日本のマーケティングはもっと進化すべきだと思う

 

◾️ AMNの提唱するアンバサダー・マーケティング

 

先日、日本におけるブログ・マーケティングあるいはカンバセーション・マーケッティング早くから手がけ、最近ではその延長で、『アンバサダー・マーケティング』を推進する、アジャイルメディア・ネットワーク(AMN)社の首脳二人(藤崎実氏、および徳力基彦氏)の共著による、『顧客視点の企業戦略:アンバサダープログラム的思考』*1という新著が発刊されたため、早速拝読してみた。

 

この本の感想を含めたコメントを読んでいただくにあたって、ここで言う『アンバサダー』の定義が理解できないと始まらないので、AMNの公式サイトより、この用語の説明を引用しておく。

 

AMNが提唱するアンバサダーとは

アンバサダー(Ambassador の意味は一般的に「大使」と翻訳され、日本では著名人や芸能人などがブランド大使として任命される時に使われることが多いようです。

 

AMNが提唱するアンバサダーは、ソーシャルメディアの発展により、個人が情報を発信できるようになった環境変化を反映させたものとなります。

 

近年、自分の好きな企業やブランドについて積極的な発言や推奨を行うだけでなく、他のユーザーへのサポートや、ブランドの擁護まで自発的に行うファンの存在が注目されています。

 

AMNではこのように企業やブランドに積極的に関わり、自発的に発言・推奨する熱量の高いファンを、「アンバサダー」と定義しています。

 

アンバサダーの活用|アジャイルメディア・ネットワーク(AMN)

 

 

 

◾️ 発祥と日本でのカスタマイズ

 

『アンバサダー・マーケティング』の概念は、ソーシャルメディアの浸透とともに発生し、開拓されてきたものであり、そういう意味では、2000年代の半ば頃以降に徐々に形を成してきた非常に新しい概念(およびその手法)である。発祥は米国である。新しいだけに、まだ『アンバサダー・マーケティング』という確立した存在があるというよりは、様々な関連領域を巻き込みながら成長途上にある概念であり手法というべきだろう。

 

この『アンバサダー・マーケティング』のパイオニアとされる、米国のズーベランスの創業者兼最高経営責任者CEO)である、ロブ・フュジェッタの著作をAMNの監修で翻訳して出版しているが(著書名は『アンバサダー・マーケティング*2 )、その原題は、『Brand Advocates: Turning Enthusiastic Customers into a Powerful Marketing Force』であり、『アンバサダー』という用語が使われているわけではない。『Brand Advocates = ブランド 提唱者』が正式な名称ということになる。ただ、だからと言って、AMNがこの概念を誤読して(あるいは意図的に曲げて)紹介している、というような誹りは少々AMNに気の毒だろう。そもそも、『アンバサダー』以上にこの『Advocates』という用語が日本人に馴染みにくいと考えたとしても、それは必ずしも間違った判断とは思えない。米国発祥の概念を日本に紹介したり、導入するにあたっては、多かれ少なかれ日本なりに再解釈する必要があることはこのケースに限らない。

 

日本のマーケティングの現場で、彼らなりに理解する『アンバサダー』という概念を日本の広告宣伝の現場に馴染む手法とともにパッケージ化して、『アンバサダー・マーケティング』という名称を与えてサービスを提供しているAMNであれば、『アンバサダー・マーケティング』は日本の概念、和製英語と言われてももはやそれを否定するどころか、むしろ自信を持って『Yes』と答えるように思える。広義の概念としては共通していても、具体的な展開を含めた細部は日本なりにカスタマイズされていくのは当然だ。そして、その日本の現場での経験の蓄積の集大成が今回の著作『顧客視点の企業戦略:アンバサダープログラム的思考』ということだろう。

 

 

◾️ ソーシャルメディアの普及で激変した市場

 

従来は企業と顧客の間には、いわゆる『情報の非対称性』(『売り手』のみが専門知識と情報を有し、『買い手』はそれを知らない状態のこと)があり、企業はかなりの程度顧客や市場をコントロールすることができた。だが、ソーシャルメディアが普及すると、顧客は思いのままに情報を発信し、互いに情報交換するようになり、顧客の情報は企業にひけを取らなくなった。そうなると、顧客は企業の宣伝を容易には信じなくなり、その企業の製品やサービスを使った他の顧客の意見や自分の身近な友人知人の意見を重視するようになる。

 

一方で企業の側では、従来は顧客が製品やサービスを認知してから、実際に購買行動を起こす(購入する)まではほぼブラックボックスで、企業の調査・アンケート・グループインタビュー等による断片的な情報以外には、ほとんど顧客の購買に至る思考プロセスをトレースすることはできなかったが、今では様々な手法で観察したり分析して購買行動の全行程を知り、その折々にコミュニケーションをとることができるようになった。また、影響力のある顧客(インフルエンサー)を見つけ、アプローチすることも可能になった。

 

この非常に大きな環境変化に対して、宣伝会社や企業マーケティング担当部門のマーケターは従来の手法に安住することはできなくなった。『インフルエンサー』『準拠集団』『顧客ロイヤルティ』『トライアルマーケティング』等、様々な概念と格闘しつつ、試行錯誤を繰り返す必要に迫られるようになった。

 

 

◾️ トリプルメディア

 

これをメディアの多様化と構造変化の問題として整理しなおすと、もう少し環境変化の構造自体が理解しやすくなるかもしれない。現在では、市場には3つの種類のメディア(トリプルメディア)があるとされており、マーケターはそれぞれの特性と、相互の関係を理解して使いこなすことが不可欠となった。それは次の3つである。

 

オウンドメディア(Owned:自社が所有するメディア)

ペイドメディア(Paid:広告費を払うメディア)

アーンドメディア(EarnedSNSなど自然拡散するメディア)


ソーシャルメディアがなかった時代には、メディアといえば、テレビ、新聞、雑誌等のペイドメディアが中心で、企業顧客、という一方通行で大量に情報を流して、一挙に認知を広げるタイプの広告宣伝が中心だったが、昨今では、顧客も発信が自由になっただけではなくて、企業もブログや自社アカウントのフェイスブック等を利用することができるようになり、発信の自由度が大幅に上がった。しかも、新しいメディアは従来と違って双方向性を持ち、企業と顧客の間は双方向で、距離も時間もはるかに縮まった。

 

その結果、マーケターはメディアの特性を考慮して、最適なメディア・ミックスを実現することが必須になった。従来、メディア・ミックスと言えば、テレビ、新聞、雑誌等の費用配分のことを意味したものだが、その時代と比較すると、マーケティングという活動ははるかに複雑化したと同時に、企業活動全体の中での影響範囲が格段に広がることになった。その結果、従来以上にマーケティングは企業経営の根幹に鎮座する活動であり概念と考えられるようになり、特に米国のようなマーケティング先進国では、先端のマーケティングの理解がCEOの必須要件の一つになっている(残念ながら日本ではまだそうとは言えない)。

 

 

現在でも、ペイドメディアの中心にあるテレビ宣伝等、大量生産・大量消費時代とはその位置付けや意味が変質して来ているとはいえ、ごく限られた時間で、大量の人に情報を伝達する役割として最適であることは変わりはない。だが、生活者の時間に強引に割り込むこの手法は従来から、潜在顧客をゆっくりと段階的に説得するような目的では有効には機能しないことはわかっていた。しかも、この情報過多の時代にあって、顧客はただでさえ情報が溢れているところにさらに聞きたくもない情報には、耳を塞ぎたいという気持ちは益々強くなっている。従って、テレビのようなマス広告の威力は減退していることが指摘されて久しい。

 

 

◾️ 企業と顧客の信頼の重要性

 

ところが、自社商品を強引に告知するのではなく、企業がオウンドメディアを使って商品やサービスで提供できる価値をもっと大きな括りでとらえて、生活者が真に知りたがっている情報を企業側から提供できるようなコンテンツをつくり、提供し続けることで、既存顧客だけではなく、潜在顧客とも良い関係を築くことができ、企業に対する信頼関係も向上し、企業やブランドへの根強いファン(アンバサダーの有力候補)を増やしていくことが可能になる。

 

この典型的な良例に、花王が開設したウェブサイト、『ピカ☆ママ コミュニティ』*3がある。これは同じ月齢の赤ちゃんを持つ新米のママが助け合うためのコミュニティサイドだが、当初は花王の社名は出さずに、場合によっては他社製品も使っているであろう新米ママに役立つ情報を発信し続けた。そのうちに、コミュニティ参加者に促されるようにして、花王の名前を出して商品情報も流し始めたというが、このような押し付けがましくない姿勢で、顧客層が真に必要としている情報提供に努め、その活動を通じて顧客層を深く理解し、商品開発に生かし、その商品を提供してコミュニティでフィードバックを受ける、という理想的なサイクルができていく。ここからは優良な口コミが自然発生的に生まれてくることは想像に難くない。そして、結果的にだが、その口コミこそ、情報過多で顧客が企業を容易には信用しない時代において、最も質が高く、効率もよい宣伝となるわけだ。しかも、これは一方通行の広告宣伝では届きにくい、商品に愛着を感じて何度も買ってくれるロイヤリティーの高い貴重な顧客との関係を一層強くする効果もある。昨今では、同様の試みは非常に多くなってきている。無印良品ネスカフェANA等、その代表事例として挙げることができ、いずれも学ぶところが非常に多い。

 

 

◾️ マーケティングの進化に追いつけていない日本企業

 

では、2017年現在、ここで述べたようなコンセプトは日本企業に正しく理解され、普及しているのかといえば、とてもそのようには思えない。一部企業、あるいは、企業内の優秀なマーケター、AMNのような宣伝会社等、日本でも、現在の市場での環境変化の意味を理解して、改革に取り組む企業や人が増えてきていることは事実だが、全体でいえばまだまだマイノリティと言わざるをえないのではないか。今だに、自分が若いころに経験した大量生産時代の広告宣伝しか理解できない経営層が多すぎる印象が強い。AMNのアンバサダー・マーケティングのイベントに出席すると、各社の成功事例のシェアが行われているが、非常に印象的なのが、『企業のマーケターや広告宣伝担当が企業内の上層部に対して、どうすればアンバサダー・マーケティングに対する理解を得ることができるか』というテーマに関わるシェアが行われていることだ。これが今の日本企業の実情を雄弁に物語っている。個人として理解している人が出てきていることと、組織全体、あるいはシニアが多い上層部・経営層が理解が浸透していることとはまったく意味が違う。日本企業の場合、まだこの断層は非常に深い。

 

世界的なマーケティング研究の第一人者、フィリップ・コトラー氏も、日本はマーケティングに対する正しい理解が進んでおらず、その結果昨今の市場の環境変化についていけていない会社が多く、それが日本全体の停滞の原因ではないかと述べている。

マーケティング4.0の時代に、日本企業は何をすべきか ――フィリップ・コトラー | フィリップ・コトラーが資本主義を語る|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー

 

 

コトラー氏は、マーケティングの進化について次のように語る。

 

マーケティング1.0は、1950年代のアメリカで生まれたモデルであり「製品中心のマーケティング」のことである。技術革新によって製造業が経済の中心となり、生産コストをできるだけおさえて安価な製品をつくり、マス市場を対象に売り込む。「製品を販売すること」を目的に、製品機能そのものが価値をもつ。

