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AIのような先端技術は『倫理』で抑制できるのか?

 

◾️ 皆が口にする『倫理』

 

昨今の科学技術の進歩は人間の想像をはるかに超えたペースで進行しており、突然、技術の成果が、人間の健康や生命、さらには人類の生存すら脅かすような存在として、立ち現れるようなことが現実の問題になってきている。その危機感の現れといってよいと思うが、何らかの歯止めとしての『倫理』という用語が最近頓に人口を膾炙するようになってきた。

 

 

◾️ 変わる文脈

 

もっとも、このような問題は、実は昨日今日始まったものではない。核兵器などまさに人類を滅ぼす恐れのある存在そのものだし、脳死の問題が取り沙汰された時にも、まさに『倫理』の問題を巡って大騒ぎになった。

 

だが、昨今ではこの『倫理』が持ち出される文脈が変わってきている印象がある。というのも、核兵器の場合、その普及や拡散を抑止するのは、少なくともこれまでは、国家の法律や政治判断であり、同盟や条約等の国家間の取り決めのほうだった。ここでは倫理や思想は現実的な歯止めにはならない。あるいは『脳死』の方も、法律が歯止めになっている。前提として、倫理は当然議論の対象となったが、あくまでプロセスで登場しただけで、実際には判断基準としての法律制定を待つことになった。では、最近の問題は何がどう違うのだろう。

 

それは、人の生命を奪い、人類の生存奪をさえ脅かす可能性のある新技術(ないし技術が生むプロダクト)を抑止するためには『倫理』に頼らざるを得ない、あるいは『倫理』しか頼るものが無い、という局面が多発することにある。

 

例えばその典型例は、人工知能(AI)だろう。現在のところはまだほとんどは『潜在的問題』だが、指数関数的な進化という特性を前提とすれば、ある日突然、人類の生存を脅かすようなAIが誕生する可能性は否定できない。しかも、核兵器のような莫大な資本が必要な技術と違って、誰でもとまでは言わないにせよ、個人単位で出来てしまう裾野の広さがあり、中国のどこか、インドのどこか、あるいはイスラエルのどこかで突如そのような人工知能が完成するとしても、不思議はない。

 

また、昨今ではそれ以上に恐ろしいのは、クリスパー*1のような遺伝子編集技術だ。ほとんど投資らしい投資も必要ではなく、大学院生レベルの知識があれば、人間と豚のキメラをつくったり、この世に存在しない危険な細菌を作ったりすることもできてしまう可能性がある

 

これほど重要な問題であれば、最終的には、法律を整備し、国家間の条約等の合意によって律することになるのは間違いないが、条約に調印しない国は野放しになるし、そもそも個人単位でできてしまうとすると、その気になればいくらでも規制の網をくぐり抜けてしまうだろう。となると、倫理、哲学、思想、宗教等に頼るしかなくなる、というわけけだ。

 

 

◾️ 進歩していない倫理や思想

 

だが、少し考えてみれば誰でもわかることだが、人類の生存に関わるような世界的な問題について、律することができるような、統一的な倫理や思想、宗教などどこにあるのか。あらためて、技術/テクノロジーの長足の進歩に比べて、倫理や思想等があまりに進歩していないことに愕然としてしまう。

 

ケンブリッジ大学内に2016年10月17日に設立された「Leverhulme Centre for the Future of Intelligence」の常任理事を務めているスティーブン・ケイブは次のように述べる。

 

「少なくともソクラテスの時代から、人類は倫理哲学や、善と悪を言葉でどう説明するかについては頭を悩ませています」とスティーヴン・ケイヴは悲しげに言う。「現代になって急にこの問題を人工知能(AI)システムにプログラムする必要が出てきましたが、残念なことに、そうした問題に関して人類ほほとんど進歩していないのです」

人工知能社会での「倫理」を問う──英国発・AIシンクタンクの挑戦|WIRED.jp

 

こんな有様だから、機械学習プログラマーはAIに何をプログラムすればよいか戸惑い、倫理哲学者に聞いても、『まだあまり解明できていない問題』というような曖昧な反応が返ってくる。何百年も取り組んできて未だに答えが出ない問題に、すぐに答えを出さないといけなくなってしまったとケイブは嘆く。

 

 

◾️ 切迫している

 

『すぐに答えを出さないといけない』というが本当のところどれくらい『すぐ』なのか。どうやら、まさに、『直ちに』『今この瞬間』というくらい差し迫っているようだ。これを示唆するショッキングな事例がある。

 

昨年3月、米マイクロソフト社がインターネット上で行ったAI『Tay(テイ)』の実験は、わずか1日で中止となった。AIが差別的発言を忠実に学習して、『ヒトラーは間違っていない』といった不適切な発言をしたからだ。これは、まさにこのようなことが今後起こる可能性があると恐れていた関係者の心胆を寒からしめた。AIが大量の情報をベースに学習するのはよいが、一体何を学習するのか。

Microsoftの人工知能が「クソフェミニストは地獄で焼かれろ」「ヒトラーは正しかった」など問題発言連発で炎上し活動停止 - GIGAZINE

 

 

◾️ 偽情報だらけの現代社

 

そもそも現代社会の大量な情報から学習すれば、AIに本来求められるような、倫理/哲学や善悪の概念が身につくのかといえば、誰もそんなことが期待できないことはすぐにわかるだろう。しかも、昨年来話題になったように、今、インターネット上は偽情報だらけだ。『ポスト真実』*2が現実なのだ。

 

日本でも、昨年末、医学的に根拠のない誤った内容や、他のサイトからの無断引用記事が多いとして、強い批判を受けて閉鎖された、DeNAが運営する健康情報サイト『WELQ(ウェルク)』の事件は記憶に新しいが、困ったことにこれは氷山の一角で、偽情報満載のサイトなどまだいくらでもある。しかも、大手マスコミも当てにはならない。朝日新聞の珊瑚捏造事件、慰安婦報道問題等も著名な例だが、最近では原発事故後の偏向報道など記憶に新しい。そもそも原発事故後の報道への不信感から、人々は大手メディアを信頼できなくなり、ネットニュースのほうにこそ本音や暴露等の真実を見つけることができると考えるようになったのではなかったか。

 

 

◾️ 『モラルジレンマ』に対する新たな取り組み

 

このような難題が場合によっては技術進化を阻む可能性があるとの認識は、昨今では開発者の側にも共有され、強く意識されるようになってきている。例えば、自動運転のAIに関して、下記のような取り組みは、その危機感の現れとも言えるが、まだ始まったばかりとはいえ興味深い。

 

 

自動運転車のブレーキが利かなくなった状況で、直進すれば5人の歩行者を弾き、右にハンドルを切れば1人の歩行者をひくだけですむ。左にハンドルを切れば、壁に激突して、自分と同乗している自分の家族が死ぬ。さあ、どうするか。このような状況を『モラルジレンマ』というが、AIにどのような判断をさせるべくプログラムするのがよいかというのは、困難な判断を強いられる難問だ。

 

MITメディアラボのイヤッド・ラーワン准教授らは、自動運転におけるAIの『モラルジレンマ』問題に対する人間の回答を大量に収集して分析するための仕組みを作り、一般公開する取り組みを始めている。

自動運転車のAIに「人間の生死」を教える、大学教授の狙い | FUZE

 

AIに妥当な判断をさせるためには、特に、人の生死に関わる判断は、一般情報からの機械学習に期待することはできないし、昨今の状況を勘案しても、好ましいともいえない。だから、人間が判断してプログラムするしかないのだが、その人間の側にも適切な情報が不足している。今回の取り組みは、残念ながら、特定のシチュエーションを設定して、それに対するアンケートを収集して、集計する程度のものに見えるが、それにしたところで、そんな情報は今までほとんどなかったわけだから、貴重な第一歩であることは確かだ。

 

 

ただ、それなりの成果を得るにはまだかなり時間がかかりそうだ。人間の判断はしばし、特定の環境や周囲の情報、その時の感情等に影響されがちであることはわかっているから、アンケートで得た情報は非常に慎重に、前提条件付きで利用しなければ判断を誤るだろう。人種、地域、宗教等判断にバイアスをかける条件は沢山ある。

 

 

今すぐ解決が求められている問題にしては、先の長い話に見えるが、それが現実であるとすれば、今後多少のトラブル発生は覚悟しておく必要がある。というのも、倫理の問題が解決しきれないからといって、自動運転車の開発は止まらないだろうし、交通事故を圧倒的に減らし、排ガス逓減、エネルギー節約につながる等、一方でメリットがあることもわかっているから、多少の問題には目をつむっても導入を進めた方が良い、という判断も(特に米国のような国では)働くはずだ。

 

 

◾️ 成熟した社会には成熟したAIが育つ

 

結局ところ、決め手がなくて、曖昧なままの状態を受け入れるしかないということだろうか。だが、そうだとしても一つ言えることは、個人のレベルで、この倫理哲学問題はきちんと理解して、自分の主張をはっきりと明示できるように言語化しておくことが望ましく、ゆくゆくは必須となっていくと考えられることだ。それは、先ずは、自分と自分の家族を守る非常に重要な武器となっていくと考えられる。そして、そのような人が多い社会で働くAIは賢く、倫理的にも高度化する可能性がある。人任せにしていてはいけない。一人一人が自分で考え抜く必要がある。AIの倫理のレベルはその社会の倫理のレベルに引き摺られると考えておくべきだ。そしてそれは、一人AIだけの問題ではなく、先端技術全般に言えることだ。社会の倫理、哲学的、宗教的に、レベルを上げていくこと。それが、結局のところ技術の突きつける問題を正しく導くための最善策ということになりそうだ。

 

日本企業は迷わず『経験価値の徹底追求』に取り組んだほうがいい


◾️ トランプ政権誕生でも変わらないトレンド


2017年はトランプ政権誕生という大波乱のおかげで、政治も経済も今後を見通すことが以前にもまして難しくなっている。経済問題に限って見ても、選挙の公約について本当のところ何をどこまでやるのか。それによっては、予想以上の大混乱に陥る可能性も否定できない。


だが、それがどのようなものであるにせよ、昨年の終わりに書いた通り(記事タイトル:一人負け日本で企業はどう生き残ればいいのか?*1 )日本の経済、日本企業の展望はあいかわらず非常に厳しく(トランプ政権誕生によって好転するとも考えられず)、2010年代の残る3年間の過ごし方次第では、無事に2020年代を迎えることができなくなってしまいかねない。どんなに厳しくても、どんなに視界不良でも、今は踏ん張りどころだ。


それに、トランプ政権誕生が時代の大きな転換点になることは間違いないとはいえ、一方で経済やビジネスの中長期トレンドについてみれば、今世界には、不可逆な潮流が厳然としてあり、多少の紆余曲折はあっても根幹のところは変わりようがない。それは言うまでもなく、技術進化のトレンドだ。トランプ次期大統領は、現代のビジネスにおける技術進化を象徴する存在であるGAFA( GoogleAppleFacebookAmazon)はじめ、西海岸のIT企業を嫌っていると巷間伝えられ、そのためにIT企業は、そのビジネス環境が悪くなったり、政治的な対応に足を取られて、しばらくは従来ほどの速度で活動することは難しくなるかもしれない。


だが、どの企業のどの活動でも、今後は特に、人工知能(AI)のような、デジタル技術の活用が企業競争力と直結していて、もはや切り離すことはできないことが明らかになってしまった現代では、政治的な環境が変化したところで、企業の競争の大原則(ウイニング・フォーミュラ)がおいそれと変わるとは思えない。当然、この点での日本企業の競争環境も原則変わりようがない。よって、あらためて、前に述べた『日本企業が市場で飛躍するための処方箋』も今変更する必要はないと考える。到達のための道順や時間は変更が必要かもしれないが、到達点は変わらない。それをまず基本的な前提として明確にしておきたい。


その上で、前回書ききれなかった議論を、もう少し展開しておきたい。場合によっては、今回分でも書ききれないかもしれないが、その場合にはまたその次以降に書き足していこうと思う。いずれにしても、このテーマはブログ記事の2〜3本で語り尽くせる程度の問題ではない。書き足すだけではなく、修正すべきは修正して精度を上げ、全体像をより鮮明に浮かび上がらせていきたいと考えている。



◾️ 日本企業が市場で飛躍するための処方箋


では、前に挙げた処方箋だが、次の4つである(それぞれの説明は、記事をご参照)。

1. 人事制度
2. IT/技術利用
3. マーケティング経営
4. 体験価値の徹底追求


いずれも重要でどれ一つとしておろそかにできないし、そもそもこの4つを高いレベルでバランスをとることが何より重要であることは繰り返すまでもない。ただ、典型的な日本企業がGAFAのような巨大IT企業や、昨今では創造的破壊企業ともユニコーン企業(新しく事業を立ち上げたスタートアップ企業のうち、推定企業評価額が10億ドル以上の未公開企業がそのように呼ばれるようになった。)とも称される、猛烈な勢いのある企業と同列に争って勝ち抜くことができるのか、という疑問も湧いてこよう。上記の4つが『成功のフォーミュラ』と言えるとしても、それはまた、結局旧来の日本企業に勝ち目はないことを、言い換えているだけではないか、という弱気な疑問が出てくることも予想される。(特に最近はそのような反応も少なくない。)確かにそれは一面あたっていて、個別の得手不得手はあるにせよ、総じてシリコンバレーのIT企業タイプの企業のほうがこの点でも合理的でスピードが早く、自社で不足している要素があれば、買収や合併等を通じて短期間に取り込み、自家薬籠中の物とすることにも長けている。



◾️ あらためて立てるべき問いと回答


もちろん、現実のビジネスは、この4つを含む様々な要素を独自にミックスして、差別化し、競合力を構築していくわけだから、初めから白旗を上げるのはいかがなものかと思うが、何より彼らの経営判断も、組織を作り直すスピードも圧倒的に速く、このスピードに多くの日本企業が立ち竦んでしまっているのが現実だろう。さらに言えば、先にも述べたように時代が下れば下るほど、AIのような技術進化の影響が圧倒的になるから、他の要素で多少勝っても、結局全て吹っ飛んでしまうのではないか、という疑問も出てくるだろう。だから、ここであらためて立てるべき問いは次のようなものになる。

GAFAやユニコーン企業に対しても、短期的にも競合力の優位を保つことができ、AI等の技術が市場を席巻する時代になってもその競合力を維持し、維持するだけではなく、世界に攻めていくことができるための日本企業が取れる戦略は何か?

