される。

 

よって、万能の具体策をここで示せるわけではないが、少なくとも、次の3点を前提条件として、何ができるのか、何をすべきなのか、熟考してみることは是非お勧めしたい。これは今、どの立場の人にとっても重要なはずだ。

 

1. 現状の日本は現代の競争に不向きな構造になってしまっている

2. このままでは米国大手IT企業との競争に惨敗してしまうであろう

3. ブロックチェーンの仕組を導入すればかなりの(ほとんどの)問題が

         解決できる可能性がある