 

マーケティング2.0は、「顧客志向のマーケティング」である。顧客にとって多くの製品がコモディティ化し、製品そのもので付加価値を与えることが難しくなったことから、顧客ニーズを起点に考える時代になった。その結果、製品やサービスがもたらす価値は企業が決めるのではなく、顧客が決める時代となったのだ。

 

つまり、顧客主導のマーケティングでは、「顧客を満足させ、つなぎとめること」を目的に、企業は製品の機能ではなく、顧客のニーズをくみ取ることが大切になった。大量生産・大量消費型のビジネスモデルが崩れ、多品種少量生産型経済が到来したのである。

 

マーケティング3.0は、「価値主導のマーケティング」である。価値主導のマーケティングとは、潜在的な顧客の隠れたニーズを探ること、そして顧客を全人的な存在として扱うことを意味する。「世界をよりよい場所にすること」を目的とし、企業は、生活者に製品やサービスだけでなく、精神的価値や社会的価値を提供する存在へと変貌したのだ。

 

マーケティング3.0 時代は、マーケティング2.0 時代に有効とされたリサーチに頼っても他社との優位性を築くことはできない。顕在化したニーズで競争をすると、ただの価格競争しかもたらさないからだ。

 

それでは「マーケティング4.0」はどのようなマーケティングなのだろうか―。

それは「自己実現欲求」に焦点を絞ったマーケティングである。

 

の「自己実現欲求」のことを指す。ここでいう自己実現欲求とは、人間の最上位の欲求であり、「自分に注目してほしい」「自分の所属するグループは、ほかとは違う」というだけではなく、「自分が何者か」ということをはっきりと示せるようになりたいという欲求である。

 

日本に必要な「マーケティング4.0」とは何か | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)

 

すなわち、コトラー氏によれば、マーケティングはすでに4.0を語るべき段階に来ているという。

 

残念なことに、日本企業の経営者の多くは、コトラー氏が嘆く通り、マーケティング1.0の段階の止まっているとしか思えないし、どんなに良くても2.0を少し理解できている程度といったところだろう。今だに製品中心主義が抜けていない。そういう意味では、かつて製造業で成功し過ぎた日本企業の多くは、いまだにマインドの深い部分が切り替わっていないと言えるのかもしれない。

 

 

◾️ ビジネスモデルの危機:フェイクニュースの蔓延

 

もう一つ、AMNの活動の逆風は、昨今の『ポスト真実』『フェイクニュース』の風潮だ。米国大統領選挙に関連して、米国では間違った情報が場合によっては意図的に織り込まれた、いわゆるフェイクニュースの拡散が非常に大きな問題になって、フェイクニュース拡散の一翼を図らずも担うことになった、GoogleFacebookにも対処が迫られている。日本でも、情報の不正確さや制作体制について各所で問題視されて閉鎖に追い込まれた、医療・ヘルスケア情報のキュレーションメディア『WELQ(ウェルク)』(DeNAが運営に関わっていた) のケースなど、この風潮を代表する一例と言える。

 

WELQ』は、先に述べた花王『ピカ☆ママ コミュニティ』等とはまさに対局の存在であり、情報を見に来るユーザーの利益は二の次で、情報が不正確でもとにかくキャッチーなタイトルと目新しさや表面的な面白さで沢山人を集めて、バナー広告等の広告宣伝収入を上げることだけを目的として運営されていた。しかも、一人『WELQ』だけの問題ではなく、情報が不正確でも、他者のパクリでも、感情に訴えて人を集めることだけを目的とするようなビジネスモデルが日本で成立して見えるところが問題で、同種のサイトが現在でも大量に存在する。こんなことでは、市場の一般人は企業のオウンドメディアも、SNSから流れてくる情報も信用できなくなり、離れてしまう恐れがあるし、現実に今そのような兆しがある。『WELQ』については、 AMNの徳力氏も、ほとんど悲鳴のような記事を寄稿していたが、それはそうだろう。自社が渾身で取り組むビジネスモデルの危機につながりかねない大事件だからだ。(あまりに感情的になって書いた記事は、その趣旨を誤解されて批判も受けているようだが・・)。

 

 

◾️ マーケティングの進化が日本を救う?

 

このように、日本においては、正直現在のところ強い逆風にさらされているように見える『アンバサダー・マーケティング』だが、逆に言えば、逆風が吹く現状の原因こそ、日本企業停滞の真因とも言えるものであり、そこのところを徹底的に分析して、対処策を検討してみる必要がありそうだ。『アンバサダー・マーケティング』のようなマーケティング手法が日本企業に浸透することは、日本のマーケティングを1.0から上位シフトさせることにつながり、それは取り組んだ企業に繁栄をもたらすだけではなく、企業活動を浄化し、社会に信頼感の重要性を再認識させ、その結果として経済全般としても活性化することができる可能性を秘めている。少なくとも私はそう考えている。だから、AMNに限らず、マーケティングの新しい地平を開くべく取り組む人達にはこれからも注目し、応援もしていきたいと思う。

*1:

 

顧客視点の企業戦略: アンバサダープログラム的思考

顧客視点の企業戦略: アンバサダープログラム的思考

 

 

*2:

 

アンバサダー・マーケティング

アンバサダー・マーケティング

 

 

*3:

pikamama.community.kao.com

人工知能と人間の決定的な違いは何か?

 

◾️ 人工知能は人間を超えるとの信念

 

脳の解明が進み、人工知能の能力が拡大していけば、人間を超える存在となる、というシナリオがある(かなり広範に流布している)。日本ではそのまま賛同する人は少数派だと思うが(そう私が思っているだけなのかもしれないが)、欧米での議論を時々見ていると、時期は別として、そのようになることを信じきっている人が意外なほど多いことに驚く。それは何も、人工知能の明るい未来を語り、シンギュラリティを好意的に唱導する人ばかりではなく、逆に、人工知能により人類が滅びる恐れがあると語る人たち(ホーキング、ビル・ゲイツイーロン・マスク等)の暗黙の前提にこそ、ゆくゆくは人間を超える存在になるという信念があるように思える。

 

 

◾️ 人間と動物/人工知能の違いは?

 

この問題は、議論の前提を合わせるのが結構厄介で、そもそも『人間を超える』という概念自体が曖昧だ。現代のコンピュータはもちろん、簡単な計算機でさえ、すでにとっくに人間(人間の能力)を超えている。だが、もちろんここでは、計算能力とか記憶力といったような要素が議論の対象となっているわけではないことは明らかだ。

 

では、人間が人間であって、それを少なくとも今のレベルの人工知能や機械、あるいは動物を隔てているものは何なのか。ロボットや動物は身体的な能力という点では、人間の能力を上回るものはいくらでもある。だから、身体能力も該当しない。記憶力も、論理計算能力も、身体能力も違う。感情も動物にもある。となると常識として普通に考え付くのは、理性、そしてそれを可能ならしめている言語、ということになろう。この辺りは、古代ギリシアの哲学者、アリストテレスまでさかのぼれる人間の常識でもある。アリストテレスは、『人間の理性・魂は他の動物とは全然違ったものであり、その別物のあらわれは言語である』と考えた。そして、これは動物を人工知能と置き換えても該当する違いでもある。

 

 

◾️ 人間と動物/人工知能は繋がっている?

 

だが、ここで当然のように考えられる反論がある。進化論で有名なダーウィンは『種の起源』『人間の由来』で、種は下等動物から高等動物か連続的につながっていて、猿は人間につながって(連なって)いるから、人間の言語と動物の発する叫び声には、本質的な相違があるのではなく、『程度の差』だと主張した。したがって、ダーウィンの説によれば、時間がどれほどかかるかは別として、猿は時間が経つと人間の言語や理性を獲得するということになる。

 

これは、人工知能に関して、現代の、特に欧米に多い言説と非常によく似ている。『人工知能と人間の差は本質的な相違ではなく、程度の差であり、時間がかかれば人間に追いついて、言語であれ理性であれ獲得する』という信念がそれである。こうしてみると、ダーウィンの進化論の思想がこれらの言説の背景にあると考えられる。ダーウィンの結論が先にあるから、この問題をこれ以上自分自身で徹底的に考え抜くという姿勢があまり見られない。だが、本当にそれでいいのだろうか。

 

ダーウィンは若い頃には、当時世界で一番未開の地の人間と言われ、人間より類人猿に近いと考えていた、少なくともイギリス人との間に何千年か何万年かの差があると考えていたフェゴ人が、ロンドンに連れてこられるとわずか数年で英語を喋り、刺繍を器用にこなす等、文化的に数万年の差であるものが、なぜわずか数年で追いつくことができるのか、非常に不思議な感じを抱いていたという。この『感じ』は『進化論』には反映されなかったようだ。)

 

 

◾️ 人間の本質的な違い

 

この欧米の言説に対する違和感は、私自身以前から抱いていたものだが、これをうまく言語化して、記事にすることができずにいた。だが、書庫をひっくり返していて、以前買い置きして読まずにいた本を再発見して、ここのところを非常にうまく説明しているように思える文章が載る著作に遭遇した。『知性としての精神―プラトンの現代的意義を探る』*1という著作である。これは6人の論者による編著だが、中でも、全体のまとめ役としての、上智大学名誉教授の渡部昇一氏の小論にはとても考えさせられる。

 

渡部氏は、人間の言語の特徴を考えると、それは動物のものとは質的に違うことは明らかとして、人間の言語の特徴として、大きく次の3つを上げている。

 

1. 人間の言語には文節がある

2. 人間の言語は意味と音の結びつき方が恣意的である

3. 人間の言語は、ボキャブラリーを無限に増やせる

 

そして、この3つの特徴を備えたものこそ人間の言語であり、動物との差は『程度の差』ではなく『本質の差』だという。

 

もう少し具体的に本書の渡部氏の言説に沿って、ご説明してみよう。

 

1. 人間の言語には文節がある

 

人間の言葉には文節がある、ということは必ず子音と母音に分けることができるが(そしてそれは言葉を無限に数を増やせる前提となっている)、動物はこれができない(オウムのような真似はあるが人間の言語とは違う)。動物の声は言語ではなくて信号であり、文節した音でもなければ言語でもない。

 

 

2. 人間の言葉は意味と音の結びつき方が恣意的である

 

人間の言葉は意味と言葉の結びつき方が恣意的で、ある音にある意味をつけなければならないという決まりはない。だが、動物は例えば犬が悲しいときに嬉しそうな鳴き声をしろと言ってもできない。動物の声は恣意的ではない。人間の場合、感嘆詞だけは例外で、その代わり、ローマ人などこれを『間投詞』と呼んで、『人間の言葉があるところに、間投詞だけはどうも言葉でないものが投げ込まれた感じである』ということを言っていたという。

 

 

3. 人間の言語は、ボキャブラリーを無限に増やせる

 

人間のボキャブラリー(語彙)は無限に増やせ、実際日本語に限っても毎年のように新語辞典が出る。世界の言語の数は説によって異なるが3000~6000語と言われており、そのそれぞれで同様に語彙が増え続けている。それに対して、犬の言葉は何千年経っても20語前後だろうし、どんどん語彙を増やした犬という例は聞いたことがない。

 

 

