人工知能に絶対に任せてはいけないこと

 自動運転に関する公開セミナー


先日( 9月20日 )、弁護士会主催の自動運転に関する公開セミナーが行われたため出席した。内容そのものは、ほぼ旧知と言ってよく、自分にとってそれほど目新しい発見があったわけではないのだが、Q&Aセッションで少々気になる論点が出てきて、それがずっと気になっていた。今になって振り返ってみると、意外に本質的で重要な概念/思想の一端が氷山の一角のように顔を出していたのではと思えてくる。折角なので多少なりとも整理して、書き残しておこうと思う。



法律の完全執行社会の到来


人間が運転に関与しない自動運転車は、法律を完全に遵守することを前提として設計されるだろうから、スピード違反はしないと考えられる。これは人間だけがドライバーである現状とは非常に大きな違いだ。実際に運転経験のあるドライバーなら同意していただけると思うが、スピード違反をまったくしたことがないドライバーは限りなくゼロに近いと断言できる。しかもこの『スピード違反』は、他の車の流れを阻害しないように、流れに乗ることを意図した結果であれば、形式的には違反であることには変わりはないが、時にはそうすることで、全体の流れを乱さず、結果として渋滞や事故を抑止する効果が現実にあることも知られている。このような状況における『スピード違反』は検挙されることはまずないし、検挙されても注意程度で見逃してくれることが多い。それが暗黙の了解となっていることはベテランドライバーなら誰でも知っていることだ。だから、自動運転車のメリット/デメリットを語る際には必ず出てくるのが、人間のドライバーと自動運転車が混在した場合に想定される混乱(場合によっては事故)である。


だが、道路には自動運転車が大多数ということになれば、スピード規制の完全遵守ということも可能かもしれない。それについて今回のイベントの司会を務めた福井健策弁護士が述べた一言が非常に印象深く耳の奥底に残った。『法律の完全執行社会の到来』である。


実のところこれは、自動運転車に限らない。監視カメラは街のあらゆる場所に張り巡らされ、GPSによって位置は把握され、メールやSNSの発言も全て補足されようとしている。今後とも人間活動のあらゆる場所に人工知能等のアーキテクチャーが浸透し、果ては、犯罪を犯しそうな人間を特定して常に監視し、場合よっては犯罪を起こす前に捕獲する、映画の『マイノリティ・レポート 』*1のような一場面が本当に実現できそうな勢いである。(すでにMicrosoftが取り組み、かなりの精度が出ているという報道もある。*2)事前に捕獲できるくらいなら、法律の完全執行を実現することなど造作もないことだろう。


先日、とある監査の話を聞いていた時に、おやっと思ったのだが、この監査が大変細かいところまで正確に補足していることに驚いた。なんと会議に参加したメンバーの勤怠まで正確に把握して問題点を指摘しているのだという。具体的にどんなことが指摘されていたかは伏せておくが、これなら、従来は見つからなかったような重箱の隅を突くような問題が大量に見つかり、さぞ数多くの指摘が出てくることだろう。どうやらこのからくりは、情報収集/分析の部分に専用のソフトウェアを採用したことにあるらしい。確かにこれは監査する側にとって僥倖と言えるだろう。時間はセーブでき、効率も上がる。今後は監査の完全執行も可能になるかもしれない。だが、執行される側にとってはどうだろう。表立って楯つくことはできないにせよ、何か決定的な違和感があることを否定できないはずだ。



大岡裁き


自動運転車のスピード規制完全遵守について質問を受けた、中央大学の平野教授は、非常に興味深い見解を述べる。今後はもっと『大岡裁き』が行われるようになるべきだ、というのである。江戸中期の名奉行である大岡忠相の『大岡裁き』については、ここで詳しく説明するまでもないほど有名だと思うが、それでも一つだけ例をあげておこう。

ある時、ふたりの女がひとりの子を連れてやってきた。たがいに「自分こそこの子の本当の母親です」といって一歩もしりぞかない。

 そこで大岡様はこう言った。
「子の腕を持て。お前は右じゃ。そちは左を持つがいい。それから力いっぱい引き合って勝ったほうを実母とする」女たちは子供の腕をおもいきり引っぱりはじめたが、子供が痛がって泣くので、一方の女が思わず手を放した。

 勝った女は喜んで子を連れてゆこうとしたが、大岡様は 
「待て。その子は手を放した女のものである」 
と言うのだった。

 勝った女は納得できず、 
「なぜでございます。勝った者の子だとおっしゃられたではありませぬか」 
とはげしく抗議した。そこで大岡様はおっしゃった。 
「本当の母親なら子を思うものである。痛がって泣いているものをなおも引く者がなぜ母親であろうか」 
 

珍獣の館・今昔かたりぐさ


型通りの法律や決まり事を当てはめるだけでは、どこか納得がいかないで、それよりもっと大事なことがある気がすることがある。大岡忠相は、その『もっと大事なこと』(=情理?)をわきまえた裁きを下すことで庶民から喝采を受けたと言われる。『大岡裁き』自体は、それを批判する向きもあるものの、法律の執行には、時に単純に技術的、形式的に行うだけでは済まない『何か』があることを教えてくれるのは確かだ。


平野氏はこの『大岡裁き』で意図するところを説明するために、英米法でいうところの衡平法(Equity)について言及していた。法律に馴染みのない人にはこちらの方が更に何が言いたいかわからないと言われてしまいそうだが、非常に大雑把に言えば、判例法の積み上げ(コモン・ロー)が導く判決だけでは、どうしても不自然さが残る(衡平を欠く)と考えられる場合に、裁判官が衡平法に基づき救済するということが起きる。これを称して『大岡裁き』と称したものと思われる。厳密に言えば、この両者の法理の源泉はかなり出自を異にしているから同じとは言えないが、平野氏の言いたいことは理解できる。



