トランプ大統領登場以降に何が変わるのか・変えるべきなのか


◾️ 分水嶺


先日、ブログの原稿を準備して投稿しようとしていて、絶句してしまった。ちょうど米国の大統領選の経過を見ていたら、見る見るトランプ候補の得票が増えて、次期大統領に確定してしまったではないか! 自分自身、いわゆる『トランプ現象』は決して一時的なものではなく、米国の根の深い構造問題が背景にあるとして、そのことをブログ記事にして書いたくらいなので、それほど驚くほどのことはないところなのだが、やはりそれでも、『ギリギリだが落選した』のと『ギリギリだが当選した』のとでは天と地ほどの違いがある。トランプ氏が落選していても、米国の構造問題は非常に深刻で、民主党クリントン氏)の政権運営は厳しいことが予想されはしたが、それでも、原則としてオバマ政権の政策はほぼ継承され、今後の政策もある程度想定の範囲内に収まることが予想できた。ところが、こうなってみると、選挙期間中からずっと非現実的と揶揄され続けたトランプ氏の公約がどうあれ現実の政策として出てくる(と考えられる)。実際には、現実との折り合いをつけていかざるを得ないとは思われるが、それにしても、米国政治の変貌は計り知れない。準備した原稿は、完全に陳腐化してしまった。


これ以降は世界を従来の延長で語ることはできなくなってしまった。9.11が米国の国柄を一変させたように、また、東日本大震災が日本の言論の色彩を決定的に変えてしまったように、これ以降何を語るのであれ、従前の自分を一旦棚卸ししてからでなければ、何も語ることなどできない。


米国の様子や、トランプ氏の人となり、あるいは、クリントン氏の敗北の真相等については、米国事情に通じた現地のビジネスマンや学者のようには滔々と語ることなどできはしないが、それでも、自分のビジネスキャリアにおいて、長く様々な観点で米国事情や日本と米国との関係等について模索せざるをえなかった事情もあり、多少なりとも自分なりに語れることはあるつもりなので、これまでの経験や蓄積を総動員して、発信を続けて行こうと思う。



◾️ 今後のグローバリズムの趨勢


自分が比較的長期間に渡って関心を持ってきたテーマで言えば、レーガン元大統領以降推進されてきた、米国主導のグローバリズムの今後の趨勢については、再度徹底的に考え直してみる必要がある。もちろんこれは言うまでもなく、今世界中が固唾を飲んで見守っている論点と言っていいわけだが、何よりまずクリントン氏優位を喧伝し続けた米国のマスメディアや政治エリート(インサイダー)の情報や見解をゼロベースで見直す必要がある。私自身、いつの間にか自分に忍び込んだ情報が自分の中で妙な先入観を形成していて、突然それに気づいて驚いてしまうことも多い。例えば、今は誰もが時代の『分水嶺』を異口同音に口にするわけだが、その意味するところは決して同じではない。


手元にある情報の中で、ちょうど政治学者のフランシス・フクヤマ氏の『分水嶺』に言及するファイナンシャル・タイムズ紙への寄稿がある。おおよそ、次のような内容だ。

・トランプの勝利は、米国政治の分水嶺というだけでなく、世界秩序全体に対する分水嶺となる。


・世界はあらたなポピュリズムナショナリズムの時代に突入した


・1950年代から構築されてきた自由主義的な秩序が憤怒の大衆に攻撃を受けている。


・世界はナショナリズム競争のリスクに陥る可能性も大きい。


・1989年間のベルリンの壁が崩れた時と同様の重大な時代の転換のシグナルになりうる。


ある意味、これは非常に常識的であり、今後の世界秩序は、『ポピュリズム』と『ナショナリズム』の脅威にさらされ、そのリスクに真剣に向き合う必要があるとの見解には、基本的には私も賛同する。しかしながら、トランプ氏の存在がこの動向を助長した、との内に込められたニュアンスには少々注意が必要だ。というのも、ヒラリー・クリントン氏が大統領になっていたら、『憤怒の大衆』をなだめ、『ポピュリズム』や『ナショナリズム』への傾倒を抑止することができたのかと言えば、おそらくそうではあるまい。そもそもここまで米国の中間層を『憤怒の大衆』へと押しやったのは、米国の富の33%を占める上位1%層であり、グローバリズムをあまりに押し進め過ぎた金融資本であり、クリントン氏はその1%層が最も強力に支援してきた存在だったはずだ。とすれば、クリントン氏が次期大統領になっていれば、『憤怒の大衆』の怒りはさらに増幅され、『ポピュリズム』と『ナショナリズム』を助長するエネルギーははるかに大きくなり、その上で均衡が崩れ、世界はもっと破局的な分水嶺を迎えることになっていたのではないか。



◾️ 長い間指摘されてきた問題


21世紀を迎えたばかりのころ、哲学者のマイケル・ハートアントニオ・ネグリは共著『帝国』*1ですでに次のように述べている。

〈帝国 〉が 、私たちのまさに目の前に 、姿を現わしている 。この数十年のあいだに 、植民地体制が打倒され 、資本主義的な世界市場に対するソヴィエト連邦の障壁がついに崩壊を迎えたすぐのちに 、私たちが目の当たりにしてきたのは 、経済的 ・文化的な交換の 、抗しがたく不可避的なグロ ーバリゼ ーションの動きだった 。市場と生産回路のグロ ーバリゼ ーションに伴い 、グロ ーバルな秩序 、支配の新たな論理と構造 、ひと言でいえば新たな主権の形態が出現しているのだ 。 〈帝国 〉とは 、これらグロ ーバルな交換を有効に調整する政治的主体のことであり 、この世界を統治している主権的権力のことである 。(中略)生産と交換の基本的要素 ——マネ ー 、テクノロジ ー 、ヒト 、モノ ——は 、国境を越えてますます容易に移動するようになっており 、またそのため国民国家は 、それらの流れを規制したり 、経済にその権威を押しつけたりする力を徐々に失ってきているのだ 。


著書では明言されていないが、<帝国>は米国、さらに言えばその核にある金融資本を暗示していたことは明白だ。ただ、指摘は正鵠を得ていたとは言え、具体的な対策となるとこれは大変な難題だった。グローバル資本主義国民国家(およびその中の社会)が対立的になり、後者の疲弊が『憤怒の大衆』を生むとすれば、当然その両者の調整、調和的な折り合い、弁証法的な解(正→反→合)を模索すればよかろうということになるが、どうやらそれは今のところ解のない方程式と言わざるをえないようだ。自分でもこれは散々考えてきたテーマでもあり、安易に解がないとは言いたくはないし、自分なりの案もないわけではないが、いずれにしても、極端に難しい問題になってしまっていることは認めざるをえない。



◾️ 解のない難問


経済学者で 、プリンストン高等研究所の教授であるダニ ・ロドリックは、著書『グロ ーバリゼ ーション ・パラドクス 』*2でこの辺りの悩ましさについて言及している。

国民民主主義とグロ ーバル市場の間の緊張に 、どう折り合いをつけるのか 。われわれは三つの選択肢を持っている 。国際的な取引費用を最小化する代わりに民主主義を制限して 、グロ ーバル経済が時々生み出す経済的 ・社会的な損害には無視を決め込むことができる 。あるいは 、グロ ーバリゼ ーションを制限して 、民主主義的な正統性の確立を願ってもいい 。あるいは 、国家主権を犠牲にしてグロ ーバル民主主義に向かうこともできる 。これらが 、世界経済を再構築するための選択肢だ 。選択肢は 、世界経済の政治的トリレンマの原理を示している 。ハイパ ーグロ ーバリゼ ーション 、民主主義 、そして国民的自己決定の三つを 、同時に満たすことはできない 。三つのうち二つしか実現できないのである 。


ハイパーグローバリゼーションの先頭集団(企業)が国家経済を牽引し、その恩恵はその下の階層にも十分に及ぶとする『トリクルダウン理論』も1980〜90年頃には広く受け入れられていたものだが、その後、現実との乖離を指摘され、今ではほとんど持ち出されることはなくなってしまった。かつての産業資本主義時代には、資本と国家は分かち難く結びついていたが、金融資本主義時代になると、資本も人材も自由に国境を行き来するから、資本の発展の恩恵が必ずしも国家や国民に及ばなくなる。貧富の差も年々拡大し、トリレンマは先鋭化する一方だ。


そのため昨今では、グローバリゼーションの主体(=帝国=金融資本等)と国民国家/社会はどうしても対立的に対峙する傾向があり、中間層没落による社会の崩壊→憤怒の大衆の拡大→テロリズム等の暴発/政権交代や政策変更、という流れが必然になってしまう。イギリスのEU離脱や今回の米国大統領選挙はそれを証明したとも言える。もただし、マクロで見れば、グローバリゼーションの浸透で先進国の中間層は衰退を余儀なくされたものの、アジアやアフリカ等の諸国では、総体的に賃金も上がり生活も向上したことは確かで、その点については、グローバリゼーションのメリットがあることは間違いない。



◾️  宮台真司氏の勇気あるトランプ支持表明


ちょうどこのブログ記事の原稿を書いている最中に、社会学者の宮台真司氏がまさに同じ話題を取り上げた上で、勇気を持って(批判を恐れず)『トランプ支持』を表明している記事を見つけた。宮台氏はグローバリゼーションの恩恵を認めて原則支持するが、スピードが速過ぎて社会を壊してしまうと国家システム全体を破壊して手がつけられなくなる(憤怒の大衆を増やし暴発させる等)ので、ソーシャルキャピタルを破壊しないよう、スピードをあまり上げすぎぬような配慮が必要とする。そして、先に述べたような『トリレンマ』に覚悟を決めて向き合うべきとしている。トランプ時期大統領は少なくとも今の所は『1%層』との関係は薄い。オバマ大統領のように、当初は改革を唱えながら、結局『1%層』の巨額な資金に取り込まれてしまう可能性を否定しえないが、少なくとも当面はトランプ大統領誕生という劇薬が、それを見直す契機となることは確かで、このままクリントン氏が大統領になってもいずれ歴史は大きく旋回せざるをえないから、それよりは早く歴史が動きだす可能性を良しとするという意味で、宮台氏はトランプ支持を標榜していると言う。枝葉の議論はともかく、この主張の趣旨には私も同意する。(トランプ支持とまで言い切る勇気はないが・・)
僕、宮台真司がトランプ大統領の誕生を待ち望んでいた理由