この3つの特徴を備えたものこそ、人間の言語であり、これは程度の差ではなく、『本質の差』というべきだ。そして、この特徴は人間の独特の理性があるからこそ成り立つものである。かつてはアリストテレスが洞察したごとく、バイブルが言うがごとく、そして、世界中の常識が言うがごとく、ある段階で人間と動物を程度でなく質的に画然と区別する『理性』というものが突如生じたとしか考えられないとする。

 

これを受けて、実践女子大学教授(本書執筆時点での役職)の松田義幸氏は、『言語という名の奇跡』*2を書いた、リチャード・ウィルソンを引用して、『本質的な差』について、さらに説明している。

 

動物にも人間と同じように感覚も本能も感情もある。不安、恐怖、疑念、勇気、臆病、復讐心、嫉妬、恥かしさ、つつましさ、軽蔑、ユーモア、驚異の念、好奇心などの感情がある。また、模倣、決意、記憶、想像、推論といった知的な能力もある。しかしこれらのさまざまな感情や能力(下位能力)に似たところがあっても、『統覚』というこれらの下位能力に一定の秩序を与え、物事を総合的に統合する知的能力、つまり理性は動物にはない。これは人間の一番の特徴である。そして、人間の言語はこの理性から生まれたものである。人間はこの理性と言語を使って、原初の宇宙にもまた百年後の未来にも自由に思いを寄せることができる。また部屋にいながらにして、マスメディアを通して、世界でいまなにが起きているかを知ることができる。

『言語という名の奇跡』より

 

 

では、その本質的な差がどのようにして生まれたかという疑問については、今回は述べることはしないし、短い説明では到底それは成し得ないが、現実に明らかに『統覚』『理性』『人間に特徴的な言語』が人間にしかないものとして存在することは疑い得ず、しかも、動物であれ人工知能であれ、漸進的な変化により到達できる種類のものではないことは認めていかざるをえないと私には思える。もしかするとこれは現時点では少数意見なのかもしれないが、だからといって解けない疑問を前に、やすやすと思考停止しているようでは、現代世界の最大級の難問に真摯に立ち向かっているとは言えないと思う。

 

 

◾️ 人間たる本質を喪失しつつある現代人

 

ちなみに、『統覚』が人間を人間たらしめている本質だとすれば、もう一つどうしても考えておくべき問題がある。昨今の情報過多の時代においては、人間の注意(アテンション)の争奪戦が起きていて、MAXでも24時間しかない人間の注意可能時間を、広告宣伝、ニュース、SNSの友人の情報等、ありとあらゆる情報が争奪しようと争っている。しかも、昨今では特に、人は不正確な情報、あるいは早すぎて咀嚼/理解が及ばない情報によって振り回されるようになってきている。何を買うか決めるのも人間が決めるというより、アマゾンのレコメンドが決めている。あるいはSNSの友人の口コミによって決めている。しかもSNSでどの友人の情報を見るかはSNSアルゴリズムによって決められている。その元になっているのは過去の自分の行動履歴だ。人間の顕在意識の下位にアルゴリズムが形成したある種の意識層があって、人間の統覚を麻痺させ、人間の行動の真の源泉となりつつあるようにさえ思える。これは、かなり重要な問題で、人間が人間たる本質を喪失しつつあるとさえ言えるのではないか。少なくともその事実に気づき、人間理性の本来の働きを取り戻すことが人間の非常に大きな課題となっているように思えてくる。ただし、これは今回述べようとした内容のさらにその次の課題になるので、今回はそれを指摘したところで、止めておこうと思う。

 

 

*1:

知性としての精神―プラトンの現代的意義を探る (エンゼル叢書)

知性としての精神―プラトンの現代的意義を探る (エンゼル叢書)

 

 

 

*2:

 

言語という名の奇跡

言語という名の奇跡

 

 

 

パーソナルデータ活用で米国に敗北が決定的! 起死回生の妙案はあるか?

 

 

先日( 2/9)、国際大学GLOCOM主催で行われた『パーソナルデータの自己活用と法的課題』というセミナーに出席した。これは、『マイデータ活用に関する連続セミナーシリーズ』の第2回目で、今回はマイデータ活用に関わる法的課題について講演およびパネルディスカッションが行われた。

 

開催概要は下記の通り。

 

 日時

201729日(木) 16001800

登壇者

板倉 陽一郎(弁護士、ひかり総合法律事務所)
川上 正隆(青山学院大学大学院法学研究科客員教授

会場

国際大学グローバル・コミュニケーション・センター

定員

80名(先着順)

概要

これまで、個人情報保護の議論においては、消費者の情報を事業者が活用する中で、個人の権利を保護するという形態が中心的に想定されてきました。しかし、個人情報の活用・流通をめぐっては、当事者である本人が積極的に関与し、本人の意思によって活用を行えるようにすべきとの考え方もあります。「情報銀行」や「マイデータ」、「PDS(パーソナル・データ・ストア)」と呼ばれるこうしたパーソナルデータの活用は、多くの分野でその適用可能性が考えられます。本連続セミナーでは、全3回の開催を通じて、こうしたパーソナルデータの自己活用について多方面から議論を行い、理解を深めることとします。
2回は、第1回で議論したPDS(パーソナル・データ・ストア)の考え方に対して、検討すべき法律的な論点やその解決の方向性について議論を行います。

 

パーソナルデータの自己活用と法的課題【マイデータ活用に関する連続セミナーシリーズ第2回】 | 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター

 

 

 

 ◾️ 背景

 

本格的なビッグデータ利用の時代に入り、企業にとっては、情報利用の巧拙が決定的な競争要因となることが避けられない状況になってきており、中でも付加価値の大きい『消費者の情報』活用のニーズは高い。だが、個人情報の活用/流通にあたっては、当事者である本人が直接関与し、本人の意思で活用が行えるようにするべきという議論も根強い。これは、企業に自分の個人情報を預けることで、情報が自分の意図しない使い方をされて、その被害を被ったり、流出したりするリスクがあることを鑑み、個人の情報に関して、その裁量と責任を個人の側に戻しておくべきという個人の側のニーズもあるが、一方で、個人が漠然とした不安を抱えたままでは、JR東日本のICカード、Suicaの情報販売中止騒動のように、法的には個人情報販売に相当しないと考えられるケースでさえ、ユーザーの不安が煽られると、騒動になってしまうような事例もあって、分かり易い仕組みができることは、企業側にもメリットがあるという事情もある。この仕組みの具体策として、『情報銀行』、『マイデータ』『PDS(パーソナル・データ・ストア)』等のアイデアが出てきており、その法的な課題や問題点について議論された。

 

 

◾️ 登壇者

 

今回の登壇者は、政府部内で『情報銀行』等の検討に直接関与した、板倉陽一郎弁護士(ひかり総合法律事務所)と、在野の立場で検討の経緯を批判的に論評する川上正隆氏(青山学院大学大学院法学研究科客員教授)であり、自然、両者の活発な討論を期待させる取り合わせだった。だが、実際にはそれほど対立的な議論とはならず、板倉氏は川上氏の発言の主旨も理解しつつ、現実の着地点を探すことに苦慮しているとの心情を吐露していた。立場の異なる両者とはいえ、それぞれの立場で、企業の競争力、ひいては日本の国力そのものに直結しかねない大問題をなんとか軟着陸させようという誠意は十分に感じられる。そして、この議論を通じて、現在の日本が抱える構造問題が見事に浮かび上がってくる。

 

 

◾️ 川上氏の主張

 

両者の説明内容についていえば、やはり私自身が企業内で、常にビジネスの側からの視点でこの問題を見ている立場でもあり、一貫して事業者の立場からこの問題を語る川上氏のご意見にどうしても賛意を感じてしまう。

 

川上氏の主張のポイントは明快で、本来、『情報銀行』等の案件は、比較的限定的なビジネスモデル(事業案)であり、その範囲において該当する法律を考慮すればすむ問題のはずなのに、法律家や研究者の手にかかると、どうしてもビジネスモデルの範疇とは関係ない、広い範囲の法律問題まで検討の範囲に入れようとする傾向があると嘆く。そして、このようなことになってしまうのは、何より検討メンバーに事業者がいないことが原因とする。

 

 

◾️ Yahoo! の別所氏の嘆き

 

川上氏も説明の中で引用しているが、個人情報保護法改正の検討の途上で、政府の『パーソナルデータに関する検討会』事務局より、パーソナルデータ(個人に関する情報銀行)に関する制度の見直し方針が示された際に、このままでは『日本のITが完敗してしまう恐れもある』と強い異議を唱えていた人がいる。ヤフーの別所直哉執行役員である。

 

別所氏は、特に次の2点について、問題を指摘していた。

 

1. 第三者機関の設置

       萎縮効果や過度にプライバシー保護に偏った執行が行われる懸念。

 

2. プライバシー保護という基本理念を踏まえて判断という規定

    個人情報保護法が規定する範囲より広がり、プライバシーという

   あいまいな概念による恣意的な規制につながる恐れ

 

別所氏の主張する『日本のあり方』は、米国のデータ流通の形に近く、事業者にプライバシーポリシーの策定を義務づける等の業界の自主規制を促しつつも、自由なデータ流通を推進するあり方であり、実際、米国のIT大手である、GoogleAmazon等と直接に対峙している立場であれば当然の主張といえる。米国大手IT企業は、日本でも、日本のサービス事業者を蹴散らす勢いで活動していて、影響力は甚大だが、彼らの準拠法は大抵は米国法であり(日本法ではなく)、法律で明確に禁止されていなければ『やってよい』と解釈し、問題が起きれば裁判で決着をつける、という姿勢だ。法律に明確に記載してなければ、『原則禁止』として竦んでしまうか、監督官庁からのガイドライン等で、やってもよいとのお墨付きを得るまで動かない(動けない)日本企業とは正反対で、どちらが市場で競争に勝つかは火を見るより明らかだ。

 

別所氏もこの時すでに主張しているように、一定の条件を満たさない限りデータを流さないという方式はEUのデータ流通に近く、ITビジネスで米国に敗れたEUの後を追うことになると嘆いているが、その嘆きは残念ながらその後の議論に生かされることはなかったようだ。これはEUの例を見るまでもなく、日本のIT企業が何度も泣かされていた構図を今また繰り返している、いわば『デジャブ』である。カドカワの川上会長など一方でダブルスタンダードを黙認しているのであれば、海外のIT企業を日本の市場から締め出す、鎖国をするべき、と述べていたものだが、その嘆きも、結局虚空に虚しく響くばかりだった。

 

 

◾️ 明るい未来像を描けない需要家

 

しかも、これだけ分厚い法律議論を重ねた結果、事業者が『情報銀行』等の仕組みを活用したビジネスに明るい未来像を描いているかというと、とてもそうは思えない。会場の質疑等での事業者の声を聞いても、議論の行方はウオッチしているし、仕組みができれば参加する意向はあるが、ビジネス的に成立する目処はたたず、実験的な参加となるだろうという意見が少なくない。

 