違和感の正体


そもそも、一見法律が完全に執行されれば社会は今より良くなると思われがちだが、それは大いなる誤解というべきだ。これは、このブログでも何度も取り上げてきた、『法化社会』(社会の隅々まで法的ルールが浸透し、公正な裁判を通じた紛争解決とそのインフラ整備が高度に実現した社会)の問題と通じるところがある。


この問題点については、以前、社会学者の宮台真司氏等の言説を参照させていただきながら、以下の2点をあげておいた。

1. 概念言語だけで物事が解決すると思い込む者が激増し、概念言語の外側には、音楽等の芸術、愛情、感情のような『概念言語ではないもの』があり、人間社会はその両方のバランスで成り立っていることが軽視されるようになってしまった。


2. 法的な、言語概念に偏った『安全』『安心』を安易にも止めた結果、些細な問題の解決でも安易に法律に丸投げし、共同体や個人どうしで行う人間的な的な問題解決能力を失わせ、共同体や個人間の信頼感や一体感を失わせ、社会や共同体が保持していた『安心感』やその源泉自体を消し去ることになってしまった。

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日本は、70年〜80年代以降、この『法化社会』の方向に突き進み、現在ではその負の帰結によって、社会全体が泥沼にはまってしまったような状況にあるが、ここにさらに、人工知能のようなアーキテクチャーを導入して、『法律の完全執行社会』を招き寄せ、水も漏らさぬ『法化社会』を実現しようとしているのであれば、これははっきりと『ディストピアユートピアの正反対の社会)』に向かっている言わざるをえない。すでに形式的な法制度と日本の本来の法文化/法意識は乖離し始めているきらいがあるが、これが決定的な亀裂となり社会が解体してしまう恐れがある。



 人工知能と人間の違い


第3世代の人工知能には莫大な可能性があることを否定するものではない。完全自動運転車の実現も時間の問題だろう。現状の仕事の多くも人工知能に置き換わっていき、人間の負担が減っていくことも必然だろう。それは一面、素晴らしい『ユートピア』を想起させるものだ。だが、人工知能が実現できることとその限界、人工知能と人間の相違を峻別して、人間がやるべきこと/できることは、人工知能に丸投げしないで、人間がその役割を十全に果たさないと社会は『ディトピア』に暗転してしまう。


人工知能がどんなに進化しても、人間の機能のうち、論理や理性を司る大脳皮質的な能力に限定されざるをえないが、一方、人間の脳は、動物と同じような旧皮質の部分が依然大きな部分を占め、感情はしばし理性的判断を押しのける。そもそも人間は身体を持ち、そのようなものの総合的な統一体として判断する存在だ。自分が得た情報をベースに常に独自の価値判断を行い、場合によっては、過去の情報蓄積の成果を飛び越える(そしてそれは創造力の源泉とも言える)。価値判断は常に身体的/生命的とならざるをえないが故に、人工知能がどんなに進化しようと、その判断とは一線を画すものだ。そして、まさに『大岡裁き』はこの人間の価値判断能力に依拠している。


囲碁や将棋、株価の予測、ロボットの動作等、価値判断の入る余地のない(少ない)領域であれば、人工知能は人間を上回る成果を成し遂げることになるだろう。だが、人間の価値判断に関わる問題を含む場合は、情報の収集や整理、仮設の設定等、人工知能の手助けを仰ぐことはあっても、最終的には人間が判断しないと決まらない領域は残り続ける。自動運転車のケースで言えば、周囲の運転環境の認識や動作に関わる部分は無限と言っていいほど進化していくことは必定だが、トロッコ問題*3のような人間の倫理が関わるような問題の解決には、人工知能に最終判断を任せることは決してできないということになる。カント主義的な原則は人間の判断をしばし左右し、その結果、5人を犠牲にしても1人を殺さない判断が出てきうる。身体を持たない人工知能がこの境地に辿り着けるとは考え難い。



 今求められる態度


自動運転でもそうだし、その背後にある人工知能についても、そろそろ初期の熱狂がおさまって、逆に極端なほどの悲観論や嫌悪感等が出てくる時期だ。だが、そんな楽観と悲観の大波に乗って右往左往するのではなく、人工知能と人間との本質的な違いを十分に理解した上で、これをどのように役立て、共生していくのが良いかを現実的に考えていくことが今一番求められる態度というべきだろう。

ブロックチェーンに漂う暗雲?/革新的技術の社会での受容の難しさ

 ブロックチェーンのイベント


先日(9月8日)に開催されたブロックチェーン・イノベーション2016(GLOCOM View of The World シンポジウム)*1に参加してきた。このイベントは昨今非常に話題になってきているフィンテック関連の中でもとりわけ注目度が高いブロックチェーンがテーマであり、しかも、登壇者も、ブロックチェーン関連では錚々たるメンバーでもあり、非常に楽しみにしていた。


加えて、今回は特に、ブロックチェーンの関係者を震撼させることになった事件、いわゆる『The DAO事件』後に開かれる本格的なブロックチェーンのイベントということもあり、ともすればこれまでどちらかというと楽観的な空気が支配していたこの業界の界隈でどのような変化が起きているのか大変気にかかっていたこともあり、その意味でも開催が待ち遠しかった。



 ブロックチェーンに関連した詐欺事件


『The DAO』事件というのは、ちょうど今回のイベントの登壇者でもある、MITメディアラボの松尾真一郎氏や、ヤフー株式会社 CISO Boardで国際大学GLOCOMの客員研究員でもある楠正憲氏の解説記事もあるので、詳しくはそちらをご参照いただきたいが*2 *3
2016年の5月末に、ビットコインに次ぐ規模で展開されている暗号通貨Ether(イーサ、パブリックブロックチェーンの『Ethereum(イーサリアム)』上で流通する)を通じて約156億円の資金を集めた事業投資ファンド『The DAO』が、6月17日にコードの脆弱性を突かれ、資金の3分の1が流出した事件だ。


