一人負け日本で企業はどう生き残ればいいのか?

◾️ 漠然とした不安感


この数年、アベノミクスの効果は多少ともあって、景気は一息ついたとの印象がある。だが、度重なる金融緩和策もそろそろ効果が切れてきていて、不透明感が強くなってきていると言わざるをえない。しかも、次世代の日本を背負っていける企業が育ってきているどころか、既存の日本企業の展望も激しくなる一方だ。2020年のオリンピックくらいまではともかく、それが終わったらいったいどうなってしまうのかとの不安感を払拭しきれず、心穏やかではいられないのが今日の平均的な日本人といっても過言ではあるまい。



◾️ 現実は厳しい


ところが実はそれでは終わらない。実際の経済指標を精査すると、そもそも『オリンピックまでは何とかなる』という見通し自体、甘いと言わざるをえないことがわかってくる。もっと切迫感を持って、立ちはだかる問題に早急に対処しないと本当に取り返しのつかない事態となるのではないか。そのような危機感を存分にかき立てててくれるのが、日本在住20年というイギリス人(元金融アナリストで現在は企業経営者)、デービッド・アトキンソン氏が最近著した『新・所得倍増論』*1だ。


アトキンソン氏は、大半の日本人が日本に対して漠然と感じている『大国意識』が、先進国中では、米国に次ぐ人口規模を持ち、しかも、バブル期くらいまでは、総人口も生産年齢人口も増加し続けた恩恵に依るところが大きく、すでに人口は減少に転じ、少子高齢化のあおりを受けて生産年齢人口の減少幅が大きくなっている現在では、そのような意識(大国意識)はもはや幻想でしかないことを自覚し、量ではなく質を追求すべく切り替えていく必要があることを説く。


すなわち、『GDP世界第三位』に幻惑されるのではなく、一人当たりの数値の推移をシビアーに受けとめるべき、というのだ。しかも、国際比較をするにあたっては、為替レートの変化で誤魔化されてしまうことが少なくないので、購買力平価による調整が必須とする。



◾️ 日本の真の姿は・・


では、その『一人当たりGDPIMFデータより著者が購買力調整、2015年)』の国際比較でみる日本は世界で何位かと言えば、27位だという。高度成長期どころか戦前の1939年には日本はすでに一人当たりGDPは世界第6位だったというから、かなりロングレンジで見ても、昨今の低迷ぶりは際立っている。加えて最近の凋落ぶりが尋常ではない。1995年くらいからこちら(いわゆる失われた20年)、欧米各国との比較で言えば、日本は先進国の中で、相対的に最も後退している国になっている。



  
同様に、『一人当たり』で見た様々な指標を次から次に突きつけられると、私自身、いかに日本に対して陳腐化してしまったイメージを後生大事に温存してきたのかが否応無くわかって、鼻白む思いがする。例えばこんな感じだ。


輸出額は世界第4位 → 一人当たりでは世界44位

ノーベル賞受賞回数は世界第3位 → 一人当たりでは世界第39位(科学・経済学の分野でも第29位)


こうしてみると「日本の技術力は高く、世界に名だたる輸出大国」というお題目が如何に幻影となりつつあるかわかる。



◾️ 日本は貧困化率が高い国


アトキンソン氏も述べていることでもあるが、私の経験でも『経済成長』に言及すると、条件反射のように、『もう成長はそこそこに日本人は皆でわけあって仲良く平和に暮らせればよいのだ』という意見が必ず出てくる。私も基本その意見に反対するものではないし、そうなればいいと思う。だが、現実を見れば、そのような甘いことを言っている場合ではないことに気づかされる。なんと実質的に先進国中最も貧困比率の高いのが今の日本なのだ。『新・所得倍増論』では、ワーキングプア(国民一人ひとりの所得を順番に並べたとき、真ん中の人の所得の半分以下の状態にある人)比率を数値化して示してある。それによれば、先進国で日本より上位にあるのは米国のように自由競争が徹底していて二極化を緩和する社会保障制度が整備されていない『例外』だけだ。



日本が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と称賛されていたころ、『一億総中流』という言い方も流行語となっていて、日本が強くなった理由とも結果とも言われていたわけだが、この様相は、いわゆる「失われた20年」の間にすっかり変わり果ててしまったことになる。



◾️ 生産性向上が必須


厚生労働省が近く発表する2016年の人口動態統計年間推計で、同年の出生数が統計を取り始めた1899年間以降初めて100万人を切る、98万1000人と推計されることがわかって、衝撃をもって受け止められているが、死亡数の推計は129万6000人であり、31万5000人の人口が減少することになる。日本の人口はこれで10年連続で減少しており、しかもそのペースは加速している。『G D P =人口 ×生産性 』だから、こうなると生産性を何としても上げていくしかない、ということになる。だが、状況は非常に厳しい。


日本生産性本部の調査によれば、2010〜2012年の日米の生産性を比較すると、米国を100としたときの日本のサービス業は49.9%と半分の水準だという。さらに業種別でみると、飲食・宿泊業は34.4%、卸売・小売業が38.4%というから、大変大きな差がついていることがわかる。一国の経済が成長し、労働者の賃金が高くなれば、どの国であれ、製造業から、より高付加価値のサービス業にシフトすべきことが必然であるとすると、日本のサービス業の生産性の低さは非常に深刻な問題だし、今後の日本の最も大きな課題と言える。


それでもこの調査で見ても、製造業についてはまだ業種や企業によっては米国を上回るところもあるようだ。ここにはデータは出ていないが、おそらく、今でも世界で通用する製造業(自動車産業、産業用ロボット等)であれば、さすがにまだそれほどの劣位にはないだろう。ただ、日本企業の全盛期でも、日本の製造現場の生産性は世界一だったかもしれないが、農業やサービス業はもとより、企業内のいわゆる『ホワイトカラー職場』の生産性が低いことは公然の秘密だった。だが、戦後の重厚長大産業、あるいは労働集約的産業主導の経済では(加えて人口増加期においては)あまり問題にならなかった。安価で質の良い生産労働者が大量にいて、生産現場で改善が進み、製品品質と生産性が同時に上がるのだから、ホワイトカラーの生産性が少々低くても、企業は成長し、世界市場での競争力も高くなった。


日本の戦後の体制は資本主義とはいいながら、欧米等の他国とはかなり色合いの異なるものであり、日本は他国にはない独特のシステム(終身雇用、企業内組合、系列支配、垂直統合、間接金融中心、官僚と業界の密接な関係等)を持ち、それを『日本的経営』と称していたわけだが、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と称賛されるころまでは、これが非常に世界情勢にフィットして日本を経済大国に押し上げることに貢献した。二度のオイルショックも先進各国が呻吟する中、世界に先駆けて立ち直ったばかりか、オイルショックをステップにしてさらに国際競争力を上げるような離れ業もやってのけた。


だが、90年代くらいから、世界の市場構造は急速に変化し、特にインターネット本格普及期以降はこの変化が劇的に加速することになる。垂直統合より水平分業、すなわち自社/自社系列にこだわらず、多数の他社との関係を拡大し、アウトソースを拡大するほうが有利な市場構造になる。今ではそれどころか本格的なオープン化、シェア・エコノミー化が急速に拡大しつつある。日本企業の多くはその環境変化にうまく対応することができず、いまだにできていないと言わざるをえない。



◾️ すでにわかっていたこと


ここまで述べた日本の凋落ぶりについては、アトキンソン氏のような外国人の提言を待つまでもなく、冷静に市場をウオッチしている人であれば誰でも気づいていたことではある。その一例として、ジャーナリスト/ライターの佐藤拓氏の著書『日本の怖い数値』*2があるが、『新・所得倍増論』とは説明の切り口は若干異なるとはいえ、『あまり語られることのない日本の実態』につき、数値を持って懇々と語る点では大変よく似ている。


そこで引用されているIMD(国際経営開発研究所)の国際競争力ランキング(2012年)を見ても、導かれる結論はほぼ同じだ。日本は総合27位で、マレーシア、韓国、中国よりも下位で、アジア各国中第7位にランクされている。IMDの調査が始まった1989年から93年までの5年間は日本が世界第1位だったというから、まさに凋落というしかない。(但し、競争力の順位は2002年にすでに30位まで下がっている。)



日本の何が競争力をそいでいるかを知るために、要素別の日本の順位(2011年)も示されている。これを見ると、日本企業のビジネスの効率性(中でも「姿勢と価値」(36位)、生産性(28位))が大きな問題であることがわかるが、それ以上に政府の効率性は50位と、とんでもなく低い。インフラは比較的高い(11位)ものの、教育の評価は低い(34位)。やはり、先に述べた、日本独特のシステム(終身雇用、企業内組合、系列支配、垂直統合、間接金融中心、官僚と業界のもたれあい等)が全体として機能不全というか、障害となっていると見るべきだろう。



もちろん、企業の生産性の低さ(特にホワイトカラー、サービス産業)を放置している日本企業の経営自体の問題はやはり看過できない。先ごろ話題になった、電通社員の過労自殺など、その背景がつまびらかになってみると、電通は、まさに生産効率より社員の労働量と忠誠心を過大に評価する、多くの日本企業の典型例だったことがわかる。電通ばかりではなく、そのような経営がいまだにどっかと日本企業の中核に居座っている。



◾️ 解決策を示すことは難しい


ただ、問題の所在を指摘するところまではできるものの、解決のための具体案を提示することは極めて難しい。アトキンソン氏は、問題の根幹は日本企業の経営手法にあるとして、政府や機関投資家を通じて、もっと日本の企業経営者が生産性向上に努め株価を上げるべくプレッシャーがかかるようにするべきと説く。この点については、私も今の日本の経営者があまりに守られ過ぎていることの問題を常日頃痛感しているので、原則賛同するが、それだけでは政府の効率性の悪さ、政府と企業のもたれあい等、大きな構造を変えることはできないように思える。


とは言え、個別企業、特にベンチャー企業を含む中小の企業経営者の立場で言えば、旧来の日本企業の経営手法をアンチテーゼとして、とにかく先に進むことが重要と考える。構造が変化することを待っている余裕はないはずだからだ。時間の経過とともに、既得権益だけに頼って、企業改革を渋るような企業は、競争に負けて退場していくことになり、それが臨界点に到達すれば、政府を含めた全体の構造は反転するだろう。そして、現在進行中のテクノロジー革命がそれ(反転)を強力に後押しすることになるはずだ。技術進化について(そしてそれによって変化しつつある市場について)常に注目している私の場所から見ると、その反転の時期は皆が予想するよりずっと早く来るように思えてならない。そうなると、既存の日本企業が軒並み経営危機に陥るような事態もありえるが、その代わりを埋める(外資を含めた)新興企業が現れることは間違いない。その時に、勝ち組として新しい市場で飛躍できるよう、今は環境が厳しくとも耐え忍ぶことが必要な時期なのだと思う。



◾️来るべき市場で飛躍するために


ご参考に、その来るべき市場で飛躍するために必要な要件を本日述べた内容からエッセンスを絞り出して、ここに提示しておこうと思う。



1. 人事制度:


マッキンゼー経営コンサルタント伊賀泰代氏(ちきりん?)も著書『生産性ーマッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの』*3で説いているが、トップ級の人材にどんどん難しいチャレンジングな仕事と同レベルの人材と切磋琢磨できる環境を与えて、その能力を思いっきり引き出すことを中心とした人事制度としておくことは必須条件だ。


既存の価値や過去の経験に頼れないということは、技術でも、ビジネスモデルでも連続したイノベーションを発現できるトップ級の人材が何よりも必要になる。それは中の上〜上の下くらいの人材の改善の成果を足し合わせても到達できない境地を目指すということでもある。古い日本企業の年功序列的な人事制度を放置すると、トップ級の人材は会社を離れることになってしまう。トップ級の人材が集い、フルに活躍できる環境を構築することが、これからの企業にとって何より重要な勝利条件となる。



2. IT/技術利用:


古い日本企業がゆったりとすすめるIT利用とは全く違う。デジタル技術の最先端の成果を他社に先駆けて利用することで、システムを丸ごと変革してしまうくらいの、いわば、それ自体にプロセスイノベーションを起こすことが求められる。今は、クラウド人工知能SNSクラウドファンディング、オープンソース等、その気になれば利用できるものは非常に多くなってきている。(特に、時間が経てば経つほど、人工知能の利用は必須になっていくだろう。)