しかし、繰り返すが、これは本当にいつか来た道で、日本の法律は米国とは正反対で、法律で規定していないことは基本的には『やってはいけないこと』であり、法律に書いてなければ『やっていいこと』とされる米国とそもそもスピードが違いすぎる。しかも、個人情報保護法など典型的にそうだが、特に行政法では、法律そのものより、監督官庁の省令、ガイドライン、お知らせといった指導要綱が微細に整備され、この運用も監督官庁の解釈で恣意的に差配されているとしか考えられないケースも少なくない。自然、予測が極めて難しいから、とにかくガイドラインが出ることを待つしかない。しかも、多くの日本企業は、監督官庁の意向に逆らうような行動をすることのデメリットが骨の髄までしみており、スピード重視で勇み足をするよくらいなら競争を諦めてしまう。

 

これは、もはや個別企業が単独で対処できるような問題ではなく、戦後の日本に成功体験と共に構築されたシステムであり、よほどの覚悟で変革に取り組まなければ変わりようがない、というのが、非常に残念なことだが現状での結論と言うしかないのではないか。

 

 

◾️ 起死回生のチャンスはないのか

 

では、日本企業は、将来に渡って、いわば米国大手IT企業の後塵を拝するしかないのだろうか。しかも、個人の立場で言っても、いかにGoogleAmazon等の大手IT企業の情報セキュリティがしっかりしているとはいえ、情報が一企業に集中しているということは、そこを突破されれば一挙に情報が漏洩してしまう恐れは払拭できないということだ。しかも、これから益々あらゆる行動履歴を掌握されることになるから、一旦漏洩した場合の被害は甚大だ。加えて、情報を大量に持つことは、これからはあらゆるビジネスのパワーの源となることは確定的なので、このままでは米国大手IT企業と日本企業の差も、大企業と個人の力の差も広がりこそすれ縮まることはない。情報漏洩が恐くて抵抗しようとしても、大手IT企業の提供するサービスやモジュールを使わないと、生活も仕事も成り立たなくなっていくと考えられ、本格的な抵抗などやりようもない。

 

現在のGoogleなど、少なくとも自分が接点を持つ人からは、Evilな兆候はまったく見てとれないし、むしろ、フレンドリーでとても明るい雰囲気だ。だが、企業というのは、権力が集中して、競争がなくなれば、フレッシュな緊張感を長く持ち続けることは難しく、人が変われば会社の雰囲気などあっという間に暗転してしまうことなど珍しくない。実際、どんな国家でも、企業でも、長い時間同じ思想や雰囲気を維持したまま生きながらえることが如何に難しいか(というよりほとんど不可能であること)は歴史が証明している。このような状況がエスカレートして行くのが近未来の予想図だとすると、日本の法体系を米国式にすればそれで済むというような単純な問題でもない。こちらを立てればあちらが立たずで、今のままでは、矛盾のひずみは日を追うごとに大きくなる。

 

 

◾️ ブロックチェーンは万能の妙薬?

 

何とかこれを逆転する、あるいは逆転とまでは言わないまでも、解消する手立てはないものか。実は一つある。ブロックチェーンである。今回はブロックチェーンの仕組み自体を説明する余裕はなく、興味があれば是非ご自分で確かめてみていただきたいが、今回の文脈では特に、ブロックチェーンが起死回生の妙薬になると考えられる。ブロックチェーンが浸透すれば、次の3点で不安が解消される。

 

1.中央管理者がいらないから情報が集中せず外部の攻撃に強い

2.契約、商取引等に伴う、信頼を得るためのコストと時間をほぼゼロにできる

  (金銭の授受に伴うコストもほぼゼロにできる)

3.従来の社会経済活動を続ける前提でも個人情報を他者に預ける必要がなくなる

 

よって、日本の未来図を描くにあたっては、ブロックチェーン導入を基軸に考えることが現状の抱える問題への一番優れた対処方法ということになる。すでに国家単位でこの仕組を取り入れているエストニアのような国もあり、日本でもこの方向がスムーズに進むための施策が望まれるところだ。

 

 

◾️ 直前の問題をどうするか

 

だが、問題は、今すぐに理想的な形でブロックチェーン導入が進むわけではなく、当分紆余曲折が続かざるをえないことだ。『そのうちブロックチェーンで大方の問題が解消されるのであれば、今リスクを冒して、個人情報の流通を促進してもしかたがない』というようなノンビリした意見は、事業者の立場で言えばとてもではないが受け入れられない。競争は今ここで起きていて、しかも多くの日本企業は日々負けつつある。一日でも早い競争条件の改善を望まざるをえず、さもなければ、存続自体があやうくなってしまう。

 

しかもさらに困ったことに、ブロックチェーンの導入は決して魔法の妙薬ではなく、大変なメリットがある一方では、既存の既得権益者や既存のビジネス従事者の仕事がなくなってしまうというデメリット(人口減少を勘案すれば必ずしもデメリットではないとも言えるが)があり、導入が現実的になればなるほど、強い抵抗が予想される。

 

よって、万能の具体策をここで示せるわけではないが、少なくとも、次の3点を前提条件として、何ができるのか、何をすべきなのか、熟考してみることは是非お勧めしたい。これは今、どの立場の人にとっても重要なはずだ。

 

1. 現状の日本は現代の競争に不向きな構造になってしまっている

2. このままでは米国大手IT企業との競争に惨敗してしまうであろう

3. ブロックチェーンの仕組を導入すればかなりの(ほとんどの)問題が

         解決できる可能性がある

 

 

AIのような先端技術は『倫理』で抑制できるのか?

 

◾️ 皆が口にする『倫理』

 

昨今の科学技術の進歩は人間の想像をはるかに超えたペースで進行しており、突然、技術の成果が、人間の健康や生命、さらには人類の生存すら脅かすような存在として、立ち現れるようなことが現実の問題になってきている。その危機感の現れといってよいと思うが、何らかの歯止めとしての『倫理』という用語が最近頓に人口を膾炙するようになってきた。

 

 

◾️ 変わる文脈

 

もっとも、このような問題は、実は昨日今日始まったものではない。核兵器などまさに人類を滅ぼす恐れのある存在そのものだし、脳死の問題が取り沙汰された時にも、まさに『倫理』の問題を巡って大騒ぎになった。

 

だが、昨今ではこの『倫理』が持ち出される文脈が変わってきている印象がある。というのも、核兵器の場合、その普及や拡散を抑止するのは、少なくともこれまでは、国家の法律や政治判断であり、同盟や条約等の国家間の取り決めのほうだった。ここでは倫理や思想は現実的な歯止めにはならない。あるいは『脳死』の方も、法律が歯止めになっている。前提として、倫理は当然議論の対象となったが、あくまでプロセスで登場しただけで、実際には判断基準としての法律制定を待つことになった。では、最近の問題は何がどう違うのだろう。

 

それは、人の生命を奪い、人類の生存奪をさえ脅かす可能性のある新技術(ないし技術が生むプロダクト)を抑止するためには『倫理』に頼らざるを得ない、あるいは『倫理』しか頼るものが無い、という局面が多発することにある。

 

例えばその典型例は、人工知能(AI)だろう。現在のところはまだほとんどは『潜在的問題』だが、指数関数的な進化という特性を前提とすれば、ある日突然、人類の生存を脅かすようなAIが誕生する可能性は否定できない。しかも、核兵器のような莫大な資本が必要な技術と違って、誰でもとまでは言わないにせよ、個人単位で出来てしまう裾野の広さがあり、中国のどこか、インドのどこか、あるいはイスラエルのどこかで突如そのような人工知能が完成するとしても、不思議はない。

 

また、昨今ではそれ以上に恐ろしいのは、クリスパー*1のような遺伝子編集技術だ。ほとんど投資らしい投資も必要ではなく、大学院生レベルの知識があれば、人間と豚のキメラをつくったり、この世に存在しない危険な細菌を作ったりすることもできてしまう可能性がある

 

これほど重要な問題であれば、最終的には、法律を整備し、国家間の条約等の合意によって律することになるのは間違いないが、条約に調印しない国は野放しになるし、そもそも個人単位でできてしまうとすると、その気になればいくらでも規制の網をくぐり抜けてしまうだろう。となると、倫理、哲学、思想、宗教等に頼るしかなくなる、というわけけだ。

 

 

◾️ 進歩していない倫理や思想

 

だが、少し考えてみれば誰でもわかることだが、人類の生存に関わるような世界的な問題について、律することができるような、統一的な倫理や思想、宗教などどこにあるのか。あらためて、技術/テクノロジーの長足の進歩に比べて、倫理や思想等があまりに進歩していないことに愕然としてしまう。

 

ケンブリッジ大学内に2016年10月17日に設立された「Leverhulme Centre for the Future of Intelligence」の常任理事を務めているスティーブン・ケイブは次のように述べる。

 

「少なくともソクラテスの時代から、人類は倫理哲学や、善と悪を言葉でどう説明するかについては頭を悩ませています」とスティーヴン・ケイヴは悲しげに言う。「現代になって急にこの問題を人工知能(AI)システムにプログラムする必要が出てきましたが、残念なことに、そうした問題に関して人類ほほとんど進歩していないのです」

人工知能社会での「倫理」を問う──英国発・AIシンクタンクの挑戦|WIRED.jp

 

こんな有様だから、機械学習プログラマーはAIに何をプログラムすればよいか戸惑い、倫理哲学者に聞いても、『まだあまり解明できていない問題』というような曖昧な反応が返ってくる。何百年も取り組んできて未だに答えが出ない問題に、すぐに答えを出さないといけなくなってしまったとケイブは嘆く。

 

 

◾️ 切迫している

 

『すぐに答えを出さないといけない』というが本当のところどれくらい『すぐ』なのか。どうやら、まさに、『直ちに』『今この瞬間』というくらい差し迫っているようだ。これを示唆するショッキングな事例がある。

 

昨年3月、米マイクロソフト社がインターネット上で行ったAI『Tay(テイ)』の実験は、わずか1日で中止となった。AIが差別的発言を忠実に学習して、『ヒトラーは間違っていない』といった不適切な発言をしたからだ。これは、まさにこのようなことが今後起こる可能性があると恐れていた関係者の心胆を寒からしめた。AIが大量の情報をベースに学習するのはよいが、一体何を学習するのか。

Microsoftの人工知能が「クソフェミニストは地獄で焼かれろ」「ヒトラーは正しかった」など問題発言連発で炎上し活動停止 - GIGAZINE

 

 

◾️ 偽情報だらけの現代社

 

そもそも現代社会の大量な情報から学習すれば、AIに本来求められるような、倫理/哲学や善悪の概念が身につくのかといえば、誰もそんなことが期待できないことはすぐにわかるだろう。しかも、昨年来話題になったように、今、インターネット上は偽情報だらけだ。『ポスト真実』*2が現実なのだ。

 

日本でも、昨年末、医学的に根拠のない誤った内容や、他のサイトからの無断引用記事が多いとして、強い批判を受けて閉鎖された、DeNAが運営する健康情報サイト『WELQ(ウェルク)』の事件は記憶に新しいが、困ったことにこれは氷山の一角で、偽情報満載のサイトなどまだいくらでもある。しかも、大手マスコミも当てにはならない。朝日新聞の珊瑚捏造事件、慰安婦報道問題等も著名な例だが、最近では原発事故後の偏向報道など記憶に新しい。そもそも原発事故後の報道への不信感から、人々は大手メディアを信頼できなくなり、ネットニュースのほうにこそ本音や暴露等の真実を見つけることができると考えるようになったのではなかったか。

 

 

◾️ 『モラルジレンマ』に対する新たな取り組み

 