ただ、問題は、そのスピードを抑止することが可能かどうか、誰がどのように、どのレベルまで抑止するかにある。今回のアンチ『1%層』の動向には、巨額の献金やロビーイングを通じた、米国の政治支配があまりに目に余り、政府が国民と乖離してしまっており、加えて米国の外交も歪めているという問題があるから、まずはこの点を正常化することが喫緊の課題であり、トランプ次期大統領を支持する米国民の願いもそこにあるはずだ。そして、それが実現できればかなりの程度、国民の生活も改善するに違いないという思いがある。だから今は絶対値としてのスピードが議論になる場面は(そもそも難しい議論ということもあり)あまり見たことがない。



◾️  技術進化という大きな分水嶺に向けて


しかしながら、それはそれとして、勃興しつつある先端技術(人工知能等)は、今よりはるかに速い、想像を絶するスピードで、既存の市場参加者を追い落とし、社会を崩壊させてしまう恐れをはらんでいる。しかも、その主体は、巨大資本に限らない。タクシー配車ビジネスで巨大な成功モデルとなったUberの例に見るように、今後は少人数のベンチャー企業が続々と同様の成功を実現していくだろう。市場全体で見ると、少しでも不能率な部分にはすぐにベンチャー企業が押し寄せて、全てをデジタル化し、世界は人間のペースではなく、デジタルエコノミーのペースに巻き込まれていくだろう。何もしないでいると、それこそ大量の『憤怒の大衆』を生むことになりかねないし、今度はウオールストリートのような具体的な仮想敵は設定しにくくなっていく。今回の分水嶺のすぐ後に、また超巨大な分水嶺が待っていることを忘れるわけにはいかない。それを含めて、そこで生きる人の幸福や満足度を第一にする世界をどのように構築していくべきなのか、あらためて考え始める出発点としたいのもだ。

*1:

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

*2:

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

技術が示す未来だけでは生の欠落を埋めることはできない


先日(10/19)、WIRED JAPANが企画したコンファランス『FUTURE DAYS』に参加した。
10/19(水)開催! WIRED CONFERENCE 2016「FUTURE DAYS:未来は『オルタナティヴ』でなければならない」|WIRED.jp


このコンファランスは、『テクノロジーの進化によって近未来の社会の様相が劇的に変化する』という環境認識を共通のベースとしながらも、そのテクノロジーの進化が指し示す未来像に満足しきれず、オルタナティヴ(代案)を渇望している編集者の飢餓感が伝わってくるようなテーマが設定されているとの印象があり、その意味で非常に興味深く感じたので、早々と参加を決めてこの日を心待ちにしていた。


『INTRODUCTION』には次のようにある。

未来は「オルタナティヴ」でなければならない

「未来に価値があるのは、それがいまと違っているからだ」。あるヴェンチャーキャピタリストは、かつてそう語った。「未来を想う」ということは、つまり、いまとは異なった社会・世界を想うことだ。やれIoTだ、人工知能だ、ブロックチェーンだ、とテクノロジーがもたらす未来の話は賑やかだ。けれども、それらの議論では多くの場合、代わり映えのしない社会・世界がちょっとばかり「便利」になることしか語られない。そうじゃない。ぼくらは、違った景色を見たいのだ。新しいテクノロジーがもたらす、新しい可能性を語ること。いまとは決定的に異なった「未来の日々=Future Days」を夢見ること。そして、それを信じること。そう、未来は「オルタナティヴ」でなければならないのだ。


では、この開催意図は満たされたのだろうか。



◾️ 齊藤元章氏のお話しの凄まじさ


実際に始まってみると、テクノロジー進化の未来を語るテーマはやはり圧倒的に迫力と説得力があって、しかも、少し前に話を聞いたことがある人のお話でも、わずかの間に長足の進歩を遂げていることに驚いてしまう。まさに『男子三日会わざれば刮目してみよ』(出展は『三国志演義』)を地で行っている。


中でも、スーパーコンピュータのベンチャー企業、(株)PEZY Computingを率いる、齊藤元章氏のお話しは聞くたびに凄みを増していく感じだ。この人は、一番荒唐無稽に思える未来を語っているはずなのに、最も説得力を感じるという稀有な存在だ。極端に言えば、齊藤氏のお話しを聞くことができただけで、このイベントに参加した価値があったと感じた人も多かったのではないかと思う。


例えば、5年以内に完成するという、人間に構築できない次元の理論を多数生むであろう最強の問題解決エンジン(『1000倍高速な人工知能エンジン(仮説の立案)』×『1000倍高速な次世代コンピュータ(仮説の検証)』)のお話しなど、超弩級だ。人類社会の抱える、現状では解決不能な問題が次々と解決されていくという未来のビジョンがただの夢想ではなく、すでに具体的な実行計画となっていることがわかる。


かたや、現在の日本の最強のスーパーコンピュータである『京』のレベルのコンピュータが現在のコピー機程度の大きさとなって普及するというお話しなども、本当に実現すると上記の高度な問題解決エンジンを個々の企業単位で比較的安価に所有/利用することができるようになることを意味し、そうなれば企業の活動もその形態もドラスティックに変貌せざるをえないだろう。それどころか、近未来が齊藤氏の描くビジョン通りになるとすると、企業も競争も消失してしまいかねない。昨年末、雑誌WIREDによるインタビューで、齊藤氏は次のように語っていた。

まず最初に、エネルギーに関する問題が解決されるでしょう。スーパーコンピュータの圧倒的な計算能力によって熱核融合や人工光合成が実現し、世界は新しいエネルギーに満ち溢れます。そして、より高度な遺伝子組み換え技術と人類すべての食料を補って余りある生産技術が確立し、食料問題が解決します。労働は超高能率のロボットで代替され、最終的には衣食住のすべてがフリーになります。

それによって現在のような消費のシステムもなくなり、人は生きるために働く必要のない『不労』の社会を手に入れます。やがて人体のメカニズムが確信的に解明されることで、人類すべては『不老』をも手にすることになるでしょう。

雑誌『WIRED』VOL.20より


今回のプレゼンテーションは、この夢のような未来に向けてますます技術進歩の加速度が上がっていること、皆が思うよりずっと早い段階でこの未来が訪れることを強く印象付けるものになっている。


現在の人類の抱えるあらゆる問題が解決されるとすれば、これ以上何を望むことがあろうか。後は、齊藤氏のビジョンが少しでも早くやってくることを待つだけで、The End。もうこんなコンファランスも不要。お釈迦様が出家するきっかけとなった、『四門出遊』の説話で説かれる、人類すべてが避けることのできない苦しみである『老・病・死』の三苦からも、生きるための最大の労苦である労働からも解放されるとすると、もうごちゃごちゃと小難しいことを考える必要もない。特に、社会科学系の文物などこれで決定的に不要になる。宗教だってもう不要だろう・・・そんなふうに結論づける人も多いのではないか。


コンファランスのINTRODUCTIONの一節を思い出して欲しい。『やれIoTだ、人工知能だ、ブロックチェーンだ、とテクノロジーがもたらす未来の話は賑やかだ。けれどもそれらの議論では多くの場合、代わり映えのしない社会・世界がちょっとばかり「便利」になることしか語られない。そうじゃない。ぼくらは、違った景色を見たいのだ。新しいテクノロジーがもたらす、新しい可能性を語ること。いまとは決定的に違った「未来の日々=Future Days」を夢見ること。』


ちょっとばかり『便利』どころか、『人類すべての苦しみ』が払拭されると言われているのだ。これが『違った景色』であり、『新しい可能性』であり、『決定的に違った未来の日々』でなくて何だろう。



◾️ 超弩級の大波にも流されない能楽師のお話し


では、他の講演者のお話しは齊藤氏のいう『プレ・シンギュラリティ』*1という大波が来る前の小波程度の賑やかしで、遠からずすべて押し流されて無意味になってしまうのだろうか。確かに興味深い講話はたくさんあったが、それでも齊藤氏の超弩級の前には、霞んでしまうようなお話も少なくなかった。しかしながら、あくまで私の見立てだが、超弩級の大波が来ても流されることも揺らぐこともないお話しを語った人が一人いた。能楽師の安田登氏である。


安田氏はテクノロジーを語ったわけではない。彼が語ったのは、650年以上の歴史を持つ日本の古典芸能である『能』の世界、およびそれを産んだ古い日本人の人間観、自然観である。驚くべきことに、それは西洋近代の常識の枠組みを大きく超えている。


例えば、齊藤氏が『老』をネガティブなものとして、テクノロジーにより克服できることを嬉々として語る一方で、『能』は、『老』なくしては成らず、『老』を尊ぶという。また『能』で使用される楽器(笛)である、能管(のうかん)は、見た所ただの横笛だが、中に『のど』という厚さ2mmほどの竹管が挿入されていて、これが狭隘部となり、共鳴の成立が妨げられ、西洋音楽の音階をたどることは至難の技で、独特の音階を持つというが、これも年を経て『老』に至って初めて妙味のある音を出すことができるようになるのだという。


さらには、人間と人間と、人間と動物、人間と自然の境界は曖昧となり、どこからが自分かどこからが相手かわからなくなる。外と内、現界と異界の境目も曖昧で、はっきりした境界もなく混ざり合い、時間も過去から未来に直線的に流れているわけではなく、過去・現在・未来を自由に行き来する。これに一番近いのは夢の中ということになろうが、まさに夢と現が混ざり合う世界といえる。もちろんこれは安田氏自身の夢や妄想ではなく、650年以上続く日本の古典芸能の世界の話しであり、古来日本人はそのような世界に入って深い感動を味わい、生の意味を感じ、安心立命を得てきた。



◾️  実証科学の問題点


哲学者のフッサールは、近代科学が、実証主義に偏して客観性を求めるあまり、没価値的になり、世界を直接に経験している主体の場所を排除し、人間にとっての自由や自立、生死の問題などの根源的なことがらの問いに答えることができなくなってしまっていることを批判した。そして、科学的な知識が,人間の生の意義と有機的に結びついていないという事実を指摘した。フッサールの問題意識は今に至るも解消されていないどころか、科学的な知識と人間の生の意義の乖離は、むしろその巾が広がってしまっているように思える。