3. マーケティング経営:


旧来の日本企業はもとより新興企業でも、技術者出身の経営者など、ホワイトカラーやサービスの生産性向上というと、人員整理とかマニュアル化というような生産視点ばかりが前面に出てしまうケースが多い。そうではなく、徹底的に顧客価値を追求し、それが企業活動の細部に至るまで浸透し、徹底している企業を目指すべきだ。



4. 体験価値の徹底追及:


日本のサービス業の生産性が低いという時、その最大の原因として、サービス業自体の構造変化の潮流が理解されていないことが意外に大きい。それはマーケティング経営の不徹底ということでもある。ユーザーの理解が足りないのだ。一般にサービスの対価もデフレし、下がる一方ではあるが、いわゆる経験価値についてはユーザーが払う対価は増大し続けているという事実をもっと重視すべきだ。例えば、CDの売り上げは下がる一方だがコンサートやライブは非常に活性化しておりミュージシャンの生計の方法も変わってきている。また、結婚式自体の数は減っても、結婚式を楽しい思い出にするための出費は増大している。今後、サービスは人工知能の導入等、どんどん機械化されて、さらにデフレ化していくと考えられる。だが、そんな人工知能やロボットが最も追従することが難しのが、『経験価値の探究』だ。このあたりは、また別途取り上げようと思うが、非常に重要な経営問題と心得ておくべきだ。

*1:

デービッド・アトキンソン 新・所得倍増論

デービッド・アトキンソン 新・所得倍増論

*2:

日本の怖い数字

日本の怖い数字

*3:

生産性―――マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの

生産性―――マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの

今は予測や情勢分析のスキルを徹底して見直してみるべき時

◼️ 軒並み予測が外れた米国大統領選挙



先の米国大統領選挙が残した印象的なエピソードの一つに、世論調査や専門家の予想が軒並み外れたことがある。マスメディアの予測については、CNNやワシントンポスト紙など、あらかじめヒラリー・クリントン氏支持の旗色を鮮明にしていたメディアは、多かれ少なかれバイアスがかかることはある程度想定内ではあった。ただ、今回州ごとの選挙人獲得予想を発表していた主要メディアは10社以上あったというが、そのほとんどがクリントン氏の勝利を予想していたというから、贔屓目だけが理由というのも無理がある。驚くべきことに、事前の世論調査の結果だけではなく、期日前投票や当日の出口調査という、かなり確度が高いはずの調査結果でさえ、実際の開票結果と食い違うような事例が目立ったというから、調査手法や結果の評価の仕方等、調査活動全体が根本的な見直しを迫られていると言えそうだ。ただ、今回はそれだけではなく、それまで評価の高かった識者や専門家でさえ、予測を誤る事例が多発したことも特徴と言える。例えば、2008年の大統領選挙では驚異的な的中率を誇っていたネイト・シルバー氏(選挙学とセイバーメトリクスを応用して将来の結果を予測するアメリカ合衆国統計学者。2009年4月にはタイム誌が毎年発表する「世界で最も影響力のある100人」の一人に選ばれた)も、今回ばかりは読み違えてしまったようだ。


泡沫候補と言われ続けながらも、予想を常に上回って健闘を続けていたトランプ氏だが、卑猥な発言がYoutubeで拡散して評価が大幅に下がった頃から、さすがにここまでと私も思っていた。私の周囲でもそのようにいう人がほとんどだった。そのため、当選が決まった時には、正直驚きを隠せなかった。だから、私もクリントン氏勝利を予測した識者や専門家を批判できる立場にはない。ただ、予測やそのベースになる情勢分析に関して、私自身も何かを変えていく必要性があることを強く自覚せざるをえなかった。しかしながら、その『何か』が今ひとつ特定できないでいた。



◼️『超予測者』という存在


こういうタイミングだけに、『超予測力 不確実な時代の先を読む10カ条』*1というタイトルの訳書(日本でも大統領選挙以前の10月25日に発売)には、思わず惹きつけられた。しかも著者のフィリップ・E・テトロック氏は、専門家の過去の予測を綿密に調べて評価し、その上で『専門家の予測精度はチンパンジーのダーツ投げ並みのお粗末さ』と述べて注目され、本書は全米ベストセラーになったという。まるで今回の大統領選挙で専門家の予測が外れることをあらかじめ知っていたかのようにさえ見えてしまう。


もちろん、今回の大統領選挙の予測が外れたことについては、独自の原因もあるだろうし、本書が述べる『専門家の予測精度が高くない理由』ですべて説明がつくとも限らない。しかも、開票の結果、敗れたクリントン氏のほうが、得票数は200万票以上も多かったというから、そもそも難易度の高い予測だったことは確かだろう。ただ、いずれにしても、あらためて予測を既存の専門家に任せて思考停止してしまうことのリスク、予測精度を上げて正しい意思決定を行うために必要な要件等、本書から学べることは多く、私同様、今回、自分の予測能力に疑念を感じた人には一読をお勧めできる良書だと思う。自らの所属する組織の予測能力の再評価のためのガイドラインとしても利用できるように思われる。


テトロック氏は、彼が揶揄する『専門家』とは別に、卓越した予測の成績をおさめる『超予測者』が存在することを知り、自らも、プロジェクトを編成して、その力の秘密を探り、結果を本書で披露している。彼が述べる『典型的な予測者像』につき、まとめた部分があるので、以下に引用しておく。

慎重確実なことは何もない 。

謙虚現実はどこまでも複雑である 。

非決定論的何が起きるかはあらかじめ決まっているわけではなく 、起こらない可能性もある 。

能力や思考スタイルには 、次のような傾向が見られる 。

積極的柔軟性意見とは死守すべき宝ではなく 、検証すべき仮説である 。

知的で博識 。

認知欲求が強い知的好奇心が旺盛で 、パズルや知的刺激を好む 。

思慮深い内省的で自己を批判的に見ることができる 。

数字に強い数字を扱うのが得意である 。

予測の方法には 、次のような傾向が見られる 。

現実的特定の思想や考えに固執しない 。

分析的鼻先越しの視点から一歩下がり 、他の視点を検討する 。

トンボの目多様な視点を大切にし 、それを自らの視点に取り込む 。

確率論的可能性を多段階評価する 。

慎重な更新事実が変われば意見を変える 。

心理バイアスの直観的理解自分の思考に認知的 、感情的バイアスが影響していないか確認することの重要性を意識している 。

努力についての考え方には 、次のような傾向が見られる 。

しなやかマインドセット能力は伸ばせると信じる 。

やり抜く力どれだけ時間がかかろうと 、努力しつづける強い意志がある

◼️ 専門家ほど陥りやすい罠


中でも、『心理バイアスの直観的理解自分の思考に認知的 、感情的バイアスが影響していないか確認することの重要性を意識している 』という部分こそ、本書全体に通底する最も重要なメッセージだと思う。少なくとも私はそのように受け取った。


要は、専門家としての過信、思い込み、見栄等が、予測にバイアスがかかり、間違ってしまう一番大きな原因の一つであり、それを自分自身で見つけ、認め、変えていく柔軟性の有無が問われているということだ。世評の高い専門家、 IQの高い天才や秀才、その分野で経験が豊富な実務家等でさえ(というより場合よってはそれ故にこそ)、自分自身を過信し、あるいは立場に固執し、その結果、『チンパンジーのダーツ並みの精度』の予測や判断となってしまう。実際、なまじ『専門家』の看板が大きいと、認知バイアス(ある対象を評価する際に、自分の利害や希望に沿った方向に考えが歪められたり、対象の目立ちやすい特徴に引きずられて、ほかの特徴についての評価が歪められる現象)の罠にも落ちやすい。その一方で、『専門家』の予測は重要な判断の糧となることが少なくないから、取り返しのつかない悲劇に直結したりする。


最近の例で言えば、何と言っても米国のイラク侵攻を正当化した、CIAの『サダムフセインイラク大量破壊兵器を隠し持っている』との誤ったレポートだろう(この場合、予測というより、情勢分析というべきかもしれないが、問題の本質はどちらも同じなので、あまりこだわらずにおく)。このレポートは米英等の有志連合のイラク侵攻(2003年3月)の口実となり、その後、長く泥沼のような戦闘行為とテロの応酬が続くことになる。(但し、そもそもこのレポートはイラク侵攻を正当したかった米国首脳の息のかかった捏造である疑いも濃厚にある。)



◼️ 史上何度も繰り返されている


さらに歴史を遡ると、同様の事例として、ケネディ大統領時代に、あやうく当時のソ連との核戦争を誘発しかかった、キューバ危機(ピッグス湾事件)における情勢判断の誤認がある。CIAによるキューバ政府軍の過小評価、『キューバ軍の一部が寝返る』という根拠のない判断等に基づくずさんな作戦計画が、侵攻作戦の大失敗を引き起こすことになった。


ケネディ大統領といえば、ケネディ政権と、ケネディ大統領暗殺後にそれを継いだジョンソン政権において、国防長官を務めたロバート・マクナマラを中心とした『ベスト&ブライテスト』*2である人々が、政策を誤り、ベトナム戦争の泥沼に米国を引きづりこむことになった件も有名だ。これはジャーナリストのディビッド・ハルバースタムピューリッツァー賞を受賞した同名の著作で当時の様子を詳細に描き出しているが、どうして最良(ベスト)かつ最も聡明(ブライテスト)なはずの人々がこのような愚かしい(らしくない)失敗をしてしまうのか、というこれまで述べてきたのと同様のテーマが扱われている。こうしてみると、米国も、史上、同様の失敗を何度も繰り替えしているということになりそうだ。



◼️ 日本人も同じ


もっとも日本人もそれを笑うことなど到底できない。日本にも、先の戦争中の失敗(ノモンハンガダルカナルインパール等での作戦の失敗)の原因を分析した、『失敗の本質―日本軍の組織論的研究 』*3という優れた著作があり、ここに示された失敗の根本原因もほぼ同じといっていい。当時最も優秀とされた軍事官僚や将校の信じられないほどの愚かしい予測/判断/意思決定を明らかにしている。しかも、困ったことに、ここに出てくる旧帝国陸海軍の所業と同類系の行いは、今に至るも日本の組織の彼方此方で、連綿と繰り返されている。



◼️ 貴重な教訓をどう生かしていくか


これは、おそらく地域や歴史をまたぐ普遍的な問題というべきなのだろう。もちろん、専門家や識者と呼ばれる人々の中に、素晴らしい『予測者』がいることを全面的に否定するものではない。私も、素晴らしい専門家や研究家で、予測能力にも卓越した能力を持つ人を沢山知っている。しかしながら、同時に、専門家が自分の間違いを認めることがいかに難しいかについても、苦い経験を通じて多くの事例を知っているつもりだ。だから、この教訓を身に刻みつけるためには、上記にあげたような書籍を一度流し読むくらいでは話にならないことも承知している。読書はきっかけに過ぎず、日々、日常の仕事の中で、繰り返し思い出して習慣化していくしかない。


今世界はますます混乱の極みに突入しつつある。それでなくても難しい『予測』や『情勢判断』はさらに一層難易度の高いスキルになろうとしている。だが、それだけに、そのスキルの必要度はますます高くなっているとも言える。せっかくなので、これを機会に自分なりの『予測者』像を探求して、自分にもできることから初めてみようと思う。




◼️ 軒並み予測が外れた米国大統領選挙



先の米国大統領選挙が残した印象的なエピソードの一つに、世論調査や専門家の予想が軒並み外れたことがある。マスメディアの予測については、CNNやワシントンポスト紙など、あらかじめヒラリー・クリントン氏支持の旗色を鮮明にしていたメディアは、多かれ少なかれバイアスがかかることはある程度想定内ではあった。ただ、今回州ごとの選挙人獲得予想を発表していた主要メディアは10社以上あったというが、そのほとんどがクリントン氏の勝利を予想していたというから、贔屓目だけが理由というのも無理がある。驚くべきことに、事前の世論調査の結果だけではなく、期日前投票や当日の出口調査という、かなり確度が高いはずの調査結果でさえ、実際の開票結果と食い違うような事例が目立ったというから、調査手法や結果の評価の仕方等、調査活動全体が根本的な見直しを迫られていると言えそうだ。ただ、今回はそれだけではなく、それまで評価の高かった識者や専門家でさえ、予測を誤る事例が多発したことも特徴と言える。例えば、2008年の大統領選挙では驚異的な的中率を誇っていたネイト・シルバー氏(選挙学とセイバーメトリクスを応用して将来の結果を予測するアメリカ合衆国統計学者。2009年4月にはタイム誌が毎年発表する「世界で最も影響力のある100人」の一人に選ばれた)も、今回ばかりは読み違えてしまったようだ。