このような難題が場合によっては技術進化を阻む可能性があるとの認識は、昨今では開発者の側にも共有され、強く意識されるようになってきている。例えば、自動運転のAIに関して、下記のような取り組みは、その危機感の現れとも言えるが、まだ始まったばかりとはいえ興味深い。

 

 

自動運転車のブレーキが利かなくなった状況で、直進すれば5人の歩行者を弾き、右にハンドルを切れば1人の歩行者をひくだけですむ。左にハンドルを切れば、壁に激突して、自分と同乗している自分の家族が死ぬ。さあ、どうするか。このような状況を『モラルジレンマ』というが、AIにどのような判断をさせるべくプログラムするのがよいかというのは、困難な判断を強いられる難問だ。

 

MITメディアラボのイヤッド・ラーワン准教授らは、自動運転におけるAIの『モラルジレンマ』問題に対する人間の回答を大量に収集して分析するための仕組みを作り、一般公開する取り組みを始めている。

自動運転車のAIに「人間の生死」を教える、大学教授の狙い | FUZE

 

AIに妥当な判断をさせるためには、特に、人の生死に関わる判断は、一般情報からの機械学習に期待することはできないし、昨今の状況を勘案しても、好ましいともいえない。だから、人間が判断してプログラムするしかないのだが、その人間の側にも適切な情報が不足している。今回の取り組みは、残念ながら、特定のシチュエーションを設定して、それに対するアンケートを収集して、集計する程度のものに見えるが、それにしたところで、そんな情報は今までほとんどなかったわけだから、貴重な第一歩であることは確かだ。

 

 

ただ、それなりの成果を得るにはまだかなり時間がかかりそうだ。人間の判断はしばし、特定の環境や周囲の情報、その時の感情等に影響されがちであることはわかっているから、アンケートで得た情報は非常に慎重に、前提条件付きで利用しなければ判断を誤るだろう。人種、地域、宗教等判断にバイアスをかける条件は沢山ある。

 

 

今すぐ解決が求められている問題にしては、先の長い話に見えるが、それが現実であるとすれば、今後多少のトラブル発生は覚悟しておく必要がある。というのも、倫理の問題が解決しきれないからといって、自動運転車の開発は止まらないだろうし、交通事故を圧倒的に減らし、排ガス逓減、エネルギー節約につながる等、一方でメリットがあることもわかっているから、多少の問題には目をつむっても導入を進めた方が良い、という判断も(特に米国のような国では)働くはずだ。

 

 

◾️ 成熟した社会には成熟したAIが育つ

 

結局ところ、決め手がなくて、曖昧なままの状態を受け入れるしかないということだろうか。だが、そうだとしても一つ言えることは、個人のレベルで、この倫理哲学問題はきちんと理解して、自分の主張をはっきりと明示できるように言語化しておくことが望ましく、ゆくゆくは必須となっていくと考えられることだ。それは、先ずは、自分と自分の家族を守る非常に重要な武器となっていくと考えられる。そして、そのような人が多い社会で働くAIは賢く、倫理的にも高度化する可能性がある。人任せにしていてはいけない。一人一人が自分で考え抜く必要がある。AIの倫理のレベルはその社会の倫理のレベルに引き摺られると考えておくべきだ。そしてそれは、一人AIだけの問題ではなく、先端技術全般に言えることだ。社会の倫理、哲学的、宗教的に、レベルを上げていくこと。それが、結局のところ技術の突きつける問題を正しく導くための最善策ということになりそうだ。

 

日本企業は迷わず『経験価値の徹底追求』に取り組んだほうがいい


◾️ トランプ政権誕生でも変わらないトレンド


2017年はトランプ政権誕生という大波乱のおかげで、政治も経済も今後を見通すことが以前にもまして難しくなっている。経済問題に限って見ても、選挙の公約について本当のところ何をどこまでやるのか。それによっては、予想以上の大混乱に陥る可能性も否定できない。


だが、それがどのようなものであるにせよ、昨年の終わりに書いた通り(記事タイトル:一人負け日本で企業はどう生き残ればいいのか?*1 )日本の経済、日本企業の展望はあいかわらず非常に厳しく(トランプ政権誕生によって好転するとも考えられず)、2010年代の残る3年間の過ごし方次第では、無事に2020年代を迎えることができなくなってしまいかねない。どんなに厳しくても、どんなに視界不良でも、今は踏ん張りどころだ。


それに、トランプ政権誕生が時代の大きな転換点になることは間違いないとはいえ、一方で経済やビジネスの中長期トレンドについてみれば、今世界には、不可逆な潮流が厳然としてあり、多少の紆余曲折はあっても根幹のところは変わりようがない。それは言うまでもなく、技術進化のトレンドだ。トランプ次期大統領は、現代のビジネスにおける技術進化を象徴する存在であるGAFA( GoogleAppleFacebookAmazon)はじめ、西海岸のIT企業を嫌っていると巷間伝えられ、そのためにIT企業は、そのビジネス環境が悪くなったり、政治的な対応に足を取られて、しばらくは従来ほどの速度で活動することは難しくなるかもしれない。


だが、どの企業のどの活動でも、今後は特に、人工知能(AI)のような、デジタル技術の活用が企業競争力と直結していて、もはや切り離すことはできないことが明らかになってしまった現代では、政治的な環境が変化したところで、企業の競争の大原則(ウイニング・フォーミュラ)がおいそれと変わるとは思えない。当然、この点での日本企業の競争環境も原則変わりようがない。よって、あらためて、前に述べた『日本企業が市場で飛躍するための処方箋』も今変更する必要はないと考える。到達のための道順や時間は変更が必要かもしれないが、到達点は変わらない。それをまず基本的な前提として明確にしておきたい。


その上で、前回書ききれなかった議論を、もう少し展開しておきたい。場合によっては、今回分でも書ききれないかもしれないが、その場合にはまたその次以降に書き足していこうと思う。いずれにしても、このテーマはブログ記事の2〜3本で語り尽くせる程度の問題ではない。書き足すだけではなく、修正すべきは修正して精度を上げ、全体像をより鮮明に浮かび上がらせていきたいと考えている。



◾️ 日本企業が市場で飛躍するための処方箋


では、前に挙げた処方箋だが、次の4つである(それぞれの説明は、記事をご参照)。

1. 人事制度
2. IT/技術利用
3. マーケティング経営
4. 体験価値の徹底追求


いずれも重要でどれ一つとしておろそかにできないし、そもそもこの4つを高いレベルでバランスをとることが何より重要であることは繰り返すまでもない。ただ、典型的な日本企業がGAFAのような巨大IT企業や、昨今では創造的破壊企業ともユニコーン企業(新しく事業を立ち上げたスタートアップ企業のうち、推定企業評価額が10億ドル以上の未公開企業がそのように呼ばれるようになった。)とも称される、猛烈な勢いのある企業と同列に争って勝ち抜くことができるのか、という疑問も湧いてこよう。上記の4つが『成功のフォーミュラ』と言えるとしても、それはまた、結局旧来の日本企業に勝ち目はないことを、言い換えているだけではないか、という弱気な疑問が出てくることも予想される。(特に最近はそのような反応も少なくない。)確かにそれは一面あたっていて、個別の得手不得手はあるにせよ、総じてシリコンバレーのIT企業タイプの企業のほうがこの点でも合理的でスピードが早く、自社で不足している要素があれば、買収や合併等を通じて短期間に取り込み、自家薬籠中の物とすることにも長けている。



◾️ あらためて立てるべき問いと回答


もちろん、現実のビジネスは、この4つを含む様々な要素を独自にミックスして、差別化し、競合力を構築していくわけだから、初めから白旗を上げるのはいかがなものかと思うが、何より彼らの経営判断も、組織を作り直すスピードも圧倒的に速く、このスピードに多くの日本企業が立ち竦んでしまっているのが現実だろう。さらに言えば、先にも述べたように時代が下れば下るほど、AIのような技術進化の影響が圧倒的になるから、他の要素で多少勝っても、結局全て吹っ飛んでしまうのではないか、という疑問も出てくるだろう。だから、ここであらためて立てるべき問いは次のようなものになる。

GAFAやユニコーン企業に対しても、短期的にも競合力の優位を保つことができ、AI等の技術が市場を席巻する時代になってもその競合力を維持し、維持するだけではなく、世界に攻めていくことができるための日本企業が取れる戦略は何か?

そして、以前から私が申し上げているのは、『経験価値の徹底追求』がその一番の回答となると考えられるということだ。



◾️ あらためて、経験価値とは


ご参考までに、あらためて、経験価値という概念につき、最初に提唱したマーケティングの専門家、バーンド・H.シュミットが定義した『5つの側面』について引用し、提示しておく。

経験価値とは、製品やサービスそのものの持つ物質的・金銭的な価値ではなく、その利用経験を通じて得られる効果や感動、満足感といった心理的・感覚的な価値のこと。カスタマー・エクスペリエンス(Customer Experience)ともいい、顧客を、単なる購入者ではなく、最終利用者としてとらえる考え方に基づいている。この概念を提唱したバーンド・H.シュミット(Bernd H. Schmitt)によると、経験価値には以下の5つの側面があるとしている。


SENSE(感覚的経験価値) 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感を通じた経験

FEEL(情緒的経験価値) 顧客の感情に訴えかける経験

THINK(創造的・認知的経験価値) 顧客の知性や好奇心に訴えかける経験

ACT(肉体的経験価値とライフスタイル全般) 新たなライフスタイルなどの発見

RELATE(準拠集団や文化との関連づけ) 特定の文化やグループの一員であるという感覚

経験価値とは|マーケティング用語集|株式会社エスピーアイ

◾️ 音楽市場における事例


市場が飽和した現代では、差別化の最も有効な手段の一つがこの『経験価値』であることは、すでに『常識』なので事例は沢山あるが、すでに『常識』とされているのであれば、競争は激化しており、ここもすでに『飽和』していて参入が難しいのでは、との危惧もあろう。確かに、後に述べるように多くの米国企業は非常にシステマティックにこれに取り組んでおり、競争は激化している。だが、一方で、この競争領域(経験価値)の奥は深く、まだ開拓余地が十分にある。それを感じていただけそうな事例と今後の方向について以下に述べてみたい。


先日発売された、音楽ジャーナリストの柴那典氏による『ヒットの崩壊』*2という本には、音楽ビジネスにおける体験価値の重要性がわかりやすく示され、具体例も豊富で非常に面白い(市場の評価も高いようだ)。日本の音楽業界において、CD等の音楽ソフトの販売のピークは1998年で、以降は、2013年の特殊な例外を除き、下落に次ぐ下落で、それを補う存在として期待された有料音楽配信サービスも2005年〜2007年は全体の売り上げを押し上げることに貢献したが、それ以降は音楽ソフトの落ち込みを補う勢いはなく、1998年に6000億円あった音楽ソフトの売り上げも、2015年には有料音楽サービスを加えても、半分の3000億円まで落ち込んでしまった。ところが、その一方でライブやフェスは大変な活況で、実力のあるミュージシャンは生計を立て、活動を拡大する原資も得て潤ってきているという。