そして、以前から私が申し上げているのは、『経験価値の徹底追求』がその一番の回答となると考えられるということだ。



◾️ あらためて、経験価値とは


ご参考までに、あらためて、経験価値という概念につき、最初に提唱したマーケティングの専門家、バーンド・H.シュミットが定義した『5つの側面』について引用し、提示しておく。

経験価値とは、製品やサービスそのものの持つ物質的・金銭的な価値ではなく、その利用経験を通じて得られる効果や感動、満足感といった心理的・感覚的な価値のこと。カスタマー・エクスペリエンス(Customer Experience)ともいい、顧客を、単なる購入者ではなく、最終利用者としてとらえる考え方に基づいている。この概念を提唱したバーンド・H.シュミット(Bernd H. Schmitt)によると、経験価値には以下の5つの側面があるとしている。


SENSE(感覚的経験価値) 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感を通じた経験

FEEL(情緒的経験価値) 顧客の感情に訴えかける経験

THINK(創造的・認知的経験価値) 顧客の知性や好奇心に訴えかける経験

ACT(肉体的経験価値とライフスタイル全般) 新たなライフスタイルなどの発見

RELATE(準拠集団や文化との関連づけ) 特定の文化やグループの一員であるという感覚

経験価値とは|マーケティング用語集|株式会社エスピーアイ

◾️ 音楽市場における事例


市場が飽和した現代では、差別化の最も有効な手段の一つがこの『経験価値』であることは、すでに『常識』なので事例は沢山あるが、すでに『常識』とされているのであれば、競争は激化しており、ここもすでに『飽和』していて参入が難しいのでは、との危惧もあろう。確かに、後に述べるように多くの米国企業は非常にシステマティックにこれに取り組んでおり、競争は激化している。だが、一方で、この競争領域(経験価値)の奥は深く、まだ開拓余地が十分にある。それを感じていただけそうな事例と今後の方向について以下に述べてみたい。


先日発売された、音楽ジャーナリストの柴那典氏による『ヒットの崩壊』*2という本には、音楽ビジネスにおける体験価値の重要性がわかりやすく示され、具体例も豊富で非常に面白い(市場の評価も高いようだ)。日本の音楽業界において、CD等の音楽ソフトの販売のピークは1998年で、以降は、2013年の特殊な例外を除き、下落に次ぐ下落で、それを補う存在として期待された有料音楽配信サービスも2005年〜2007年は全体の売り上げを押し上げることに貢献したが、それ以降は音楽ソフトの落ち込みを補う勢いはなく、1998年に6000億円あった音楽ソフトの売り上げも、2015年には有料音楽サービスを加えても、半分の3000億円まで落ち込んでしまった。ところが、その一方でライブやフェスは大変な活況で、実力のあるミュージシャンは生計を立て、活動を拡大する原資も得て潤ってきているという。


柴氏は本書の前書き(はじめに)で次のように述べる。

ここ十数年の音楽業界が直面してきた「ヒットの崩壊」は、単なる不況などではなく、構造的な問題だった。それをもたらしたのは、人々の価値観の抜本的な変化だった。「モノ」から「体験」へと、消費の軸足が移り変わっていったこと。ソーシャルメディアが普及し、流行が局所的に生じるようになったこと。そういう時代の潮流の大きな変化によって、マスメディアへの大量露出を仕掛けてブームを作り出すかつての「ヒットの方程式」が成立しなくなってきたのである。


CD等の音楽ソフトによって音楽を聴くより、実際のミュージシャンの演奏だけではなく、観客の歓声やその場の雰囲気等のすべてを体全体で感じる体験(経験)の価値を人々は重要視するようになってきた。その構造変化に気づく者は生き延び、それに気づけない者は没落していく。そういう状況がこの日本の音楽業界でも現実になってきている。ただ、実ところそのようなユーザー側の変化は、ずっと前から伝えられていた。例えば、以下の記事が書かれたのは2009年9月、今から7年以上も前だ。

CDが売れないといわれる中、音楽コンサート市場は活況を呈しているようだ。日本経済新聞の9月10日付朝刊では、ぴあ総研による「集客型エンターテイメントのチケット市場規模」に関するレポートを引用し、2008年の音楽コンサートの市場規模が前年比3.9%増の約1,503億円となったと報じている。同年の音楽ソフト市場規模が前年比約92%の約3,617億円にとどまったこと(日本レコード協会統計資料)を踏まえると、コンサートビジネスは異例の高成長を遂げているといえる。

CD文化からコンサート文化へ Jポップは「聴く」よりも「観る」時代 - ライブドアニュース

この傾向は、日本だけではなく、世界的傾向であることも、当時から指摘されていた。

日本に限った話ではない。音楽業界は世界的にコンサートビジネスへとシフトしており、有力なアーティストほどコンサート活動で稼ぐ傾向がある。たとえば米国の歌手・マドンナの場合、先月終了した世界ツアーにおいて計32カ国で350万人のファンを動員し、4億800万ドル(約375億9,700万円)の収益を上げている。一方で、マドンナのCD販売のポテンシャルはヒット作でも世界で500万枚程度と見られており、インターネット等の音楽配信分を勘案しても、コンサートにおける収益には遠く及ばない。

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また、アーティスト毎の日本の音楽CDの売上は、『握手券のシステム』に支えられている、AKB48がトップの常連で、それどころか、2011年から2015年までのオリコン年間シングルランキングのTop5のほとんどをAKB48の楽曲が占めている。このやり方には批判もあるが、裏を返せば、AKB48は握手会のような場でファンとの交流を深め、ソーシャルメディアをフルに活用し、ファンをライブに動員する等の手法には非常に長けていて、仕掛け人(秋元プロデューサー)が体験価値の重要性を早くから見抜いていたことが商業的な成功につながった例であることは以前から指摘されていた。



◾️『住みたい街』の評価軸として


住みたい街というような、古くて新しいテーマを見ていても、確実に『体験価値』が注目され、洗練されて行く動向が見て取れる。HOME’S総研が2015年9月に発表した、『Sensuous City[官能都市]− 身体で経験する都市;センシュアス・シティ・ランキング』と題した調査研究レポートについてまとめた本、『本当に住んで幸せな街〜全国「官能都市」ランキング』*3はその点で大変参考になる。日本語としての、『官能』というのは、少々誤解を招きかねない用語の使い方という気もするが、日本官能評価学会のウェブページには、ここで言う官能評価について次のような説明がある。

文明社会に住む我々は生活に必要な様々な尺度、例えば長さ、重さ、時間、温度を考案し、それらを正確、精密に計ることで社会を発展させてきました。
 一方、我々が日常経験する事象、朝の空気が爽やかだとか、自動車の乗り心地が良いとか、夜景がロマンチックというような感覚や情緒的経験は前述の尺度で計測することはできません。例えば、赤ワインをきき酒する手順を考えると、先ずそのワインの色、香り、味の特徴を把握し、出来れば数値化する。次に知識のライブラリーの中からそれに近い産地、銘柄、更に生産年の変動幅以内にあるかどうかを検討し、それらの特徴を誰にでも理解できる言葉で表現する。これが官能評価です。

学会とは | 一般社団法人日本官能評価学会


つまり、従来は指標として示しにくかった、感性、感覚、情緒的経験等の数値化を図ろうという試みらしい。まさに、より精妙な『経験価値』の見える化を志向していることがうかがえる。いかにその体験価値の存在に気づいても数値化できなければ、市場価値として評価できないし管理することは難しい。そういう意味では大変興味深い取り組みだ。


本書で取り扱う、『街の住みやすさ』という点については、従来より国家がつくった評価フォーマットがあり、これは、クリーン、利便性、開放感等、わかりやすくはあるが、均質で没個性的な価値で埋まっていて、その結果、日本は全国どこでも同じような個性のない街で溢れることになった。これに対して、世界的に著名な都市計画家であるヤン・ゲール氏の評価軸を元に、次の二つの観点で指標をつくったという。

不特定多数の他者との関係性の中にいること:関係性

身体で経験し五感を通して都市を近くすること:身体性


具体的には、次のような観点が織り込まれている。



そして、その指標で選ばれたランキングが次の表だ。

一目見て、違和感を持った人が多いのではないだろうか。従来もっと高く評価されていたはずの街のランクが低かったり、その逆もあって、私自身、正直、強い違和感があった。だが、実際に住んでいる人の満足度は、この指標で出た上位ランクの街は総じて高いという。そのアンケート結果が次の表である。


従来の『利便性』や『効率性』等、一見わかりやすい価値は持っていても、ここで言う人間が街に住むために欠かせない要素(人間的な価値:関係性、身体性等)を捨象してしまったような街と、そのような要素が溢れている街との違いについて精査すれば、これが今後企業が真剣に開拓に取り組むべき『経験価値』の典型的な現れの一つであることがわかると同時に、まだ見つかっていない価値が開拓できる余地がいかに大きいかを感じることができるだろう。一見、意味がなさそうなのに、実質的にユーザー満足度を上げることができる指標を他社に先駆けて把握することがいかに競争戦略上重要であるかは言を俟たない。


開拓余地という点について補足説明するために、ここで、経験価値について述べた文献である『新訳経験価値』*4より、市場で提供される各ステージにおける経済価値の一覧を引用するので、見てみていただきたい。


経験は様々な商品やサービス提供のあらゆる場所で提供できる可能性があり、しかも、新たに発見し、洗練し、高度化していくことができる。



◾️デザイン思考


先述したように、経験価値というのは、マーケティングの先進地域である米国で、マーケティングの専門家である、バーンド・H.シュミットによって1990年代の終わり頃に発表された概念であり、その後、どの企業でも真剣に取り組まれるようになった。昨今ではマーケターなら経験価値=CX(カスタマー・エクスペリエンス)を十分に理解していなくてはモグリと言われるほど、常識の範疇となっている。特に、昨今の競争は、既存の商品やサービスを論理的思考で改善して価値を高めていくような活動では勝ち抜くことはできず、ゼロから1を創出してビジネス化していくようなイノベーションによって争われている。したがって、いわゆるMBA的な思考に加えて、『デザイン思考』というようなCXのエキスパートであるデザイナー主導でサービスを作り出そうとする発想が非常に大きな潮流になってきている


実際に、デザイナーがIT企業を立ち上げるケースも増えてきている。例えば、ユニコーン企業の一角、民泊サービスのエアビーアンドビーの共同創業者の3人のうち2人は、美術大学を卒業したデザイナーであり、全世界のユニコーン企業の創業者のうち、約2割がデザインや芸術を学んだというレポートもあるという。



◾️ 文化や習慣、言語等に左右される経験価値


この点でも多くの日本企業より、GAFAや先端のユニコーン企業の方が市場では一歩も二歩もリードしているように見えるし、実際それが現実ではある。だが、経験価値というのは、ユーザーのいる環境における、文化、歴史、神話、習慣、習俗、思想、言語等の要素から生まれ出ずるものであり、その環境においてこそ洗練される性格を持つ。だから、深めれば深めるほど、その集団や国家の特殊性や時代性があらわれ強く作用する習慣、習俗等、自分でも意識できる経験価値もあるが、一方、その源泉は本人でさえ気がつかない深層意識の側に属し、そこには個人を超えた民族固有の特性が見て取れる。『自分でも気づかなかったが、それこそが欲しかった!』というユーザーの感想が出てくるのは、このあたりから引き出した価値が寄与するケースが少なくない。そして、差別化のためには、またとない壁になる。