泡沫候補と言われ続けながらも、予想を常に上回って健闘を続けていたトランプ氏だが、卑猥な発言がYoutubeで拡散して評価が大幅に下がった頃から、さすがにここまでと私も思っていた。私の周囲でもそのようにいう人がほとんどだった。そのため、当選が決まった時には、正直驚きを隠せなかった。だから、私もクリントン氏勝利を予測した識者や専門家を批判できる立場にはない。ただ、予測やそのベースになる情勢分析に関して、私自身も何かを変えていく必要性があることを強く自覚せざるをえなかった。しかしながら、その『何か』が今ひとつ特定できないでいた。



◼️『超予測者』という存在


こういうタイミングだけに、『超予測力 不確実な時代の先を読む10カ条』*4というタイトルの訳書(日本でも大統領選挙以前の10月25日に発売)には、思わず惹きつけられた。しかも著者のフィリップ・E・テトロック氏は、専門家の過去の予測を綿密に調べて評価し、その上で『専門家の予測精度はチンパンジーのダーツ投げ並みのお粗末さ』と述べて注目され、本書は全米ベストセラーになったという。まるで今回の大統領選挙で専門家の予測が外れることをあらかじめ知っていたかのようにさえ見えてしまう。


もちろん、今回の大統領選挙の予測が外れたことについては、独自の原因もあるだろうし、本書が述べる『専門家の予測精度が高くない理由』ですべて説明がつくとも限らない。しかも、開票の結果、敗れたクリントン氏のほうが、得票数は200万票以上も多かったというから、そもそも難易度の高い予測だったことは確かだろう。ただ、いずれにしても、あらためて予測を既存の専門家に任せて思考停止してしまうことのリスク、予測精度を上げて正しい意思決定を行うために必要な要件等、本書から学べることは多く、私同様、今回、自分の予測能力に疑念を感じた人には一読をお勧めできる良書だと思う。自らの所属する組織の予測能力の再評価のためのガイドラインとしても利用できるように思われる。


テトロック氏は、彼が揶揄する『専門家』とは別に、卓越した予測の成績をおさめる『超予測者』が存在することを知り、自らも、プロジェクトを編成して、その力の秘密を探り、結果を本書で披露している。彼が述べる『典型的な予測者像』につき、まとめた部分があるので、以下に引用しておく。

慎重確実なことは何もない 。

謙虚現実はどこまでも複雑である 。

非決定論的何が起きるかはあらかじめ決まっているわけではなく 、起こらない可能性もある 。

能力や思考スタイルには 、次のような傾向が見られる 。

積極的柔軟性意見とは死守すべき宝ではなく 、検証すべき仮説である 。

知的で博識 。

認知欲求が強い知的好奇心が旺盛で 、パズルや知的刺激を好む 。

思慮深い内省的で自己を批判的に見ることができる 。

数字に強い数字を扱うのが得意である 。

予測の方法には 、次のような傾向が見られる 。

現実的特定の思想や考えに固執しない 。

分析的鼻先越しの視点から一歩下がり 、他の視点を検討する 。

トンボの目多様な視点を大切にし 、それを自らの視点に取り込む 。

確率論的可能性を多段階評価する 。

慎重な更新事実が変われば意見を変える 。

心理バイアスの直観的理解自分の思考に認知的 、感情的バイアスが影響していないか確認することの重要性を意識している 。

努力についての考え方には 、次のような傾向が見られる 。

しなやかマインドセット能力は伸ばせると信じる 。

やり抜く力どれだけ時間がかかろうと 、努力しつづける強い意志がある

◼️ 専門家ほど陥りやすい罠


中でも、『心理バイアスの直観的理解自分の思考に認知的 、感情的バイアスが影響していないか確認することの重要性を意識している 』という部分こそ、本書全体に通底する最も重要なメッセージだと思う。少なくとも私はそのように受け取った。


要は、専門家としての過信、思い込み、見栄等が、予測にバイアスがかかり、間違ってしまう一番大きな原因の一つであり、それを自分自身で見つけ、認め、変えていく柔軟性の有無が問われているということだ。世評の高い専門家、 IQの高い天才や秀才、その分野で経験が豊富な実務家等でさえ(というより場合よってはそれ故にこそ)、自分自身を過信し、あるいは立場に固執し、その結果、『チンパンジーのダーツ並みの精度』の予測や判断となってしまう。実際、なまじ『専門家』の看板が大きいと、認知バイアス(ある対象を評価する際に、自分の利害や希望に沿った方向に考えが歪められたり、対象の目立ちやすい特徴に引きずられて、ほかの特徴についての評価が歪められる現象)の罠にも落ちやすい。その一方で、『専門家』の予測は重要な判断の糧となることが少なくないから、取り返しのつかない悲劇に直結したりする。


最近の例で言えば、何と言っても米国のイラク侵攻を正当化した、CIAの『サダムフセインイラク大量破壊兵器を隠し持っている』との誤ったレポートだろう(この場合、予測というより、情勢分析というべきかもしれないが、問題の本質はどちらも同じなので、あまりこだわらずにおく)。このレポートは米英等の有志連合のイラク侵攻(2003年3月)の口実となり、その後、長く泥沼のような戦闘行為とテロの応酬が続くことになる。(但し、そもそもこのレポートはイラク侵攻を正当したかった米国首脳の息のかかった捏造である疑いも濃厚にある。)



◼️ 史上何度も繰り返されている


さらに歴史を遡ると、同様の事例として、ケネディ大統領時代に、あやうく当時のソ連との核戦争を誘発しかかった、キューバ危機(ピッグス湾事件)における情勢判断の誤認がある。CIAによるキューバ政府軍の過小評価、『キューバ軍の一部が寝返る』という根拠のない判断等に基づくずさんな作戦計画が、侵攻作戦の大失敗を引き起こすことになった。


ケネディ大統領といえば、ケネディ政権と、ケネディ大統領暗殺後にそれを継いだジョンソン政権において、国防長官を務めたロバート・マクナマラを中心とした『ベスト&ブライテスト』*5である人々が、政策を誤り、ベトナム戦争の泥沼に米国を引きづりこむことになった件も有名だ。これはジャーナリストのディビッド・ハルバースタムピューリッツァー賞を受賞した同名の著作で当時の様子を詳細に描き出しているが、どうして最良(ベスト)かつ最も聡明(ブライテスト)なはずの人々がこのような愚かしい(らしくない)失敗をしてしまうのか、というこれまで述べてきたのと同様のテーマが扱われている。こうしてみると、米国も、史上、同様の失敗を何度も繰り替えしているということになりそうだ。



◼️ 日本人も同じ


もっとも日本人もそれを笑うことなど到底できない。日本にも、先の戦争中の失敗(ノモンハンガダルカナルインパール等での作戦の失敗)の原因を分析した、『失敗の本質―日本軍の組織論的研究 』*6という優れた著作があり、ここに示された失敗の根本原因もほぼ同じといっていい。当時最も優秀とされた軍事官僚や将校の信じられないほどの愚かしい予測/判断/意思決定を明らかにしている。しかも、困ったことに、ここに出てくる旧帝国陸海軍の所業と同類系の行いは、今に至るも日本の組織の彼方此方で、連綿と繰り返されている。



◼️ 貴重な教訓をどう生かしていくか


これは、おそらく地域や歴史をまたぐ普遍的な問題というべきなのだろう。もちろん、専門家や識者と呼ばれる人々の中に、素晴らしい『予測者』がいることを全面的に否定するものではない。私も、素晴らしい専門家や研究家で、予測能力にも卓越した能力を持つ人を沢山知っている。しかしながら、同時に、専門家が自分の間違いを認めることがいかに難しいかについても、苦い経験を通じて多くの事例を知っているつもりだ。だから、この教訓を身に刻みつけるためには、上記にあげたような書籍を一度流し読むくらいでは話にならないことも承知している。読書はきっかけに過ぎず、日々、日常の仕事の中で、繰り返し思い出して習慣化していくしかない。


今世界はますます混乱の極みに突入しつつある。それでなくても難しい『予測』や『情勢判断』はさらに一層難易度の高いスキルになろうとしている。だが、それだけに、そのスキルの必要度はますます高くなっているとも言える。せっかくなので、これを機会に自分なりの『予測者』像を探求して、自分にもできることから初めてみようと思う。

*1:

超予測力:不確実な時代の先を読む10カ条

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*2:

ベスト&ブライテスト〈上〉栄光と興奮に憑かれて (Nigensha Simultaneous World Issues)

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*3:

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

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超予測力:不確実な時代の先を読む10カ条

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ベスト&ブライテスト〈上〉栄光と興奮に憑かれて (Nigensha Simultaneous World Issues)

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失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

指数関数的に変化する未来をどう予測すればいいのか

◾️ 未来予測が非常に難しい時代


ここしばらく、人工知能のような先端技術と社会の今後というテーマを、これまでにまとめてきたことを棚卸しする意味で整理している。昨今世間を賑わす先端技術の多くは『デジタル化』がその背景にあり、デジタル化することによる同類系の法則性を帯びるわけだが、その中でも、将来予測を行う上で非常に厄介なのが、指数関数的(エクスポネンシャル)と言われる特性だ。『デジタル化』の恩恵を受ける技術群が、指数関数的な進化を遂げることは、その象徴とも言える『ムーアの法則』が盛んに喧伝されてきたから、今日ではその存在は大抵誰でも知っていると思う。そして、特にインターネットの本格導入以降の社会変化を振り返ることによって、ある程度実感することもできるはずだ。


ただ、エクスポネンシャルの本当の凄まじさは、ある段階からの飛躍的な変化の幅が大きすぎて、およそ将来を予測するための過去の経験やツールのほとんどがまったく役に立たないように見えることにある。そして、その凄まじい未来はまさにこれからやって来る。


例えば、次の図は、 米国の調査会社IDCの推計を総務省がグラフ化した、全世界の情報量の予測だ。2000年初めくらいから情報が激増したことはすでに経験済みだし、昨今そのペースが驚くべき勢いで加速していることも誰しも感じているはずだ。だが、40ゼタバイトを突破するという2020年(今からわずか4年と1ヶ月後になった!)の状態を想像することは極めて難しい。まして、それが『量』ではなく、技術の『質』とか『レベル』といった抽象概念になると、およそ普通の人間の想像力の及ぶところではない。


だから(と言っていいと思うのだが)、総務省経産省等、官庁系の刊行物に載る未来予測はおかしいくらいに『リニア(直線的)』な未来予測だし(誰にもわかる内容を、という要請があるからだろう)、逆にシンギュラリティのような未来像がその時点での社会像と共に語られることはまず見たことがない。昨今非常に話題として取り上げられることが多い『人工知能が人間の仕事を奪う』という予測があるが、これはエクスポネンシャルな進化のある到達点(人工知能が人間の仕事を代替したり、それを上回る能力を身につけるという到達点)にだけ焦点をあてることによって、リニアな未来しか想像できない人を驚かせてみせた例とも言える。だが、社会というのは、様々な要素の関係の網で出来上がっているものであり、他の要素はリニアで予測して、それに小さな窓から見える『仕事』のエクスポネンシャルな進化の絵姿を重ね合わせても、有用な予測にはなり得ない。



◾️ 全体としての時代性を直観してみること


では、どうすればいいのか。エクスポネンシャルな進化の先の様々な社会的要素を可能な限り正確に予測して、その相互関係を構築することが出来るなら、それは一つの手法ではあるが、残念ながらあまり捗々しい成果は期待できない。というのも、それぞれの要素の進化のスピードは同じではないから、ある断面で(2025年等)切った場合の相互関係といっても、奇怪なモザイクになるのがオチだろう。加えて、要素を集合してみても、そこに全体に流れる旋律や時代性等を感じることは至難の技だ。個々の要素の合計は全体とは違う。現代の常識やパラダイムを変えずに、モザイクを無理やり組み立てるような残念な予測になってしまうことが容易に予想される。