『科学的』であることを目指した経済学も、市場には本来、贈与やシェアのような、価値や意味が豊穣な取引が盛んに行われる場であったはずなのに、貨幣交換という量的で計算可能な概念だけを残して後はすべて捨象してしまった結果、量的にはとんでもなく拡大したが、逆に排除してしまった意味や価値から今、非常に大きな逆襲を受けているとも言える。グローバリズムやテロの問題などもその象徴と考えるべきだろう。



◾️ オルタナティヴが必須であること


プレ・シンギュラリティを主張する齊藤氏の未来像は確かに素晴らしい。だが、人間の生の価値、死の意味、自然と人間のあるべき関係等は何も語られていない(だからといって齊藤氏を批判しているのではない)。これほど究極の科学技術の未来像を見せつけられれば見せつけられるほど、そこに大きな欠落があることを感じずにはいられない。なんだか心から喜ぶ気になれない。何かが欠落しているとの違和感が払拭できない。ところが、古典芸能の世界の話を聞くと、経済的な利便性や利得といった価値があまりに世界を覆い尽くしてしまった結果、見失ってしまった価値や意味が今も厳然と存在し、しかも、それが非常に大きな可能性を秘めていることを教えられる。これこそ、本当の『オルタナティヴ』というべきだろう。少なくとも私は今回のイベントで、そのきっかけを掴むことができたと感じている。


科学技術の進化は止まらないし、無闇に止めるべきでもない(もちろん、中には止めるべきものもある)。だが、そうであれば余計、生のバランスを取るために(プレ・シンギュラリテシを目前にしているからこそ)、『オルタナティヴ』を真剣に探求しておく必要があることは私もあらためて強調しておきたい。

あらためて痛感する日本企業の重い課題

CEATEC JAPAN 2016


先日、アジア最大級の最先端IT・エレクトロニクス総合展 とされる『CEATEC JAPAN 2016』*1に出かけた。この10年くらい毎年欠かさずこのイベントには参加してきたが、この間、日本のIT・エレクトロニクス業界は戦後最大級の激動期にあり、そして、それはこのイベントに写し鏡のように反映されてきた。だからイベントの年々の推移をたどるだけでこの業界がどのような変遷をたどったのか、概観できる。


そういう意味では、本年は非常に大きな転換点だった。本来、テレビ等の電化製品のコンセプトモデルの見本市であったCEATECも、日本の電気業界の不況の波をまともに被り、2013年には、日立、2014年にはソニー、2015年には東芝と業界の大手企業が次々に出展を見送り、参加者も大幅な減少を余儀なくされ、存在意義自体が問われることになった。これを受けて、2016年は「CEATEC JAPAN -CPS/IoT EXHIVITION-」と題して展示のテーマをサイバーフィジカルシステム(CPS)とモノのインターネット(IoT)に絞り込んで開催された。


以下に、CEATECのホームページより、開催趣旨に相当する部分を参考に引用しておく。

CPS/IoT Exhibition として

“モノ” の本質が変化し始めているいま、接続機能や処理能力を兼ね備えた“ モノ”のネットワーク「Internet of Things (IoT)」が生まれ、新たな価値を生み出そうとしています。

IoT により、多様なデータ・情報が集まり、分析結果が現実世界にフィードバックされるサイバーフィジカルシステム(CPS)の概念を基盤とし、CPS/IoTは、あらゆる産業において、新たな価値創造を通じて、従来の産業構造とビジネスモデルに大きな変革をもたらし、社会自体も変化しようとしています。

このような背景のもと、CEATEC JAPAN では、企業や人の共創を鼓舞し、未来の道標として

「つながる社会、共創する未来」をテーマに開催いたします。

CEATEC JAPAN 2017 ( シーテック ジャパン 出展募集 公式サイト )

サイバーフィジカルシステム


サイバーフィジカルシステム(CPS)とは、『現実世界の制御対象の様々な状態を数値化し、定量的に分析することで、従来経験と勘でしかわからなかった知見を引き出す仕組み』とされているが、人工知能(AI)、IoT、クラウド、ロボット、自動運転車等個々の技術が統合して社会全体を変貌させていくイメージを語るという点では、今起きていることの全体像を表す便利な用語でありコンセプトだと思う。ただ、この用語はこれまで思ったほど流通して来ていないとの印象がある。だが、あらためて今回のCEATECでの展示やコンファランス等に参加してみると、このコンセプトが指し示す未来像がいよいよ現実のものとなろうとしていることがひしひしと感じられる。個別の技術はそれぞれに進化し、あるいは場合によっては思ったほど進化しなかったり、普及し過ぎて『コモディティ』となっていくことさえあるかもしれないが、全体としてのCPSの方は、そのような要素技術を取り込んだり捨てたりしながら、それ自体進化し、社会を隅々まで覆い、劇的に変えていくだろう。


イベントではやや別扱いされていた印象のあるフィンテック関連技術(特にブロックチェーン)等も当然、広義のCPSを支える要素・部品であり重要なインフラとなっていくことは確実で、個別の企業の立場では、この巨大な流れと未来像を出来る限り正確に予想して、自分たちがそこにどのように関わっていけるのか、真剣に考え議論すべき時が来ている。


それぞれの要素技術、特に昨今非常に話題になるAIなど、最先端の技術進化に日本企業なり、日本の研究者が置いていかれるとの不安がささやかれるところだが、少なくとも現段階では、各企業が自分なりの役割を見出して、それなりの成果を出していくことが見込まれており、幸いなことに、比較的参加のハードルは低く間口が広いように見える。以前、日本のAI研究の顔とも言える東京大学の松尾豊准教授の、『日本にはAI関連のエンジニアの人材層は厚く、特に、機械学習というのは、AIエンジニアによる比較的地味で長時間の作業が必要な領域なので、日本企業にも十分勝機がある』というお話を聞いたことがあるが、今回のCEATEC参加企業のお話を聞いたり展示を見ていると、確かにそのような光景が現実に展開しているのを目の当たりにしているように思えてくる。


但し、おそらく本当の問題は、CPSの進化がもたらす変化、すなわち、ビジネスの競争環境や、市場やユーザーの嗜好、さらには社会の変化がどのようなものになっていくのか、という洞察力の有無だろう。その点で言えば、まだ明確なビジョンを持って備えている企業は少なそうに見える。では、どのような『備え』が必要なのか。その前提として、どのような将来像がここから見えてくるのか。



(1)プラットフォーマー


一つには、これから様々なプラットフォーム統一を目指して企業が競い、最終的には、幾つかの巨大なプラットフォーマーが寡占するようになると考えられることだ。現実世界のすべてをサイバー空間に置き換えようというCPSという企ては、インターネットの歴史で起きてきたことが大掛かりに再現されることを予感させる。実際、すでにそれを見越した企業の競争が起きてきている(ドイツのインダストリー4.0、GE等を中心としたインダストリアル・インターネット等)。遠からず勝ち組みと負け組がはっきりしてしまうことは避けられないが、勝ち組になれなかったとしても、自らのポジショニングの仕方によっては、それなりの生き残り策はあるし、それどころか勝ち組のプラットフォームを最大限利用することで、爆発的な成長が可能な道もある(Uber等の、創造的破壊企業の例)。そのことを見越した、企業の戦略の巧緻が決定的な差を生むと考えられる。



(2)質の高い大量の情報の確保


次に、この仕組みの根幹にあるのは、ビッグデータ+AIであり、どのように応用しようと、競争力の源泉は『質の高い大量の情報』であることだ。だから、この『質の高い情報』をどのように、コンスタントに収集し続けることができるか、そのような仕組みでをどのように構築するのかが、勝敗を決する重要な要因になる。現状ではどちらかと言うとデータ利用にあたってのプライバシーの侵害や個人情報保護法抵触の懸念ばかりではなく、法律問題にはならずとも最近では世間から糾弾されることもあるので、各企業がデータ利用を躊躇し、萎縮する傾向が見られ、この問題にばかり焦点が集中するきらいがあるが(これには何らかの策(関連省庁によるガイドライン等)で早急に解決が必要であることは言うまでもないが)、その問題が解決されたとしても、日本企業の場合、今に至るも、自前主義、あるいは、系列内取引の発想が抜けきらないところが多いから、それが大きな競争制約要因になりかねない。できるだけ早い段階で、対処策を決めておくことが、その後の競合力維持には不可欠と心得ておく必要がある。その点では、多くの米国企業は、外部経済との関係づくりが巧みで、データ共用の仕組みづくりにも長けていて、事の初めから現代の競争に向いた構造にあると言える。



(3)トップレベルの技術者の確保


三つ目は、トップレベルの技術者の確保の問題だ。確かに必ずしも、トップ・オブ・ザ・トップの技術者がいなくても、(少なくとも当面は)ある程度高いレベルのエンジニアの数が揃えば市場に参入して競争することは可能だろう。だが、それでも、この市場では圧倒的な技術力が地道な努力のすべてをひっくり返してしまうことも珍しくない。


例えば、交通インフラの部品として確実にCPSの貴重な一部となってくることが見込まれている自動車関連だが、特に自動運転車の動向を見ていると、高レベルの技術者の存在がいかに競合上決定的な役割を担っているかを思い知らされる。一例をあげれば、単眼カメラで昼夜問わず車両を検知するシステムの開発を進めるモービルアイ社*2など、人工視覚イメージ処理技術等の高い技術力に定評があるが、いつの間にか従来のレーダー方式・ステレオカメラ方式が一般的であった業界の常識を一掃してしまった。そして、自動車会社を顧客として部品を売る立場ながら、すでに主客は逆転しているように見える。


トップレベルの技術者は一見高額なサラリーで釣れそうに思われがちだが、企業の文化や、仕事の裁量、優秀な同僚等、実際にはそれ以外の動機に魅かれるケースが多い。この辺りも、従来の日本企業の苦手分野といえる。組織だけではなく、組織文化まで含めて改革が必要となるように思われる。



(4)エコシステム化への対応


四つ目は、プラットフォーム化の必然とも言える、エコシステム化の問題だ。プラットフォーム化とエコシステムの発生は、目に見える形で表面化し始めたのはマイクロソフトのウインドウズの普及とその上で動くアプリ制作者との関係からと言われるが、一企業の所有物として始まるプラットフォームも、時間と共にそれをベースとして多くのプラグインサードパーティの製品やサービスが生まれ、それが相互依存するようになり、いわゆるエコシステムが生まれる。そして次第に、プラットフォームの成功は、エコシステムの繁栄に依存するようになる。そこではシェアがデフォルトになり、より多くのものが共有化され、所有より利用/アクセスへシフトが進むことになる。ここでの重要成功要因は、従来の現実世界における市場とはかなり様相を異にする。やはり多くの日本の企業組織もマインドもそのような環境に対応するようにはできておらず、転換に相当手こずることになるのではないか。