例えば、ニコニコ動画で若年の日本人が感じている経験価値を日本文化にまったく馴染みのない外国人が理解するのは相当に難しい(無理といっても過言ではない)。哲学者の九鬼周造が言語化して見せた、『いき』についてもそうだ。あるいは、仏教学者の鈴木大拙が英文でも解説した『禅』や『日本的霊性』の概念など、日本人でも理解することは難しいかもしれないが、それでも、少なくとも日本人のほうがはるかに理解できる余地はあるはずだ。したがって、このような価値を理解し、咀嚼することができた上で、『経験価値』が提供できれば、少なくとも日本のユーザーに対しては海外企業に簡単に負けることはないはずだ。


ただ、現在でも日本では毎年数十万規模で人口が減少しており(日本の2015年の人口は27万1834人減少し、調査を開始して以来最大の減少幅となった)、この先、この趨勢が覆る見込みはない。市場は縮小し、いくら日本市場で勝ったところで、世界市場で勝てなければ意味がない、とおっしゃる向きもあるだろう。だが、そう悲観ばかりしたものではない。



◾️ポケモンGO』の衝撃


昨年の夏から秋にかけて、1996年に当時任天堂から発売されたゲーム『ポケットモンスター』の後継である『ポケモンGO』が世界中で爆発的に受け入れられたことは記憶に新しい。この『ポケットモンスター』について分析した、宗教学者中沢新一氏の『ポケットの中の野生  ポケモンと子ども』が『ポケモンの神話学』*5として復刊されており、あらためて読んでみると、『ポケモンGO』現象というのが、いかに文明史的に見ても比類のない事件であったのかがわかってくる。そして、このゲームの凄さ、それを生むことができる日本という国(文化)のユニークさ、このゲームの普遍的な意味の奥深さ、世界の文明史における貢献等、次々に展開される難解だが含蓄に富む論考に、それこそ、読んでいる私自身、異世界に誘い込まれてしまったかのような錯覚を覚えてしまう。だが、よく読み込めば十分に納得のいく内容だ。


中沢氏が述べる『ポケモン』の成功の理由をまとめると(まとめきれていないかもしれないが)ざっと次のようになる(と思う)。


心理学者のフロイトや哲学者で精神科医ジャック・ラカンが指摘するように、人間には、『死の欲動』であったり、ことばの力によって象徴化できなかった生命的な力の残余(ラカンは、それを『対象a』と名付けた)が押し寄せて来て、特に子供の場合、その力が無軌道に噴出すると本人の人格の崩壊を招いたり、社会全体としても大きな騒乱や犯罪の原因になる。旧来は個々の社会の持つ文化がそれを『去勢』する機能を備えていた。『対象a』が意識の『へり』や『穴』から溢れ出てくると、ことば(象徴)の体系が強力に作動してこれを個人的な幻想の領域にきちんとおさめていたのが、現代の社会では『去勢』の機能が弱体化して、『対象a』が所構わず噴出してしまっているという。学校や家庭の教育はこの無軌道な噴出に対応不能の状態に陥っており、新しい昇華の方法を模索する必要に迫られている。かつて芸術がそれに取り組もうとしたが、成功したとは言い難い。だが、ポケモンは非常に見事にこれを処理して管理するばかりか、人類学者のレヴィ・ストロースが同名の著作で明らかにしてみせた、『野生の思考』(科学的思考よりも根源にある人類に普遍的な思考。近代科学の方がむしろ特殊とする。)がゲームをする子供の心に活発に働く場を与えている、という。『野生の思考』は普遍的だが、日本には他にも『対象a』の造形と処理につき、独特の達成をしてきた文化を持ち、日本でなければ、これほどまでに洗練されたゲームはできなかったと中沢氏は断言する。



◾️ ローカルから普遍へ


要は、日本文化は『野生の思考』の痕跡を身近に残し、この普遍的だが、普段は意識下に沈潜する『思考』をうまく顕現させる独自の特性がある、ということだ。もちろん、ゲームだけの問題ではない。文明史的な貢献とまで評価されるこの特性を、単なるマーケティング概念にまで落とし込むことは、こうなると少々躊躇する気もにもなるが、実際、日本人ならではの経験価値の源泉であり、うまく持っていけば、世界的に受け入れられる普遍性があり、AIが代替することは少なくとも当面は非常に難しいと考えられるから人間の仕事として残すことができ、AIとも住み分けが出来そうだ。さらには、AIの能力がさらに上がり、VR(仮想現実)や3Dプリンター等の技術がもっと進化すれば、例えば日本の寿司職人の技術を実際に人間を送り込むことなく、現地でほとんど本物の職人がいるの変わりないほどのレベルで再現するようなことも可能になる。そうなれば、日本人の開拓した『体験価値』をもっと自由に『輸出』することができるかもしれない。そういう意味でも、将来的にも有望と言える。


大変な長文になったが、今回扱ったテーマは、まだいくらでも書けるネタがあるし、その上に、もっと幅を広げ、深く掘っていけるポテンシャルがある。それこそもっと開拓の余地がある。今回は、どうして『体験価値の徹底追及』が今後の日本企業にとって死活的な意味があるのかという点が少しでも伝われば、それで成功ということにしておこう。

*1:一人負け日本で企業はどう生き残ればいいのか? - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る

*2:

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

*3:

本当に住んで幸せな街 全国「官能都市」ランキング (光文社新書)

本当に住んで幸せな街 全国「官能都市」ランキング (光文社新書)

*4:

[新訳]経験経済

[新訳]経験経済

*5:

『ゲンロン4』を読み、2017年年頭の決意を新たにした

◾️ 予想以上に面白かった『ゲンロン4』


年末年初の休日を利用して、思想家の東浩紀氏が主宰するゲンロン社が出版する『ゲンロン4』*1を読んだ。一連の『現代日本の批評』の連載の最終回としても、2001年以降の平成の批評史としても大変読み応えがあり面白かった。また、昨今、このような内容をまとめ上げることのできる個人も、出版社も、メディアも他にはどこにも存在しないと言わざるを得ず、このような企画自体が待望久しいものであり、そういう意味でも楽しませていただいた。


しかも、私個人が面白かっただけではなく、大変よく売れているというから実に喜ばしい。東氏自身が述べているように、昨今特にこのような批評とか思想系の読物はジャンルとして売れなくなってきているため、この種の企画が商業的に成立しないとなると、日本からこのジャンル自体が消失してしまう危惧がある。それでは困る。



◾️ 東浩紀氏一人勝ちが続いている


特集『現代日本の批評?』の基調報告として、評論家の佐々木敦氏が『ニッポンの文化左翼 - ストーリーを続けよう?』という記事を寄稿していて、80年代以降の現代思想シーンを概観しているが、これは7年前に出版社した自らの著書『ニッポンの思想』*2のその後談ともなっていて、佐々木氏がこの直近の7年間をどう評価しているかがわかって興味深い。


『ニッポンの思想』で、佐々木氏は、ニューアカデミズムは浅田彰氏に始まり、東浩紀氏で終わり、ゼロ年代でメイン・プレーヤーと言えるのは東氏のみ、すなわち『東浩紀一人勝ち』と言い切っている。当時は、世に少なくないアンチ東派を刺激して大変なことになるのではとハラハラした気持ちで読んだものだが(実際、かなりの怒りと嘲笑を惹き起こしたようだ)、一方では、悔しければ、『東氏を乗り越えて我こそはと名乗りを上げよ』という佐々木氏の檄文ともいえるものでもあった(少なくとも私にはそう感じられた)。だが、今回の記事では、7年経過した今も、東氏を超える存在は出てきていないと力なく述べている。ニューアカデミズム以後を東氏だけが、誠実かつ真摯に引き受けてみせたのであり、『日本- 現代 - 思想 - 史』への強い責任と警鐘の意識を自分に課してきたと言えるし、それは現在でもそうだ、という。


この7年間は、ソーシャルメディアが絶頂期を迎え、メディアの多様化の期待感が盛り上がったり、東日本大震災もあって、長く続いた戦後体制に変化の兆しが見られ、日本の思想・言論界にも再出発の機運が見られた時期でもあった。そしてそのような期待感を引き受けるにたる若手の言論人も育って来ていると思われた。しかしながら、残念なことに、その期待が失望に変わるのにあまり時間はかからなかった。結果的に、7年前より今の方がさらに事態は深刻だ。批評や思想の需要は一層瘦せ衰え、言論人も自らの言論を研ぎ澄ますような地味な取り組みに見切りをつけ、既存のメディアに露出して、人々の感情を喚起し、アイコンとしての自分を売ることに血道をあげている人だらけになってしまった。


東氏に揶揄されることの多い、『若手論壇』の若手を含めて、個人個人を見ると、優れた論者がいないわけではないし、中には東氏に匹敵する切れ味のするどい論考を披露できる人もいる。だが、『ゲンロン4』でも出てくる評価軸だが、1.歴史的視野のレンジの広さと言及できる思想(思想家)の幅広さ、2. 現代的な問題にコミットしていること、3. 継続性の3軸で比較すると、やはり東氏が頭一つ抜け出ていることは誰も否できないだろう。しかも、何より、佐々木氏が述べるように、『覚悟』が違う。



◾️ 東氏が評価する中沢新一


では、本当に東氏に匹敵する人は他にはいないのか。いや、少なくとも一人いる。本書ではあまり目立たないが、東氏自身が高く評価するその人は、宗教学者中沢新一氏だ。特に2000年代に中沢氏の復活の象徴となった、『カイエソバージュ』シリーズを高く評価している。中沢氏は昨今でも、『アースダイバー』や『グリーンアクティブ』等重要な発信を続けている。先の3軸でみても、圧倒的な存在感がある。しかも『カイエソバージュ』で示された世界観は昨今では誰もあまり語らなくなった非常に『大きな物語』と言える。


しかしながら、アンチ東以上にオーム事件以降のアンチ中沢の数は今でも大変多く、このような肯定的なコメントを書いただけで、私自身が批判に晒されることを覚悟する必要があるような状況は続いている。かつてニューアカデミズムの騎手として颯爽と世に出た中沢氏が、オーム事件で地に落ち、泥の中を這いずり回るような艱難辛苦を経て、よくぞここまで復活したものと、私など感動すら覚えるのだが、いまだに檜舞台で先頭に立つことがはばかられる雰囲気があるのは残念なことだ。



◾️ 浅田彰氏と柄谷行人


ニューアカデミズムの先頭という意味では、東氏の先輩筋でもある批評家の浅田彰氏を忘れるわけにはいかないわけだが、『ゲンロン4』には、その浅田氏のインタビュー記事が載っている。大方の予想に反して、談話の大半は、浅田氏のデビュー前の青年時代の回顧に割かれ、肝心の批評史やそこに登場するプレーヤーに関するコメントは多くはなく、むしろ大変控えめな印象だ。中沢新一氏が泥にまみれながらも、自らの研究をひたすら深めていったのとは好対照に、早々と舞台の中心から距離をおいた浅田氏らしさが垣間見えるとも言える。心理学者の香山リカ氏が、浅田氏が登場して、ニューアカデミズムに感動して以来、ニューアカデミズムが瓦解してしまった後も、長い間浅田氏が華々しく復活を遂げることを心待ちにしていながら、裏切られた、とどこかで書いていたが、私も香山氏同様、どこかで浅田氏の本格的な再登場をずっと待っていた気がする。だからこそ、佐々木氏の言う、ニューアカデミズム最後の継承者である東氏には、過剰に期待してしまっているのかもしれない。


一方、東氏の師匠筋とも言える、柄谷行人氏についても、かなりの紙片を割いて取り上げているが、戦後の批評界に現れた巨人も、残念ながら『NAM原理』あたりからはすっかり精彩を欠き、過去の人になってしまった印象が拭えない。



◾️ 日本の病は癒えていない


先にも述べたように、昨今益々批評や思想の需要は一層瘦せ衰えてしまっている。しかしながら、だからと言って何もしなくて良いわけではない。東氏が指摘するように、この国では、敗戦と占領の結果言論に押しつけられた特殊な『ねじれ』が日本の言語と現実を切り裂き、戦後のこの国は言葉と現実が一致できなくなってしまった。その結果、批評は『戦後日本固有の病』である、と東氏は述べる。しかも、その病は見えにくくなっているが、いまだに癒えていない。日本の社会はいまだ病んでいて、まだ健康になっていないのに健康なふりをすることが一番の問題で、批評という病、すなわち言葉と現実の乖離は、ねじれそのものが解消されなければ癒えることはない(デモなどの示威行動では癒えることはない)。よって、『ゲンロン』という雑誌のこれからの使命はその病の痕跡を発見し、再起動することにある、という。実に厄介な仕事で、損な役回りにも見えるが、逆に言えば、日本に残された数少ない希望がここにあるとも言える



◾️ 世界の潮流『ポスト真実』/『感情化する社会』


しかも、『言葉の危機』は日本にだけではなく、世界的な潮流となり、不透明な世界をさらに一層曇らせている。オックスフォード辞書が2016年の『今年の言葉』に『ポスト真実/post-truth』を取り上げたことが昨秋大きな話題となったのは記憶に新しい。それはまた世界が『感情化社会』となっていると言い換えることもできそうだが、いずれにしても、言葉は極限まで短くなり、論理や思想を運ぶ器ではなく、即時的で、低次の、きめの荒い、それでいてやたらと強い感情を運ぶだけの器になりつつある。