柴氏は本書の前書き(はじめに)で次のように述べる。

ここ十数年の音楽業界が直面してきた「ヒットの崩壊」は、単なる不況などではなく、構造的な問題だった。それをもたらしたのは、人々の価値観の抜本的な変化だった。「モノ」から「体験」へと、消費の軸足が移り変わっていったこと。ソーシャルメディアが普及し、流行が局所的に生じるようになったこと。そういう時代の潮流の大きな変化によって、マスメディアへの大量露出を仕掛けてブームを作り出すかつての「ヒットの方程式」が成立しなくなってきたのである。


CD等の音楽ソフトによって音楽を聴くより、実際のミュージシャンの演奏だけではなく、観客の歓声やその場の雰囲気等のすべてを体全体で感じる体験(経験)の価値を人々は重要視するようになってきた。その構造変化に気づく者は生き延び、それに気づけない者は没落していく。そういう状況がこの日本の音楽業界でも現実になってきている。ただ、実ところそのようなユーザー側の変化は、ずっと前から伝えられていた。例えば、以下の記事が書かれたのは2009年9月、今から7年以上も前だ。

CDが売れないといわれる中、音楽コンサート市場は活況を呈しているようだ。日本経済新聞の9月10日付朝刊では、ぴあ総研による「集客型エンターテイメントのチケット市場規模」に関するレポートを引用し、2008年の音楽コンサートの市場規模が前年比3.9%増の約1,503億円となったと報じている。同年の音楽ソフト市場規模が前年比約92%の約3,617億円にとどまったこと(日本レコード協会統計資料)を踏まえると、コンサートビジネスは異例の高成長を遂げているといえる。

CD文化からコンサート文化へ Jポップは「聴く」よりも「観る」時代 - ライブドアニュース

この傾向は、日本だけではなく、世界的傾向であることも、当時から指摘されていた。

日本に限った話ではない。音楽業界は世界的にコンサートビジネスへとシフトしており、有力なアーティストほどコンサート活動で稼ぐ傾向がある。たとえば米国の歌手・マドンナの場合、先月終了した世界ツアーにおいて計32カ国で350万人のファンを動員し、4億800万ドル(約375億9,700万円)の収益を上げている。一方で、マドンナのCD販売のポテンシャルはヒット作でも世界で500万枚程度と見られており、インターネット等の音楽配信分を勘案しても、コンサートにおける収益には遠く及ばない。

CD文化からコンサート文化へ Jポップは「聴く」よりも「観る」時代 - ライブドアニュース


また、アーティスト毎の日本の音楽CDの売上は、『握手券のシステム』に支えられている、AKB48がトップの常連で、それどころか、2011年から2015年までのオリコン年間シングルランキングのTop5のほとんどをAKB48の楽曲が占めている。このやり方には批判もあるが、裏を返せば、AKB48は握手会のような場でファンとの交流を深め、ソーシャルメディアをフルに活用し、ファンをライブに動員する等の手法には非常に長けていて、仕掛け人(秋元プロデューサー)が体験価値の重要性を早くから見抜いていたことが商業的な成功につながった例であることは以前から指摘されていた。



◾️『住みたい街』の評価軸として


住みたい街というような、古くて新しいテーマを見ていても、確実に『体験価値』が注目され、洗練されて行く動向が見て取れる。HOME’S総研が2015年9月に発表した、『Sensuous City[官能都市]− 身体で経験する都市;センシュアス・シティ・ランキング』と題した調査研究レポートについてまとめた本、『本当に住んで幸せな街〜全国「官能都市」ランキング』*3はその点で大変参考になる。日本語としての、『官能』というのは、少々誤解を招きかねない用語の使い方という気もするが、日本官能評価学会のウェブページには、ここで言う官能評価について次のような説明がある。

文明社会に住む我々は生活に必要な様々な尺度、例えば長さ、重さ、時間、温度を考案し、それらを正確、精密に計ることで社会を発展させてきました。
 一方、我々が日常経験する事象、朝の空気が爽やかだとか、自動車の乗り心地が良いとか、夜景がロマンチックというような感覚や情緒的経験は前述の尺度で計測することはできません。例えば、赤ワインをきき酒する手順を考えると、先ずそのワインの色、香り、味の特徴を把握し、出来れば数値化する。次に知識のライブラリーの中からそれに近い産地、銘柄、更に生産年の変動幅以内にあるかどうかを検討し、それらの特徴を誰にでも理解できる言葉で表現する。これが官能評価です。

学会とは | 一般社団法人日本官能評価学会


つまり、従来は指標として示しにくかった、感性、感覚、情緒的経験等の数値化を図ろうという試みらしい。まさに、より精妙な『経験価値』の見える化を志向していることがうかがえる。いかにその体験価値の存在に気づいても数値化できなければ、市場価値として評価できないし管理することは難しい。そういう意味では大変興味深い取り組みだ。


本書で取り扱う、『街の住みやすさ』という点については、従来より国家がつくった評価フォーマットがあり、これは、クリーン、利便性、開放感等、わかりやすくはあるが、均質で没個性的な価値で埋まっていて、その結果、日本は全国どこでも同じような個性のない街で溢れることになった。これに対して、世界的に著名な都市計画家であるヤン・ゲール氏の評価軸を元に、次の二つの観点で指標をつくったという。

不特定多数の他者との関係性の中にいること:関係性

身体で経験し五感を通して都市を近くすること:身体性


具体的には、次のような観点が織り込まれている。



そして、その指標で選ばれたランキングが次の表だ。

一目見て、違和感を持った人が多いのではないだろうか。従来もっと高く評価されていたはずの街のランクが低かったり、その逆もあって、私自身、正直、強い違和感があった。だが、実際に住んでいる人の満足度は、この指標で出た上位ランクの街は総じて高いという。そのアンケート結果が次の表である。


従来の『利便性』や『効率性』等、一見わかりやすい価値は持っていても、ここで言う人間が街に住むために欠かせない要素(人間的な価値:関係性、身体性等)を捨象してしまったような街と、そのような要素が溢れている街との違いについて精査すれば、これが今後企業が真剣に開拓に取り組むべき『経験価値』の典型的な現れの一つであることがわかると同時に、まだ見つかっていない価値が開拓できる余地がいかに大きいかを感じることができるだろう。一見、意味がなさそうなのに、実質的にユーザー満足度を上げることができる指標を他社に先駆けて把握することがいかに競争戦略上重要であるかは言を俟たない。


開拓余地という点について補足説明するために、ここで、経験価値について述べた文献である『新訳経験価値』*4より、市場で提供される各ステージにおける経済価値の一覧を引用するので、見てみていただきたい。


経験は様々な商品やサービス提供のあらゆる場所で提供できる可能性があり、しかも、新たに発見し、洗練し、高度化していくことができる。



◾️デザイン思考


先述したように、経験価値というのは、マーケティングの先進地域である米国で、マーケティングの専門家である、バーンド・H.シュミットによって1990年代の終わり頃に発表された概念であり、その後、どの企業でも真剣に取り組まれるようになった。昨今ではマーケターなら経験価値=CX(カスタマー・エクスペリエンス)を十分に理解していなくてはモグリと言われるほど、常識の範疇となっている。特に、昨今の競争は、既存の商品やサービスを論理的思考で改善して価値を高めていくような活動では勝ち抜くことはできず、ゼロから1を創出してビジネス化していくようなイノベーションによって争われている。したがって、いわゆるMBA的な思考に加えて、『デザイン思考』というようなCXのエキスパートであるデザイナー主導でサービスを作り出そうとする発想が非常に大きな潮流になってきている


実際に、デザイナーがIT企業を立ち上げるケースも増えてきている。例えば、ユニコーン企業の一角、民泊サービスのエアビーアンドビーの共同創業者の3人のうち2人は、美術大学を卒業したデザイナーであり、全世界のユニコーン企業の創業者のうち、約2割がデザインや芸術を学んだというレポートもあるという。



◾️ 文化や習慣、言語等に左右される経験価値


この点でも多くの日本企業より、GAFAや先端のユニコーン企業の方が市場では一歩も二歩もリードしているように見えるし、実際それが現実ではある。だが、経験価値というのは、ユーザーのいる環境における、文化、歴史、神話、習慣、習俗、思想、言語等の要素から生まれ出ずるものであり、その環境においてこそ洗練される性格を持つ。だから、深めれば深めるほど、その集団や国家の特殊性や時代性があらわれ強く作用する習慣、習俗等、自分でも意識できる経験価値もあるが、一方、その源泉は本人でさえ気がつかない深層意識の側に属し、そこには個人を超えた民族固有の特性が見て取れる。『自分でも気づかなかったが、それこそが欲しかった!』というユーザーの感想が出てくるのは、このあたりから引き出した価値が寄与するケースが少なくない。そして、差別化のためには、またとない壁になる。


例えば、ニコニコ動画で若年の日本人が感じている経験価値を日本文化にまったく馴染みのない外国人が理解するのは相当に難しい(無理といっても過言ではない)。哲学者の九鬼周造が言語化して見せた、『いき』についてもそうだ。あるいは、仏教学者の鈴木大拙が英文でも解説した『禅』や『日本的霊性』の概念など、日本人でも理解することは難しいかもしれないが、それでも、少なくとも日本人のほうがはるかに理解できる余地はあるはずだ。したがって、このような価値を理解し、咀嚼することができた上で、『経験価値』が提供できれば、少なくとも日本のユーザーに対しては海外企業に簡単に負けることはないはずだ。


ただ、現在でも日本では毎年数十万規模で人口が減少しており(日本の2015年の人口は27万1834人減少し、調査を開始して以来最大の減少幅となった)、この先、この趨勢が覆る見込みはない。市場は縮小し、いくら日本市場で勝ったところで、世界市場で勝てなければ意味がない、とおっしゃる向きもあるだろう。だが、そう悲観ばかりしたものではない。



◾️ポケモンGO』の衝撃


昨年の夏から秋にかけて、1996年に当時任天堂から発売されたゲーム『ポケットモンスター』の後継である『ポケモンGO』が世界中で爆発的に受け入れられたことは記憶に新しい。この『ポケットモンスター』について分析した、宗教学者中沢新一氏の『ポケットの中の野生  ポケモンと子ども』が『ポケモンの神話学』*5として復刊されており、あらためて読んでみると、『ポケモンGO』現象というのが、いかに文明史的に見ても比類のない事件であったのかがわかってくる。そして、このゲームの凄さ、それを生むことができる日本という国(文化)のユニークさ、このゲームの普遍的な意味の奥深さ、世界の文明史における貢献等、次々に展開される難解だが含蓄に富む論考に、それこそ、読んでいる私自身、異世界に誘い込まれてしまったかのような錯覚を覚えてしまう。だが、よく読み込めば十分に納得のいく内容だ。