(5)限界費用ゼロ社会


最後に、CPSの高度化の暁に訪れることが予想されている、『限界費用ゼロ社会』*3についての考察だ。これは、文明批評家のジェレミー・リフキンが著書『限界費用ゼロ社会』で述べた近未来社会の様相だが、まさに、CPS(著書ではIoTが主役として語られている)はコミュニケーション、エネルギー、輸送の〈インテリジェント・インフラ〉を形成し、効率性や生産性を極限まで高める。それによりモノやサービスを1つ追加で生み出すコスト(限界費用)は限りなくゼロに近づき、将来モノやサービスは無料になり、企業の利益は消失して、資本主義は崩壊するというシナリオだ。何をばかな、と今だに反発する人も少なくないのだが、CPSはまさに、社会のあらゆる部分の効率性や生産性を参加企業が切磋琢磨して争うフィールドとして想定されており、それはすでに現実に動き始めている。その競争の結果、皮肉なことに、資本蓄積の原資となるはずの費用が激減していくことは、ここまでくると十分に想像の範囲内といえる。リフキンが指摘するように『シェア』の割合が増えることも確実と言っていいと思う。


個別企業が自らの利益を求めて良かれと思って競争する結果、その環境/市場そのものが変化して、場合によっては自らの首を絞めかねない状況を何と表現すればいいのだろうか。合成の誤謬(ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロでは必ずしも意図しない結果が起きること)とでも言うべきなのだろうか。エネルギー効率が極端に良くなることが前提なら、原子力化石燃料による大規模な発電システム関連産業は、大幅な縮小を余儀なくされるだろう。自動車もシェアが進み、既存の自動車生産/販売は激減することは避けられない。これによる社会的厚生の向上は見込めるとはいえ、個別企業の立場になれば、生き残りたければ自分たち自身もこの変化に則して変わっていくしかない。そのような想像力をどうやって磨いていくべきなのかが問われている



中長期のイメージを持つことは不可欠


今回のCEATECでもそうだが、政府系のプロジェクトに関わる報告書等を読んでいても、CPSによる社会変革の入り口部分については、盛んに語られるようになってきたため、かなり具体的なイメージを持てるようになってきた。だが、本当に問題なのは、その影響で変貌するであろう、市場であり、社会であり、顧客であり、ビジネスモデルのほうだ。スピードが益々上がってきている現代では、先のことなどわからないと開き直っているわけにもいかない。短期の競争イメージと同時に中期的な市場の変貌、後期の市場の大変貌を共にイメージできているようでなければ生き残れない。ただ、私自身も、このところ、このイメージをシャープにしていくことに全力をあげて取り組んでいるが、結構厄介な課題であることを痛感せざるをえない。まあ、愚痴を言っている場合ではないので、また決意もあらたに頑張ろうと思う。

破壊願望しか見えてこない米国を憂う

 ヒラリーの勝利?


米国の大統領選挙がいよいよ佳境に入ってきた。9月27日(日本時間)には民主党候補ヒラリー・クリントンと共和党の候補に上り詰めたトランプの第一回目の公開テレビ討論会が行われた。当初から泡沫候補と叩かれ続け、同じ共和党の長老からさえ敬遠されながらここまで来たトランプだが、さすがにこれ以上は無理だろうという『常識』の声は今に至っても消えることはなく、今回の討論会でも、一般のメディアではヒラリー勝利を伝える報道が多かった。私も文章になった二人の具体的な発言を読みながら、これはどうみてもヒラリーの勝ちと言わざるをえないと思った。論理が首尾一貫していて、常識的で(非常識ではなく)批判を許す隙は少なく、非を認める潔さもあり、ディベートとして見れば、どうみてもヒラリー勝利としか言いようがない。
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2016092701001219.html



 トランプが勝っていた!


だが、本当にそうなのだろうか。もともと論理が首尾一貫せず、非常識で、潔さを微塵も感じることができないトランプなのに、それでもここまで来たのではなかったか。そのように考えていると、案の定、トランプ優勢と感じた人たちが多く、全体としてもトランプが勝っていたという意見が多いのに、メジャーメディアの光彩に隠れてしまっていて、真実が伝わっていないという意見が沢山出てきた。


どうしてそんなことになってしまうのか。この点については、ニュース番組制作者の渡辺龍太氏のブログ記事での主張が当を得ているように思える。

このように、アメリカの田舎には、真面目に勉強や仕事を頑張って生きてきたのに、年々貧しくなっていき、もう医療保険・大学の授業料のための借金・家賃・車代を捻出するのがギリギリになっている人たちがいるのです。そういった人々が求めるリーダーを想像してみてください。今ままの状態が続く事は座して死を待つようなものなので、何であれ、現状を必ず変えてくれる可能性の高い人物を求めるのは当然です。(中略)

討論の準備をしっかりするというのは、『失言をしない』『何を聞かれても笑顔を絶やさない』という事が最重要課題であるというような、ヒラリーが元オバマ政権の国務長官だった事を改めて思い出させる、現状が変化しない事への約束の様な発言に受け取れるからです。

討論でクリントン圧勝と言うメディアは想像力が無い – アゴラ


8年前はオバマ元大統領の『CHANGE』を信じて投票したが、その期待は裏切られたと感じている人が多いという。実際、米国実勢調査局のデータによると、国民の家系水準は過去15年間停滞しており、家計所得の中央値は下がり続けている。

Income


だが、問題は経済政策における失政というだけに留まらないようだ。次のBBC記事を読むと、経済や雇用や移民等の個別の問題より政府そのものが最大の問題と多くの米国人は考えていて、政府に対する不満が民主党支持者、共和党支持者ともに爆発寸前にあることがわかる。

ピュー研究所によると、政府を信用するかどうか尋ねられると、共和党支持者の89%と民主党支持者の72%が「たまにしか」もしくは「絶対に信用しない」と答えるという。ギャラップ社調査によると、10人に6人のアメリカ人が、政府は権力を持ちすぎていると感じている。さらにアメリカ最大の問題は何かという調査では、2年連続して、経済や雇用や移民よりも政府が最大の問題だという結果になった。

連邦議会は膠着しているし、有権者に選ばれた政府関係者は無能に思える――。このように感じて不満を抱く有権者は20〜30%に上ると、アメリカン・エンタープライズ研究所の世論調査専門家、カーリン・ボウマン氏は言う。

「政治家は争うばかりで何も成果を出さないと、多くの人の目にはそう映っている。加えて、連邦議会の業務内容は1970年代から格段に増えているため、批判すべき内容が単純に増えているとも言える。国民は昔よりも政府を遠くに感じ、政府を疎ましく思うようになっている」

【米大統領選2016】なぜアメリカ人はそんなに怒っているのか - BBCニュース


渡辺氏は、『失言の有無』とか『礼儀正しい』とか『庶民的かどうか』という事が、現状の暮らしを変えられるかに関係が無いとオバマ大統領から学んだ人は、劇薬でも良いので、とにかく『本当に現状を変えられる可能性の高い人』がリーダーになるべきだ、と米国人が考えるのは論理的だと述べる。


これが背景にあるとすると、確かに、討論会のやりとりが全く違って見えてくる。ヒラリーはまさに米国民が感じている疎ましい政府の代表に見えていて、トランプはそれを破壊しようとしているゆえに支持が高まるという構図が読み取れる。要は、ヒラリーのような現状肯定、旧来の常識の尊重では、何も変わらず、変わらないということは自分たちの生活は将来に渡って絶望的と感じる一人が今の米国にはものすごく多いということだ。


 シリコンバレーはどうなっているのか


ただ、確かにいわゆる『プアー・ホワイト』等の低所得者層はそのように感じていることは理解できるが、富裕層はどうなのか。特に先進技術で世界中に非常に大きな影響力を振るっているシリコンバレーで活動するエンジニア、ビジネスマン、投資家等はどのような立場なのか。


どうやらさすがにトランプ支持者は少なさそうに見える。7月14日、シリコンヴァレーの起業家/経営者/エンジニアら145名は連名で「トランプはイノヴェイションを破壊する」と訴えるオープンレターをウェブに公開した。この中には、Apple創業者の一人であるスティーブ・ウォズニアックTCP/IPプロトコルを開発し「インターネットの父」と呼ばれるヴィント・サーフ、ネット中立性を提唱した法学者のティム・ウー、eBay創業者のピエール・オミダイア、TwitterやMediumの創業者のエヴァン・ウィリアムズ等、錚々たるメンバーが並んでいる。シリコンバレーを代表する投資家であるマーク・アンドリーセンも早い段階からトランプ嫌悪を鮮明にしている一人だ。


だが、驚いたことに、著作『ゼロ・トゥ・ワン』*1で日本でも著名な、起業家にして有力な投資家であるピーター・ティールはトランプ支持を表明している。自らゲイであることをカミングアウトした彼にとっては、そもそもゲイマリッジに反対する共和党は居心地が良いようには思えない(もっとも、最近でトランプは自分は同性愛者の見方と言っているようだが・・)。しかも、シリコンバレーの起業家/投資家にとっては、ビジネス環境に悪影響を及ぼすことしか言わないトランプは、アンドリーセン同様、ティールにとってもありがたい存在とは考え難い。だが、過去の発言から、どうやらティールは現状の民主主義は資本主義と共存できないと本気で信じていて、トランプ大統領を誕生させて、腐った政治体制を壊して、民主主義より資本主義を優先するように変えてしまうことを期待しているのでは、という見方もあるようだ。

Donald Trump, Peter Thiel and the death of democracy | Technology | The Guardian
A Crazy Yet Plausible Theory About Why Peter Thiel Supports Donald Trump | Inc.com


確かに、この記事を精読すると、それもありうべきと思えてくる。とすれば、ティールのトランプ支持の理由は、プアー・ホワイトと同様、現状の政治の破壊者としてトランプに期待していることになる。あらためて、共和党支持者の89%と民主党支持者の72%が、政府について「たまにしか」もしくは「絶対に信用しない」と答えるというピュー研究所の調査が思い出される。おそらく、さすがにトランプは受け入れられないと感じている他のシリコンバレーの起業家/投資家にしたところで、ヒラリーを積極的に支持しているというよりは、トランプよりマシという程度の支持なのだろう。そこに彼らの積極的な政治意識はほとんど感じられない。