事件の解明が進んで行くと、イーサリアム自体の安全性が直接損なわれたわけではなく、投資ファンド『The DAO』のスマートコントラクトのプログラムコードに脆弱性があり、その脆弱性を突かれたのが直接の原因のようだが、流出したEtherをThe DAOの手元に返還するためには、まず凍結するためにイーサリムのソフトウエアを修正する『ソフトフォーク』、返還するために『ハードフォーク』という手続きが必要で、7月20日に、このハードフォークが実施され、返還も行われたようだ。


楠氏の説明によれば、この修正を行うためにはEtherの報酬を目当てにコンピュータ資源を提供する『採掘者』の協力が不可欠だが、暗号通貨のフォークを認めると、価値の根拠となる発行残高を後から操作できてしまう上に、今後も事故が起こった際には、毎回当局からの介入を要求されるリスクが増すことになり、消極的な意見も少なくなかったという。確かに『何もするべきではない』という意見も飛び交っていたと記憶している。


自分で書いていても、あまりの難解さに、頭がくらくらしてきそうだが、本件の真相を一般人が理解するのはものすごく骨が折れる。だから、大抵の人は、この暗号通貨(Ether)自体に脆弱性があったと勘違いしてしまってると思われる。確かに、ハードフォークを実施せざるを得なかったことで、今後のEtherの運営に影がさしたことは間違いなかろうが、あくまで脆弱性があったのはThe DAOのプログラムで、Etherではない。だから、Etherは不正に送金されはしたが、このEtherは攻撃者が自由に動かせる状態にあるわけではない。少なくともブロックチェーンそのものの致命的な欠陥が見つかったというような問題ではない。しかしながら、一度ネガティブな風評が立つとこれを払拭するのは容易ではない。これからは無理解な世論の壁はすごく厚くなるだろうし、日本の組織の上層部の理解の程度は一般人と五十歩百歩だろうから、組織内での決裁にもこれまでよりずっと時間がかかることになるだろう。



 パネルディスカッションの様子


松尾氏と楠氏も同時にパネラーとなって行われたパネルディスカッションでは、あらためて、ブロックチェーンのセキュリティ上の問題は完全に払拭したわけではない(数学的に証明されたわけではない)こと、そして、それ以外にもいくつかの弱点を持っていて、本格的な普及にあたってはまだ超えるべきハードルがいくつもあること等が語られることになった。ただ、このシステムにいくつかの弱点があることは以前から認識されていたことではあり、過去に私も参加した、GLOCOM主催のブロックチェーンに関わる別のイベントにおいても具体的にいくつかの弱点について取り上げられていたが、登壇者の面々からは、大量のベンチャー資金が投入され、意欲ある起業家が参集して試行錯誤が繰り返されれば、早晩解決されていくに違いない、という前向きで楽観的な雰囲気が感じられたものだ。それと比較すると、今回は、悲観的というと言い過ぎだが、予想以上に重苦しい空気が充満していた。


それでも楠氏は、失敗を通じてこそ学べることもあるのだから日本で取り組む企業もたくさん失敗して学べばいい、という、慎重な中にも原則楽観的なご意見だったが、松尾氏は『The DAO事件』をもうすこし深刻に受け止めていて、ちょっとしたトラブルが数十億円規模の巨額な損失に直結してしまうような、この種のビジネス領域においては、西海岸のベンチャー企業のような(The DAOはドイツだが・・)、どんどんスタートして失敗したら潰して次の新しい起業にシフトする、というマインド/モデルが通用しないことを見せつける機会になってしまったと嘆き、多くの日本企業のような、事前にリスクに対して万全に準備した上で始めるようなやり方がむしろ新しいモデルになっていくのでは、というようなコメントもあった。


この点については、MITメディアラボ 所長、伊藤穣一氏も別の場で、現状のブロックチェーンは、まだ仮想通貨に続くキラーアプリが登場していない段階であり、今後は多様なアプリが相次ぎ開発されていくと見込みながらも、ブロックチェーンはインターネットとは重要な違いがあり、『インターネットの世界では、失敗してももう一度挑戦ができた。今のブロックチェーンの多くはお金や資産を扱うため、そうそう失敗はできない』と述べている。伊藤氏は、The DAOの脆弱性によるトラブル発生を事前に指摘しており、実際その通りになった。

*4

 
いずれにしても、このパネルディスカッションでは、ブロックチェーンが今後燎原の火のごとく爆発的に普及していくとする楽観論は明らかに一掃されていて、将来的な可能性は確信しつつも、当面の動向については慎重な見方をする発言が多かった。



 自動運転車の事故の後との共通性


このやり取りを聞いていて、私は、自社が発売した自動運転車が死亡事故を起こして、昨今自動運転車のネガティブなイメージをリードするようになってしまった感がある、テスラモーターズのケースを思い出してしまった。こちらのほうも事故の解明が進むと、システムとしてはレベル2*5に相当する程度の自動運転車なのに、ドライバーがシステムを過信しすぎた結果事故が起きたことがわかってきた。もちろん、突然進路に突入してきた車を正しく認識できなかった人工知能の能力にも問題があり、改善の余地があることは確かだが、少なくとも現段階の前提は、あくまでドライバーが主、システムは補助の役割だったはずで、だから人工知能など信用できないと結論を急ぐのは早計だ。客観的に見れば、今足下で急激に進行している人工知能機械学習が進めば、遠からず解消してしまう可能性は高そうに見える。