どうすれば多少なりとも有用なエクスポネンシャルな変化の後の社会の予測ができるのだろうか。(有用と言うからには、何らかのアクション/対処方が引き出せることが望ましい。)どうやら、量的な概念によって予測することは諦めたほうがいい。また、分析はいいが要素分解しすぎると全体がかえって見えなくなる。どちらかと言えば、その社会が必然的に帯びるであろう特質、そうなることが必然と考えられる性質のほうをくくり出していって、それを統合(できるものならだが)したほうが多少なりとも有用予な測ができるのではないか。少なくとも次の思考実験のための起点となるのではないか。そのためには、何らかのきっかけとなる概念を利用して、全体としての旋律/時代性/トレンド/パラダイム等を直接観じてみることだ。


と言っても、なかなかイメージを持っていただくことが難しいだろうから、もう少しだけ具体的(にはなりきらないが・・)に述べてみよう。



◾️ 無形財の過剰


昨今、著作や作曲を行う人工知能が出現して来ているが、今後その作品がある程度人間に受け入れられるレベルに到達するとすれば、市場には大量の書物や楽曲が溢れることになる。先日人工知能に詳しい知的財産の研究者とお話しをする機会があったのだが、同様の仕組みで大量の特許出願が行われるであろうことも、すでに現実味のある未来として想定されているという。一台(?)の優れた人工知能があれば、毎日のように何千何万の書物や楽曲、あるいは特許が吐き出されてくると考えられるが、これが市場に大量に普及した社会を想像してみて欲しい。今は『希少財』であるはずのこれらの『無形財』の市場価値は限りなくゼロに近づいていくと考えざるを得ない。法律としても制度としても、現状の知的財産権のコンセプトも抜本的な見直しが必要だろう。もちろんビジネスも激変は避けられない。


さらに言えば、先日も私のブログでも紹介した、PEZY Computingの齊藤社長は、人工知能&スーパーコンピュータという究極の問題解決エンジンが近い将来(5年〜10年程度)どの企業でも保有できるようになるという見通しについて述べている。大量の情報の中から、問題解決のための仮説を人工知能が大量に提示し、それをスーパーコンピュータが検証して、大量の新しい理論/モデルが構築され、あらゆる問題が解決されていくというイメージだ。


しかも、仮説といっても人間が見出せる属性はせいぜい、1つの課題に対して20とか30程度だろうし、理解可能な組み合わせのパターンは普通は1対1の相関関係程度で、どんなによくても1対2が限界だろう。だが、人工知能なら、数万〜数十万を超える属性を見出し、N対Nの超複雑な相関関係という特徴量を大量に引き出して、人間には立案不可能な仮説が構築できるようになると考えられる。そして、そしてそれをスーパーコンピュータで高速に検証して、必要に応じてまた仮説にフィードバックして、ということが可能になる。そうなると少なくとも情報分析に関しては、人間はまったく太刀打ちできないし、やることがなくなると言っても過言でない。


それらは現在ではいずれも『希少財』だから、当初は企業間の競争手段として、早く人工知能を導入して巧妙に使いこなす企業が勝ち組になるのだろう。だが、ある段階から、市場全体としては、あまりに多くが吐き出されてくることになると考えられるから、需要を供給が大幅に上回り『コモディティ(一般化したため差別化が難しくなった製品やサービス)』となることは容易に想像できる。


しかも、これはシンギュラリティ(今から30年後)を待つまでもない。数年もすればこの問題の端緒が現れてくることはもう間違いない。文明史家のジェレミー・リフキンのいう『限界費用ゼロ社会』*1ではないが、近未来に無形材の価値がゼロに近くなる社会もかなり高い確度で出現することは想定しておく必要がある。



◾️ 技術と社会の接点を法律の観点で把握する


同様に、現状の社会の秩序維持の前提条件を(良い意味でも悪い意味でも)突き崩すような要素を探すと、いくつかの切り口を見つけることができる。上記は、とりあえず、『無形財の過剰(→コモディティ化→無価値化)』の問題としておくとすると、すでに述べた『指数関数的変化』『人工知能/ロボットの人間労働の代替』を含めて今思いつくだけでも6つはここに示すことができる。


ちなみに、これらの問題は法律問題というくくりで考え始めると社会との接点がわかりやすくなる。というより、社会の維持にとって何が問題として出現してくるかかがわかりやすくなる。というのも、法律の本来の目的は『社会的で暮らす人間の幸福を守るために、社会の秩序を維持し、公正や正義を実現し、そのために促進されるべきことや排除されるべきことを明確にしていくこと』にあるのであり(そうではない法律もたくさんあることは否定しないが・・)、現状では何らかの必要性から成立している法律が成り立たなくなるとすれば、そこは、人間の幸福にとって何らかの問題が生じる裂け目となっている可能性があると考えられる。そこから『対処が必要な』未来社会の一局面をのぞくことができるし、うまくすれば全体の旋律や時代性を直観できる。解決が必要な問題が見えて来ることで企業活動の重点の置き所も明確になってくるはずだ。



◾️ 未来社会の特質とは

1. 指数関数的(エクスポネンシャル)変化


2. 人間の労働環境の激変(人工知能/ロボットの人間労働の代替)


3. 無形財の過剰


4. 情報独占とオープン化の相克


5. 完全法律執行社会の到来


6. 自然人/法人以外の責任主体の出現?

◾️ 情報独占とオープン化の相克


情報独占の問題はすでに具体的な法律問題として議論が進んでいる。特に欧州では情報を過剰に集める主体(Google等)への何らかの規制が必要との認識から、独占禁止法の適用の是非が議論されている。機械学習を前提とする人工知能は、大量の質の良い情報を与えることができればできるほど優れた能力を得ることがわかっているわけだから、これからの企業は情報収集を巡って激しい競争を繰り広げることになると考えられるが、現段階ですでに、GoogleFacebookのようにある種の情報を独占と言って良いくらいに集めている企業があり、しかも、他者が一からそのようなサービスを構築することはどの企業にとってももう難しいのではないか、という危惧がある。これからの時代は大量の情報は人工知能を賢くし、それは非常に価値のある資産となるのだから、『情報≒資産』と言ってもよいはずだ。その資産を独占することを安易に許すと、独占した企業の力が無制限に強くなり、社会の公平性/公正を損なう危惧があるのは、自動車や石油のような有形財と同様だ。だが、少なくとも現在の独占禁止法の範疇/概念では有効な歯止めは難しい。情報こそ最も大きな価値を生む資産となれば、情報を有効に集めることを専業とする企業も出現するだろうし、そのカテゴリーや市場セグメント毎に情報独占の問題が起きてくることも予想される。むやみに(無意味に)制限することはイノベーションの芽をつむことになるから好ましくはないが、どのようにバランスと取るのがよいか、非常に難しい課題になっていくだろう。


ここまで書いておいて、いきなりちゃぶ台をひっくり返すようなことを言うようだが、ここまでのストーリーは従来の20世紀的な産業社会を前提としたものであり、全てとはいわないまでも、かなりの部分これでは不十分となってきている。というのも、すでにIT(インフォメーション・テクノロジー)の世界では、いわゆるオープンな領域がそれこそ燎原の火のごとく広がっており、この火は早晩、あらゆる分野を覆い尽くしていくことはほとんど確実と言っていいからだ。IT業界における『オープン』と言えば、当初はLinuxのようなOS(オペレーション・ソフト)の一部のことだったが、その後どんどん上のレイヤー、すなわち、『ミドル・ウェア』『ライブラリ』『開発環境』『ブラウザ』『データベース』とオープン化は広がってきていて、果てはオープンソースのハードウェアまで出現してきている。


オープン化せずクローズドにしておくと、発展が見込めず廃れてしまうという認識はもはやこの業界の常識で、クローズドなOSの代表格であった、マイクロソフトWindowsですら、オープン化の方向が模索されている。昨今ではスマートフォンに例を見る通り、様々な技術要素が盛り込まれ、しかもそれがクラウド上にあって安価で利用できるから、個々のデバイスを高コストで高機能化して複雑にして使い勝手を悪くするより、自らははシンプルなままで、必要な機能はクラウド上にある機能を利用する方が賢明と言える。IoTが広く普及するようになれば、さらに様々なデバイスとの連携による付加価値は一層増大することになる。そのためには、『オープン』を最大限利用し、自らも『オープン』となる必要がある。人工知能関連でも、海外企業はディープラーニングの研究成果をどんどんGitHub(ソフトウェア開発プロジェクトのための共有Webサービス)等に公開し、外部からのフィードバックをもらいながらレベルを上げていくことを良しとしている。


このような『オープン』の路線上に、公共性の高いデータの公開を促進するための目的で、『オープンデータ』というムーブメントも盛んになってきて、今では日本を含む全世界的な大きな潮流となってきている。データもオープンとすることによるビジネスチャンスの拡大、経済活性化効果があることは世界の常識と言える。そうは言っても、個人のセンシティブ情報等、プライバシーへの配慮の必要性がなくなるわけではなく、クローズドな領域がなくなるわけではない。だが、今後は大量の良質なデータが国力に直結するとの認識ももっと広がり、オープン化への要請は止むことなく拡大して行くだろう。



◾️ 完全法律執行社会


完全法律執行社会の問題は、以前も私のブログで一度話題にしたことがある。前回は、自動運転車の法定速度完全順守や『大岡裁き』を例にあげてこの問題について考えてみた。自動運転車の法定速度完全遵守はそのようにプログラムをすれば可能ではあるだろう。だが、実際に自動車を運転していればわかることだが、首都高速のように短い側道から本線に乗ろうと思えば、法定速度完全遵守だけでは、場合よっては追突される恐れもある。教条的な法律完全遵守がむしろ危険を招き、その場での最適な裁量が最適な危険回避行動となりうる一例である。


人工知能等の技術を投入することで、法律の完全遵守を強いるような仕組みはその他の様々な局面でも導入されていくと考えられる。(監視カメラによるあらゆる法律違反の摘発等。これは最早SFでも何でもない)。しかも、その場合、各国ごとに柔軟な対応をしてくれるのだろうか。どちらかと言えば、『世界標準』に人間の側が合わせて行くよう促されるのではないか。『世界標準法律』、いわゆる『国際法』は理念としては存在していても、実際にはこれを設定することは極めて難しいことは歴史が証明している。もちろん、貿易取引の規定(インコタームズ等)や条約等の国際的な取り決めもあるにはあるが、法律は原則各国ごとに決められている。そして、その法律はその国の文化/習俗/歴史/国民の意思/思想等に深く影響を受け、外国から導入した接受法は空文化してしまうことが珍しくない。


しかも、技術により完全遵守の徹底が可能に見えるからと言って、すべての問題解決をこれに頼るようになると、重大な問題が起きる懸念があることも以前書いておいた通りだ。共同体や個人間の問題は可能な限り、人間的な環境で解決していくことが望ましい。共同体や個人間の信頼感や一体感は、人間が生きる上での何にも優る『安心感』の源泉だからだ。それでも、技術による社会統治は、そのメリットも十分にあるだけに、どんどん広がって行くだろう。だが、様々の思わぬリスクが潜在していることを忘れるわけにはいかない。



◾️ 自然人/法人以外の責任主体の出現


人間以外の責任主体を想定するかどうか、できるかどうかという難題は、自動運転車の法律問題の一つとして、議論が始まっていると言える。現在の法律では、責任主体として人間(自然人)以外には、法人という概念もあるが、それ以外には責任能力を認めていない。そういう意味では、人工知能の責任はそれをつくった人間か企業(法人)に責任を帰する以外にはないというのが今の所の結論としか言いようがない。だが、人工知能が大量の情報をベースに何らかの能力を習得した結果の挙動というのは、それをつくった誰であれ、企業であれ、直接的な責任を追いきれないくなる可能性が高い。『教育』を行ったのが人間であり、企業であったとしても、その人工知能が高度になればなるほど、ある段階から人間や企業の関係と人工知能の挙動が特定できなくなる可能性は十分に考えられる。(というより、どんどんそうなって行くだろう。)明らかに危険な挙動が見られるのであれば、それを放置しておけば、企業が責任を追求されると考えられるが、その人工知能なりの個性等については、因果関係を特性することはどんどん難しくなって行くだろう
だからと言って、因果関係を特定することが出来ないという一点を持って、社会的に有用と考えられる自動運転車を投入することができないのでは、逆に社会的な損失にもなりかねない。だから、自動運転車を社会に投入した社会全体の責任として、国家賠償や自賠責保険のような制度で対処するという考え方がある。