中沢氏が述べる『ポケモン』の成功の理由をまとめると(まとめきれていないかもしれないが)ざっと次のようになる(と思う)。


心理学者のフロイトや哲学者で精神科医ジャック・ラカンが指摘するように、人間には、『死の欲動』であったり、ことばの力によって象徴化できなかった生命的な力の残余(ラカンは、それを『対象a』と名付けた)が押し寄せて来て、特に子供の場合、その力が無軌道に噴出すると本人の人格の崩壊を招いたり、社会全体としても大きな騒乱や犯罪の原因になる。旧来は個々の社会の持つ文化がそれを『去勢』する機能を備えていた。『対象a』が意識の『へり』や『穴』から溢れ出てくると、ことば(象徴)の体系が強力に作動してこれを個人的な幻想の領域にきちんとおさめていたのが、現代の社会では『去勢』の機能が弱体化して、『対象a』が所構わず噴出してしまっているという。学校や家庭の教育はこの無軌道な噴出に対応不能の状態に陥っており、新しい昇華の方法を模索する必要に迫られている。かつて芸術がそれに取り組もうとしたが、成功したとは言い難い。だが、ポケモンは非常に見事にこれを処理して管理するばかりか、人類学者のレヴィ・ストロースが同名の著作で明らかにしてみせた、『野生の思考』(科学的思考よりも根源にある人類に普遍的な思考。近代科学の方がむしろ特殊とする。)がゲームをする子供の心に活発に働く場を与えている、という。『野生の思考』は普遍的だが、日本には他にも『対象a』の造形と処理につき、独特の達成をしてきた文化を持ち、日本でなければ、これほどまでに洗練されたゲームはできなかったと中沢氏は断言する。



◾️ ローカルから普遍へ


要は、日本文化は『野生の思考』の痕跡を身近に残し、この普遍的だが、普段は意識下に沈潜する『思考』をうまく顕現させる独自の特性がある、ということだ。もちろん、ゲームだけの問題ではない。文明史的な貢献とまで評価されるこの特性を、単なるマーケティング概念にまで落とし込むことは、こうなると少々躊躇する気もにもなるが、実際、日本人ならではの経験価値の源泉であり、うまく持っていけば、世界的に受け入れられる普遍性があり、AIが代替することは少なくとも当面は非常に難しいと考えられるから人間の仕事として残すことができ、AIとも住み分けが出来そうだ。さらには、AIの能力がさらに上がり、VR(仮想現実)や3Dプリンター等の技術がもっと進化すれば、例えば日本の寿司職人の技術を実際に人間を送り込むことなく、現地でほとんど本物の職人がいるの変わりないほどのレベルで再現するようなことも可能になる。そうなれば、日本人の開拓した『体験価値』をもっと自由に『輸出』することができるかもしれない。そういう意味でも、将来的にも有望と言える。


大変な長文になったが、今回扱ったテーマは、まだいくらでも書けるネタがあるし、その上に、もっと幅を広げ、深く掘っていけるポテンシャルがある。それこそもっと開拓の余地がある。今回は、どうして『体験価値の徹底追及』が今後の日本企業にとって死活的な意味があるのかという点が少しでも伝われば、それで成功ということにしておこう。

*1:一人負け日本で企業はどう生き残ればいいのか? - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る

*2:

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

*3:

本当に住んで幸せな街 全国「官能都市」ランキング (光文社新書)

本当に住んで幸せな街 全国「官能都市」ランキング (光文社新書)

*4:

[新訳]経験経済

[新訳]経験経済

*5:

『ゲンロン4』を読み、2017年年頭の決意を新たにした

◾️ 予想以上に面白かった『ゲンロン4』


年末年初の休日を利用して、思想家の東浩紀氏が主宰するゲンロン社が出版する『ゲンロン4』*1を読んだ。一連の『現代日本の批評』の連載の最終回としても、2001年以降の平成の批評史としても大変読み応えがあり面白かった。また、昨今、このような内容をまとめ上げることのできる個人も、出版社も、メディアも他にはどこにも存在しないと言わざるを得ず、このような企画自体が待望久しいものであり、そういう意味でも楽しませていただいた。


しかも、私個人が面白かっただけではなく、大変よく売れているというから実に喜ばしい。東氏自身が述べているように、昨今特にこのような批評とか思想系の読物はジャンルとして売れなくなってきているため、この種の企画が商業的に成立しないとなると、日本からこのジャンル自体が消失してしまう危惧がある。それでは困る。



◾️ 東浩紀氏一人勝ちが続いている


特集『現代日本の批評?』の基調報告として、評論家の佐々木敦氏が『ニッポンの文化左翼 - ストーリーを続けよう?』という記事を寄稿していて、80年代以降の現代思想シーンを概観しているが、これは7年前に出版社した自らの著書『ニッポンの思想』*2のその後談ともなっていて、佐々木氏がこの直近の7年間をどう評価しているかがわかって興味深い。


『ニッポンの思想』で、佐々木氏は、ニューアカデミズムは浅田彰氏に始まり、東浩紀氏で終わり、ゼロ年代でメイン・プレーヤーと言えるのは東氏のみ、すなわち『東浩紀一人勝ち』と言い切っている。当時は、世に少なくないアンチ東派を刺激して大変なことになるのではとハラハラした気持ちで読んだものだが(実際、かなりの怒りと嘲笑を惹き起こしたようだ)、一方では、悔しければ、『東氏を乗り越えて我こそはと名乗りを上げよ』という佐々木氏の檄文ともいえるものでもあった(少なくとも私にはそう感じられた)。だが、今回の記事では、7年経過した今も、東氏を超える存在は出てきていないと力なく述べている。ニューアカデミズム以後を東氏だけが、誠実かつ真摯に引き受けてみせたのであり、『日本- 現代 - 思想 - 史』への強い責任と警鐘の意識を自分に課してきたと言えるし、それは現在でもそうだ、という。


この7年間は、ソーシャルメディアが絶頂期を迎え、メディアの多様化の期待感が盛り上がったり、東日本大震災もあって、長く続いた戦後体制に変化の兆しが見られ、日本の思想・言論界にも再出発の機運が見られた時期でもあった。そしてそのような期待感を引き受けるにたる若手の言論人も育って来ていると思われた。しかしながら、残念なことに、その期待が失望に変わるのにあまり時間はかからなかった。結果的に、7年前より今の方がさらに事態は深刻だ。批評や思想の需要は一層瘦せ衰え、言論人も自らの言論を研ぎ澄ますような地味な取り組みに見切りをつけ、既存のメディアに露出して、人々の感情を喚起し、アイコンとしての自分を売ることに血道をあげている人だらけになってしまった。


東氏に揶揄されることの多い、『若手論壇』の若手を含めて、個人個人を見ると、優れた論者がいないわけではないし、中には東氏に匹敵する切れ味のするどい論考を披露できる人もいる。だが、『ゲンロン4』でも出てくる評価軸だが、1.歴史的視野のレンジの広さと言及できる思想(思想家)の幅広さ、2. 現代的な問題にコミットしていること、3. 継続性の3軸で比較すると、やはり東氏が頭一つ抜け出ていることは誰も否できないだろう。しかも、何より、佐々木氏が述べるように、『覚悟』が違う。



◾️ 東氏が評価する中沢新一


では、本当に東氏に匹敵する人は他にはいないのか。いや、少なくとも一人いる。本書ではあまり目立たないが、東氏自身が高く評価するその人は、宗教学者中沢新一氏だ。特に2000年代に中沢氏の復活の象徴となった、『カイエソバージュ』シリーズを高く評価している。中沢氏は昨今でも、『アースダイバー』や『グリーンアクティブ』等重要な発信を続けている。先の3軸でみても、圧倒的な存在感がある。しかも『カイエソバージュ』で示された世界観は昨今では誰もあまり語らなくなった非常に『大きな物語』と言える。


しかしながら、アンチ東以上にオーム事件以降のアンチ中沢の数は今でも大変多く、このような肯定的なコメントを書いただけで、私自身が批判に晒されることを覚悟する必要があるような状況は続いている。かつてニューアカデミズムの騎手として颯爽と世に出た中沢氏が、オーム事件で地に落ち、泥の中を這いずり回るような艱難辛苦を経て、よくぞここまで復活したものと、私など感動すら覚えるのだが、いまだに檜舞台で先頭に立つことがはばかられる雰囲気があるのは残念なことだ。



◾️ 浅田彰氏と柄谷行人


ニューアカデミズムの先頭という意味では、東氏の先輩筋でもある批評家の浅田彰氏を忘れるわけにはいかないわけだが、『ゲンロン4』には、その浅田氏のインタビュー記事が載っている。大方の予想に反して、談話の大半は、浅田氏のデビュー前の青年時代の回顧に割かれ、肝心の批評史やそこに登場するプレーヤーに関するコメントは多くはなく、むしろ大変控えめな印象だ。中沢新一氏が泥にまみれながらも、自らの研究をひたすら深めていったのとは好対照に、早々と舞台の中心から距離をおいた浅田氏らしさが垣間見えるとも言える。心理学者の香山リカ氏が、浅田氏が登場して、ニューアカデミズムに感動して以来、ニューアカデミズムが瓦解してしまった後も、長い間浅田氏が華々しく復活を遂げることを心待ちにしていながら、裏切られた、とどこかで書いていたが、私も香山氏同様、どこかで浅田氏の本格的な再登場をずっと待っていた気がする。だからこそ、佐々木氏の言う、ニューアカデミズム最後の継承者である東氏には、過剰に期待してしまっているのかもしれない。


一方、東氏の師匠筋とも言える、柄谷行人氏についても、かなりの紙片を割いて取り上げているが、戦後の批評界に現れた巨人も、残念ながら『NAM原理』あたりからはすっかり精彩を欠き、過去の人になってしまった印象が拭えない。



◾️ 日本の病は癒えていない


先にも述べたように、昨今益々批評や思想の需要は一層瘦せ衰えてしまっている。しかしながら、だからと言って何もしなくて良いわけではない。東氏が指摘するように、この国では、敗戦と占領の結果言論に押しつけられた特殊な『ねじれ』が日本の言語と現実を切り裂き、戦後のこの国は言葉と現実が一致できなくなってしまった。その結果、批評は『戦後日本固有の病』である、と東氏は述べる。しかも、その病は見えにくくなっているが、いまだに癒えていない。日本の社会はいまだ病んでいて、まだ健康になっていないのに健康なふりをすることが一番の問題で、批評という病、すなわち言葉と現実の乖離は、ねじれそのものが解消されなければ癒えることはない(デモなどの示威行動では癒えることはない)。よって、『ゲンロン』という雑誌のこれからの使命はその病の痕跡を発見し、再起動することにある、という。実に厄介な仕事で、損な役回りにも見えるが、逆に言えば、日本に残された数少ない希望がここにあるとも言える



◾️ 世界の潮流『ポスト真実』/『感情化する社会』


しかも、『言葉の危機』は日本にだけではなく、世界的な潮流となり、不透明な世界をさらに一層曇らせている。オックスフォード辞書が2016年の『今年の言葉』に『ポスト真実/post-truth』を取り上げたことが昨秋大きな話題となったのは記憶に新しい。それはまた世界が『感情化社会』となっていると言い換えることもできそうだが、いずれにしても、言葉は極限まで短くなり、論理や思想を運ぶ器ではなく、即時的で、低次の、きめの荒い、それでいてやたらと強い感情を運ぶだけの器になりつつある。


『感情』という点では、評論家の大塚英志氏が、著書『感情化する社会』*3でも指摘していることだが、近代の始まりに、経済学の父、アダム・スミスが『道徳感情論』で『感情』を体系化したことが知られている。そして、それは社会の常識として近代社会に浸透したはずだったが、それが失われつつあるという意味でも、世界は歴史的な転換点を迎えているように思われる。少々長くなるが、以下、『感情化する社会』の該当部分につき、引用してみる。