だが市場に与えたネガティブな印象は実態以上に増幅されている。完全自律自動運転車の投入を待ち望む市場の期待に満ちた雰囲気に冷水を浴びせることになってしまった。米国NHTSA(国家道路交通安全局)の局長のマーク・ローズカインド氏が6月にデトロイトで開催されたカンファレンスでは、衝突の回避という点で従来の自動車よりも『2倍』優れた技術であれば容認するとの考えを明らかにした一方で、NTSB(国家運輸安全委員会)局長のクリストファー・ハート氏は、完全自律自動運転者は実現しないとの意見をMIT・テクノロジー・レビュー誌のインタビューで述べている。


本音のところ、完全自動運転車が普及して従来の自動車販売が激減してしまう悪夢の未来を恐れる既存の自動車会社は、水面下で胸をなで下ろしているのではないか。そして、ユーザーの自動運転車への不安感の背に乗っかって、『ドライバーが主、システムは補助』が自動運転車のリーズナブルな将来像であるとのムードを市場の主旋律にすべくキャンペーンを張っていくことも考えられる。技術の競争とは別にこういう情報戦があるのも、社会(市場)の現実であることは認めないわけにはいかない。


いずれも、技術自体の問題という以上に、市場の反応(過剰反応)というか、社会での新技術の受容の難しさが表面化してきている事例と言えそうだ。



 革新的な技術の社会の側の受容


私は、以前に、直接一般消費者との接点を持つ分野においては、革新的な技術が登場しても、浸透するまでには紆余曲折があって、場合によっては長い時間がかかること等につき、ブログ記事を書いた。手前味噌だが、その記事から引用させていただく。

前にも何度か指摘してきたことだが、人工知能(およびその周辺技術)の浸透は、自動運転車やペッパーくんのようなロボットや、あるいは先端医療のような人目についたり、人の生死に関わったりする分野より、地味で目立たないが実効性の高い分野のほうが、浸透も進化も早いし、今後はその差はもっと大きくなるだろう。というのも、直接一般消費者と関わりを持つ分野は、どうしても潜在/顕在を問わず、忌避感、拒否感、あるいは倫理意識、宗教観等の壁にぶつかり、進歩が止まったりスピードが鈍りがちだ。中には理由を列挙できないが『なんとなく違和感がある』という感じの反対理由も少なくないが、こんな理屈を超えた拒否感等の感情を覆すのは容易なことではない。法律も未整備で整備のためのコンセンサスも容易には収束しないことも予想される。


史上、新しい技術が出現して浸透する過程では、いつでもそうだが、社会の仕組みの急激な変容を迫る技術については、社会の側からの反発も強い。とりわけ、今日(そして今後)の技術進化は企業コミュニティのような社会の中間集団も猛烈なスピードで解体してしまいかねない。かつて自動車工場に産業用ロボットが導入された時のような、ほんの一部の工程に置かれて、人間の労働者に『聖子ちゃん』だの『百恵ちゃん』だの身に似つかわしくない名前をつけてもらったような牧歌的な時代とはわけが違う。


もちろん、自動運転車は事故を減らし、先端医療は患者の命を救い、ロボットは人手不足が深刻になる日本の救世主となることは確実だ。だが、身体を持つ人間は、理屈で理解できたとしても、身体のリズムを超えてあまりのスピードで変化するものを、急には受け入れることができない。少なくとも受容に時間がかかる。ところが、そのような一般消費者と直接関わらず、関係者の間で理想的なWin-Winの関係を構築できるビジネス分野は沢山ある。そういう分野では、これから猛烈な進化が期待できる。

人工知能のビジネス利用はどのように進むのか - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る


そういう意味では、ブロックチェーンについても、ビットコインやEtherのような一般消費者を巻き込んだ大掛かりな仕掛けは相応に障壁も高く、対処に時間がかかるから、当面、企業グループ内/業界内等での利用で先行して、技術を磨き、ビジネスモデルを洗練させ、再び大きく花開くべく準備するほうが得策に思える。伊藤穣一氏の言うようなキラーアプリも、クローズドなサークルの中のほうが、生まれやすく育ちやすいように思う。


実際、2016年版の米ガートナー社のハイプサイクルにも、ブロックチェーンは今『過度な期待のピーク期』にあり、これから『幻滅期』を迎えるであろうことが示されている。



 革新的な技術の勢い自体は止まらない


では、ここのところフィンテックの話題を、まさに『過度な期待』とも言うべき喧騒で牽引したブロックチェーンの話題がトーンダウンするとすれば、フィンテックの話題自体もやはりトーンダウンしていくのだろうか。

私には必ずしもそうは思えない。金融関連で『一般消費者と直接関わらず、関係者の間で理想的なWin-Winの関係を構築できるビジネス分野』であり、しかも世界全体に非常に大きな影響力を持ち、人工知能等の最新の技術に莫大な資源を投入している存在がいるからだ。ヘッジファンドである。ヘッジファンドと言えば、リーマンショック以降、霧散してしまったと勘違いしている人も少なくないが、まったくの誤解と言わざるをえない。むしろ、ずっと洗練されて技術志向も高まり、実際に大きな業績も出している。ただ、特定富裕層という限定的な顧客を相手にしているため、情報は公開されないから、あまり世間に実態が露わになっていないだけのことだ。

この点については、リサーチアンドプライシングテクノロジー(RPテック)取締役の櫻井豊氏の著書『人工知能が金融を支配する日』*6が非常に参考になるので、フィンテックの動向に興味がある人は一読をお勧めしておく。本書にこのリーマンショック後の動向が非常にわかりやすく説明してある一節があるので、少々長くなるが引用させていただこう。