『感情』という点では、評論家の大塚英志氏が、著書『感情化する社会』*3でも指摘していることだが、近代の始まりに、経済学の父、アダム・スミスが『道徳感情論』で『感情』を体系化したことが知られている。そして、それは社会の常識として近代社会に浸透したはずだったが、それが失われつつあるという意味でも、世界は歴史的な転換点を迎えているように思われる。少々長くなるが、以下、『感情化する社会』の該当部分につき、引用してみる。

そこでは他人の『行為』や『感情』への『共感』が社会構成の根幹に据えられる。しかし、それは『私』の『感情』と他人の『感情』を直接、『共感』させるのではなく、自分のうちに『中立的な観察者』を設け、それが自分や他人の『感情』や『行為』の適切性を判断する基準を形成するという手続きをとる。このようにアダム・スミスは自明のこととして『感情』が適切な回路を通じて『道徳』化することを疑わず、その過程を検証した。(中略)問題なのは、このような回路がいまや失われた、という点だ。その意味で、『感情化』とは『感情化』が『道徳』(広義の規範や公共性)を形成する回路を失った事態を指すと言ってもいい。アダム・スミスのあまりに有名な経済における『見えざる手』も、一人の人間の中に、感情的に自己利益を追求し、『財産への道』を往こうとする『弱い人』(weak man)と、そうでなく、自分や他者にも倫理的な『徳の道』を往こうとする『賢者』(wise man)がいて、両者の均衡によってそれはもたらされる、と読むのが妥当だ。(中略)


このように、スミスにしたがえば、いまの私たちはただ、『感情』的であり、『共感的』である。しかし『中立的な観察者』が私たちの心のなかにはいない、ということになる。そして、この『中立的な観察者』抜きでは『感情』はただ互いに『共感』し合い、巨大な『感情』となってしまうだけである。


言うまでもなく、この内的な観察者は政治やメディアや文学といった形で『外化』され、制度化してきた。『知性』と呼ばれるものもそうだろう。しかし、それらが現に機能不全に落ちいていることは言うまでもない。

◾️『感情』の外に立つ『批評』の重要性


私自身、卒業論文にこのアダム・スミス道徳感情論を題材としただけに、この議論には思い入れはあるが、『感情』も『共感』も人間社会を深いところで支える重要な要素であり、『理性』に対して『感情』を一方的に劣位におこうとするのも、社会を歪ませる一因であることは強調しておきたい。近代西欧社会については、最近まで、むしろこちらの方の問題が指摘されてきた。しかも、『感情』も『共感』も低級から高等へ育て上げることができる。だが、現代の問題は大塚氏が指摘する通り、『知性』の衰退が『中立的な観察者』の役割を弱体化させ、その結果、『感情』は劣化し、『共感』その範囲が狭まり、対立ばかり激化しているところにある。だからこそ、『感情』の外に立つ『批評』の再生は、いかに時代の趨勢に逆行して見えようとその重要性はいくら強調しても足りない。そういう意味でも、『ゲンロン』に期待するところは非常に大きい。


重い課題を前にして、東氏や『ゲンロン』にすがるだけではなくて、自分では何ができるのか。ちょうど年頭ということもあるが、これを自問自答していくことこそ本年の最大の課題とすべきだろう。あらためてこれを年頭の決意の一つとしようと思う。

*1:

ゲンロン4 現代日本の批評III

ゲンロン4 現代日本の批評III

*2:

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

*3:

感情化する社会

感情化する社会

2017年をどう生きればいいのか/次の10年期を見据えて

2017年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。



『反(アンチ)』の2016年


この年末は例年書いてきた10大ニュースに関わる記事が間に合わなかったのだが、2017年の豊富を語るためにこそ、2016年を改めて振り返り、評価/分析した上で、2017年を展望しておこうと思う。というのも、2016年というのは、後で振り返った時に、良くも悪くも、非常に印象に残る、歴史の道標となりうる年だからだ。2017年を語る為には、まず2016年を語らないわけにはいかない。


では、それほど印象的な年を概観して、漢字一文字で表すとすると何が相応しいだろうか。『反(アンチ)』が私の答え(考え)だ。『反』の後のもう一文字はいくつか候補がありうる。『動』(反動)、『省』(反省)、『転』(反転)、『攻』(反攻)等、どれも当てはまりそうでいて、どれか一つに絞りきれない。ただ、少なくとも、これらは皆『反』の次の解決につながって行く含意のある『反』であり、そうなって初めて大きなパラダイムチェンジ、歴史的転換として意識されるようになり、次の何十年かを規定する流れとなって行くと考えられる


言うまでもなく、これはいわゆる弁証法的な発展(正→反→合)にあてはめた現状認識であり、これがいかにも今の潮流ををうまく説明しており、またこの概念装置でこそ2016年以降の未来を見通せるように私には思える。すなわち、従来を『正』とすると、2016年に起きたことの多くは、非常に大きな変化を示唆する『反』であったことは間違いないのだが、だが、それがそのまま太い流れとなっていくようには思えず、2017年は『正』と『反』が相克して、世は混迷を深める可能性があると考えられる(2017年を『乱』と予想する人もいるようだが、一面わかる気がする)。その相克と混迷と場合にっては紛争を経由して、『合』に昇華して初めて、あらたなパラダイムと呼ぶに相応しい太い流れができていくと思う。



政治シーンに満ち満ちていた『反』


そのように、回りくどい前書きを述べれば(述べなくても)、懸命な読者の方なら、すでに察知がついたかもしれないが、6月のBrexit(イギリスのEU離脱)、11月の米国大統領選挙による共和党トランプ候補の勝利が特に、2016年の色合いを象徴し、また、決定づける出来事であったことは言うまでもない。そして、これらは実に様々な意味における『反(アンチ)』に満ち満ちている。何よりまず、80年代のレーガンサッチャー革命およびそれに引続くグローバリズムに対する強烈な『反』になっている。また、共和党・民主党という米国の二大政党制の終わりの始まりと見ることもできる。とすれば、これは米国の19世紀後半以降の政治体制に対する『反』とも言える。もっと広義には、民主主義やリベラリズムへの『反』でもあるだろう。また、思想やイデオロギーを度外視しても、上位1%の支配に対する『反』は米国民の99%が強く感じているところでもあるはずだ。


Brexitについて言えば、戦後の欧州の統合というレジームに対する、『反』という見方もできるし、もっと卑近には、昨今のEUのリーダーシップをとっているドイツに対する『反』と感じた人も少なくないだろう。日本にとっても、戦後ずっと続いてきた日米関係の枠組みに対する強力な『反』となると見られている。


いずれにしても、すべてに共通しているのは、これらは、従来の対立軸における『反』とは言えないことだ。例えば、米国の現政権党である民主党に対する共和党という対立軸の枠組みではトランプ現象を語ることは難しい。そもそも共和党の中心的な主義主張とトランプ氏の主張は完全に乖離してしまっている。また、グローバリズムを資本主義の一形態として、それに対する『反』だからといって、旧来の共産主義社会主義に出番があるわけではない。トランプ氏の発言からは『保護主義』の影が感じられるが、今の所、そのための具体策や妥協策等は示されていないし、簡単に出てくるとも思えない。



先端技術に対する『反』


大変驚いたことに、2016年は先端技術に対しても『反』と言うべき現象が続出した。この2〜3年、自動運転の展開に積極策を取り続けてきた、テスラ社の自動運転車の死亡事故は米国の自動運転の取り組みに一時的にであれ大変な冷や水を浴びせかけたし、それ以上に、完全自動運転車のイメージリーダー役を果たしてきたGoogle社が撤退か?、との衝撃的な報道もあった。


また、フィンテックの中核にあって、非常に広範囲のビジネスを様変わりさせるインパクトがあるとされて、大変な注目を集めていた、ブロックチェーンについても、数十億円規模の詐欺事件(『The DAO』事件*1 )に巻き込まれて以来、明らかにそれまでの勢いに陰りが出てきている。



ネットメディアに対する『反』


さらには、インターネット技術を生かした新しいビジネスモデルである、ニューメディアにも、『反』の動向が見て取れた。フェイスブックTwitter等のSNSの拡散力をフルに活かして、この数年既存のメディアの向こうを張って急速に勢いを増してきたネットメディア(ライターに大量に記事を書かせるタイプ、および、自分では記事をつくらずに他者の記事を選ぶ専門家(キュレーター)がニュースを選ぶタイプの両方を含む)だが、玉石混交とはいえ、中には既存のメディアが諸事情(スポンサーや政治等への配慮など)で書けないような出来事を明るみに出すなど(ウィキリークスなどその典型例)それなりの存在感を示してきた。また、従来は発信することなどできないし、やらなかった個人が自由に発信できることで、現場に近いリアルな記事が出てきたり、従来とは違った新鮮な観点の記事もみられたりして、従来のメディアの枠組みを破るような新鮮さをもたらした面もあった。


ところが、2016年にはベッキーの不倫騒動に端を発した、相次ぐ『炎上』に辟易させられ(しかも意図的に炎上を起こす勢力の存在があきらかになり、加えて既存のメディアも相乗りするような事態も常態化した)、年が押し迫ると今度は、DeNAという大資本の傘下に入って、収益だけを目的として、著作権法ギリギリの際どい手法を駆使し、内容的にも怪しげな記事で溢れているメディア、ウェルク(WELQ)の劣悪な正体が露わになったり、同様に従来から必ずしも評判の良くなかった(しかしながら集客力はある)エンタメまとめサイトである『はちま起稿』に対する、グループ全体で1358億円の売上を誇る大企業である DMMによる買収が明るみに出たり(ステルスマーケティンが疑われている)、ネットメディアの理想と自由の根幹を揺るがすような出来事が噴出した。


米国でも、海外(マケドニア)から大統領選挙を狙い撃ちにして、トランプ候補の支持者が喜びそうな怪しげな(というよりはっきりとガセネタ)を発信して、フェイスブックで拡散して広告収入を得るようなフェイクニュースサイトが大量発生して、大統領選挙にも多大な影響があったとされる。いずれも大変困った深刻な事態だが、それ以前にも問題視されていた点がクローズアップされて、遡上に登ったとも言えるわけで、今後ネットメディアが次のステージに上がるためには必然の『反』であったと言える。(少なくとも私はそう考える。)



底流にある『反』のうねり


2016年は『反』の連鎖は、様々な領域をまたがって、大きなトレンドとなったように思える。大きな時代の変わり目というのはこういうものなのかもしれない。一見関係がなさそうに見える個々の出来事の底流に『反』のうねりが脈打っていたとさえ言えそうだ。ある意味とても不思議な年だった。



では2017年をどう見るか


おそらく2017年は(先にも述べた通り)突如出現して頭をもたげた印象的の強い『反』がもっと具体的な姿を現し、物議をかもすような出来事が彼方此方で起きてくる、とても騒がしい一年となる可能性が高い。とても『合』に至って何らかの決着を見ることが信じられないと思う人も多くなるだろう。だが、本来イノベーションや改革というのは、従来の常識や従来の流れが妨げられ、混乱しているタイミングに一番起きてきやすいとも言えるはずだ。既存の勢力や体制が強力すぎるのでは、改革を進めることは難しい。こんな時こそ、次の大きなトレンド、『合』を自ら創出する気概を持って臨むべき時だし、そのような気概が報われる可能性が高い時期だと思う。


時代の大波に流されるままだと、今持っているものも守れなくなる恐れがある一方、過去にとらわれず、多発するであろう小競り合いや、一時的な退潮を物ともせず、新しい時代を切り開く気概のある人は次の10年期(decade)に大きく報われるだろう。そのきっかけとなるのが2017年だと考える。そういう私自身、過去のしがらみを吹っ切って、次の時代の準備に思い切って舵を切る、そんな一年とにしたいものだ。

一人負け日本で企業はどう生き残ればいいのか?