そこでは他人の『行為』や『感情』への『共感』が社会構成の根幹に据えられる。しかし、それは『私』の『感情』と他人の『感情』を直接、『共感』させるのではなく、自分のうちに『中立的な観察者』を設け、それが自分や他人の『感情』や『行為』の適切性を判断する基準を形成するという手続きをとる。このようにアダム・スミスは自明のこととして『感情』が適切な回路を通じて『道徳』化することを疑わず、その過程を検証した。(中略)問題なのは、このような回路がいまや失われた、という点だ。その意味で、『感情化』とは『感情化』が『道徳』(広義の規範や公共性)を形成する回路を失った事態を指すと言ってもいい。アダム・スミスのあまりに有名な経済における『見えざる手』も、一人の人間の中に、感情的に自己利益を追求し、『財産への道』を往こうとする『弱い人』(weak man)と、そうでなく、自分や他者にも倫理的な『徳の道』を往こうとする『賢者』(wise man)がいて、両者の均衡によってそれはもたらされる、と読むのが妥当だ。(中略)


このように、スミスにしたがえば、いまの私たちはただ、『感情』的であり、『共感的』である。しかし『中立的な観察者』が私たちの心のなかにはいない、ということになる。そして、この『中立的な観察者』抜きでは『感情』はただ互いに『共感』し合い、巨大な『感情』となってしまうだけである。


言うまでもなく、この内的な観察者は政治やメディアや文学といった形で『外化』され、制度化してきた。『知性』と呼ばれるものもそうだろう。しかし、それらが現に機能不全に落ちいていることは言うまでもない。

◾️『感情』の外に立つ『批評』の重要性


私自身、卒業論文にこのアダム・スミス道徳感情論を題材としただけに、この議論には思い入れはあるが、『感情』も『共感』も人間社会を深いところで支える重要な要素であり、『理性』に対して『感情』を一方的に劣位におこうとするのも、社会を歪ませる一因であることは強調しておきたい。近代西欧社会については、最近まで、むしろこちらの方の問題が指摘されてきた。しかも、『感情』も『共感』も低級から高等へ育て上げることができる。だが、現代の問題は大塚氏が指摘する通り、『知性』の衰退が『中立的な観察者』の役割を弱体化させ、その結果、『感情』は劣化し、『共感』その範囲が狭まり、対立ばかり激化しているところにある。だからこそ、『感情』の外に立つ『批評』の再生は、いかに時代の趨勢に逆行して見えようとその重要性はいくら強調しても足りない。そういう意味でも、『ゲンロン』に期待するところは非常に大きい。


重い課題を前にして、東氏や『ゲンロン』にすがるだけではなくて、自分では何ができるのか。ちょうど年頭ということもあるが、これを自問自答していくことこそ本年の最大の課題とすべきだろう。あらためてこれを年頭の決意の一つとしようと思う。

*1:

ゲンロン4 現代日本の批評III

ゲンロン4 現代日本の批評III

*2:

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

*3:

感情化する社会

感情化する社会

2017年をどう生きればいいのか/次の10年期を見据えて

2017年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。



『反(アンチ)』の2016年


この年末は例年書いてきた10大ニュースに関わる記事が間に合わなかったのだが、2017年の豊富を語るためにこそ、2016年を改めて振り返り、評価/分析した上で、2017年を展望しておこうと思う。というのも、2016年というのは、後で振り返った時に、良くも悪くも、非常に印象に残る、歴史の道標となりうる年だからだ。2017年を語る為には、まず2016年を語らないわけにはいかない。


では、それほど印象的な年を概観して、漢字一文字で表すとすると何が相応しいだろうか。『反(アンチ)』が私の答え(考え)だ。『反』の後のもう一文字はいくつか候補がありうる。『動』(反動)、『省』(反省)、『転』(反転)、『攻』(反攻)等、どれも当てはまりそうでいて、どれか一つに絞りきれない。ただ、少なくとも、これらは皆『反』の次の解決につながって行く含意のある『反』であり、そうなって初めて大きなパラダイムチェンジ、歴史的転換として意識されるようになり、次の何十年かを規定する流れとなって行くと考えられる


言うまでもなく、これはいわゆる弁証法的な発展(正→反→合)にあてはめた現状認識であり、これがいかにも今の潮流ををうまく説明しており、またこの概念装置でこそ2016年以降の未来を見通せるように私には思える。すなわち、従来を『正』とすると、2016年に起きたことの多くは、非常に大きな変化を示唆する『反』であったことは間違いないのだが、だが、それがそのまま太い流れとなっていくようには思えず、2017年は『正』と『反』が相克して、世は混迷を深める可能性があると考えられる(2017年を『乱』と予想する人もいるようだが、一面わかる気がする)。その相克と混迷と場合にっては紛争を経由して、『合』に昇華して初めて、あらたなパラダイムと呼ぶに相応しい太い流れができていくと思う。



政治シーンに満ち満ちていた『反』


そのように、回りくどい前書きを述べれば(述べなくても)、懸命な読者の方なら、すでに察知がついたかもしれないが、6月のBrexit(イギリスのEU離脱)、11月の米国大統領選挙による共和党トランプ候補の勝利が特に、2016年の色合いを象徴し、また、決定づける出来事であったことは言うまでもない。そして、これらは実に様々な意味における『反(アンチ)』に満ち満ちている。何よりまず、80年代のレーガンサッチャー革命およびそれに引続くグローバリズムに対する強烈な『反』になっている。また、共和党・民主党という米国の二大政党制の終わりの始まりと見ることもできる。とすれば、これは米国の19世紀後半以降の政治体制に対する『反』とも言える。もっと広義には、民主主義やリベラリズムへの『反』でもあるだろう。また、思想やイデオロギーを度外視しても、上位1%の支配に対する『反』は米国民の99%が強く感じているところでもあるはずだ。


Brexitについて言えば、戦後の欧州の統合というレジームに対する、『反』という見方もできるし、もっと卑近には、昨今のEUのリーダーシップをとっているドイツに対する『反』と感じた人も少なくないだろう。日本にとっても、戦後ずっと続いてきた日米関係の枠組みに対する強力な『反』となると見られている。


いずれにしても、すべてに共通しているのは、これらは、従来の対立軸における『反』とは言えないことだ。例えば、米国の現政権党である民主党に対する共和党という対立軸の枠組みではトランプ現象を語ることは難しい。そもそも共和党の中心的な主義主張とトランプ氏の主張は完全に乖離してしまっている。また、グローバリズムを資本主義の一形態として、それに対する『反』だからといって、旧来の共産主義社会主義に出番があるわけではない。トランプ氏の発言からは『保護主義』の影が感じられるが、今の所、そのための具体策や妥協策等は示されていないし、簡単に出てくるとも思えない。



先端技術に対する『反』


大変驚いたことに、2016年は先端技術に対しても『反』と言うべき現象が続出した。この2〜3年、自動運転の展開に積極策を取り続けてきた、テスラ社の自動運転車の死亡事故は米国の自動運転の取り組みに一時的にであれ大変な冷や水を浴びせかけたし、それ以上に、完全自動運転車のイメージリーダー役を果たしてきたGoogle社が撤退か?、との衝撃的な報道もあった。


また、フィンテックの中核にあって、非常に広範囲のビジネスを様変わりさせるインパクトがあるとされて、大変な注目を集めていた、ブロックチェーンについても、数十億円規模の詐欺事件(『The DAO』事件*1 )に巻き込まれて以来、明らかにそれまでの勢いに陰りが出てきている。



ネットメディアに対する『反』


さらには、インターネット技術を生かした新しいビジネスモデルである、ニューメディアにも、『反』の動向が見て取れた。フェイスブックTwitter等のSNSの拡散力をフルに活かして、この数年既存のメディアの向こうを張って急速に勢いを増してきたネットメディア(ライターに大量に記事を書かせるタイプ、および、自分では記事をつくらずに他者の記事を選ぶ専門家(キュレーター)がニュースを選ぶタイプの両方を含む)だが、玉石混交とはいえ、中には既存のメディアが諸事情(スポンサーや政治等への配慮など)で書けないような出来事を明るみに出すなど(ウィキリークスなどその典型例)それなりの存在感を示してきた。また、従来は発信することなどできないし、やらなかった個人が自由に発信できることで、現場に近いリアルな記事が出てきたり、従来とは違った新鮮な観点の記事もみられたりして、従来のメディアの枠組みを破るような新鮮さをもたらした面もあった。


ところが、2016年にはベッキーの不倫騒動に端を発した、相次ぐ『炎上』に辟易させられ(しかも意図的に炎上を起こす勢力の存在があきらかになり、加えて既存のメディアも相乗りするような事態も常態化した)、年が押し迫ると今度は、DeNAという大資本の傘下に入って、収益だけを目的として、著作権法ギリギリの際どい手法を駆使し、内容的にも怪しげな記事で溢れているメディア、ウェルク(WELQ)の劣悪な正体が露わになったり、同様に従来から必ずしも評判の良くなかった(しかしながら集客力はある)エンタメまとめサイトである『はちま起稿』に対する、グループ全体で1358億円の売上を誇る大企業である DMMによる買収が明るみに出たり(ステルスマーケティンが疑われている)、ネットメディアの理想と自由の根幹を揺るがすような出来事が噴出した。


米国でも、海外(マケドニア)から大統領選挙を狙い撃ちにして、トランプ候補の支持者が喜びそうな怪しげな(というよりはっきりとガセネタ)を発信して、フェイスブックで拡散して広告収入を得るようなフェイクニュースサイトが大量発生して、大統領選挙にも多大な影響があったとされる。いずれも大変困った深刻な事態だが、それ以前にも問題視されていた点がクローズアップされて、遡上に登ったとも言えるわけで、今後ネットメディアが次のステージに上がるためには必然の『反』であったと言える。(少なくとも私はそう考える。)



底流にある『反』のうねり


2016年は『反』の連鎖は、様々な領域をまたがって、大きなトレンドとなったように思える。大きな時代の変わり目というのはこういうものなのかもしれない。一見関係がなさそうに見える個々の出来事の底流に『反』のうねりが脈打っていたとさえ言えそうだ。ある意味とても不思議な年だった。



では2017年をどう見るか


おそらく2017年は(先にも述べた通り)突如出現して頭をもたげた印象的の強い『反』がもっと具体的な姿を現し、物議をかもすような出来事が彼方此方で起きてくる、とても騒がしい一年となる可能性が高い。とても『合』に至って何らかの決着を見ることが信じられないと思う人も多くなるだろう。だが、本来イノベーションや改革というのは、従来の常識や従来の流れが妨げられ、混乱しているタイミングに一番起きてきやすいとも言えるはずだ。既存の勢力や体制が強力すぎるのでは、改革を進めることは難しい。こんな時こそ、次の大きなトレンド、『合』を自ら創出する気概を持って臨むべき時だし、そのような気概が報われる可能性が高い時期だと思う。


時代の大波に流されるままだと、今持っているものも守れなくなる恐れがある一方、過去にとらわれず、多発するであろう小競り合いや、一時的な退潮を物ともせず、新しい時代を切り開く気概のある人は次の10年期(decade)に大きく報われるだろう。そのきっかけとなるのが2017年だと考える。そういう私自身、過去のしがらみを吹っ切って、次の時代の準備に思い切って舵を切る、そんな一年とにしたいものだ。