リーマンショック以前の金融商品や信用リスクに関する技術は、主に実務的な要請から、現実世界の複雑さに目隠しをして、ひどく単純化された前提条件の上に築かれた構造物でした。そこでは難しそうな数式がしばし使われましたが、実際のところ、その土台はまったく不安定な代物だったのです。リーマン・ショックは、このような金融技術の脆弱さに目をつぶって、一部の関係者が私利私欲に突き進んだことによって発生しました。

当然のことながら、リーマン・ショック後に、それまでの金融技術の見直しが行われ、国際的に激しい規制がかけられるようになりました。この作業は現在も続いていて、金融ビジネスに関する規制は激しくなる一方です。しかしながら、従来の不安定な土台の上に、パッチワークで規制を強化するような対応をしても、すぐに限界が来ることは目に見えています。

 このような変革期に、ベイズ推定を理論的基礎にした人工知能技術の飛躍的な進歩がたまたま重なったのです。ベイズ推定が主体となった人工知能の新しいアプローチは、金融技術のあり方を見直すという次元を超えて、根本的に変える必要があります。これまでの金融技術や経済理論は欠陥のある前提条件を基礎にして演繹的な思考法で技術を積み上げたものであるのに対し、新しい手法では、大量んデータから市場や経済の規則性が帰納的に導かれます。

 この新しい技術は、以前のアプローチの欠点を克服するという明るい側面がある一方で、その技術はあまりにも破壊的であり、独占的に利用されると非常に心配な事態に陥ります。新しい技術は金融に関わる人々の生活を必然的に大きく変えることになるでしょう。

人工知能が金融を支配する日』より


そして、今、ヘッジファンドが独占的に利用しつつあるのでは、と櫻井氏は懸念している。そして、そうなると生活を大きく変えられるのは、金融に関わる人だけに限られない。ヘッジファンドについては、また別途扱ってみようと思うから、今回はこれ以上立ち入らないが、ブロックチェーンの進化のスピードが仮に鈍るようなことがあっても、革新的な技術の進化というフィンテックを後押しする巨大な潮流が消えてしまうわけではない。出口が変わるだけだ。その出口を一早く見つけるためにも、社会(市場)の方の理解は不可欠といえる。



 技術と社会の受容というやっかいな問題


技術と社会の受容、というテーマはやはり非常にやっかいな問題であることを再確認させられる思いだが、それだけに、将来予測のスキルとして、この素養が不可欠であることもまた再認識した。エンジニアではない私のような立場の者にも、まだやるべきこと(発信すべきこと)は沢山あるようだ。ある意味でこれからが本番とも言うべきか。引き続き、意欲を持って発信を続けていこうと思う。

*1:ブロックチェーン・イノベーション2016 【GLOCOM View of the World シンポジウム】 | 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター

*2:ブロックチェーンは本当に世界を変えるのか - まだまだ未成熟なブロックチェーン、実用には四つの課題:ITpro

*3:セキュリティ・ホットトピックス - 暗号通貨ファンド「The DAO」から数十億円分が流出:ITpro

*4:ITpro Report - MITメディアラボ伊藤所長、ブロックチェーンの今を斬る:ITpro

*5:複数の機能が組み合わされ、ステアリング操作まで一部自動化される。例えば、高速道路で車線の中央を維持したまま同じ車線を走り続けるなど、限られた条件下での自動運転を可能にする。アクティブレーンキープのように、一部の機能が先行して実用化され始めた。

*6:

人工知能が金融を支配する日

人工知能が金融を支配する日

『遺伝子工学』に革命が起きてる!/『ゲノム編集』が凄過ぎる


最も差し迫った分野は?


昨今の先進テクノロジーの進化とその影響が破壊的であることはこのブログでも繰り返し述べてきたし、最近では同種の情報が急増して、私が多少の発信をしたところですっかり埋もれてしまうようになった。しかも、どの分野のテクノロジーも、破天荒ともいうべきポテンシャルを持ち、それこそSFの世界を凌駕しかねない話が目白押しだ。人工知能が人類を滅ぼすかもしれないという懸念などはまさにその代表的な一例といえる。しかも、そう長く待つ必要もない。2020年前後には、その人工知能を使った自動運転車が続々と市場に投入される見通しだ。


では、そんな中でも、今最も進化し人類社会に差し迫った回答を求めて来そうなのはどの分野なのだろうか。少々意外に聞こえるかもしれないが、『遺伝子工学』、もうすこし広めに言えば『生命科学』だと今私はかなりの確信を持ってそう言い切ることができる。



 意外に注目度が低い


『意外に』というのは、私自身の率直な感想でもあるのだが、これほど急激に進化していて、しかも及ぶ影響範囲の広さも、社会的なインパクトも桁外れに大きい割には、他の技術と比較して、あまりに露出が少なく、話題にもなっていない。これはいったいどういうことなのか。


例えば、最近、米ガートナー社より『テクノロジーのハイプサイクル2016年版』が発表されたが、生命科学に関わる技術は一つも載っていない。2015年版にあった3Dバイオプリンティングも今年は消えている。何も知らない人がこれを見たら、『生命科学の進化も目覚ましいと聞くが、思ったより進展がなく停滞しているのでは』と思うかもしれない。だが、そうではない。事実はその全く正反対だ。


 遺伝子組み換え技術


生命科学における先端技術と言えば、『遺伝子組み換え』については誰しも耳にしたことがあるはずだ。たとえば、農業分野では、米国のミズーリ州に本社を持つ多国籍バイオ化学メーカーである、モンサント社の除草剤(ラウンドアップ)や、その除草剤に耐性を持つ遺伝子組み換え作物(ランドアップ・レディー)など世界的に拡散している事例もある(遺伝子組み換え作物の種のモンサント社の世界シェアは90%にものぼるという)。