また会話が自由にできるような人工知能(ロボット)が誹謗中傷や、不適切な発言等を行った場合はどうなるのだろうか。マイクロソフト人工知能のようにナチスのような挙動が問題になった例もあるが、今後は人工知能の発言の自由度を高く設定すればするほど、このような問題が数多く起きてくる可能性がある。誹謗中傷とか、放送禁止用語とか、Politicaly Incorrect な発言も今後はたくさん出てくる可能大がある。当面はそれを教育した親としての人間や企業が責任を負うしかないが、それもいずれ難しくなっていくだろう。そうなったら、責任を追いきれないから企業はそんな人工知能は投入しない、という方向になるのか(現状ではその可能性も結構高そうだ)、それともなんらかの導入許容のための理屈を構築するのか。こういうのはいかにも米国が得意そうだ。(逆に日本は非常に苦手というべきだろう。)これらの問題は、人工知能に人間に比肩しうる『意識』が発生するかどうか、というような難問を設定せずとも、『意識』は持たない人工知能であっても出てくる難問だ。



◾️ 変わることこそ安全で安心


整理してみたいと言いながら、どんどん取り止めがなくなってくるし、逆に問題を拡散してしまった感もある。よって、今回はこれくらいにしておこうと思うが、このような、必ず起きてくると考えられ、そして、社会の安定にとっても問題となる可能性のある要素について今後ともできる限り見つけていく努力は続けていこうと思う。


だが、強調しておきたいのだが、現状の社会の枠組みを絶対視して、技術の成果をすべて否定してしまうようなことでは話にならないし、そんな想定は無意味だろう。問題を見つけることで、社会や組織の方を(コアにある価値を保持しつつ)変化させていくこと、そしてそのためにどう変化させるのが良いのか検討することが何より求められる。


ところが、昨今の日本を見ていると、現状の仕組みに変更を迫るもの全てが悪と考えているとしか思えない事例が多すぎる。そういう意味では企業がすぐに口にする、『安全・安心』というスローガンなども要注意だ。変えないことが安全であり、安心できると考えているとしか思えないことが本当に多い。変わることこそ安全で安心と、覚悟を決める必要がある。


社会の中間集団を潰してしまうことは技術進化にとっても喜ばしいことではない、というのは、昨今の世界情勢( 英国のEU離脱決議、トランプ大統領登場等)が示しているが、技術やグローバリズム、そして、イノベーションのための変化をすべて嫌悪するのは、明らかにバランスを失している。もともと技術進化と社会の摩擦は今後非常に激烈になることは予想されていたわけだが、その問題を世界に先んじて乗り越えて行くかに見えた米国の転回とも見える今の状況は、あらためてこの問題が深刻であることを世界に印象付けることになった。もしかすると、日本でも、変化を嫌う既得権益者の一部を喜ばせたかもしれない。だが、技術の競争は世界的に行われており、どこかがスピードが緩んでもその隙をついてどこかがスピードアップするだろう。日本でも、問題があるからやめるのではなく、問題があるからこそそれを良く知って乗り越える方法を考える、という方向に持って行く必要があると思う。

*1:

限界費用ゼロ社会―<モノのインターネット>と共有型経済の台頭

限界費用ゼロ社会―<モノのインターネット>と共有型経済の台頭

トランプ大統領登場以降に何が変わるのか・変えるべきなのか


◾️ 分水嶺


先日、ブログの原稿を準備して投稿しようとしていて、絶句してしまった。ちょうど米国の大統領選の経過を見ていたら、見る見るトランプ候補の得票が増えて、次期大統領に確定してしまったではないか! 自分自身、いわゆる『トランプ現象』は決して一時的なものではなく、米国の根の深い構造問題が背景にあるとして、そのことをブログ記事にして書いたくらいなので、それほど驚くほどのことはないところなのだが、やはりそれでも、『ギリギリだが落選した』のと『ギリギリだが当選した』のとでは天と地ほどの違いがある。トランプ氏が落選していても、米国の構造問題は非常に深刻で、民主党クリントン氏)の政権運営は厳しいことが予想されはしたが、それでも、原則としてオバマ政権の政策はほぼ継承され、今後の政策もある程度想定の範囲内に収まることが予想できた。ところが、こうなってみると、選挙期間中からずっと非現実的と揶揄され続けたトランプ氏の公約がどうあれ現実の政策として出てくる(と考えられる)。実際には、現実との折り合いをつけていかざるを得ないとは思われるが、それにしても、米国政治の変貌は計り知れない。準備した原稿は、完全に陳腐化してしまった。


これ以降は世界を従来の延長で語ることはできなくなってしまった。9.11が米国の国柄を一変させたように、また、東日本大震災が日本の言論の色彩を決定的に変えてしまったように、これ以降何を語るのであれ、従前の自分を一旦棚卸ししてからでなければ、何も語ることなどできない。


米国の様子や、トランプ氏の人となり、あるいは、クリントン氏の敗北の真相等については、米国事情に通じた現地のビジネスマンや学者のようには滔々と語ることなどできはしないが、それでも、自分のビジネスキャリアにおいて、長く様々な観点で米国事情や日本と米国との関係等について模索せざるをえなかった事情もあり、多少なりとも自分なりに語れることはあるつもりなので、これまでの経験や蓄積を総動員して、発信を続けて行こうと思う。



◾️ 今後のグローバリズムの趨勢


自分が比較的長期間に渡って関心を持ってきたテーマで言えば、レーガン元大統領以降推進されてきた、米国主導のグローバリズムの今後の趨勢については、再度徹底的に考え直してみる必要がある。もちろんこれは言うまでもなく、今世界中が固唾を飲んで見守っている論点と言っていいわけだが、何よりまずクリントン氏優位を喧伝し続けた米国のマスメディアや政治エリート(インサイダー)の情報や見解をゼロベースで見直す必要がある。私自身、いつの間にか自分に忍び込んだ情報が自分の中で妙な先入観を形成していて、突然それに気づいて驚いてしまうことも多い。例えば、今は誰もが時代の『分水嶺』を異口同音に口にするわけだが、その意味するところは決して同じではない。


手元にある情報の中で、ちょうど政治学者のフランシス・フクヤマ氏の『分水嶺』に言及するファイナンシャル・タイムズ紙への寄稿がある。おおよそ、次のような内容だ。

・トランプの勝利は、米国政治の分水嶺というだけでなく、世界秩序全体に対する分水嶺となる。


・世界はあらたなポピュリズムナショナリズムの時代に突入した


・1950年代から構築されてきた自由主義的な秩序が憤怒の大衆に攻撃を受けている。


・世界はナショナリズム競争のリスクに陥る可能性も大きい。


・1989年間のベルリンの壁が崩れた時と同様の重大な時代の転換のシグナルになりうる。


ある意味、これは非常に常識的であり、今後の世界秩序は、『ポピュリズム』と『ナショナリズム』の脅威にさらされ、そのリスクに真剣に向き合う必要があるとの見解には、基本的には私も賛同する。しかしながら、トランプ氏の存在がこの動向を助長した、との内に込められたニュアンスには少々注意が必要だ。というのも、ヒラリー・クリントン氏が大統領になっていたら、『憤怒の大衆』をなだめ、『ポピュリズム』や『ナショナリズム』への傾倒を抑止することができたのかと言えば、おそらくそうではあるまい。そもそもここまで米国の中間層を『憤怒の大衆』へと押しやったのは、米国の富の33%を占める上位1%層であり、グローバリズムをあまりに押し進め過ぎた金融資本であり、クリントン氏はその1%層が最も強力に支援してきた存在だったはずだ。とすれば、クリントン氏が次期大統領になっていれば、『憤怒の大衆』の怒りはさらに増幅され、『ポピュリズム』と『ナショナリズム』を助長するエネルギーははるかに大きくなり、その上で均衡が崩れ、世界はもっと破局的な分水嶺を迎えることになっていたのではないか。



◾️ 長い間指摘されてきた問題


21世紀を迎えたばかりのころ、哲学者のマイケル・ハートアントニオ・ネグリは共著『帝国』*1ですでに次のように述べている。

〈帝国 〉が 、私たちのまさに目の前に 、姿を現わしている 。この数十年のあいだに 、植民地体制が打倒され 、資本主義的な世界市場に対するソヴィエト連邦の障壁がついに崩壊を迎えたすぐのちに 、私たちが目の当たりにしてきたのは 、経済的 ・文化的な交換の 、抗しがたく不可避的なグロ ーバリゼ ーションの動きだった 。市場と生産回路のグロ ーバリゼ ーションに伴い 、グロ ーバルな秩序 、支配の新たな論理と構造 、ひと言でいえば新たな主権の形態が出現しているのだ 。 〈帝国 〉とは 、これらグロ ーバルな交換を有効に調整する政治的主体のことであり 、この世界を統治している主権的権力のことである 。(中略)生産と交換の基本的要素 ——マネ ー 、テクノロジ ー 、ヒト 、モノ ——は 、国境を越えてますます容易に移動するようになっており 、またそのため国民国家は 、それらの流れを規制したり 、経済にその権威を押しつけたりする力を徐々に失ってきているのだ 。


著書では明言されていないが、<帝国>は米国、さらに言えばその核にある金融資本を暗示していたことは明白だ。ただ、指摘は正鵠を得ていたとは言え、具体的な対策となるとこれは大変な難題だった。グローバル資本主義国民国家(およびその中の社会)が対立的になり、後者の疲弊が『憤怒の大衆』を生むとすれば、当然その両者の調整、調和的な折り合い、弁証法的な解(正→反→合)を模索すればよかろうということになるが、どうやらそれは今のところ解のない方程式と言わざるをえないようだ。自分でもこれは散々考えてきたテーマでもあり、安易に解がないとは言いたくはないし、自分なりの案もないわけではないが、いずれにしても、極端に難しい問題になってしまっていることは認めざるをえない。



◾️ 解のない難問


経済学者で 、プリンストン高等研究所の教授であるダニ ・ロドリックは、著書『グロ ーバリゼ ーション ・パラドクス 』*2でこの辺りの悩ましさについて言及している。

国民民主主義とグロ ーバル市場の間の緊張に 、どう折り合いをつけるのか 。われわれは三つの選択肢を持っている 。国際的な取引費用を最小化する代わりに民主主義を制限して 、グロ ーバル経済が時々生み出す経済的 ・社会的な損害には無視を決め込むことができる 。あるいは 、グロ ーバリゼ ーションを制限して 、民主主義的な正統性の確立を願ってもいい 。あるいは 、国家主権を犠牲にしてグロ ーバル民主主義に向かうこともできる 。これらが 、世界経済を再構築するための選択肢だ 。選択肢は 、世界経済の政治的トリレンマの原理を示している 。ハイパ ーグロ ーバリゼ ーション 、民主主義 、そして国民的自己決定の三つを 、同時に満たすことはできない 。三つのうち二つしか実現できないのである 。


ハイパーグローバリゼーションの先頭集団(企業)が国家経済を牽引し、その恩恵はその下の階層にも十分に及ぶとする『トリクルダウン理論』も1980〜90年頃には広く受け入れられていたものだが、その後、現実との乖離を指摘され、今ではほとんど持ち出されることはなくなってしまった。かつての産業資本主義時代には、資本と国家は分かち難く結びついていたが、金融資本主義時代になると、資本も人材も自由に国境を行き来するから、資本の発展の恩恵が必ずしも国家や国民に及ばなくなる。貧富の差も年々拡大し、トリレンマは先鋭化する一方だ。


そのため昨今では、グローバリゼーションの主体(=帝国=金融資本等)と国民国家/社会はどうしても対立的に対峙する傾向があり、中間層没落による社会の崩壊→憤怒の大衆の拡大→テロリズム等の暴発/政権交代や政策変更、という流れが必然になってしまう。イギリスのEU離脱や今回の米国大統領選挙はそれを証明したとも言える。もただし、マクロで見れば、グローバリゼーションの浸透で先進国の中間層は衰退を余儀なくされたものの、アジアやアフリカ等の諸国では、総体的に賃金も上がり生活も向上したことは確かで、その点については、グローバリゼーションのメリットがあることは間違いない。