社会学者の宮台真司氏などは、シリコンバレーは今やリベラル政党支持ではなく、オルタナ右翼が支配しているとまで言い切る。私はそこまで言うだけの材料が今のところ手元にないが、言われてみれば昨今そのような兆候を随所に見出すことができることは確かだ。このオルタナ右翼=Alternative Rightについては、日本では駿河台大学の専任講師である八田真行氏の記事くらいしかまだまとまった記事がないが、今後、重要な研究対象として注目を浴びていく可能性は大きそうだ。

alt-right(オルタナ右翼)とはようするに何なのか | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト


哲学者のジョセフ・ヒースは著書『啓蒙思想2.0』*2で、米国の保守派は、政治は結局のところ計画や政策ではなく『勘(gut feeling)』と『価値観』だという考えに魅了され、選挙戦は人々の頭ではなく、心に訴えることで決すると考えるようになったという。だから、共和党の候補者が『エネルギー省を閉鎖する』というとき、本気でそうするつもりなどなく、『私は、連邦政府が石油会社を嫌っていると非常に強く感じている。そこを変えたい』ということにすぎず、目的は、自分の考えではなく、感情を伝えることにあるのだという。今まさに我々はこれを体現したトランプと、それを受け入れる米国大衆、という悪夢を見せられている。しかも、米国のクレージーな一局面などではなく、今大きなうねりとなって、米国の政治の頂点、合衆国大統領を生み出そうとしている。



消える希望の火種


しかし、何と恐るべき状況だろう。本当にトランプが大統領になるかもしれない。その結果、破壊に次ぐ破壊が行われたとして、その後に何を創造するのだろうか。どう見ても、今のトランプに『創造』といえる整合性のあるビジョンがあるようには思えない。しかもヒラリーが大統領になったらなったで、これほど充満した怒りと不満のエネルギーは解消されずに溜め込まれるわけだから、それはまた違った意味で非常に恐ろしい。


シリコンバレーのIT起業家は、従来その活動の背景に社会改革の思想の香りがあり、彼らのビジネスの成功は、彼らが考える理想の実現のための手段にすぎないという意志が感じられたものだ。賛否は別として、やや大げさに言えば、米国が世界に誇る希望の光とさえ言えるものだったはずだ。最近で言えば、電気自動車テスラモーターズ社のCEOである、イーロン・マスクあたりまでは、それが感じられた。だが、イーロン・マスクとともにPayPalの共同経営者を務めたピーター・ティールを筆頭に、そのような思想(カリフォルニアン・イデオロギー等)の影響は感じられなくなりつつある。


『カリフォルニアンイデオロギー』とはヒッピーの理想とコンピュータ技術者であるハッカーの理想が交じり合った混合物とされる。ハッカーの理想は、個人の実力の評価という反属性主義、フロンティア志向、資本主義の肯定に連なり、ヒッピーの人間の本来性の尊重という反属性主義に連なる反権威主義、自由の尊重という理想は重なり合っていた。スティーブ・ジョブズなど本人がかつてヒッピーのような放浪を経験したり、禅の修行をしたりしており、ヒッピーの精神性と響きあう個性の持ち主であったこともあり、カリフォルニアン・イデオロギーの体現者と目され、そういう意味でも熱狂的な信者や追随者を生んだ。


シリコンバレーの反権威主義、自由の尊重という理想は今でも変わらないのだろう。だが、かつてのようにヒッピーカルチャーとの混合によって醸成される人間の本来性の尊重というような方向に深まっていくのではなく、単なる個々の欲望の追求の自由、個々の感情の満足追求の自由に堕してきつつあるのかもしれない。 シリコンバレー的なIT起業家が増えれば世界は変わるかもしれない、というような淡い願いは、もはや幻想でしかないのだろか。本当にそうだとすると実に残念なことだし、世界は希望の火種の一つを失いつつあると言える。


このような現状をすべて受け入れた上で、それでもできること、やるべきことは何なのか。 あらためてゼロベースで考え直すべき時がきているのかもしれない。

*1:

ゼロ・トゥ・ワン―君はゼロから何を生み出せるか

ゼロ・トゥ・ワン―君はゼロから何を生み出せるか

*2:

人工知能に絶対に任せてはいけないこと

 自動運転に関する公開セミナー


先日( 9月20日 )、弁護士会主催の自動運転に関する公開セミナーが行われたため出席した。内容そのものは、ほぼ旧知と言ってよく、自分にとってそれほど目新しい発見があったわけではないのだが、Q&Aセッションで少々気になる論点が出てきて、それがずっと気になっていた。今になって振り返ってみると、意外に本質的で重要な概念/思想の一端が氷山の一角のように顔を出していたのではと思えてくる。折角なので多少なりとも整理して、書き残しておこうと思う。



法律の完全執行社会の到来


人間が運転に関与しない自動運転車は、法律を完全に遵守することを前提として設計されるだろうから、スピード違反はしないと考えられる。これは人間だけがドライバーである現状とは非常に大きな違いだ。実際に運転経験のあるドライバーなら同意していただけると思うが、スピード違反をまったくしたことがないドライバーは限りなくゼロに近いと断言できる。しかもこの『スピード違反』は、他の車の流れを阻害しないように、流れに乗ることを意図した結果であれば、形式的には違反であることには変わりはないが、時にはそうすることで、全体の流れを乱さず、結果として渋滞や事故を抑止する効果が現実にあることも知られている。このような状況における『スピード違反』は検挙されることはまずないし、検挙されても注意程度で見逃してくれることが多い。それが暗黙の了解となっていることはベテランドライバーなら誰でも知っていることだ。だから、自動運転車のメリット/デメリットを語る際には必ず出てくるのが、人間のドライバーと自動運転車が混在した場合に想定される混乱(場合によっては事故)である。


だが、道路には自動運転車が大多数ということになれば、スピード規制の完全遵守ということも可能かもしれない。それについて今回のイベントの司会を務めた福井健策弁護士が述べた一言が非常に印象深く耳の奥底に残った。『法律の完全執行社会の到来』である。


実のところこれは、自動運転車に限らない。監視カメラは街のあらゆる場所に張り巡らされ、GPSによって位置は把握され、メールやSNSの発言も全て補足されようとしている。今後とも人間活動のあらゆる場所に人工知能等のアーキテクチャーが浸透し、果ては、犯罪を犯しそうな人間を特定して常に監視し、場合よっては犯罪を起こす前に捕獲する、映画の『マイノリティ・レポート 』*1のような一場面が本当に実現できそうな勢いである。(すでにMicrosoftが取り組み、かなりの精度が出ているという報道もある。*2)事前に捕獲できるくらいなら、法律の完全執行を実現することなど造作もないことだろう。


先日、とある監査の話を聞いていた時に、おやっと思ったのだが、この監査が大変細かいところまで正確に補足していることに驚いた。なんと会議に参加したメンバーの勤怠まで正確に把握して問題点を指摘しているのだという。具体的にどんなことが指摘されていたかは伏せておくが、これなら、従来は見つからなかったような重箱の隅を突くような問題が大量に見つかり、さぞ数多くの指摘が出てくることだろう。どうやらこのからくりは、情報収集/分析の部分に専用のソフトウェアを採用したことにあるらしい。確かにこれは監査する側にとって僥倖と言えるだろう。時間はセーブでき、効率も上がる。今後は監査の完全執行も可能になるかもしれない。だが、執行される側にとってはどうだろう。表立って楯つくことはできないにせよ、何か決定的な違和感があることを否定できないはずだ。



大岡裁き


自動運転車のスピード規制完全遵守について質問を受けた、中央大学の平野教授は、非常に興味深い見解を述べる。今後はもっと『大岡裁き』が行われるようになるべきだ、というのである。江戸中期の名奉行である大岡忠相の『大岡裁き』については、ここで詳しく説明するまでもないほど有名だと思うが、それでも一つだけ例をあげておこう。

ある時、ふたりの女がひとりの子を連れてやってきた。たがいに「自分こそこの子の本当の母親です」といって一歩もしりぞかない。

 そこで大岡様はこう言った。
「子の腕を持て。お前は右じゃ。そちは左を持つがいい。それから力いっぱい引き合って勝ったほうを実母とする」女たちは子供の腕をおもいきり引っぱりはじめたが、子供が痛がって泣くので、一方の女が思わず手を放した。

 勝った女は喜んで子を連れてゆこうとしたが、大岡様は 
「待て。その子は手を放した女のものである」 
と言うのだった。

 勝った女は納得できず、 
「なぜでございます。勝った者の子だとおっしゃられたではありませぬか」 
とはげしく抗議した。そこで大岡様はおっしゃった。 
「本当の母親なら子を思うものである。痛がって泣いているものをなおも引く者がなぜ母親であろうか」 
 

珍獣の館・今昔かたりぐさ


型通りの法律や決まり事を当てはめるだけでは、どこか納得がいかないで、それよりもっと大事なことがある気がすることがある。大岡忠相は、その『もっと大事なこと』(=情理?)をわきまえた裁きを下すことで庶民から喝采を受けたと言われる。『大岡裁き』自体は、それを批判する向きもあるものの、法律の執行には、時に単純に技術的、形式的に行うだけでは済まない『何か』があることを教えてくれるのは確かだ。


平野氏はこの『大岡裁き』で意図するところを説明するために、英米法でいうところの衡平法(Equity)について言及していた。法律に馴染みのない人にはこちらの方が更に何が言いたいかわからないと言われてしまいそうだが、非常に大雑把に言えば、判例法の積み上げ(コモン・ロー)が導く判決だけでは、どうしても不自然さが残る(衡平を欠く)と考えられる場合に、裁判官が衡平法に基づき救済するということが起きる。これを称して『大岡裁き』と称したものと思われる。厳密に言えば、この両者の法理の源泉はかなり出自を異にしているから同じとは言えないが、平野氏の言いたいことは理解できる。



違和感の正体


そもそも、一見法律が完全に執行されれば社会は今より良くなると思われがちだが、それは大いなる誤解というべきだ。これは、このブログでも何度も取り上げてきた、『法化社会』(社会の隅々まで法的ルールが浸透し、公正な裁判を通じた紛争解決とそのインフラ整備が高度に実現した社会)の問題と通じるところがある。