日本では、消費者の遺伝子組み換え作物に対する忌避感が強いこともあり、日本企業による商業的な栽培は行われていない。ただ、日本で流通している大豆の94%は輸入(2011年)で、日本の大豆の7割は米国から輸入されており、米国で栽培される大豆の94%は遺伝子組み換えというから、日本で流通する大豆は8割方遺伝子組み換えということになる(但し、いくつかの抜け道があり表示義務を免れている)。

遺伝子組み換えの基礎知識 | サルでもわかる遺伝子組み換え
日本のGM表示の仕組み | サルでもわかる遺伝子組み換え


その他、糖尿病の治療に欠かせないインスリンや、肝炎を治療するインターフェロンなど、遺伝子組み換え技術の産物だ。日本では忌避感が強いといったが、一方で、現在は不治の病とされるガンや心臓病等の治療や、急増する世界人口を支える食料の増産等への貢献の可能性もあり、もちろん期待も大きい。


だが、その遺伝子組み換えというのは、非常に不安定で、成功の確率も低く、時間もかかり、難易度が高く誰でも扱えるような技術ではないことはご存知だろうか。加えて、副作用等、安全性にも課題が多く、当然コストも高いから、それほど急速に広がるような性質のものではなかった。



 状況を一変させた『ゲノム編集』


ところが、ごく最近、2013年ごろになって、この状況が一変する。驚くべき画期的な技術が実用段階に入ったことによって、将来的な可能性や懸念ではなく、眼前にある、今すぐ対応すべき課題としていきなりクローズアップされることになった。


その技術は『ゲノム編集』と呼ばれていて、その中でも特に『クリスパー』と呼ばれる最新技術は、精度も完成度も高く、遺伝子の文字列のどの部分でも、切りたい鎖をピンポイントでカットしたり、書き換えることができるという。


詳しくは、最近出版された、次の2冊の著作をご参照いただくのが手っ取り早い。おそらく、私が感じた戸惑いとめまいのような感情に少なからず共感していただけるのではないかと思う。


ゲノム編集の衝撃―「神の領域」に迫るテクノロジー

ゲノム編集の衝撃―「神の領域」に迫るテクノロジー


ここでは、如何に凄まじい進化を遂げているのかをご理解いただくために『ゲノム編集とは何か「DNAのメス」クリスパーの衝撃』にまとめてある、遺伝子組み換えとクリスパー(ゲノム編集)の違いに関わる記述について、引用させていただこうと思う。



 遺伝子組み換えとクリスパーの違い

遺伝子組み換え


1 従来の遺伝子組換えでは、「制限酵素によるDNAの切断」や「遺伝子導入」、あるいは「相同組み換え」や「伝統的な交配作業」など、複数のステップを組み合わせる必要がある。

2 各々のステップを見ても、たとえば「DNAを切るための制限酵素が、実はDNAを好きな場所で切ることができない」など激しい制約を課せられている。

3 遺伝子組み換えの根幹である「相同組み換え」が、たとえばノックアウト・マウスのように「100万分の1」といった極めて低い確率でしか、狙った通りに起きない。

4 従来の遺伝子組み換えは、極めて汎用性に乏しい。



クリスパー


1 従来の遺伝子組み換えが基本的にはランダム(確率的)な手法であったのに対し、クリスパーはゲノム(DNA)の狙った場所をピンポイントで切断、改変することができる。もちろん現時点では「オフ・ターゲット効果」などの誤操作の可能性も残されているが、それは本質的に「ランダムなプロセス」というより、むしろ「狙った結果からの誤差」といった範囲に収まる。そして、最近の研究によって、その誤差は休息に縮まりつつある。

2 従来の遺伝子組み換えとは異なり、クリスパーでは父方と母方、両方のDNA(相同染色体、ゲノム、対立遺伝子)を1回の操作で同時に改変できる。これによって(従来のノックアウト・マウスなどを作るのに必要だった)複雑で手間のかかる交配実験が不要になった。

3 従来の遺伝子組み換えは、1回の操作で1個の遺伝子しか改変できなかったが、クリスパーでは1回の操作で複数個の遺伝子を同時に改変することができる。

4 クリスパーは非常にシンプルで扱いやすい技術であるがために、たとえば高校生のような素人でも短期間の訓練で使えるようになる。つまり遺伝子工学の裾野を広げることが期待されている。

5 同じ理由から、従来の遺伝子組み換えに必要とされた膨大な時間や手間、コストなどを大幅に削減できる。

6 クリスパーは(人間を含む)どんな動物や植物(農作物)のも応用できる汎用的な技術である。


従来の遺伝子組み換え技術についても、期待の背後で懸念される予想できない危険性、生態系に対する取り返しのつかないインパクト、対応策のない毒性の強いウイルス等の出現の懸念、生殖細胞を操作することで予想もできない遺伝を子孫に伝えてしまう懸念、人間と動物のキメラの出現の懸念等、これまでも議論されて来たが、議論が一巡した後では、やや鎮静化していた感がある。


だが、これは、どうやら、本来交わされるべき真剣な議論が単に停滞していたに過ぎないとも言えそうだ。気がつくとすぐにでも答えを出す必要があるのに、簡単には答えを出せそうにもない、超難問が目前に突きつけられている。『背筋に冷たいものが走る』というのは、まさにこういう状況のことを言うのだろう。



 懸念点ばかり気になる


それでも、現在までのところ医療関係者等による自主規制は、一定の歯止めとして機能しているように見える。だが、クリスパーのような技術革新によって、この歯止めがはずれてしまう懸念が払拭できない。というのも、やはり汎用性があって広い領域で活用できる上に、高校生のような素人でさえ短期間の訓練で使えるほど裾野が広がるということになると、倫理的な歯止めが効かなかったり(歪んだ思想や宗教にかぶれる等)、また、悪意はなかったとしても偶発的に取り返しのつかない事態を招いてしまうことは多いにあり得る。しかも、昨今では、テロでの利用の懸念はかつてないほど大きい。最近の事例でもわかってきた通り、現代のテロリストは最新技術の利用に非常に長けている。