◾️  宮台真司氏の勇気あるトランプ支持表明


ちょうどこのブログ記事の原稿を書いている最中に、社会学者の宮台真司氏がまさに同じ話題を取り上げた上で、勇気を持って(批判を恐れず)『トランプ支持』を表明している記事を見つけた。宮台氏はグローバリゼーションの恩恵を認めて原則支持するが、スピードが速過ぎて社会を壊してしまうと国家システム全体を破壊して手がつけられなくなる(憤怒の大衆を増やし暴発させる等)ので、ソーシャルキャピタルを破壊しないよう、スピードをあまり上げすぎぬような配慮が必要とする。そして、先に述べたような『トリレンマ』に覚悟を決めて向き合うべきとしている。トランプ時期大統領は少なくとも今の所は『1%層』との関係は薄い。オバマ大統領のように、当初は改革を唱えながら、結局『1%層』の巨額な資金に取り込まれてしまう可能性を否定しえないが、少なくとも当面はトランプ大統領誕生という劇薬が、それを見直す契機となることは確かで、このままクリントン氏が大統領になってもいずれ歴史は大きく旋回せざるをえないから、それよりは早く歴史が動きだす可能性を良しとするという意味で、宮台氏はトランプ支持を標榜していると言う。枝葉の議論はともかく、この主張の趣旨には私も同意する。(トランプ支持とまで言い切る勇気はないが・・)
僕、宮台真司がトランプ大統領の誕生を待ち望んでいた理由


ただ、問題は、そのスピードを抑止することが可能かどうか、誰がどのように、どのレベルまで抑止するかにある。今回のアンチ『1%層』の動向には、巨額の献金やロビーイングを通じた、米国の政治支配があまりに目に余り、政府が国民と乖離してしまっており、加えて米国の外交も歪めているという問題があるから、まずはこの点を正常化することが喫緊の課題であり、トランプ次期大統領を支持する米国民の願いもそこにあるはずだ。そして、それが実現できればかなりの程度、国民の生活も改善するに違いないという思いがある。だから今は絶対値としてのスピードが議論になる場面は(そもそも難しい議論ということもあり)あまり見たことがない。



◾️  技術進化という大きな分水嶺に向けて


しかしながら、それはそれとして、勃興しつつある先端技術(人工知能等)は、今よりはるかに速い、想像を絶するスピードで、既存の市場参加者を追い落とし、社会を崩壊させてしまう恐れをはらんでいる。しかも、その主体は、巨大資本に限らない。タクシー配車ビジネスで巨大な成功モデルとなったUberの例に見るように、今後は少人数のベンチャー企業が続々と同様の成功を実現していくだろう。市場全体で見ると、少しでも不能率な部分にはすぐにベンチャー企業が押し寄せて、全てをデジタル化し、世界は人間のペースではなく、デジタルエコノミーのペースに巻き込まれていくだろう。何もしないでいると、それこそ大量の『憤怒の大衆』を生むことになりかねないし、今度はウオールストリートのような具体的な仮想敵は設定しにくくなっていく。今回の分水嶺のすぐ後に、また超巨大な分水嶺が待っていることを忘れるわけにはいかない。それを含めて、そこで生きる人の幸福や満足度を第一にする世界をどのように構築していくべきなのか、あらためて考え始める出発点としたいのもだ。

*1:

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

*2:

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

技術が示す未来だけでは生の欠落を埋めることはできない


先日(10/19)、WIRED JAPANが企画したコンファランス『FUTURE DAYS』に参加した。
10/19(水)開催! WIRED CONFERENCE 2016「FUTURE DAYS:未来は『オルタナティヴ』でなければならない」|WIRED.jp


このコンファランスは、『テクノロジーの進化によって近未来の社会の様相が劇的に変化する』という環境認識を共通のベースとしながらも、そのテクノロジーの進化が指し示す未来像に満足しきれず、オルタナティヴ(代案)を渇望している編集者の飢餓感が伝わってくるようなテーマが設定されているとの印象があり、その意味で非常に興味深く感じたので、早々と参加を決めてこの日を心待ちにしていた。


『INTRODUCTION』には次のようにある。

未来は「オルタナティヴ」でなければならない

「未来に価値があるのは、それがいまと違っているからだ」。あるヴェンチャーキャピタリストは、かつてそう語った。「未来を想う」ということは、つまり、いまとは異なった社会・世界を想うことだ。やれIoTだ、人工知能だ、ブロックチェーンだ、とテクノロジーがもたらす未来の話は賑やかだ。けれども、それらの議論では多くの場合、代わり映えのしない社会・世界がちょっとばかり「便利」になることしか語られない。そうじゃない。ぼくらは、違った景色を見たいのだ。新しいテクノロジーがもたらす、新しい可能性を語ること。いまとは決定的に異なった「未来の日々=Future Days」を夢見ること。そして、それを信じること。そう、未来は「オルタナティヴ」でなければならないのだ。


では、この開催意図は満たされたのだろうか。



◾️ 齊藤元章氏のお話しの凄まじさ


実際に始まってみると、テクノロジー進化の未来を語るテーマはやはり圧倒的に迫力と説得力があって、しかも、少し前に話を聞いたことがある人のお話でも、わずかの間に長足の進歩を遂げていることに驚いてしまう。まさに『男子三日会わざれば刮目してみよ』(出展は『三国志演義』)を地で行っている。


中でも、スーパーコンピュータのベンチャー企業、(株)PEZY Computingを率いる、齊藤元章氏のお話しは聞くたびに凄みを増していく感じだ。この人は、一番荒唐無稽に思える未来を語っているはずなのに、最も説得力を感じるという稀有な存在だ。極端に言えば、齊藤氏のお話しを聞くことができただけで、このイベントに参加した価値があったと感じた人も多かったのではないかと思う。


例えば、5年以内に完成するという、人間に構築できない次元の理論を多数生むであろう最強の問題解決エンジン(『1000倍高速な人工知能エンジン(仮説の立案)』×『1000倍高速な次世代コンピュータ(仮説の検証)』)のお話しなど、超弩級だ。人類社会の抱える、現状では解決不能な問題が次々と解決されていくという未来のビジョンがただの夢想ではなく、すでに具体的な実行計画となっていることがわかる。


かたや、現在の日本の最強のスーパーコンピュータである『京』のレベルのコンピュータが現在のコピー機程度の大きさとなって普及するというお話しなども、本当に実現すると上記の高度な問題解決エンジンを個々の企業単位で比較的安価に所有/利用することができるようになることを意味し、そうなれば企業の活動もその形態もドラスティックに変貌せざるをえないだろう。それどころか、近未来が齊藤氏の描くビジョン通りになるとすると、企業も競争も消失してしまいかねない。昨年末、雑誌WIREDによるインタビューで、齊藤氏は次のように語っていた。

まず最初に、エネルギーに関する問題が解決されるでしょう。スーパーコンピュータの圧倒的な計算能力によって熱核融合や人工光合成が実現し、世界は新しいエネルギーに満ち溢れます。そして、より高度な遺伝子組み換え技術と人類すべての食料を補って余りある生産技術が確立し、食料問題が解決します。労働は超高能率のロボットで代替され、最終的には衣食住のすべてがフリーになります。

それによって現在のような消費のシステムもなくなり、人は生きるために働く必要のない『不労』の社会を手に入れます。やがて人体のメカニズムが確信的に解明されることで、人類すべては『不老』をも手にすることになるでしょう。

雑誌『WIRED』VOL.20より


今回のプレゼンテーションは、この夢のような未来に向けてますます技術進歩の加速度が上がっていること、皆が思うよりずっと早い段階でこの未来が訪れることを強く印象付けるものになっている。


現在の人類の抱えるあらゆる問題が解決されるとすれば、これ以上何を望むことがあろうか。後は、齊藤氏のビジョンが少しでも早くやってくることを待つだけで、The End。もうこんなコンファランスも不要。お釈迦様が出家するきっかけとなった、『四門出遊』の説話で説かれる、人類すべてが避けることのできない苦しみである『老・病・死』の三苦からも、生きるための最大の労苦である労働からも解放されるとすると、もうごちゃごちゃと小難しいことを考える必要もない。特に、社会科学系の文物などこれで決定的に不要になる。宗教だってもう不要だろう・・・そんなふうに結論づける人も多いのではないか。


コンファランスのINTRODUCTIONの一節を思い出して欲しい。『やれIoTだ、人工知能だ、ブロックチェーンだ、とテクノロジーがもたらす未来の話は賑やかだ。けれどもそれらの議論では多くの場合、代わり映えのしない社会・世界がちょっとばかり「便利」になることしか語られない。そうじゃない。ぼくらは、違った景色を見たいのだ。新しいテクノロジーがもたらす、新しい可能性を語ること。いまとは決定的に違った「未来の日々=Future Days」を夢見ること。』


ちょっとばかり『便利』どころか、『人類すべての苦しみ』が払拭されると言われているのだ。これが『違った景色』であり、『新しい可能性』であり、『決定的に違った未来の日々』でなくて何だろう。



◾️ 超弩級の大波にも流されない能楽師のお話し


では、他の講演者のお話しは齊藤氏のいう『プレ・シンギュラリティ』*1という大波が来る前の小波程度の賑やかしで、遠からずすべて押し流されて無意味になってしまうのだろうか。確かに興味深い講話はたくさんあったが、それでも齊藤氏の超弩級の前には、霞んでしまうようなお話も少なくなかった。しかしながら、あくまで私の見立てだが、超弩級の大波が来ても流されることも揺らぐこともないお話しを語った人が一人いた。能楽師の安田登氏である。


安田氏はテクノロジーを語ったわけではない。彼が語ったのは、650年以上の歴史を持つ日本の古典芸能である『能』の世界、およびそれを産んだ古い日本人の人間観、自然観である。驚くべきことに、それは西洋近代の常識の枠組みを大きく超えている。


例えば、齊藤氏が『老』をネガティブなものとして、テクノロジーにより克服できることを嬉々として語る一方で、『能』は、『老』なくしては成らず、『老』を尊ぶという。また『能』で使用される楽器(笛)である、能管(のうかん)は、見た所ただの横笛だが、中に『のど』という厚さ2mmほどの竹管が挿入されていて、これが狭隘部となり、共鳴の成立が妨げられ、西洋音楽の音階をたどることは至難の技で、独特の音階を持つというが、これも年を経て『老』に至って初めて妙味のある音を出すことができるようになるのだという。


さらには、人間と人間と、人間と動物、人間と自然の境界は曖昧となり、どこからが自分かどこからが相手かわからなくなる。外と内、現界と異界の境目も曖昧で、はっきりした境界もなく混ざり合い、時間も過去から未来に直線的に流れているわけではなく、過去・現在・未来を自由に行き来する。これに一番近いのは夢の中ということになろうが、まさに夢と現が混ざり合う世界といえる。もちろんこれは安田氏自身の夢や妄想ではなく、650年以上続く日本の古典芸能の世界の話しであり、古来日本人はそのような世界に入って深い感動を味わい、生の意味を感じ、安心立命を得てきた。



◾️  実証科学の問題点


哲学者のフッサールは、近代科学が、実証主義に偏して客観性を求めるあまり、没価値的になり、世界を直接に経験している主体の場所を排除し、人間にとっての自由や自立、生死の問題などの根源的なことがらの問いに答えることができなくなってしまっていることを批判した。そして、科学的な知識が,人間の生の意義と有機的に結びついていないという事実を指摘した。フッサールの問題意識は今に至るも解消されていないどころか、科学的な知識と人間の生の意義の乖離は、むしろその巾が広がってしまっているように思える。


『科学的』であることを目指した経済学も、市場には本来、贈与やシェアのような、価値や意味が豊穣な取引が盛んに行われる場であったはずなのに、貨幣交換という量的で計算可能な概念だけを残して後はすべて捨象してしまった結果、量的にはとんでもなく拡大したが、逆に排除してしまった意味や価値から今、非常に大きな逆襲を受けているとも言える。グローバリズムやテロの問題などもその象徴と考えるべきだろう。