この問題点については、以前、社会学者の宮台真司氏等の言説を参照させていただきながら、以下の2点をあげておいた。

1. 概念言語だけで物事が解決すると思い込む者が激増し、概念言語の外側には、音楽等の芸術、愛情、感情のような『概念言語ではないもの』があり、人間社会はその両方のバランスで成り立っていることが軽視されるようになってしまった。


2. 法的な、言語概念に偏った『安全』『安心』を安易にも止めた結果、些細な問題の解決でも安易に法律に丸投げし、共同体や個人どうしで行う人間的な的な問題解決能力を失わせ、共同体や個人間の信頼感や一体感を失わせ、社会や共同体が保持していた『安心感』やその源泉自体を消し去ることになってしまった。

「概念言語だけで物事が解決すると思い込む者が激増し」の検索結果 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る


日本は、70年〜80年代以降、この『法化社会』の方向に突き進み、現在ではその負の帰結によって、社会全体が泥沼にはまってしまったような状況にあるが、ここにさらに、人工知能のようなアーキテクチャーを導入して、『法律の完全執行社会』を招き寄せ、水も漏らさぬ『法化社会』を実現しようとしているのであれば、これははっきりと『ディストピアユートピアの正反対の社会)』に向かっている言わざるをえない。すでに形式的な法制度と日本の本来の法文化/法意識は乖離し始めているきらいがあるが、これが決定的な亀裂となり社会が解体してしまう恐れがある。



 人工知能と人間の違い


第3世代の人工知能には莫大な可能性があることを否定するものではない。完全自動運転車の実現も時間の問題だろう。現状の仕事の多くも人工知能に置き換わっていき、人間の負担が減っていくことも必然だろう。それは一面、素晴らしい『ユートピア』を想起させるものだ。だが、人工知能が実現できることとその限界、人工知能と人間の相違を峻別して、人間がやるべきこと/できることは、人工知能に丸投げしないで、人間がその役割を十全に果たさないと社会は『ディトピア』に暗転してしまう。


人工知能がどんなに進化しても、人間の機能のうち、論理や理性を司る大脳皮質的な能力に限定されざるをえないが、一方、人間の脳は、動物と同じような旧皮質の部分が依然大きな部分を占め、感情はしばし理性的判断を押しのける。そもそも人間は身体を持ち、そのようなものの総合的な統一体として判断する存在だ。自分が得た情報をベースに常に独自の価値判断を行い、場合によっては、過去の情報蓄積の成果を飛び越える(そしてそれは創造力の源泉とも言える)。価値判断は常に身体的/生命的とならざるをえないが故に、人工知能がどんなに進化しようと、その判断とは一線を画すものだ。そして、まさに『大岡裁き』はこの人間の価値判断能力に依拠している。


囲碁や将棋、株価の予測、ロボットの動作等、価値判断の入る余地のない(少ない)領域であれば、人工知能は人間を上回る成果を成し遂げることになるだろう。だが、人間の価値判断に関わる問題を含む場合は、情報の収集や整理、仮設の設定等、人工知能の手助けを仰ぐことはあっても、最終的には人間が判断しないと決まらない領域は残り続ける。自動運転車のケースで言えば、周囲の運転環境の認識や動作に関わる部分は無限と言っていいほど進化していくことは必定だが、トロッコ問題*3のような人間の倫理が関わるような問題の解決には、人工知能に最終判断を任せることは決してできないということになる。カント主義的な原則は人間の判断をしばし左右し、その結果、5人を犠牲にしても1人を殺さない判断が出てきうる。身体を持たない人工知能がこの境地に辿り着けるとは考え難い。



 今求められる態度


自動運転でもそうだし、その背後にある人工知能についても、そろそろ初期の熱狂がおさまって、逆に極端なほどの悲観論や嫌悪感等が出てくる時期だ。だが、そんな楽観と悲観の大波に乗って右往左往するのではなく、人工知能と人間との本質的な違いを十分に理解した上で、これをどのように役立て、共生していくのが良いかを現実的に考えていくことが今一番求められる態度というべきだろう。

ブロックチェーンに漂う暗雲?/革新的技術の社会での受容の難しさ

 ブロックチェーンのイベント


先日(9月8日)に開催されたブロックチェーン・イノベーション2016(GLOCOM View of The World シンポジウム)*1に参加してきた。このイベントは昨今非常に話題になってきているフィンテック関連の中でもとりわけ注目度が高いブロックチェーンがテーマであり、しかも、登壇者も、ブロックチェーン関連では錚々たるメンバーでもあり、非常に楽しみにしていた。


加えて、今回は特に、ブロックチェーンの関係者を震撼させることになった事件、いわゆる『The DAO事件』後に開かれる本格的なブロックチェーンのイベントということもあり、ともすればこれまでどちらかというと楽観的な空気が支配していたこの業界の界隈でどのような変化が起きているのか大変気にかかっていたこともあり、その意味でも開催が待ち遠しかった。



 ブロックチェーンに関連した詐欺事件


『The DAO』事件というのは、ちょうど今回のイベントの登壇者でもある、MITメディアラボの松尾真一郎氏や、ヤフー株式会社 CISO Boardで国際大学GLOCOMの客員研究員でもある楠正憲氏の解説記事もあるので、詳しくはそちらをご参照いただきたいが*2 *3
2016年の5月末に、ビットコインに次ぐ規模で展開されている暗号通貨Ether(イーサ、パブリックブロックチェーンの『Ethereum(イーサリアム)』上で流通する)を通じて約156億円の資金を集めた事業投資ファンド『The DAO』が、6月17日にコードの脆弱性を突かれ、資金の3分の1が流出した事件だ。


事件の解明が進んで行くと、イーサリアム自体の安全性が直接損なわれたわけではなく、投資ファンド『The DAO』のスマートコントラクトのプログラムコードに脆弱性があり、その脆弱性を突かれたのが直接の原因のようだが、流出したEtherをThe DAOの手元に返還するためには、まず凍結するためにイーサリムのソフトウエアを修正する『ソフトフォーク』、返還するために『ハードフォーク』という手続きが必要で、7月20日に、このハードフォークが実施され、返還も行われたようだ。


楠氏の説明によれば、この修正を行うためにはEtherの報酬を目当てにコンピュータ資源を提供する『採掘者』の協力が不可欠だが、暗号通貨のフォークを認めると、価値の根拠となる発行残高を後から操作できてしまう上に、今後も事故が起こった際には、毎回当局からの介入を要求されるリスクが増すことになり、消極的な意見も少なくなかったという。確かに『何もするべきではない』という意見も飛び交っていたと記憶している。


自分で書いていても、あまりの難解さに、頭がくらくらしてきそうだが、本件の真相を一般人が理解するのはものすごく骨が折れる。だから、大抵の人は、この暗号通貨(Ether)自体に脆弱性があったと勘違いしてしまってると思われる。確かに、ハードフォークを実施せざるを得なかったことで、今後のEtherの運営に影がさしたことは間違いなかろうが、あくまで脆弱性があったのはThe DAOのプログラムで、Etherではない。だから、Etherは不正に送金されはしたが、このEtherは攻撃者が自由に動かせる状態にあるわけではない。少なくともブロックチェーンそのものの致命的な欠陥が見つかったというような問題ではない。しかしながら、一度ネガティブな風評が立つとこれを払拭するのは容易ではない。これからは無理解な世論の壁はすごく厚くなるだろうし、日本の組織の上層部の理解の程度は一般人と五十歩百歩だろうから、組織内での決裁にもこれまでよりずっと時間がかかることになるだろう。



 パネルディスカッションの様子


松尾氏と楠氏も同時にパネラーとなって行われたパネルディスカッションでは、あらためて、ブロックチェーンのセキュリティ上の問題は完全に払拭したわけではない(数学的に証明されたわけではない)こと、そして、それ以外にもいくつかの弱点を持っていて、本格的な普及にあたってはまだ超えるべきハードルがいくつもあること等が語られることになった。ただ、このシステムにいくつかの弱点があることは以前から認識されていたことではあり、過去に私も参加した、GLOCOM主催のブロックチェーンに関わる別のイベントにおいても具体的にいくつかの弱点について取り上げられていたが、登壇者の面々からは、大量のベンチャー資金が投入され、意欲ある起業家が参集して試行錯誤が繰り返されれば、早晩解決されていくに違いない、という前向きで楽観的な雰囲気が感じられたものだ。それと比較すると、今回は、悲観的というと言い過ぎだが、予想以上に重苦しい空気が充満していた。


それでも楠氏は、失敗を通じてこそ学べることもあるのだから日本で取り組む企業もたくさん失敗して学べばいい、という、慎重な中にも原則楽観的なご意見だったが、松尾氏は『The DAO事件』をもうすこし深刻に受け止めていて、ちょっとしたトラブルが数十億円規模の巨額な損失に直結してしまうような、この種のビジネス領域においては、西海岸のベンチャー企業のような(The DAOはドイツだが・・)、どんどんスタートして失敗したら潰して次の新しい起業にシフトする、というマインド/モデルが通用しないことを見せつける機会になってしまったと嘆き、多くの日本企業のような、事前にリスクに対して万全に準備した上で始めるようなやり方がむしろ新しいモデルになっていくのでは、というようなコメントもあった。


この点については、MITメディアラボ 所長、伊藤穣一氏も別の場で、現状のブロックチェーンは、まだ仮想通貨に続くキラーアプリが登場していない段階であり、今後は多様なアプリが相次ぎ開発されていくと見込みながらも、ブロックチェーンはインターネットとは重要な違いがあり、『インターネットの世界では、失敗してももう一度挑戦ができた。今のブロックチェーンの多くはお金や資産を扱うため、そうそう失敗はできない』と述べている。伊藤氏は、The DAOの脆弱性によるトラブル発生を事前に指摘しており、実際その通りになった。

*4

 
いずれにしても、このパネルディスカッションでは、ブロックチェーンが今後燎原の火のごとく爆発的に普及していくとする楽観論は明らかに一掃されていて、将来的な可能性は確信しつつも、当面の動向については慎重な見方をする発言が多かった。