しかも、クリスパーのような技術と、それまでの遺伝子組み換え技術との違いそのものに起因する新たな問題もあるようだ。例えば、自然界にも稀に突然変異で『白いカエル』は出現する。これはクリスパーによって、今後比較的簡単につくることができると言われている。ところが、クリスパーで作ったのか自然界で偶発的にできたものなのか、区別する術はないという。偶然1匹見かけただけならともかく、バケツいっぱいに白いカエルがいれば、人為作用を疑うことにもなろうが、悪意のある行為者が秘匿しようとすれば出来てしまうとなると、何らかの歯止めを設定するにしても、具体的にはどうすればいいのか、大変悩ましい問題になる。


しかも、研究者や企業の立場で言えば、自然界に出現する可能性のあるようなものを、場合によっては人類への多大な貢献が見込めるにも関わらず、過剰に萎縮して自主規制してしまうのでは、むしろデメリットの方が大きいのではないかとの意見も出て来ているという。



『倫理』と言っても・・


高度な人工知能について議論するにあたってもそうだが、議論が行き詰まると『倫理』が重要になると誰もが言う。だが、その重要なはずの倫理やその背景にある思想、あるいは、宗教の諸相について、少数の、それこそ『専門家』を除けば、一般人が真剣な議論を交わしているところをついぞ見たことがない。どちらかというと、現代では思想や宗教等については、よほどの問題(テロや破壊行為等)を起こさない限り、多様性と個人の選択の自由を認め合うことが是とされる方向だろう(つまりどうせ喧嘩になるから議論しないのが賢明、ということだ)。そしてそれは必ずしも悪い方向ではない。特定の思想や宗教を強要するとろくなことにはならないことは歴史の教訓とも言える。だが、そうだとすると、異なる思想や宗教を背景とした人々が倫理において合意できるものなのだろうか。いわば『人類共通倫理』とでもいうべきものが、普段まったく議論もしていないのに、いきなり見出せるものだろうか。甚だ心もとない。


だからこそ、特定の思想や宗教とは切り離して、せめて『人類の生存』『人命の尊重』という一線で合意したいところなのに、それさえ合意が難しくなるケース(オウム真理教や、イスラム系テロリスト等)もあるというのだから、本当に厄介な時代になったものだ。


だが、どうにもならないかもしれないが、どうにもならないと投げ出してしまっては、それこそどうにもならない。一人一人が、せめて自分が対処できる範囲で答えを出す努力をやめないようにすることを習い性にしないことには始まらない。そういう自分も、今更ながらではあるが、昔を思い出して、倫理、思想、宗教等についても、できる限り探求してみようと考えている。そんなにのんびりしている場合ではないのかもしれないのだが・・・。

情報通信白書を読んで考えてみたこと

 情報通信白書 読書会


先日、国際大学GLOCOMで行われた、『平成28年版情報通信白書』読書会に参加してきたので、それをきっかけして考えたことをここにまとめておこうと思う。


イベントの概要は下記の通り。


<日時>
2016年8月10日(水)15:00〜17:00

<講師>
柴崎 哲也(総務省情報通信国際戦略局情報通信経済室長)

<コメンテータ>
砂田 薫(国際大学GLOCOM主幹研究員/『情報通信白書』編集委員

<会場>
国際大学グローバル・コミュニケーション・センター

『平成28年版情報通信白書』読書会【公開コロキウム】 | 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター



 気づきを得ることができる白書の読書会


情報通信白書のような資料は、毎年同時期に発表される最新の総括的なデータ集として、多数のデータの束で切り取られた現在を一覧し、同時に、昨年との差分に注目することで、その背景にある動向を知るきっかけとして大変重宝することもあり、ここ数年発表されると同時にチェックすることにしている。


このような分厚い白書を読み込むにあたっては、自らの先入観や思い込み、勘違い等が妨げとなってしまい、それを是正するどころか強化してしまうことも少なくないため、読書会のような場を設定していただけることは非常にありがたい。白書の編集責任者の作成の意図や方針、あるいは裏話等が補助線として大変参考になることは言うまでもないが、時にはそれ以上に会場の参加者の質問にハッとさせられることも少なくない。幸い今回もそのような貴重な気づきを得ることができた。この場を借りて感謝申し上げたい。



『常識』が妨げになる?


今回は、従来の白書と比較しても、その取扱い範囲はかなり拡大されており、AI(人工知能)、IoT(モノのインターネット)、ビッグデータ等の将来予測にまで言及している。確かにこれらの技術はどれも情報通信技術と渾然一体となりつつある現状を勘案すれば情報通信白書が取り扱うことも必然とも思えて来る。だが、AIにしても、IoTにしても、それぞれに技術的にも、社会の側での需要/受容についても、かなりのレベルの専門性がなければ、そもそも予測を行うこと自体が難しいし、専門家といっても、すべての領域をカバーできるわけではない。加えて、白書の場合、読者の層を狭く限定することはできないだろうから、あまりに斬新な発想を入れることは難しく、どうしても広範囲の読者を相手にして、皆が理解できる程度にまでレベルを調整する必要もあるはずだ。このような前提条件のもとでは、誰が担当しようと大変な労苦を伴う作業となったであろうことは容易に想像がつく。


この結果、やや気になるのは『常識バイアス』だ。常識の範囲内でまとめあげようとの意図が(意識的であれ無意識的であれ)これらの技術の内包する底の計り知れない深淵を覗かせず、議論を穏便な、常識的なレベルに押し留めている印象がある。現代のような破壊的な技術進化の時代には、それ以前の『常識』や『パラダイム』が未来を予測するにあたっては参考にならないばかりか、妨げになってしまうことが多く、それまでの『常識』から如何に自由になれるかどうかで、未来予測の精度は決まるといってもいいくらいだから、これは読む側にとっては見えない壁になりかねない。