◾️ オルタナティヴが必須であること


プレ・シンギュラリティを主張する齊藤氏の未来像は確かに素晴らしい。だが、人間の生の価値、死の意味、自然と人間のあるべき関係等は何も語られていない(だからといって齊藤氏を批判しているのではない)。これほど究極の科学技術の未来像を見せつけられれば見せつけられるほど、そこに大きな欠落があることを感じずにはいられない。なんだか心から喜ぶ気になれない。何かが欠落しているとの違和感が払拭できない。ところが、古典芸能の世界の話を聞くと、経済的な利便性や利得といった価値があまりに世界を覆い尽くしてしまった結果、見失ってしまった価値や意味が今も厳然と存在し、しかも、それが非常に大きな可能性を秘めていることを教えられる。これこそ、本当の『オルタナティヴ』というべきだろう。少なくとも私は今回のイベントで、そのきっかけを掴むことができたと感じている。


科学技術の進化は止まらないし、無闇に止めるべきでもない(もちろん、中には止めるべきものもある)。だが、そうであれば余計、生のバランスを取るために(プレ・シンギュラリテシを目前にしているからこそ)、『オルタナティヴ』を真剣に探求しておく必要があることは私もあらためて強調しておきたい。

あらためて痛感する日本企業の重い課題

CEATEC JAPAN 2016


先日、アジア最大級の最先端IT・エレクトロニクス総合展 とされる『CEATEC JAPAN 2016』*1に出かけた。この10年くらい毎年欠かさずこのイベントには参加してきたが、この間、日本のIT・エレクトロニクス業界は戦後最大級の激動期にあり、そして、それはこのイベントに写し鏡のように反映されてきた。だからイベントの年々の推移をたどるだけでこの業界がどのような変遷をたどったのか、概観できる。


そういう意味では、本年は非常に大きな転換点だった。本来、テレビ等の電化製品のコンセプトモデルの見本市であったCEATECも、日本の電気業界の不況の波をまともに被り、2013年には、日立、2014年にはソニー、2015年には東芝と業界の大手企業が次々に出展を見送り、参加者も大幅な減少を余儀なくされ、存在意義自体が問われることになった。これを受けて、2016年は「CEATEC JAPAN -CPS/IoT EXHIVITION-」と題して展示のテーマをサイバーフィジカルシステム(CPS)とモノのインターネット(IoT)に絞り込んで開催された。


以下に、CEATECのホームページより、開催趣旨に相当する部分を参考に引用しておく。

CPS/IoT Exhibition として

“モノ” の本質が変化し始めているいま、接続機能や処理能力を兼ね備えた“ モノ”のネットワーク「Internet of Things (IoT)」が生まれ、新たな価値を生み出そうとしています。

IoT により、多様なデータ・情報が集まり、分析結果が現実世界にフィードバックされるサイバーフィジカルシステム(CPS)の概念を基盤とし、CPS/IoTは、あらゆる産業において、新たな価値創造を通じて、従来の産業構造とビジネスモデルに大きな変革をもたらし、社会自体も変化しようとしています。

このような背景のもと、CEATEC JAPAN では、企業や人の共創を鼓舞し、未来の道標として

「つながる社会、共創する未来」をテーマに開催いたします。

CEATEC JAPAN 2017 ( シーテック ジャパン 出展募集 公式サイト )

サイバーフィジカルシステム


サイバーフィジカルシステム(CPS)とは、『現実世界の制御対象の様々な状態を数値化し、定量的に分析することで、従来経験と勘でしかわからなかった知見を引き出す仕組み』とされているが、人工知能(AI)、IoT、クラウド、ロボット、自動運転車等個々の技術が統合して社会全体を変貌させていくイメージを語るという点では、今起きていることの全体像を表す便利な用語でありコンセプトだと思う。ただ、この用語はこれまで思ったほど流通して来ていないとの印象がある。だが、あらためて今回のCEATECでの展示やコンファランス等に参加してみると、このコンセプトが指し示す未来像がいよいよ現実のものとなろうとしていることがひしひしと感じられる。個別の技術はそれぞれに進化し、あるいは場合によっては思ったほど進化しなかったり、普及し過ぎて『コモディティ』となっていくことさえあるかもしれないが、全体としてのCPSの方は、そのような要素技術を取り込んだり捨てたりしながら、それ自体進化し、社会を隅々まで覆い、劇的に変えていくだろう。


イベントではやや別扱いされていた印象のあるフィンテック関連技術(特にブロックチェーン)等も当然、広義のCPSを支える要素・部品であり重要なインフラとなっていくことは確実で、個別の企業の立場では、この巨大な流れと未来像を出来る限り正確に予想して、自分たちがそこにどのように関わっていけるのか、真剣に考え議論すべき時が来ている。


それぞれの要素技術、特に昨今非常に話題になるAIなど、最先端の技術進化に日本企業なり、日本の研究者が置いていかれるとの不安がささやかれるところだが、少なくとも現段階では、各企業が自分なりの役割を見出して、それなりの成果を出していくことが見込まれており、幸いなことに、比較的参加のハードルは低く間口が広いように見える。以前、日本のAI研究の顔とも言える東京大学の松尾豊准教授の、『日本にはAI関連のエンジニアの人材層は厚く、特に、機械学習というのは、AIエンジニアによる比較的地味で長時間の作業が必要な領域なので、日本企業にも十分勝機がある』というお話を聞いたことがあるが、今回のCEATEC参加企業のお話を聞いたり展示を見ていると、確かにそのような光景が現実に展開しているのを目の当たりにしているように思えてくる。


但し、おそらく本当の問題は、CPSの進化がもたらす変化、すなわち、ビジネスの競争環境や、市場やユーザーの嗜好、さらには社会の変化がどのようなものになっていくのか、という洞察力の有無だろう。その点で言えば、まだ明確なビジョンを持って備えている企業は少なそうに見える。では、どのような『備え』が必要なのか。その前提として、どのような将来像がここから見えてくるのか。



(1)プラットフォーマー


一つには、これから様々なプラットフォーム統一を目指して企業が競い、最終的には、幾つかの巨大なプラットフォーマーが寡占するようになると考えられることだ。現実世界のすべてをサイバー空間に置き換えようというCPSという企ては、インターネットの歴史で起きてきたことが大掛かりに再現されることを予感させる。実際、すでにそれを見越した企業の競争が起きてきている(ドイツのインダストリー4.0、GE等を中心としたインダストリアル・インターネット等)。遠からず勝ち組みと負け組がはっきりしてしまうことは避けられないが、勝ち組になれなかったとしても、自らのポジショニングの仕方によっては、それなりの生き残り策はあるし、それどころか勝ち組のプラットフォームを最大限利用することで、爆発的な成長が可能な道もある(Uber等の、創造的破壊企業の例)。そのことを見越した、企業の戦略の巧緻が決定的な差を生むと考えられる。



(2)質の高い大量の情報の確保


次に、この仕組みの根幹にあるのは、ビッグデータ+AIであり、どのように応用しようと、競争力の源泉は『質の高い大量の情報』であることだ。だから、この『質の高い情報』をどのように、コンスタントに収集し続けることができるか、そのような仕組みでをどのように構築するのかが、勝敗を決する重要な要因になる。現状ではどちらかと言うとデータ利用にあたってのプライバシーの侵害や個人情報保護法抵触の懸念ばかりではなく、法律問題にはならずとも最近では世間から糾弾されることもあるので、各企業がデータ利用を躊躇し、萎縮する傾向が見られ、この問題にばかり焦点が集中するきらいがあるが(これには何らかの策(関連省庁によるガイドライン等)で早急に解決が必要であることは言うまでもないが)、その問題が解決されたとしても、日本企業の場合、今に至るも、自前主義、あるいは、系列内取引の発想が抜けきらないところが多いから、それが大きな競争制約要因になりかねない。できるだけ早い段階で、対処策を決めておくことが、その後の競合力維持には不可欠と心得ておく必要がある。その点では、多くの米国企業は、外部経済との関係づくりが巧みで、データ共用の仕組みづくりにも長けていて、事の初めから現代の競争に向いた構造にあると言える。



(3)トップレベルの技術者の確保


三つ目は、トップレベルの技術者の確保の問題だ。確かに必ずしも、トップ・オブ・ザ・トップの技術者がいなくても、(少なくとも当面は)ある程度高いレベルのエンジニアの数が揃えば市場に参入して競争することは可能だろう。だが、それでも、この市場では圧倒的な技術力が地道な努力のすべてをひっくり返してしまうことも珍しくない。


例えば、交通インフラの部品として確実にCPSの貴重な一部となってくることが見込まれている自動車関連だが、特に自動運転車の動向を見ていると、高レベルの技術者の存在がいかに競合上決定的な役割を担っているかを思い知らされる。一例をあげれば、単眼カメラで昼夜問わず車両を検知するシステムの開発を進めるモービルアイ社*2など、人工視覚イメージ処理技術等の高い技術力に定評があるが、いつの間にか従来のレーダー方式・ステレオカメラ方式が一般的であった業界の常識を一掃してしまった。そして、自動車会社を顧客として部品を売る立場ながら、すでに主客は逆転しているように見える。


トップレベルの技術者は一見高額なサラリーで釣れそうに思われがちだが、企業の文化や、仕事の裁量、優秀な同僚等、実際にはそれ以外の動機に魅かれるケースが多い。この辺りも、従来の日本企業の苦手分野といえる。組織だけではなく、組織文化まで含めて改革が必要となるように思われる。



(4)エコシステム化への対応


四つ目は、プラットフォーム化の必然とも言える、エコシステム化の問題だ。プラットフォーム化とエコシステムの発生は、目に見える形で表面化し始めたのはマイクロソフトのウインドウズの普及とその上で動くアプリ制作者との関係からと言われるが、一企業の所有物として始まるプラットフォームも、時間と共にそれをベースとして多くのプラグインサードパーティの製品やサービスが生まれ、それが相互依存するようになり、いわゆるエコシステムが生まれる。そして次第に、プラットフォームの成功は、エコシステムの繁栄に依存するようになる。そこではシェアがデフォルトになり、より多くのものが共有化され、所有より利用/アクセスへシフトが進むことになる。ここでの重要成功要因は、従来の現実世界における市場とはかなり様相を異にする。やはり多くの日本の企業組織もマインドもそのような環境に対応するようにはできておらず、転換に相当手こずることになるのではないか。



(5)限界費用ゼロ社会


最後に、CPSの高度化の暁に訪れることが予想されている、『限界費用ゼロ社会』*3についての考察だ。これは、文明批評家のジェレミー・リフキンが著書『限界費用ゼロ社会』で述べた近未来社会の様相だが、まさに、CPS(著書ではIoTが主役として語られている)はコミュニケーション、エネルギー、輸送の〈インテリジェント・インフラ〉を形成し、効率性や生産性を極限まで高める。それによりモノやサービスを1つ追加で生み出すコスト(限界費用)は限りなくゼロに近づき、将来モノやサービスは無料になり、企業の利益は消失して、資本主義は崩壊するというシナリオだ。何をばかな、と今だに反発する人も少なくないのだが、CPSはまさに、社会のあらゆる部分の効率性や生産性を参加企業が切磋琢磨して争うフィールドとして想定されており、それはすでに現実に動き始めている。その競争の結果、皮肉なことに、資本蓄積の原資となるはずの費用が激減していくことは、ここまでくると十分に想像の範囲内といえる。リフキンが指摘するように『シェア』の割合が増えることも確実と言っていいと思う。


個別企業が自らの利益を求めて良かれと思って競争する結果、その環境/市場そのものが変化して、場合によっては自らの首を絞めかねない状況を何と表現すればいいのだろうか。合成の誤謬(ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロでは必ずしも意図しない結果が起きること)とでも言うべきなのだろうか。エネルギー効率が極端に良くなることが前提なら、原子力化石燃料による大規模な発電システム関連産業は、大幅な縮小を余儀なくされるだろう。自動車もシェアが進み、既存の自動車生産/販売は激減することは避けられない。これによる社会的厚生の向上は見込めるとはいえ、個別企業の立場になれば、生き残りたければ自分たち自身もこの変化に則して変わっていくしかない。そのような想像力をどうやって磨いていくべきなのかが問われている



中長期のイメージを持つことは不可欠


今回のCEATECでもそうだが、政府系のプロジェクトに関わる報告書等を読んでいても、CPSによる社会変革の入り口部分については、盛んに語られるようになってきたため、かなり具体的なイメージを持てるようになってきた。だが、本当に問題なのは、その影響で変貌するであろう、市場であり、社会であり、顧客であり、ビジネスモデルのほうだ。スピードが益々上がってきている現代では、先のことなどわからないと開き直っているわけにもいかない。短期の競争イメージと同時に中期的な市場の変貌、後期の市場の大変貌を共にイメージできているようでなければ生き残れない。ただ、私自身も、このところ、このイメージをシャープにしていくことに全力をあげて取り組んでいるが、結構厄介な課題であることを痛感せざるをえない。まあ、愚痴を言っている場合ではないので、また決意もあらたに頑張ろうと思う。

破壊願望しか見えてこない米国を憂う

 ヒラリーの勝利?