 自動運転車の事故の後との共通性


このやり取りを聞いていて、私は、自社が発売した自動運転車が死亡事故を起こして、昨今自動運転車のネガティブなイメージをリードするようになってしまった感がある、テスラモーターズのケースを思い出してしまった。こちらのほうも事故の解明が進むと、システムとしてはレベル2*5に相当する程度の自動運転車なのに、ドライバーがシステムを過信しすぎた結果事故が起きたことがわかってきた。もちろん、突然進路に突入してきた車を正しく認識できなかった人工知能の能力にも問題があり、改善の余地があることは確かだが、少なくとも現段階の前提は、あくまでドライバーが主、システムは補助の役割だったはずで、だから人工知能など信用できないと結論を急ぐのは早計だ。客観的に見れば、今足下で急激に進行している人工知能機械学習が進めば、遠からず解消してしまう可能性は高そうに見える。


だが市場に与えたネガティブな印象は実態以上に増幅されている。完全自律自動運転車の投入を待ち望む市場の期待に満ちた雰囲気に冷水を浴びせることになってしまった。米国NHTSA(国家道路交通安全局)の局長のマーク・ローズカインド氏が6月にデトロイトで開催されたカンファレンスでは、衝突の回避という点で従来の自動車よりも『2倍』優れた技術であれば容認するとの考えを明らかにした一方で、NTSB(国家運輸安全委員会)局長のクリストファー・ハート氏は、完全自律自動運転者は実現しないとの意見をMIT・テクノロジー・レビュー誌のインタビューで述べている。


本音のところ、完全自動運転車が普及して従来の自動車販売が激減してしまう悪夢の未来を恐れる既存の自動車会社は、水面下で胸をなで下ろしているのではないか。そして、ユーザーの自動運転車への不安感の背に乗っかって、『ドライバーが主、システムは補助』が自動運転車のリーズナブルな将来像であるとのムードを市場の主旋律にすべくキャンペーンを張っていくことも考えられる。技術の競争とは別にこういう情報戦があるのも、社会(市場)の現実であることは認めないわけにはいかない。


いずれも、技術自体の問題という以上に、市場の反応(過剰反応)というか、社会での新技術の受容の難しさが表面化してきている事例と言えそうだ。



 革新的な技術の社会の側の受容


私は、以前に、直接一般消費者との接点を持つ分野においては、革新的な技術が登場しても、浸透するまでには紆余曲折があって、場合によっては長い時間がかかること等につき、ブログ記事を書いた。手前味噌だが、その記事から引用させていただく。

前にも何度か指摘してきたことだが、人工知能(およびその周辺技術)の浸透は、自動運転車やペッパーくんのようなロボットや、あるいは先端医療のような人目についたり、人の生死に関わったりする分野より、地味で目立たないが実効性の高い分野のほうが、浸透も進化も早いし、今後はその差はもっと大きくなるだろう。というのも、直接一般消費者と関わりを持つ分野は、どうしても潜在/顕在を問わず、忌避感、拒否感、あるいは倫理意識、宗教観等の壁にぶつかり、進歩が止まったりスピードが鈍りがちだ。中には理由を列挙できないが『なんとなく違和感がある』という感じの反対理由も少なくないが、こんな理屈を超えた拒否感等の感情を覆すのは容易なことではない。法律も未整備で整備のためのコンセンサスも容易には収束しないことも予想される。


史上、新しい技術が出現して浸透する過程では、いつでもそうだが、社会の仕組みの急激な変容を迫る技術については、社会の側からの反発も強い。とりわけ、今日(そして今後)の技術進化は企業コミュニティのような社会の中間集団も猛烈なスピードで解体してしまいかねない。かつて自動車工場に産業用ロボットが導入された時のような、ほんの一部の工程に置かれて、人間の労働者に『聖子ちゃん』だの『百恵ちゃん』だの身に似つかわしくない名前をつけてもらったような牧歌的な時代とはわけが違う。


もちろん、自動運転車は事故を減らし、先端医療は患者の命を救い、ロボットは人手不足が深刻になる日本の救世主となることは確実だ。だが、身体を持つ人間は、理屈で理解できたとしても、身体のリズムを超えてあまりのスピードで変化するものを、急には受け入れることができない。少なくとも受容に時間がかかる。ところが、そのような一般消費者と直接関わらず、関係者の間で理想的なWin-Winの関係を構築できるビジネス分野は沢山ある。そういう分野では、これから猛烈な進化が期待できる。

人工知能のビジネス利用はどのように進むのか - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る


そういう意味では、ブロックチェーンについても、ビットコインやEtherのような一般消費者を巻き込んだ大掛かりな仕掛けは相応に障壁も高く、対処に時間がかかるから、当面、企業グループ内/業界内等での利用で先行して、技術を磨き、ビジネスモデルを洗練させ、再び大きく花開くべく準備するほうが得策に思える。伊藤穣一氏の言うようなキラーアプリも、クローズドなサークルの中のほうが、生まれやすく育ちやすいように思う。


実際、2016年版の米ガートナー社のハイプサイクルにも、ブロックチェーンは今『過度な期待のピーク期』にあり、これから『幻滅期』を迎えるであろうことが示されている。



 革新的な技術の勢い自体は止まらない


では、ここのところフィンテックの話題を、まさに『過度な期待』とも言うべき喧騒で牽引したブロックチェーンの話題がトーンダウンするとすれば、フィンテックの話題自体もやはりトーンダウンしていくのだろうか。

私には必ずしもそうは思えない。金融関連で『一般消費者と直接関わらず、関係者の間で理想的なWin-Winの関係を構築できるビジネス分野』であり、しかも世界全体に非常に大きな影響力を持ち、人工知能等の最新の技術に莫大な資源を投入している存在がいるからだ。ヘッジファンドである。ヘッジファンドと言えば、リーマンショック以降、霧散してしまったと勘違いしている人も少なくないが、まったくの誤解と言わざるをえない。むしろ、ずっと洗練されて技術志向も高まり、実際に大きな業績も出している。ただ、特定富裕層という限定的な顧客を相手にしているため、情報は公開されないから、あまり世間に実態が露わになっていないだけのことだ。

この点については、リサーチアンドプライシングテクノロジー(RPテック)取締役の櫻井豊氏の著書『人工知能が金融を支配する日』*6が非常に参考になるので、フィンテックの動向に興味がある人は一読をお勧めしておく。本書にこのリーマンショック後の動向が非常にわかりやすく説明してある一節があるので、少々長くなるが引用させていただこう。

リーマンショック以前の金融商品や信用リスクに関する技術は、主に実務的な要請から、現実世界の複雑さに目隠しをして、ひどく単純化された前提条件の上に築かれた構造物でした。そこでは難しそうな数式がしばし使われましたが、実際のところ、その土台はまったく不安定な代物だったのです。リーマン・ショックは、このような金融技術の脆弱さに目をつぶって、一部の関係者が私利私欲に突き進んだことによって発生しました。

当然のことながら、リーマン・ショック後に、それまでの金融技術の見直しが行われ、国際的に激しい規制がかけられるようになりました。この作業は現在も続いていて、金融ビジネスに関する規制は激しくなる一方です。しかしながら、従来の不安定な土台の上に、パッチワークで規制を強化するような対応をしても、すぐに限界が来ることは目に見えています。

 このような変革期に、ベイズ推定を理論的基礎にした人工知能技術の飛躍的な進歩がたまたま重なったのです。ベイズ推定が主体となった人工知能の新しいアプローチは、金融技術のあり方を見直すという次元を超えて、根本的に変える必要があります。これまでの金融技術や経済理論は欠陥のある前提条件を基礎にして演繹的な思考法で技術を積み上げたものであるのに対し、新しい手法では、大量んデータから市場や経済の規則性が帰納的に導かれます。

 この新しい技術は、以前のアプローチの欠点を克服するという明るい側面がある一方で、その技術はあまりにも破壊的であり、独占的に利用されると非常に心配な事態に陥ります。新しい技術は金融に関わる人々の生活を必然的に大きく変えることになるでしょう。

人工知能が金融を支配する日』より


そして、今、ヘッジファンドが独占的に利用しつつあるのでは、と櫻井氏は懸念している。そして、そうなると生活を大きく変えられるのは、金融に関わる人だけに限られない。ヘッジファンドについては、また別途扱ってみようと思うから、今回はこれ以上立ち入らないが、ブロックチェーンの進化のスピードが仮に鈍るようなことがあっても、革新的な技術の進化というフィンテックを後押しする巨大な潮流が消えてしまうわけではない。出口が変わるだけだ。その出口を一早く見つけるためにも、社会(市場)の方の理解は不可欠といえる。



 技術と社会の受容というやっかいな問題


技術と社会の受容、というテーマはやはり非常にやっかいな問題であることを再確認させられる思いだが、それだけに、将来予測のスキルとして、この素養が不可欠であることもまた再認識した。エンジニアではない私のような立場の者にも、まだやるべきこと(発信すべきこと)は沢山あるようだ。ある意味でこれからが本番とも言うべきか。引き続き、意欲を持って発信を続けていこうと思う。

*1:ブロックチェーン・イノベーション2016 【GLOCOM View of the World シンポジウム】 | 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター

*2:ブロックチェーンは本当に世界を変えるのか - まだまだ未成熟なブロックチェーン、実用には四つの課題:ITpro

*3:セキュリティ・ホットトピックス - 暗号通貨ファンド「The DAO」から数十億円分が流出:ITpro

*4:ITpro Report - MITメディアラボ伊藤所長、ブロックチェーンの今を斬る:ITpro

*5:複数の機能が組み合わされ、ステアリング操作まで一部自動化される。例えば、高速道路で車線の中央を維持したまま同じ車線を走り続けるなど、限られた条件下での自動運転を可能にする。アクティブレーンキープのように、一部の機能が先行して実用化され始めた。

*6:

人工知能が金融を支配する日

人工知能が金融を支配する日

『遺伝子工学』に革命が起きてる!/『ゲノム編集』が凄過ぎる


最も差し迫った分野は?