◾️ 漠然とした不安感


この数年、アベノミクスの効果は多少ともあって、景気は一息ついたとの印象がある。だが、度重なる金融緩和策もそろそろ効果が切れてきていて、不透明感が強くなってきていると言わざるをえない。しかも、次世代の日本を背負っていける企業が育ってきているどころか、既存の日本企業の展望も激しくなる一方だ。2020年のオリンピックくらいまではともかく、それが終わったらいったいどうなってしまうのかとの不安感を払拭しきれず、心穏やかではいられないのが今日の平均的な日本人といっても過言ではあるまい。



◾️ 現実は厳しい


ところが実はそれでは終わらない。実際の経済指標を精査すると、そもそも『オリンピックまでは何とかなる』という見通し自体、甘いと言わざるをえないことがわかってくる。もっと切迫感を持って、立ちはだかる問題に早急に対処しないと本当に取り返しのつかない事態となるのではないか。そのような危機感を存分にかき立てててくれるのが、日本在住20年というイギリス人(元金融アナリストで現在は企業経営者)、デービッド・アトキンソン氏が最近著した『新・所得倍増論』*1だ。


アトキンソン氏は、大半の日本人が日本に対して漠然と感じている『大国意識』が、先進国中では、米国に次ぐ人口規模を持ち、しかも、バブル期くらいまでは、総人口も生産年齢人口も増加し続けた恩恵に依るところが大きく、すでに人口は減少に転じ、少子高齢化のあおりを受けて生産年齢人口の減少幅が大きくなっている現在では、そのような意識(大国意識)はもはや幻想でしかないことを自覚し、量ではなく質を追求すべく切り替えていく必要があることを説く。


すなわち、『GDP世界第三位』に幻惑されるのではなく、一人当たりの数値の推移をシビアーに受けとめるべき、というのだ。しかも、国際比較をするにあたっては、為替レートの変化で誤魔化されてしまうことが少なくないので、購買力平価による調整が必須とする。



◾️ 日本の真の姿は・・


では、その『一人当たりGDPIMFデータより著者が購買力調整、2015年)』の国際比較でみる日本は世界で何位かと言えば、27位だという。高度成長期どころか戦前の1939年には日本はすでに一人当たりGDPは世界第6位だったというから、かなりロングレンジで見ても、昨今の低迷ぶりは際立っている。加えて最近の凋落ぶりが尋常ではない。1995年くらいからこちら(いわゆる失われた20年)、欧米各国との比較で言えば、日本は先進国の中で、相対的に最も後退している国になっている。



  
同様に、『一人当たり』で見た様々な指標を次から次に突きつけられると、私自身、いかに日本に対して陳腐化してしまったイメージを後生大事に温存してきたのかが否応無くわかって、鼻白む思いがする。例えばこんな感じだ。


輸出額は世界第4位 → 一人当たりでは世界44位

ノーベル賞受賞回数は世界第3位 → 一人当たりでは世界第39位(科学・経済学の分野でも第29位)


こうしてみると「日本の技術力は高く、世界に名だたる輸出大国」というお題目が如何に幻影となりつつあるかわかる。



◾️ 日本は貧困化率が高い国


アトキンソン氏も述べていることでもあるが、私の経験でも『経済成長』に言及すると、条件反射のように、『もう成長はそこそこに日本人は皆でわけあって仲良く平和に暮らせればよいのだ』という意見が必ず出てくる。私も基本その意見に反対するものではないし、そうなればいいと思う。だが、現実を見れば、そのような甘いことを言っている場合ではないことに気づかされる。なんと実質的に先進国中最も貧困比率の高いのが今の日本なのだ。『新・所得倍増論』では、ワーキングプア(国民一人ひとりの所得を順番に並べたとき、真ん中の人の所得の半分以下の状態にある人)比率を数値化して示してある。それによれば、先進国で日本より上位にあるのは米国のように自由競争が徹底していて二極化を緩和する社会保障制度が整備されていない『例外』だけだ。



日本が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と称賛されていたころ、『一億総中流』という言い方も流行語となっていて、日本が強くなった理由とも結果とも言われていたわけだが、この様相は、いわゆる「失われた20年」の間にすっかり変わり果ててしまったことになる。



◾️ 生産性向上が必須


厚生労働省が近く発表する2016年の人口動態統計年間推計で、同年の出生数が統計を取り始めた1899年間以降初めて100万人を切る、98万1000人と推計されることがわかって、衝撃をもって受け止められているが、死亡数の推計は129万6000人であり、31万5000人の人口が減少することになる。日本の人口はこれで10年連続で減少しており、しかもそのペースは加速している。『G D P =人口 ×生産性 』だから、こうなると生産性を何としても上げていくしかない、ということになる。だが、状況は非常に厳しい。


日本生産性本部の調査によれば、2010〜2012年の日米の生産性を比較すると、米国を100としたときの日本のサービス業は49.9%と半分の水準だという。さらに業種別でみると、飲食・宿泊業は34.4%、卸売・小売業が38.4%というから、大変大きな差がついていることがわかる。一国の経済が成長し、労働者の賃金が高くなれば、どの国であれ、製造業から、より高付加価値のサービス業にシフトすべきことが必然であるとすると、日本のサービス業の生産性の低さは非常に深刻な問題だし、今後の日本の最も大きな課題と言える。


それでもこの調査で見ても、製造業についてはまだ業種や企業によっては米国を上回るところもあるようだ。ここにはデータは出ていないが、おそらく、今でも世界で通用する製造業(自動車産業、産業用ロボット等)であれば、さすがにまだそれほどの劣位にはないだろう。ただ、日本企業の全盛期でも、日本の製造現場の生産性は世界一だったかもしれないが、農業やサービス業はもとより、企業内のいわゆる『ホワイトカラー職場』の生産性が低いことは公然の秘密だった。だが、戦後の重厚長大産業、あるいは労働集約的産業主導の経済では(加えて人口増加期においては)あまり問題にならなかった。安価で質の良い生産労働者が大量にいて、生産現場で改善が進み、製品品質と生産性が同時に上がるのだから、ホワイトカラーの生産性が少々低くても、企業は成長し、世界市場での競争力も高くなった。


日本の戦後の体制は資本主義とはいいながら、欧米等の他国とはかなり色合いの異なるものであり、日本は他国にはない独特のシステム(終身雇用、企業内組合、系列支配、垂直統合、間接金融中心、官僚と業界の密接な関係等)を持ち、それを『日本的経営』と称していたわけだが、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と称賛されるころまでは、これが非常に世界情勢にフィットして日本を経済大国に押し上げることに貢献した。二度のオイルショックも先進各国が呻吟する中、世界に先駆けて立ち直ったばかりか、オイルショックをステップにしてさらに国際競争力を上げるような離れ業もやってのけた。


だが、90年代くらいから、世界の市場構造は急速に変化し、特にインターネット本格普及期以降はこの変化が劇的に加速することになる。垂直統合より水平分業、すなわち自社/自社系列にこだわらず、多数の他社との関係を拡大し、アウトソースを拡大するほうが有利な市場構造になる。今ではそれどころか本格的なオープン化、シェア・エコノミー化が急速に拡大しつつある。日本企業の多くはその環境変化にうまく対応することができず、いまだにできていないと言わざるをえない。



◾️ すでにわかっていたこと


ここまで述べた日本の凋落ぶりについては、アトキンソン氏のような外国人の提言を待つまでもなく、冷静に市場をウオッチしている人であれば誰でも気づいていたことではある。その一例として、ジャーナリスト/ライターの佐藤拓氏の著書『日本の怖い数値』*2があるが、『新・所得倍増論』とは説明の切り口は若干異なるとはいえ、『あまり語られることのない日本の実態』につき、数値を持って懇々と語る点では大変よく似ている。


そこで引用されているIMD(国際経営開発研究所)の国際競争力ランキング(2012年)を見ても、導かれる結論はほぼ同じだ。日本は総合27位で、マレーシア、韓国、中国よりも下位で、アジア各国中第7位にランクされている。IMDの調査が始まった1989年から93年までの5年間は日本が世界第1位だったというから、まさに凋落というしかない。(但し、競争力の順位は2002年にすでに30位まで下がっている。)



日本の何が競争力をそいでいるかを知るために、要素別の日本の順位(2011年)も示されている。これを見ると、日本企業のビジネスの効率性(中でも「姿勢と価値」(36位)、生産性(28位))が大きな問題であることがわかるが、それ以上に政府の効率性は50位と、とんでもなく低い。インフラは比較的高い(11位)ものの、教育の評価は低い(34位)。やはり、先に述べた、日本独特のシステム(終身雇用、企業内組合、系列支配、垂直統合、間接金融中心、官僚と業界のもたれあい等)が全体として機能不全というか、障害となっていると見るべきだろう。



もちろん、企業の生産性の低さ(特にホワイトカラー、サービス産業)を放置している日本企業の経営自体の問題はやはり看過できない。先ごろ話題になった、電通社員の過労自殺など、その背景がつまびらかになってみると、電通は、まさに生産効率より社員の労働量と忠誠心を過大に評価する、多くの日本企業の典型例だったことがわかる。電通ばかりではなく、そのような経営がいまだにどっかと日本企業の中核に居座っている。



◾️ 解決策を示すことは難しい


ただ、問題の所在を指摘するところまではできるものの、解決のための具体案を提示することは極めて難しい。アトキンソン氏は、問題の根幹は日本企業の経営手法にあるとして、政府や機関投資家を通じて、もっと日本の企業経営者が生産性向上に努め株価を上げるべくプレッシャーがかかるようにするべきと説く。この点については、私も今の日本の経営者があまりに守られ過ぎていることの問題を常日頃痛感しているので、原則賛同するが、それだけでは政府の効率性の悪さ、政府と企業のもたれあい等、大きな構造を変えることはできないように思える。


とは言え、個別企業、特にベンチャー企業を含む中小の企業経営者の立場で言えば、旧来の日本企業の経営手法をアンチテーゼとして、とにかく先に進むことが重要と考える。構造が変化することを待っている余裕はないはずだからだ。時間の経過とともに、既得権益だけに頼って、企業改革を渋るような企業は、競争に負けて退場していくことになり、それが臨界点に到達すれば、政府を含めた全体の構造は反転するだろう。そして、現在進行中のテクノロジー革命がそれ(反転)を強力に後押しすることになるはずだ。技術進化について(そしてそれによって変化しつつある市場について)常に注目している私の場所から見ると、その反転の時期は皆が予想するよりずっと早く来るように思えてならない。そうなると、既存の日本企業が軒並み経営危機に陥るような事態もありえるが、その代わりを埋める(外資を含めた)新興企業が現れることは間違いない。その時に、勝ち組として新しい市場で飛躍できるよう、今は環境が厳しくとも耐え忍ぶことが必要な時期なのだと思う。



◾️来るべき市場で飛躍するために


ご参考に、その来るべき市場で飛躍するために必要な要件を本日述べた内容からエッセンスを絞り出して、ここに提示しておこうと思う。



1. 人事制度:


マッキンゼー経営コンサルタント伊賀泰代氏(ちきりん?)も著書『生産性ーマッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの』*3で説いているが、トップ級の人材にどんどん難しいチャレンジングな仕事と同レベルの人材と切磋琢磨できる環境を与えて、その能力を思いっきり引き出すことを中心とした人事制度としておくことは必須条件だ。


既存の価値や過去の経験に頼れないということは、技術でも、ビジネスモデルでも連続したイノベーションを発現できるトップ級の人材が何よりも必要になる。それは中の上〜上の下くらいの人材の改善の成果を足し合わせても到達できない境地を目指すということでもある。古い日本企業の年功序列的な人事制度を放置すると、トップ級の人材は会社を離れることになってしまう。トップ級の人材が集い、フルに活躍できる環境を構築することが、これからの企業にとって何より重要な勝利条件となる。



2. IT/技術利用:


古い日本企業がゆったりとすすめるIT利用とは全く違う。デジタル技術の最先端の成果を他社に先駆けて利用することで、システムを丸ごと変革してしまうくらいの、いわば、それ自体にプロセスイノベーションを起こすことが求められる。今は、クラウド人工知能SNSクラウドファンディング、オープンソース等、その気になれば利用できるものは非常に多くなってきている。(特に、時間が経てば経つほど、人工知能の利用は必須になっていくだろう。)



3. マーケティング経営:


旧来の日本企業はもとより新興企業でも、技術者出身の経営者など、ホワイトカラーやサービスの生産性向上というと、人員整理とかマニュアル化というような生産視点ばかりが前面に出てしまうケースが多い。そうではなく、徹底的に顧客価値を追求し、それが企業活動の細部に至るまで浸透し、徹底している企業を目指すべきだ。



4. 体験価値の徹底追及:


日本のサービス業の生産性が低いという時、その最大の原因として、サービス業自体の構造変化の潮流が理解されていないことが意外に大きい。それはマーケティング経営の不徹底ということでもある。ユーザーの理解が足りないのだ。一般にサービスの対価もデフレし、下がる一方ではあるが、いわゆる経験価値についてはユーザーが払う対価は増大し続けているという事実をもっと重視すべきだ。例えば、CDの売り上げは下がる一方だがコンサートやライブは非常に活性化しておりミュージシャンの生計の方法も変わってきている。また、結婚式自体の数は減っても、結婚式を楽しい思い出にするための出費は増大している。今後、サービスは人工知能の導入等、どんどん機械化されて、さらにデフレ化していくと考えられる。だが、そんな人工知能やロボットが最も追従することが難しのが、『経験価値の探究』だ。このあたりは、また別途取り上げようと思うが、非常に重要な経営問題と心得ておくべきだ。

*1:

デービッド・アトキンソン 新・所得倍増論

デービッド・アトキンソン 新・所得倍増論

*2:

日本の怖い数字

日本の怖い数字

*3:

生産性―――マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの

生産性―――マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの

今は予測や情勢分析のスキルを徹底して見直してみるべき時

◼️ 軒並み予測が外れた米国大統領選挙



先の米国大統領選挙が残した印象的なエピソードの一つに、世論調査や専門家の予想が軒並み外れたことがある。マスメディアの予測については、CNNやワシントンポスト紙など、あらかじめヒラリー・クリントン氏支持の旗色を鮮明にしていたメディアは、多かれ少なかれバイアスがかかることはある程度想定内ではあった。ただ、今回州ごとの選挙人獲得予想を発表していた主要メディアは10社以上あったというが、そのほとんどがクリントン氏の勝利を予想していたというから、贔屓目だけが理由というのも無理がある。驚くべきことに、事前の世論調査の結果だけではなく、期日前投票や当日の出口調査という、かなり確度が高いはずの調査結果でさえ、実際の開票結果と食い違うような事例が目立ったというから、調査手法や結果の評価の仕方等、調査活動全体が根本的な見直しを迫られていると言えそうだ。ただ、今回はそれだけではなく、それまで評価の高かった識者や専門家でさえ、予測を誤る事例が多発したことも特徴と言える。例えば、2008年の大統領選挙では驚異的な的中率を誇っていたネイト・シルバー氏(選挙学とセイバーメトリクスを応用して将来の結果を予測するアメリカ合衆国統計学者。2009年4月にはタイム誌が毎年発表する「世界で最も影響力のある100人」の一人に選ばれた)も、今回ばかりは読み違えてしまったようだ。


泡沫候補と言われ続けながらも、予想を常に上回って健闘を続けていたトランプ氏だが、卑猥な発言がYoutubeで拡散して評価が大幅に下がった頃から、さすがにここまでと私も思っていた。私の周囲でもそのようにいう人がほとんどだった。そのため、当選が決まった時には、正直驚きを隠せなかった。だから、私もクリントン氏勝利を予測した識者や専門家を批判できる立場にはない。ただ、予測やそのベースになる情勢分析に関して、私自身も何かを変えていく必要性があることを強く自覚せざるをえなかった。しかしながら、その『何か』が今ひとつ特定できないでいた。



◼️『超予測者』という存在


こういうタイミングだけに、『超予測力 不確実な時代の先を読む10カ条』*1というタイトルの訳書(日本でも大統領選挙以前の10月25日に発売)には、思わず惹きつけられた。しかも著者のフィリップ・E・テトロック氏は、専門家の過去の予測を綿密に調べて評価し、その上で『専門家の予測精度はチンパンジーのダーツ投げ並みのお粗末さ』と述べて注目され、本書は全米ベストセラーになったという。まるで今回の大統領選挙で専門家の予測が外れることをあらかじめ知っていたかのようにさえ見えてしまう。


もちろん、今回の大統領選挙の予測が外れたことについては、独自の原因もあるだろうし、本書が述べる『専門家の予測精度が高くない理由』ですべて説明がつくとも限らない。しかも、開票の結果、敗れたクリントン氏のほうが、得票数は200万票以上も多かったというから、そもそも難易度の高い予測だったことは確かだろう。ただ、いずれにしても、あらためて予測を既存の専門家に任せて思考停止してしまうことのリスク、予測精度を上げて正しい意思決定を行うために必要な要件等、本書から学べることは多く、私同様、今回、自分の予測能力に疑念を感じた人には一読をお勧めできる良書だと思う。自らの所属する組織の予測能力の再評価のためのガイドラインとしても利用できるように思われる。


テトロック氏は、彼が揶揄する『専門家』とは別に、卓越した予測の成績をおさめる『超予測者』が存在することを知り、自らも、プロジェクトを編成して、その力の秘密を探り、結果を本書で披露している。彼が述べる『典型的な予測者像』につき、まとめた部分があるので、以下に引用しておく。

慎重確実なことは何もない 。

謙虚現実はどこまでも複雑である 。

非決定論的何が起きるかはあらかじめ決まっているわけではなく 、起こらない可能性もある 。

能力や思考スタイルには 、次のような傾向が見られる 。

積極的柔軟性意見とは死守すべき宝ではなく 、検証すべき仮説である 。

知的で博識 。

認知欲求が強い知的好奇心が旺盛で 、パズルや知的刺激を好む 。

思慮深い内省的で自己を批判的に見ることができる 。

数字に強い数字を扱うのが得意である 。

予測の方法には 、次のような傾向が見られる 。

現実的特定の思想や考えに固執しない 。

分析的鼻先越しの視点から一歩下がり 、他の視点を検討する 。

トンボの目多様な視点を大切にし 、それを自らの視点に取り込む 。

確率論的可能性を多段階評価する 。

慎重な更新事実が変われば意見を変える 。

心理バイアスの直観的理解自分の思考に認知的 、感情的バイアスが影響していないか確認することの重要性を意識している 。

努力についての考え方には 、次のような傾向が見られる 。

しなやかマインドセット能力は伸ばせると信じる 。

やり抜く力どれだけ時間がかかろうと 、努力しつづける強い意志がある

◼️ 専門家ほど陥りやすい罠


中でも、『心理バイアスの直観的理解自分の思考に認知的 、感情的バイアスが影響していないか確認することの重要性を意識している 』という部分こそ、本書全体に通底する最も重要なメッセージだと思う。少なくとも私はそのように受け取った。


要は、専門家としての過信、思い込み、見栄等が、予測にバイアスがかかり、間違ってしまう一番大きな原因の一つであり、それを自分自身で見つけ、認め、変えていく柔軟性の有無が問われているということだ。世評の高い専門家、 IQの高い天才や秀才、その分野で経験が豊富な実務家等でさえ(というより場合よってはそれ故にこそ)、自分自身を過信し、あるいは立場に固執し、その結果、『チンパンジーのダーツ並みの精度』の予測や判断となってしまう。実際、なまじ『専門家』の看板が大きいと、認知バイアス(ある対象を評価する際に、自分の利害や希望に沿った方向に考えが歪められたり、対象の目立ちやすい特徴に引きずられて、ほかの特徴についての評価が歪められる現象)の罠にも落ちやすい。その一方で、『専門家』の予測は重要な判断の糧となることが少なくないから、取り返しのつかない悲劇に直結したりする。


最近の例で言えば、何と言っても米国のイラク侵攻を正当化した、CIAの『サダムフセインイラク大量破壊兵器を隠し持っている』との誤ったレポートだろう(この場合、予測というより、情勢分析というべきかもしれないが、問題の本質はどちらも同じなので、あまりこだわらずにおく)。このレポートは米英等の有志連合のイラク侵攻(2003年3月)の口実となり、その後、長く泥沼のような戦闘行為とテロの応酬が続くことになる。(但し、そもそもこのレポートはイラク侵攻を正当したかった米国首脳の息のかかった捏造である疑いも濃厚にある。)



◼️ 史上何度も繰り返されている


さらに歴史を遡ると、同様の事例として、ケネディ大統領時代に、あやうく当時のソ連との核戦争を誘発しかかった、キューバ危機(ピッグス湾事件)における情勢判断の誤認がある。CIAによるキューバ政府軍の過小評価、『キューバ軍の一部が寝返る』という根拠のない判断等に基づくずさんな作戦計画が、侵攻作戦の大失敗を引き起こすことになった。


ケネディ大統領といえば、ケネディ政権と、ケネディ大統領暗殺後にそれを継いだジョンソン政権において、国防長官を務めたロバート・マクナマラを中心とした『ベスト&ブライテスト』*2である人々が、政策を誤り、ベトナム戦争の泥沼に米国を引きづりこむことになった件も有名だ。これはジャーナリストのディビッド・ハルバースタムピューリッツァー賞を受賞した同名の著作で当時の様子を詳細に描き出しているが、どうして最良(ベスト)かつ最も聡明(ブライテスト)なはずの人々がこのような愚かしい(らしくない)失敗をしてしまうのか、というこれまで述べてきたのと同様のテーマが扱われている。こうしてみると、米国も、史上、同様の失敗を何度も繰り替えしているということになりそうだ。



◼️ 日本人も同じ


もっとも日本人もそれを笑うことなど到底できない。日本にも、先の戦争中の失敗(ノモンハンガダルカナルインパール等での作戦の失敗)の原因を分析した、『失敗の本質―日本軍の組織論的研究 』*3という優れた著作があり、ここに示された失敗の根本原因もほぼ同じといっていい。当時最も優秀とされた軍事官僚や将校の信じられないほどの愚かしい予測/判断/意思決定を明らかにしている。しかも、困ったことに、ここに出てくる旧帝国陸海軍の所業と同類系の行いは、今に至るも日本の組織の彼方此方で、連綿と繰り返されている。



◼️ 貴重な教訓をどう生かしていくか


これは、おそらく地域や歴史をまたぐ普遍的な問題というべきなのだろう。もちろん、専門家や識者と呼ばれる人々の中に、素晴らしい『予測者』がいることを全面的に否定するものではない。私も、素晴らしい専門家や研究家で、予測能力にも卓越した能力を持つ人を沢山知っている。しかしながら、同時に、専門家が自分の間違いを認めることがいかに難しいかについても、苦い経験を通じて多くの事例を知っているつもりだ。だから、この教訓を身に刻みつけるためには、上記にあげたような書籍を一度流し読むくらいでは話にならないことも承知している。読書はきっかけに過ぎず、日々、日常の仕事の中で、繰り返し思い出して習慣化していくしかない。


今世界はますます混乱の極みに突入しつつある。それでなくても難しい『予測』や『情勢判断』はさらに一層難易度の高いスキルになろうとしている。だが、それだけに、そのスキルの必要度はますます高くなっているとも言える。せっかくなので、これを機会に自分なりの『予測者』像を探求して、自分にもできることから初めてみようと思う。




◼️ 軒並み予測が外れた米国大統領選挙



先の米国大統領選挙が残した印象的なエピソードの一つに、世論調査や専門家の予想が軒並み外れたことがある。マスメディアの予測については、CNNやワシントンポスト紙など、あらかじめヒラリー・クリントン氏支持の旗色を鮮明にしていたメディアは、多かれ少なかれバイアスがかかることはある程度想定内ではあった。ただ、今回州ごとの選挙人獲得予想を発表していた主要メディアは10社以上あったというが、そのほとんどがクリントン氏の勝利を予想していたというから、贔屓目だけが理由というのも無理がある。驚くべきことに、事前の世論調査の結果だけではなく、期日前投票や当日の出口調査という、かなり確度が高いはずの調査結果でさえ、実際の開票結果と食い違うような事例が目立ったというから、調査手法や結果の評価の仕方等、調査活動全体が根本的な見直しを迫られていると言えそうだ。ただ、今回はそれだけではなく、それまで評価の高かった識者や専門家でさえ、予測を誤る事例が多発したことも特徴と言える。例えば、2008年の大統領選挙では驚異的な的中率を誇っていたネイト・シルバー氏(選挙学とセイバーメトリクスを応用して将来の結果を予測するアメリカ合衆国統計学者。2009年4月にはタイム誌が毎年発表する「世界で最も影響力のある100人」の一人に選ばれた)も、今回ばかりは読み違えてしまったようだ。


泡沫候補と言われ続けながらも、予想を常に上回って健闘を続けていたトランプ氏だが、卑猥な発言がYoutubeで拡散して評価が大幅に下がった頃から、さすがにここまでと私も思っていた。私の周囲でもそのようにいう人がほとんどだった。そのため、当選が決まった時には、正直驚きを隠せなかった。だから、私もクリントン氏勝利を予測した識者や専門家を批判できる立場にはない。ただ、予測やそのベースになる情勢分析に関して、私自身も何かを変えていく必要性があることを強く自覚せざるをえなかった。しかしながら、その『何か』が今ひとつ特定できないでいた。



◼️『超予測者』という存在


こういうタイミングだけに、『超予測力 不確実な時代の先を読む10カ条』*4というタイトルの訳書(日本でも大統領選挙以前の10月25日に発売)には、思わず惹きつけられた。しかも著者のフィリップ・E・テトロック氏は、専門家の過去の予測を綿密に調べて評価し、その上で『専門家の予測精度はチンパンジーのダーツ投げ並みのお粗末さ』と述べて注目され、本書は全米ベストセラーになったという。まるで今回の大統領選挙で専門家の予測が外れることをあらかじめ知っていたかのようにさえ見えてしまう。


もちろん、今回の大統領選挙の予測が外れたことについては、独自の原因もあるだろうし、本書が述べる『専門家の予測精度が高くない理由』ですべて説明がつくとも限らない。しかも、開票の結果、敗れたクリントン氏のほうが、得票数は200万票以上も多かったというから、そもそも難易度の高い予測だったことは確かだろう。ただ、いずれにしても、あらためて予測を既存の専門家に任せて思考停止してしまうことのリスク、予測精度を上げて正しい意思決定を行うために必要な要件等、本書から学べることは多く、私同様、今回、自分の予測能力に疑念を感じた人には一読をお勧めできる良書だと思う。自らの所属する組織の予測能力の再評価のためのガイドラインとしても利用できるように思われる。