米国の大統領選挙がいよいよ佳境に入ってきた。9月27日(日本時間)には民主党候補ヒラリー・クリントンと共和党の候補に上り詰めたトランプの第一回目の公開テレビ討論会が行われた。当初から泡沫候補と叩かれ続け、同じ共和党の長老からさえ敬遠されながらここまで来たトランプだが、さすがにこれ以上は無理だろうという『常識』の声は今に至っても消えることはなく、今回の討論会でも、一般のメディアではヒラリー勝利を伝える報道が多かった。私も文章になった二人の具体的な発言を読みながら、これはどうみてもヒラリーの勝ちと言わざるをえないと思った。論理が首尾一貫していて、常識的で(非常識ではなく)批判を許す隙は少なく、非を認める潔さもあり、ディベートとして見れば、どうみてもヒラリー勝利としか言いようがない。
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2016092701001219.html



 トランプが勝っていた!


だが、本当にそうなのだろうか。もともと論理が首尾一貫せず、非常識で、潔さを微塵も感じることができないトランプなのに、それでもここまで来たのではなかったか。そのように考えていると、案の定、トランプ優勢と感じた人たちが多く、全体としてもトランプが勝っていたという意見が多いのに、メジャーメディアの光彩に隠れてしまっていて、真実が伝わっていないという意見が沢山出てきた。


どうしてそんなことになってしまうのか。この点については、ニュース番組制作者の渡辺龍太氏のブログ記事での主張が当を得ているように思える。

このように、アメリカの田舎には、真面目に勉強や仕事を頑張って生きてきたのに、年々貧しくなっていき、もう医療保険・大学の授業料のための借金・家賃・車代を捻出するのがギリギリになっている人たちがいるのです。そういった人々が求めるリーダーを想像してみてください。今ままの状態が続く事は座して死を待つようなものなので、何であれ、現状を必ず変えてくれる可能性の高い人物を求めるのは当然です。(中略)

討論の準備をしっかりするというのは、『失言をしない』『何を聞かれても笑顔を絶やさない』という事が最重要課題であるというような、ヒラリーが元オバマ政権の国務長官だった事を改めて思い出させる、現状が変化しない事への約束の様な発言に受け取れるからです。

討論でクリントン圧勝と言うメディアは想像力が無い – アゴラ


8年前はオバマ元大統領の『CHANGE』を信じて投票したが、その期待は裏切られたと感じている人が多いという。実際、米国実勢調査局のデータによると、国民の家系水準は過去15年間停滞しており、家計所得の中央値は下がり続けている。

Income


だが、問題は経済政策における失政というだけに留まらないようだ。次のBBC記事を読むと、経済や雇用や移民等の個別の問題より政府そのものが最大の問題と多くの米国人は考えていて、政府に対する不満が民主党支持者、共和党支持者ともに爆発寸前にあることがわかる。

ピュー研究所によると、政府を信用するかどうか尋ねられると、共和党支持者の89%と民主党支持者の72%が「たまにしか」もしくは「絶対に信用しない」と答えるという。ギャラップ社調査によると、10人に6人のアメリカ人が、政府は権力を持ちすぎていると感じている。さらにアメリカ最大の問題は何かという調査では、2年連続して、経済や雇用や移民よりも政府が最大の問題だという結果になった。

連邦議会は膠着しているし、有権者に選ばれた政府関係者は無能に思える――。このように感じて不満を抱く有権者は20〜30%に上ると、アメリカン・エンタープライズ研究所の世論調査専門家、カーリン・ボウマン氏は言う。

「政治家は争うばかりで何も成果を出さないと、多くの人の目にはそう映っている。加えて、連邦議会の業務内容は1970年代から格段に増えているため、批判すべき内容が単純に増えているとも言える。国民は昔よりも政府を遠くに感じ、政府を疎ましく思うようになっている」

【米大統領選2016】なぜアメリカ人はそんなに怒っているのか - BBCニュース


渡辺氏は、『失言の有無』とか『礼儀正しい』とか『庶民的かどうか』という事が、現状の暮らしを変えられるかに関係が無いとオバマ大統領から学んだ人は、劇薬でも良いので、とにかく『本当に現状を変えられる可能性の高い人』がリーダーになるべきだ、と米国人が考えるのは論理的だと述べる。


これが背景にあるとすると、確かに、討論会のやりとりが全く違って見えてくる。ヒラリーはまさに米国民が感じている疎ましい政府の代表に見えていて、トランプはそれを破壊しようとしているゆえに支持が高まるという構図が読み取れる。要は、ヒラリーのような現状肯定、旧来の常識の尊重では、何も変わらず、変わらないということは自分たちの生活は将来に渡って絶望的と感じる一人が今の米国にはものすごく多いということだ。


 シリコンバレーはどうなっているのか


ただ、確かにいわゆる『プアー・ホワイト』等の低所得者層はそのように感じていることは理解できるが、富裕層はどうなのか。特に先進技術で世界中に非常に大きな影響力を振るっているシリコンバレーで活動するエンジニア、ビジネスマン、投資家等はどのような立場なのか。


どうやらさすがにトランプ支持者は少なさそうに見える。7月14日、シリコンヴァレーの起業家/経営者/エンジニアら145名は連名で「トランプはイノヴェイションを破壊する」と訴えるオープンレターをウェブに公開した。この中には、Apple創業者の一人であるスティーブ・ウォズニアックTCP/IPプロトコルを開発し「インターネットの父」と呼ばれるヴィント・サーフ、ネット中立性を提唱した法学者のティム・ウー、eBay創業者のピエール・オミダイア、TwitterやMediumの創業者のエヴァン・ウィリアムズ等、錚々たるメンバーが並んでいる。シリコンバレーを代表する投資家であるマーク・アンドリーセンも早い段階からトランプ嫌悪を鮮明にしている一人だ。


だが、驚いたことに、著作『ゼロ・トゥ・ワン』*1で日本でも著名な、起業家にして有力な投資家であるピーター・ティールはトランプ支持を表明している。自らゲイであることをカミングアウトした彼にとっては、そもそもゲイマリッジに反対する共和党は居心地が良いようには思えない(もっとも、最近でトランプは自分は同性愛者の見方と言っているようだが・・)。しかも、シリコンバレーの起業家/投資家にとっては、ビジネス環境に悪影響を及ぼすことしか言わないトランプは、アンドリーセン同様、ティールにとってもありがたい存在とは考え難い。だが、過去の発言から、どうやらティールは現状の民主主義は資本主義と共存できないと本気で信じていて、トランプ大統領を誕生させて、腐った政治体制を壊して、民主主義より資本主義を優先するように変えてしまうことを期待しているのでは、という見方もあるようだ。

Donald Trump, Peter Thiel and the death of democracy | Technology | The Guardian
A Crazy Yet Plausible Theory About Why Peter Thiel Supports Donald Trump | Inc.com


確かに、この記事を精読すると、それもありうべきと思えてくる。とすれば、ティールのトランプ支持の理由は、プアー・ホワイトと同様、現状の政治の破壊者としてトランプに期待していることになる。あらためて、共和党支持者の89%と民主党支持者の72%が、政府について「たまにしか」もしくは「絶対に信用しない」と答えるというピュー研究所の調査が思い出される。おそらく、さすがにトランプは受け入れられないと感じている他のシリコンバレーの起業家/投資家にしたところで、ヒラリーを積極的に支持しているというよりは、トランプよりマシという程度の支持なのだろう。そこに彼らの積極的な政治意識はほとんど感じられない。


社会学者の宮台真司氏などは、シリコンバレーは今やリベラル政党支持ではなく、オルタナ右翼が支配しているとまで言い切る。私はそこまで言うだけの材料が今のところ手元にないが、言われてみれば昨今そのような兆候を随所に見出すことができることは確かだ。このオルタナ右翼=Alternative Rightについては、日本では駿河台大学の専任講師である八田真行氏の記事くらいしかまだまとまった記事がないが、今後、重要な研究対象として注目を浴びていく可能性は大きそうだ。

alt-right(オルタナ右翼)とはようするに何なのか | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト


哲学者のジョセフ・ヒースは著書『啓蒙思想2.0』*2で、米国の保守派は、政治は結局のところ計画や政策ではなく『勘(gut feeling)』と『価値観』だという考えに魅了され、選挙戦は人々の頭ではなく、心に訴えることで決すると考えるようになったという。だから、共和党の候補者が『エネルギー省を閉鎖する』というとき、本気でそうするつもりなどなく、『私は、連邦政府が石油会社を嫌っていると非常に強く感じている。そこを変えたい』ということにすぎず、目的は、自分の考えではなく、感情を伝えることにあるのだという。今まさに我々はこれを体現したトランプと、それを受け入れる米国大衆、という悪夢を見せられている。しかも、米国のクレージーな一局面などではなく、今大きなうねりとなって、米国の政治の頂点、合衆国大統領を生み出そうとしている。



消える希望の火種


しかし、何と恐るべき状況だろう。本当にトランプが大統領になるかもしれない。その結果、破壊に次ぐ破壊が行われたとして、その後に何を創造するのだろうか。どう見ても、今のトランプに『創造』といえる整合性のあるビジョンがあるようには思えない。しかもヒラリーが大統領になったらなったで、これほど充満した怒りと不満のエネルギーは解消されずに溜め込まれるわけだから、それはまた違った意味で非常に恐ろしい。


シリコンバレーのIT起業家は、従来その活動の背景に社会改革の思想の香りがあり、彼らのビジネスの成功は、彼らが考える理想の実現のための手段にすぎないという意志が感じられたものだ。賛否は別として、やや大げさに言えば、米国が世界に誇る希望の光とさえ言えるものだったはずだ。最近で言えば、電気自動車テスラモーターズ社のCEOである、イーロン・マスクあたりまでは、それが感じられた。だが、イーロン・マスクとともにPayPalの共同経営者を務めたピーター・ティールを筆頭に、そのような思想(カリフォルニアン・イデオロギー等)の影響は感じられなくなりつつある。


『カリフォルニアンイデオロギー』とはヒッピーの理想とコンピュータ技術者であるハッカーの理想が交じり合った混合物とされる。ハッカーの理想は、個人の実力の評価という反属性主義、フロンティア志向、資本主義の肯定に連なり、ヒッピーの人間の本来性の尊重という反属性主義に連なる反権威主義、自由の尊重という理想は重なり合っていた。スティーブ・ジョブズなど本人がかつてヒッピーのような放浪を経験したり、禅の修行をしたりしており、ヒッピーの精神性と響きあう個性の持ち主であったこともあり、カリフォルニアン・イデオロギーの体現者と目され、そういう意味でも熱狂的な信者や追随者を生んだ。


シリコンバレーの反権威主義、自由の尊重という理想は今でも変わらないのだろう。だが、かつてのようにヒッピーカルチャーとの混合によって醸成される人間の本来性の尊重というような方向に深まっていくのではなく、単なる個々の欲望の追求の自由、個々の感情の満足追求の自由に堕してきつつあるのかもしれない。 シリコンバレー的なIT起業家が増えれば世界は変わるかもしれない、というような淡い願いは、もはや幻想でしかないのだろか。本当にそうだとすると実に残念なことだし、世界は希望の火種の一つを失いつつあると言える。


このような現状をすべて受け入れた上で、それでもできること、やるべきことは何なのか。 あらためてゼロベースで考え直すべき時がきているのかもしれない。

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ゼロ・トゥ・ワン―君はゼロから何を生み出せるか

ゼロ・トゥ・ワン―君はゼロから何を生み出せるか

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