昨今の先進テクノロジーの進化とその影響が破壊的であることはこのブログでも繰り返し述べてきたし、最近では同種の情報が急増して、私が多少の発信をしたところですっかり埋もれてしまうようになった。しかも、どの分野のテクノロジーも、破天荒ともいうべきポテンシャルを持ち、それこそSFの世界を凌駕しかねない話が目白押しだ。人工知能が人類を滅ぼすかもしれないという懸念などはまさにその代表的な一例といえる。しかも、そう長く待つ必要もない。2020年前後には、その人工知能を使った自動運転車が続々と市場に投入される見通しだ。


では、そんな中でも、今最も進化し人類社会に差し迫った回答を求めて来そうなのはどの分野なのだろうか。少々意外に聞こえるかもしれないが、『遺伝子工学』、もうすこし広めに言えば『生命科学』だと今私はかなりの確信を持ってそう言い切ることができる。



 意外に注目度が低い


『意外に』というのは、私自身の率直な感想でもあるのだが、これほど急激に進化していて、しかも及ぶ影響範囲の広さも、社会的なインパクトも桁外れに大きい割には、他の技術と比較して、あまりに露出が少なく、話題にもなっていない。これはいったいどういうことなのか。


例えば、最近、米ガートナー社より『テクノロジーのハイプサイクル2016年版』が発表されたが、生命科学に関わる技術は一つも載っていない。2015年版にあった3Dバイオプリンティングも今年は消えている。何も知らない人がこれを見たら、『生命科学の進化も目覚ましいと聞くが、思ったより進展がなく停滞しているのでは』と思うかもしれない。だが、そうではない。事実はその全く正反対だ。


 遺伝子組み換え技術


生命科学における先端技術と言えば、『遺伝子組み換え』については誰しも耳にしたことがあるはずだ。たとえば、農業分野では、米国のミズーリ州に本社を持つ多国籍バイオ化学メーカーである、モンサント社の除草剤(ラウンドアップ)や、その除草剤に耐性を持つ遺伝子組み換え作物(ランドアップ・レディー)など世界的に拡散している事例もある(遺伝子組み換え作物の種のモンサント社の世界シェアは90%にものぼるという)。


日本では、消費者の遺伝子組み換え作物に対する忌避感が強いこともあり、日本企業による商業的な栽培は行われていない。ただ、日本で流通している大豆の94%は輸入(2011年)で、日本の大豆の7割は米国から輸入されており、米国で栽培される大豆の94%は遺伝子組み換えというから、日本で流通する大豆は8割方遺伝子組み換えということになる(但し、いくつかの抜け道があり表示義務を免れている)。

遺伝子組み換えの基礎知識 | サルでもわかる遺伝子組み換え
日本のGM表示の仕組み | サルでもわかる遺伝子組み換え


その他、糖尿病の治療に欠かせないインスリンや、肝炎を治療するインターフェロンなど、遺伝子組み換え技術の産物だ。日本では忌避感が強いといったが、一方で、現在は不治の病とされるガンや心臓病等の治療や、急増する世界人口を支える食料の増産等への貢献の可能性もあり、もちろん期待も大きい。


だが、その遺伝子組み換えというのは、非常に不安定で、成功の確率も低く、時間もかかり、難易度が高く誰でも扱えるような技術ではないことはご存知だろうか。加えて、副作用等、安全性にも課題が多く、当然コストも高いから、それほど急速に広がるような性質のものではなかった。



 状況を一変させた『ゲノム編集』


ところが、ごく最近、2013年ごろになって、この状況が一変する。驚くべき画期的な技術が実用段階に入ったことによって、将来的な可能性や懸念ではなく、眼前にある、今すぐ対応すべき課題としていきなりクローズアップされることになった。


その技術は『ゲノム編集』と呼ばれていて、その中でも特に『クリスパー』と呼ばれる最新技術は、精度も完成度も高く、遺伝子の文字列のどの部分でも、切りたい鎖をピンポイントでカットしたり、書き換えることができるという。


詳しくは、最近出版された、次の2冊の著作をご参照いただくのが手っ取り早い。おそらく、私が感じた戸惑いとめまいのような感情に少なからず共感していただけるのではないかと思う。


ゲノム編集の衝撃―「神の領域」に迫るテクノロジー

ゲノム編集の衝撃―「神の領域」に迫るテクノロジー


ここでは、如何に凄まじい進化を遂げているのかをご理解いただくために『ゲノム編集とは何か「DNAのメス」クリスパーの衝撃』にまとめてある、遺伝子組み換えとクリスパー(ゲノム編集)の違いに関わる記述について、引用させていただこうと思う。



 遺伝子組み換えとクリスパーの違い

遺伝子組み換え


1 従来の遺伝子組換えでは、「制限酵素によるDNAの切断」や「遺伝子導入」、あるいは「相同組み換え」や「伝統的な交配作業」など、複数のステップを組み合わせる必要がある。

2 各々のステップを見ても、たとえば「DNAを切るための制限酵素が、実はDNAを好きな場所で切ることができない」など激しい制約を課せられている。

3 遺伝子組み換えの根幹である「相同組み換え」が、たとえばノックアウト・マウスのように「100万分の1」といった極めて低い確率でしか、狙った通りに起きない。

4 従来の遺伝子組み換えは、極めて汎用性に乏しい。



クリスパー


1 従来の遺伝子組み換えが基本的にはランダム(確率的)な手法であったのに対し、クリスパーはゲノム(DNA)の狙った場所をピンポイントで切断、改変することができる。もちろん現時点では「オフ・ターゲット効果」などの誤操作の可能性も残されているが、それは本質的に「ランダムなプロセス」というより、むしろ「狙った結果からの誤差」といった範囲に収まる。そして、最近の研究によって、その誤差は休息に縮まりつつある。

2 従来の遺伝子組み換えとは異なり、クリスパーでは父方と母方、両方のDNA(相同染色体、ゲノム、対立遺伝子)を1回の操作で同時に改変できる。これによって(従来のノックアウト・マウスなどを作るのに必要だった)複雑で手間のかかる交配実験が不要になった。

3 従来の遺伝子組み換えは、1回の操作で1個の遺伝子しか改変できなかったが、クリスパーでは1回の操作で複数個の遺伝子を同時に改変することができる。

4 クリスパーは非常にシンプルで扱いやすい技術であるがために、たとえば高校生のような素人でも短期間の訓練で使えるようになる。つまり遺伝子工学の裾野を広げることが期待されている。

5 同じ理由から、従来の遺伝子組み換えに必要とされた膨大な時間や手間、コストなどを大幅に削減できる。

6 クリスパーは(人間を含む)どんな動物や植物(農作物)のも応用できる汎用的な技術である。


従来の遺伝子組み換え技術についても、期待の背後で懸念される予想できない危険性、生態系に対する取り返しのつかないインパクト、対応策のない毒性の強いウイルス等の出現の懸念、生殖細胞を操作することで予想もできない遺伝を子孫に伝えてしまう懸念、人間と動物のキメラの出現の懸念等、これまでも議論されて来たが、議論が一巡した後では、やや鎮静化していた感がある。


だが、これは、どうやら、本来交わされるべき真剣な議論が単に停滞していたに過ぎないとも言えそうだ。気がつくとすぐにでも答えを出す必要があるのに、簡単には答えを出せそうにもない、超難問が目前に突きつけられている。『背筋に冷たいものが走る』というのは、まさにこういう状況のことを言うのだろう。



 懸念点ばかり気になる


それでも、現在までのところ医療関係者等による自主規制は、一定の歯止めとして機能しているように見える。だが、クリスパーのような技術革新によって、この歯止めがはずれてしまう懸念が払拭できない。というのも、やはり汎用性があって広い領域で活用できる上に、高校生のような素人でさえ短期間の訓練で使えるほど裾野が広がるということになると、倫理的な歯止めが効かなかったり(歪んだ思想や宗教にかぶれる等)、また、悪意はなかったとしても偶発的に取り返しのつかない事態を招いてしまうことは多いにあり得る。しかも、昨今では、テロでの利用の懸念はかつてないほど大きい。最近の事例でもわかってきた通り、現代のテロリストは最新技術の利用に非常に長けている。


しかも、クリスパーのような技術と、それまでの遺伝子組み換え技術との違いそのものに起因する新たな問題もあるようだ。例えば、自然界にも稀に突然変異で『白いカエル』は出現する。これはクリスパーによって、今後比較的簡単につくることができると言われている。ところが、クリスパーで作ったのか自然界で偶発的にできたものなのか、区別する術はないという。偶然1匹見かけただけならともかく、バケツいっぱいに白いカエルがいれば、人為作用を疑うことにもなろうが、悪意のある行為者が秘匿しようとすれば出来てしまうとなると、何らかの歯止めを設定するにしても、具体的にはどうすればいいのか、大変悩ましい問題になる。


しかも、研究者や企業の立場で言えば、自然界に出現する可能性のあるようなものを、場合によっては人類への多大な貢献が見込めるにも関わらず、過剰に萎縮して自主規制してしまうのでは、むしろデメリットの方が大きいのではないかとの意見も出て来ているという。



『倫理』と言っても・・


高度な人工知能について議論するにあたってもそうだが、議論が行き詰まると『倫理』が重要になると誰もが言う。だが、その重要なはずの倫理やその背景にある思想、あるいは、宗教の諸相について、少数の、それこそ『専門家』を除けば、一般人が真剣な議論を交わしているところをついぞ見たことがない。どちらかというと、現代では思想や宗教等については、よほどの問題(テロや破壊行為等)を起こさない限り、多様性と個人の選択の自由を認め合うことが是とされる方向だろう(つまりどうせ喧嘩になるから議論しないのが賢明、ということだ)。そしてそれは必ずしも悪い方向ではない。特定の思想や宗教を強要するとろくなことにはならないことは歴史の教訓とも言える。だが、そうだとすると、異なる思想や宗教を背景とした人々が倫理において合意できるものなのだろうか。いわば『人類共通倫理』とでもいうべきものが、普段まったく議論もしていないのに、いきなり見出せるものだろうか。甚だ心もとない。


だからこそ、特定の思想や宗教とは切り離して、せめて『人類の生存』『人命の尊重』という一線で合意したいところなのに、それさえ合意が難しくなるケース(オウム真理教や、イスラム系テロリスト等)もあるというのだから、本当に厄介な時代になったものだ。


だが、どうにもならないかもしれないが、どうにもならないと投げ出してしまっては、それこそどうにもならない。一人一人が、せめて自分が対処できる範囲で答えを出す努力をやめないようにすることを習い性にしないことには始まらない。そういう自分も、今更ながらではあるが、昔を思い出して、倫理、思想、宗教等についても、できる限り探求してみようと考えている。そんなにのんびりしている場合ではないのかもしれないのだが・・・。