テトロック氏は、彼が揶揄する『専門家』とは別に、卓越した予測の成績をおさめる『超予測者』が存在することを知り、自らも、プロジェクトを編成して、その力の秘密を探り、結果を本書で披露している。彼が述べる『典型的な予測者像』につき、まとめた部分があるので、以下に引用しておく。

慎重確実なことは何もない 。

謙虚現実はどこまでも複雑である 。

非決定論的何が起きるかはあらかじめ決まっているわけではなく 、起こらない可能性もある 。

能力や思考スタイルには 、次のような傾向が見られる 。

積極的柔軟性意見とは死守すべき宝ではなく 、検証すべき仮説である 。

知的で博識 。

認知欲求が強い知的好奇心が旺盛で 、パズルや知的刺激を好む 。

思慮深い内省的で自己を批判的に見ることができる 。

数字に強い数字を扱うのが得意である 。

予測の方法には 、次のような傾向が見られる 。

現実的特定の思想や考えに固執しない 。

分析的鼻先越しの視点から一歩下がり 、他の視点を検討する 。

トンボの目多様な視点を大切にし 、それを自らの視点に取り込む 。

確率論的可能性を多段階評価する 。

慎重な更新事実が変われば意見を変える 。

心理バイアスの直観的理解自分の思考に認知的 、感情的バイアスが影響していないか確認することの重要性を意識している 。

努力についての考え方には 、次のような傾向が見られる 。

しなやかマインドセット能力は伸ばせると信じる 。

やり抜く力どれだけ時間がかかろうと 、努力しつづける強い意志がある

◼️ 専門家ほど陥りやすい罠


中でも、『心理バイアスの直観的理解自分の思考に認知的 、感情的バイアスが影響していないか確認することの重要性を意識している 』という部分こそ、本書全体に通底する最も重要なメッセージだと思う。少なくとも私はそのように受け取った。


要は、専門家としての過信、思い込み、見栄等が、予測にバイアスがかかり、間違ってしまう一番大きな原因の一つであり、それを自分自身で見つけ、認め、変えていく柔軟性の有無が問われているということだ。世評の高い専門家、 IQの高い天才や秀才、その分野で経験が豊富な実務家等でさえ(というより場合よってはそれ故にこそ)、自分自身を過信し、あるいは立場に固執し、その結果、『チンパンジーのダーツ並みの精度』の予測や判断となってしまう。実際、なまじ『専門家』の看板が大きいと、認知バイアス(ある対象を評価する際に、自分の利害や希望に沿った方向に考えが歪められたり、対象の目立ちやすい特徴に引きずられて、ほかの特徴についての評価が歪められる現象)の罠にも落ちやすい。その一方で、『専門家』の予測は重要な判断の糧となることが少なくないから、取り返しのつかない悲劇に直結したりする。


最近の例で言えば、何と言っても米国のイラク侵攻を正当化した、CIAの『サダムフセインイラク大量破壊兵器を隠し持っている』との誤ったレポートだろう(この場合、予測というより、情勢分析というべきかもしれないが、問題の本質はどちらも同じなので、あまりこだわらずにおく)。このレポートは米英等の有志連合のイラク侵攻(2003年3月)の口実となり、その後、長く泥沼のような戦闘行為とテロの応酬が続くことになる。(但し、そもそもこのレポートはイラク侵攻を正当したかった米国首脳の息のかかった捏造である疑いも濃厚にある。)



◼️ 史上何度も繰り返されている


さらに歴史を遡ると、同様の事例として、ケネディ大統領時代に、あやうく当時のソ連との核戦争を誘発しかかった、キューバ危機(ピッグス湾事件)における情勢判断の誤認がある。CIAによるキューバ政府軍の過小評価、『キューバ軍の一部が寝返る』という根拠のない判断等に基づくずさんな作戦計画が、侵攻作戦の大失敗を引き起こすことになった。


ケネディ大統領といえば、ケネディ政権と、ケネディ大統領暗殺後にそれを継いだジョンソン政権において、国防長官を務めたロバート・マクナマラを中心とした『ベスト&ブライテスト』*5である人々が、政策を誤り、ベトナム戦争の泥沼に米国を引きづりこむことになった件も有名だ。これはジャーナリストのディビッド・ハルバースタムピューリッツァー賞を受賞した同名の著作で当時の様子を詳細に描き出しているが、どうして最良(ベスト)かつ最も聡明(ブライテスト)なはずの人々がこのような愚かしい(らしくない)失敗をしてしまうのか、というこれまで述べてきたのと同様のテーマが扱われている。こうしてみると、米国も、史上、同様の失敗を何度も繰り替えしているということになりそうだ。



◼️ 日本人も同じ


もっとも日本人もそれを笑うことなど到底できない。日本にも、先の戦争中の失敗(ノモンハンガダルカナルインパール等での作戦の失敗)の原因を分析した、『失敗の本質―日本軍の組織論的研究 』*6という優れた著作があり、ここに示された失敗の根本原因もほぼ同じといっていい。当時最も優秀とされた軍事官僚や将校の信じられないほどの愚かしい予測/判断/意思決定を明らかにしている。しかも、困ったことに、ここに出てくる旧帝国陸海軍の所業と同類系の行いは、今に至るも日本の組織の彼方此方で、連綿と繰り返されている。



◼️ 貴重な教訓をどう生かしていくか


これは、おそらく地域や歴史をまたぐ普遍的な問題というべきなのだろう。もちろん、専門家や識者と呼ばれる人々の中に、素晴らしい『予測者』がいることを全面的に否定するものではない。私も、素晴らしい専門家や研究家で、予測能力にも卓越した能力を持つ人を沢山知っている。しかしながら、同時に、専門家が自分の間違いを認めることがいかに難しいかについても、苦い経験を通じて多くの事例を知っているつもりだ。だから、この教訓を身に刻みつけるためには、上記にあげたような書籍を一度流し読むくらいでは話にならないことも承知している。読書はきっかけに過ぎず、日々、日常の仕事の中で、繰り返し思い出して習慣化していくしかない。


今世界はますます混乱の極みに突入しつつある。それでなくても難しい『予測』や『情勢判断』はさらに一層難易度の高いスキルになろうとしている。だが、それだけに、そのスキルの必要度はますます高くなっているとも言える。せっかくなので、これを機会に自分なりの『予測者』像を探求して、自分にもできることから初めてみようと思う。

*1:

超予測力:不確実な時代の先を読む10カ条

超予測力:不確実な時代の先を読む10カ条

*2:

ベスト&ブライテスト〈上〉栄光と興奮に憑かれて (Nigensha Simultaneous World Issues)

ベスト&ブライテスト〈上〉栄光と興奮に憑かれて (Nigensha Simultaneous World Issues)

*3:

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

*4:

超予測力:不確実な時代の先を読む10カ条

超予測力:不確実な時代の先を読む10カ条

*5:

ベスト&ブライテスト〈上〉栄光と興奮に憑かれて (Nigensha Simultaneous World Issues)

ベスト&ブライテスト〈上〉栄光と興奮に憑かれて (Nigensha Simultaneous World Issues)

*6:

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

指数関数的に変化する未来をどう予測すればいいのか

◾️ 未来予測が非常に難しい時代


ここしばらく、人工知能のような先端技術と社会の今後というテーマを、これまでにまとめてきたことを棚卸しする意味で整理している。昨今世間を賑わす先端技術の多くは『デジタル化』がその背景にあり、デジタル化することによる同類系の法則性を帯びるわけだが、その中でも、将来予測を行う上で非常に厄介なのが、指数関数的(エクスポネンシャル)と言われる特性だ。『デジタル化』の恩恵を受ける技術群が、指数関数的な進化を遂げることは、その象徴とも言える『ムーアの法則』が盛んに喧伝されてきたから、今日ではその存在は大抵誰でも知っていると思う。そして、特にインターネットの本格導入以降の社会変化を振り返ることによって、ある程度実感することもできるはずだ。


ただ、エクスポネンシャルの本当の凄まじさは、ある段階からの飛躍的な変化の幅が大きすぎて、およそ将来を予測するための過去の経験やツールのほとんどがまったく役に立たないように見えることにある。そして、その凄まじい未来はまさにこれからやって来る。


例えば、次の図は、 米国の調査会社IDCの推計を総務省がグラフ化した、全世界の情報量の予測だ。2000年初めくらいから情報が激増したことはすでに経験済みだし、昨今そのペースが驚くべき勢いで加速していることも誰しも感じているはずだ。だが、40ゼタバイトを突破するという2020年(今からわずか4年と1ヶ月後になった!)の状態を想像することは極めて難しい。まして、それが『量』ではなく、技術の『質』とか『レベル』といった抽象概念になると、およそ普通の人間の想像力の及ぶところではない。


だから(と言っていいと思うのだが)、総務省経産省等、官庁系の刊行物に載る未来予測はおかしいくらいに『リニア(直線的)』な未来予測だし(誰にもわかる内容を、という要請があるからだろう)、逆にシンギュラリティのような未来像がその時点での社会像と共に語られることはまず見たことがない。昨今非常に話題として取り上げられることが多い『人工知能が人間の仕事を奪う』という予測があるが、これはエクスポネンシャルな進化のある到達点(人工知能が人間の仕事を代替したり、それを上回る能力を身につけるという到達点)にだけ焦点をあてることによって、リニアな未来しか想像できない人を驚かせてみせた例とも言える。だが、社会というのは、様々な要素の関係の網で出来上がっているものであり、他の要素はリニアで予測して、それに小さな窓から見える『仕事』のエクスポネンシャルな進化の絵姿を重ね合わせても、有用な予測にはなり得ない。



◾️ 全体としての時代性を直観してみること


では、どうすればいいのか。エクスポネンシャルな進化の先の様々な社会的要素を可能な限り正確に予測して、その相互関係を構築することが出来るなら、それは一つの手法ではあるが、残念ながらあまり捗々しい成果は期待できない。というのも、それぞれの要素の進化のスピードは同じではないから、ある断面で(2025年等)切った場合の相互関係といっても、奇怪なモザイクになるのがオチだろう。加えて、要素を集合してみても、そこに全体に流れる旋律や時代性等を感じることは至難の技だ。個々の要素の合計は全体とは違う。現代の常識やパラダイムを変えずに、モザイクを無理やり組み立てるような残念な予測になってしまうことが容易に予想される。


どうすれば多少なりとも有用なエクスポネンシャルな変化の後の社会の予測ができるのだろうか。(有用と言うからには、何らかのアクション/対処方が引き出せることが望ましい。)どうやら、量的な概念によって予測することは諦めたほうがいい。また、分析はいいが要素分解しすぎると全体がかえって見えなくなる。どちらかと言えば、その社会が必然的に帯びるであろう特質、そうなることが必然と考えられる性質のほうをくくり出していって、それを統合(できるものならだが)したほうが多少なりとも有用予な測ができるのではないか。少なくとも次の思考実験のための起点となるのではないか。そのためには、何らかのきっかけとなる概念を利用して、全体としての旋律/時代性/トレンド/パラダイム等を直接観じてみることだ。


と言っても、なかなかイメージを持っていただくことが難しいだろうから、もう少しだけ具体的(にはなりきらないが・・)に述べてみよう。



◾️ 無形財の過剰


昨今、著作や作曲を行う人工知能が出現して来ているが、今後その作品がある程度人間に受け入れられるレベルに到達するとすれば、市場には大量の書物や楽曲が溢れることになる。先日人工知能に詳しい知的財産の研究者とお話しをする機会があったのだが、同様の仕組みで大量の特許出願が行われるであろうことも、すでに現実味のある未来として想定されているという。一台(?)の優れた人工知能があれば、毎日のように何千何万の書物や楽曲、あるいは特許が吐き出されてくると考えられるが、これが市場に大量に普及した社会を想像してみて欲しい。今は『希少財』であるはずのこれらの『無形財』の市場価値は限りなくゼロに近づいていくと考えざるを得ない。法律としても制度としても、現状の知的財産権のコンセプトも抜本的な見直しが必要だろう。もちろんビジネスも激変は避けられない。


さらに言えば、先日も私のブログでも紹介した、PEZY Computingの齊藤社長は、人工知能&スーパーコンピュータという究極の問題解決エンジンが近い将来(5年〜10年程度)どの企業でも保有できるようになるという見通しについて述べている。大量の情報の中から、問題解決のための仮説を人工知能が大量に提示し、それをスーパーコンピュータが検証して、大量の新しい理論/モデルが構築され、あらゆる問題が解決されていくというイメージだ。


しかも、仮説といっても人間が見出せる属性はせいぜい、1つの課題に対して20とか30程度だろうし、理解可能な組み合わせのパターンは普通は1対1の相関関係程度で、どんなによくても1対2が限界だろう。だが、人工知能なら、数万〜数十万を超える属性を見出し、N対Nの超複雑な相関関係という特徴量を大量に引き出して、人間には立案不可能な仮説が構築できるようになると考えられる。そして、そしてそれをスーパーコンピュータで高速に検証して、必要に応じてまた仮説にフィードバックして、ということが可能になる。そうなると少なくとも情報分析に関しては、人間はまったく太刀打ちできないし、やることがなくなると言っても過言でない。


それらは現在ではいずれも『希少財』だから、当初は企業間の競争手段として、早く人工知能を導入して巧妙に使いこなす企業が勝ち組になるのだろう。だが、ある段階から、市場全体としては、あまりに多くが吐き出されてくることになると考えられるから、需要を供給が大幅に上回り『コモディティ(一般化したため差別化が難しくなった製品やサービス)』となることは容易に想像できる。


しかも、これはシンギュラリティ(今から30年後)を待つまでもない。数年もすればこの問題の端緒が現れてくることはもう間違いない。文明史家のジェレミー・リフキンのいう『限界費用ゼロ社会』*1ではないが、近未来に無形材の価値がゼロに近くなる社会もかなり高い確度で出現することは想定しておく必要がある。



◾️ 技術と社会の接点を法律の観点で把握する


同様に、現状の社会の秩序維持の前提条件を(良い意味でも悪い意味でも)突き崩すような要素を探すと、いくつかの切り口を見つけることができる。上記は、とりあえず、『無形財の過剰(→コモディティ化→無価値化)』の問題としておくとすると、すでに述べた『指数関数的変化』『人工知能/ロボットの人間労働の代替』を含めて今思いつくだけでも6つはここに示すことができる。


ちなみに、これらの問題は法律問題というくくりで考え始めると社会との接点がわかりやすくなる。というより、社会の維持にとって何が問題として出現してくるかかがわかりやすくなる。というのも、法律の本来の目的は『社会的で暮らす人間の幸福を守るために、社会の秩序を維持し、公正や正義を実現し、そのために促進されるべきことや排除されるべきことを明確にしていくこと』にあるのであり(そうではない法律もたくさんあることは否定しないが・・)、現状では何らかの必要性から成立している法律が成り立たなくなるとすれば、そこは、人間の幸福にとって何らかの問題が生じる裂け目となっている可能性があると考えられる。そこから『対処が必要な』未来社会の一局面をのぞくことができるし、うまくすれば全体の旋律や時代性を直観できる。解決が必要な問題が見えて来ることで企業活動の重点の置き所も明確になってくるはずだ。



◾️ 未来社会の特質とは

1. 指数関数的(エクスポネンシャル)変化


2. 人間の労働環境の激変(人工知能/ロボットの人間労働の代替)


3. 無形財の過剰


4. 情報独占とオープン化の相克


5. 完全法律執行社会の到来


6. 自然人/法人以外の責任主体の出現?

◾️ 情報独占とオープン化の相克


情報独占の問題はすでに具体的な法律問題として議論が進んでいる。特に欧州では情報を過剰に集める主体(Google等)への何らかの規制が必要との認識から、独占禁止法の適用の是非が議論されている。機械学習を前提とする人工知能は、大量の質の良い情報を与えることができればできるほど優れた能力を得ることがわかっているわけだから、これからの企業は情報収集を巡って激しい競争を繰り広げることになると考えられるが、現段階ですでに、GoogleFacebookのようにある種の情報を独占と言って良いくらいに集めている企業があり、しかも、他者が一からそのようなサービスを構築することはどの企業にとってももう難しいのではないか、という危惧がある。これからの時代は大量の情報は人工知能を賢くし、それは非常に価値のある資産となるのだから、『情報≒資産』と言ってもよいはずだ。その資産を独占することを安易に許すと、独占した企業の力が無制限に強くなり、社会の公平性/公正を損なう危惧があるのは、自動車や石油のような有形財と同様だ。だが、少なくとも現在の独占禁止法の範疇/概念では有効な歯止めは難しい。情報こそ最も大きな価値を生む資産となれば、情報を有効に集めることを専業とする企業も出現するだろうし、そのカテゴリーや市場セグメント毎に情報独占の問題が起きてくることも予想される。むやみに(無意味に)制限することはイノベーションの芽をつむことになるから好ましくはないが、どのようにバランスと取るのがよいか、非常に難しい課題になっていくだろう。


ここまで書いておいて、いきなりちゃぶ台をひっくり返すようなことを言うようだが、ここまでのストーリーは従来の20世紀的な産業社会を前提としたものであり、全てとはいわないまでも、かなりの部分これでは不十分となってきている。というのも、すでにIT(インフォメーション・テクノロジー)の世界では、いわゆるオープンな領域がそれこそ燎原の火のごとく広がっており、この火は早晩、あらゆる分野を覆い尽くしていくことはほとんど確実と言っていいからだ。IT業界における『オープン』と言えば、当初はLinuxのようなOS(オペレーション・ソフト)の一部のことだったが、その後どんどん上のレイヤー、すなわち、『ミドル・ウェア』『ライブラリ』『開発環境』『ブラウザ』『データベース』とオープン化は広がってきていて、果てはオープンソースのハードウェアまで出現してきている。


オープン化せずクローズドにしておくと、発展が見込めず廃れてしまうという認識はもはやこの業界の常識で、クローズドなOSの代表格であった、マイクロソフトWindowsですら、オープン化の方向が模索されている。昨今ではスマートフォンに例を見る通り、様々な技術要素が盛り込まれ、しかもそれがクラウド上にあって安価で利用できるから、個々のデバイスを高コストで高機能化して複雑にして使い勝手を悪くするより、自らははシンプルなままで、必要な機能はクラウド上にある機能を利用する方が賢明と言える。IoTが広く普及するようになれば、さらに様々なデバイスとの連携による付加価値は一層増大することになる。そのためには、『オープン』を最大限利用し、自らも『オープン』となる必要がある。人工知能関連でも、海外企業はディープラーニングの研究成果をどんどんGitHub(ソフトウェア開発プロジェクトのための共有Webサービス)等に公開し、外部からのフィードバックをもらいながらレベルを上げていくことを良しとしている。


このような『オープン』の路線上に、公共性の高いデータの公開を促進するための目的で、『オープンデータ』というムーブメントも盛んになってきて、今では日本を含む全世界的な大きな潮流となってきている。データもオープンとすることによるビジネスチャンスの拡大、経済活性化効果があることは世界の常識と言える。そうは言っても、個人のセンシティブ情報等、プライバシーへの配慮の必要性がなくなるわけではなく、クローズドな領域がなくなるわけではない。だが、今後は大量の良質なデータが国力に直結するとの認識ももっと広がり、オープン化への要請は止むことなく拡大して行くだろう。



◾️ 完全法律執行社会


完全法律執行社会の問題は、以前も私のブログで一度話題にしたことがある。前回は、自動運転車の法定速度完全順守や『大岡裁き』を例にあげてこの問題について考えてみた。自動運転車の法定速度完全遵守はそのようにプログラムをすれば可能ではあるだろう。だが、実際に自動車を運転していればわかることだが、首都高速のように短い側道から本線に乗ろうと思えば、法定速度完全遵守だけでは、場合よっては追突される恐れもある。教条的な法律完全遵守がむしろ危険を招き、その場での最適な裁量が最適な危険回避行動となりうる一例である。


人工知能等の技術を投入することで、法律の完全遵守を強いるような仕組みはその他の様々な局面でも導入されていくと考えられる。(監視カメラによるあらゆる法律違反の摘発等。これは最早SFでも何でもない)。しかも、その場合、各国ごとに柔軟な対応をしてくれるのだろうか。どちらかと言えば、『世界標準』に人間の側が合わせて行くよう促されるのではないか。『世界標準法律』、いわゆる『国際法』は理念としては存在していても、実際にはこれを設定することは極めて難しいことは歴史が証明している。もちろん、貿易取引の規定(インコタームズ等)や条約等の国際的な取り決めもあるにはあるが、法律は原則各国ごとに決められている。そして、その法律はその国の文化/習俗/歴史/国民の意思/思想等に深く影響を受け、外国から導入した接受法は空文化してしまうことが珍しくない。


しかも、技術により完全遵守の徹底が可能に見えるからと言って、すべての問題解決をこれに頼るようになると、重大な問題が起きる懸念があることも以前書いておいた通りだ。共同体や個人間の問題は可能な限り、人間的な環境で解決していくことが望ましい。共同体や個人間の信頼感や一体感は、人間が生きる上での何にも優る『安心感』の源泉だからだ。それでも、技術による社会統治は、そのメリットも十分にあるだけに、どんどん広がって行くだろう。だが、様々の思わぬリスクが潜在していることを忘れるわけにはいかない。



◾️ 自然人/法人以外の責任主体の出現


人間以外の責任主体を想定するかどうか、できるかどうかという難題は、自動運転車の法律問題の一つとして、議論が始まっていると言える。現在の法律では、責任主体として人間(自然人)以外には、法人という概念もあるが、それ以外には責任能力を認めていない。そういう意味では、人工知能の責任はそれをつくった人間か企業(法人)に責任を帰する以外にはないというのが今の所の結論としか言いようがない。だが、人工知能が大量の情報をベースに何らかの能力を習得した結果の挙動というのは、それをつくった誰であれ、企業であれ、直接的な責任を追いきれないくなる可能性が高い。『教育』を行ったのが人間であり、企業であったとしても、その人工知能が高度になればなるほど、ある段階から人間や企業の関係と人工知能の挙動が特定できなくなる可能性は十分に考えられる。(というより、どんどんそうなって行くだろう。)明らかに危険な挙動が見られるのであれば、それを放置しておけば、企業が責任を追求されると考えられるが、その人工知能なりの個性等については、因果関係を特性することはどんどん難しくなって行くだろう
だからと言って、因果関係を特定することが出来ないという一点を持って、社会的に有用と考えられる自動運転車を投入することができないのでは、逆に社会的な損失にもなりかねない。だから、自動運転車を社会に投入した社会全体の責任として、国家賠償や自賠責保険のような制度で対処するという考え方がある。


また会話が自由にできるような人工知能(ロボット)が誹謗中傷や、不適切な発言等を行った場合はどうなるのだろうか。マイクロソフト人工知能のようにナチスのような挙動が問題になった例もあるが、今後は人工知能の発言の自由度を高く設定すればするほど、このような問題が数多く起きてくる可能性がある。誹謗中傷とか、放送禁止用語とか、Politicaly Incorrect な発言も今後はたくさん出てくる可能大がある。当面はそれを教育した親としての人間や企業が責任を負うしかないが、それもいずれ難しくなっていくだろう。そうなったら、責任を追いきれないから企業はそんな人工知能は投入しない、という方向になるのか(現状ではその可能性も結構高そうだ)、それともなんらかの導入許容のための理屈を構築するのか。こういうのはいかにも米国が得意そうだ。(逆に日本は非常に苦手というべきだろう。)これらの問題は、人工知能に人間に比肩しうる『意識』が発生するかどうか、というような難問を設定せずとも、『意識』は持たない人工知能であっても出てくる難問だ。



◾️ 変わることこそ安全で安心


整理してみたいと言いながら、どんどん取り止めがなくなってくるし、逆に問題を拡散してしまった感もある。よって、今回はこれくらいにしておこうと思うが、このような、必ず起きてくると考えられ、そして、社会の安定にとっても問題となる可能性のある要素について今後ともできる限り見つけていく努力は続けていこうと思う。


だが、強調しておきたいのだが、現状の社会の枠組みを絶対視して、技術の成果をすべて否定してしまうようなことでは話にならないし、そんな想定は無意味だろう。問題を見つけることで、社会や組織の方を(コアにある価値を保持しつつ)変化させていくこと、そしてそのためにどう変化させるのが良いのか検討することが何より求められる。


ところが、昨今の日本を見ていると、現状の仕組みに変更を迫るもの全てが悪と考えているとしか思えない事例が多すぎる。そういう意味では企業がすぐに口にする、『安全・安心』というスローガンなども要注意だ。変えないことが安全であり、安心できると考えているとしか思えないことが本当に多い。変わることこそ安全で安心と、覚悟を決める必要がある。


社会の中間集団を潰してしまうことは技術進化にとっても喜ばしいことではない、というのは、昨今の世界情勢( 英国のEU離脱決議、トランプ大統領登場等)が示しているが、技術やグローバリズム、そして、イノベーションのための変化をすべて嫌悪するのは、明らかにバランスを失している。もともと技術進化と社会の摩擦は今後非常に激烈になることは予想されていたわけだが、その問題を世界に先んじて乗り越えて行くかに見えた米国の転回とも見える今の状況は、あらためてこの問題が深刻であることを世界に印象付けることになった。もしかすると、日本でも、変化を嫌う既得権益者の一部を喜ばせたかもしれない。だが、技術の競争は世界的に行われており、どこかがスピードが緩んでもその隙をついてどこかがスピードアップするだろう。日本でも、問題があるからやめるのではなく、問題があるからこそそれを良く知って乗り越える方法を考える、という方向に持って行く必要があると思う。

*1:

限界費用ゼロ社会―<モノのインターネット>と共有型経済の台頭

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