『常識バイアス』の実例は、インターネット普及前と普及後を比較すれば、いくらでも見つけることができる。例えば、それ以前の常識が完全に覆った象徴的な事例に、Wikipediaの成功がある。かつては百科事典の類は、専門家によって執筆/監修され、出版社によって発行される一方向からのものであり、それ以外の可能性など想像すらできなかった。だから、当初Wikipediaが出てきて、誰でも執筆や編集に参加できると聞いた時、百科事典と同列に比較すること自体、馬鹿馬鹿しいと誰もが思ったはずだ(恥ずかしながら私もそう思った)。だが、今でも信頼性に問題ありとする意見は根強いとは言え、Wikipediaは規模としては世界最大の百科事典となり、信頼性や正確性でさえ従来の百科事典と比較しても遜色ないと評価されるまでになった。


ソフトウェアについても、従来はマイクロソフトWindowsのようないわゆる、プロプライエタリ・ソフトウェア(ソフトウェアの配布者が、利用者の持つ権利を制限的にすることで自身や利用者の利益およびセキュリティを保持しようとするソフトウェア)が主流であり、その頃は、オープンソース・ソフトウェアは、『市場の片隅で行われている物好きのお遊び』と酷評する向きもさえあったものだが、現在では、軍事や社会インフラなどの高度なセキュリティを要求される特定の分野を除いて、オープンソースの方が主流になりつつある。


このような価値転換を事前に予測することは極めて困難であったが、最大の障害は、その当時の『常識』だったことは、今となっては明らかだ。


今後はインターネットによる変革をはるかに上回るドラスティックな価値転換が起きてくることは確実だ。この価値転換、あるいは、新しい常識の出現につき、何らかの(そしておそらくはかなり斬新な)仮説を提示しない限り、未来予測自体が成立しないと言わざるをえない。そのあたりを白書のような刊行物に求めるのは、過大な期待ではあろうが、一方で大変意欲的な切り口が提示されていて、読む側を非常に刺激する内容であるだけに、期待も過剰気味になってしまう。



 解明しておくべき『シェア』の概念


もちろん、白書にも今後の価値転換の中核とも言える『シェア』等の概念も扱われている。今後はもっと『シェア』が一般的になり、資産保有から資産利用へのシフトが進むと予測している。タクシー配車サービスのUberや宿泊施設・民宿を貸し出す宿泊予約サイトAirbnbの成功もあって、シェアはすでに常識になりつつあるといってもいいのかもしれない。ただ、この『シェア』だが、旧来の『シェア』とは概念自体も、それが浸透するプロセスも、かなり様相が違ってくると考えられる。それを明らかにしておかなければ近未来の価値転換の本質を理解することは難しいように思う。


ある年代以上の人多くは、いまだに『シェア』が新しい常識になるとは本音のところでは信じていない。それどころか、そのような概念は泡沫のようなもので、決して社会に根付くような種類のものではない、という『常識』というか、『信念』を持っている人が多い。従前のインフラを前提とすれば、資産の分配や利用について、市場を介さない(貨幣経済の助けを借りない)『シェア』が機能するとすれば、何らかのコミュニティによる調整機能が必要ということになる。そして、コミュニティの信頼関係、贈与、相互扶助等が『シェア』実現の前提条件となると考えられる。だが、現実にはどんなコミュニティであれ、内部での人間関係の軋轢を避けることは難しく、支配/被支配関係に悩まされ、利害関係の調整に骨が折れ、結局うまくいかないことが多い。だから、結局のところ『シェア』はマイナーな存在であり続ける、それが旧世代の『常識』だ。


だが、今後主流になってくるであろう『シェア』は、既存の市場を補完するプラットフォームが構築され、プラットフォームが介在することで後押しされることになる。『シェア』をめぐる諸相は一変すると考えられる。


 生態系化するプラットフォーム


『WIRED』誌の創刊編集長をつとめ、技術分野の未来予測に関して重要な著作を持つ、ケヴィン・ケリーの新著『<インターネット>の次に来るものー未来を決める12の法則』*1には『必ず起こる未来』が取り扱われていて、『シェア』の本質を考えるにあたっても、非常に示唆に富んでいる。(ケリーは『テクノロジーには、ある方向に向かっていく趨勢していくというバイアスがある』としたうえで、このバイアスを見極めれば、『必ず来る未来』が予測できると言う。)


ケリーが第三世代と定義する最新のプラットフォームは、市場でも組織でもない、何か新しいものになりつつある。その基盤上で他の組織にプロダクトやサービスを作らせ、相互に高いレベルで相互依存する、いわゆる『エコシステム=生態系』が形成される。各プラットフォーマーは、そこにできるだけ豊な『エコシステム』ができて、参加者が増えることで自らの価値が高まることを理解しているから、APIをどんどん公開し、フリーやシェアで使えるものを増やし、サードパーティーがそこで動くプロダクトやプラグインが可能な限り増えるよう、敷居を下げる。そのプラットフォームの持つ性質が『シェア』促進の起爆剤となる。

プラットフォームはそのほとんどすべてのレベルにおいて、シェアすることがデフォルトとなる。ーたとえ競合が基本にあったとしてもだ。あなたの成功は他者の成功にかかっている。プラットフォームの中で所有の概念に固執するのは、「個人の財産」という考え方を前提とするため問題を引き起こす。エコシステムでは「個人」も「財産」もあまり意味をなさないからだ。より多くのものが共有されるにつれ、財産としての意味はなくなっていく。プラットフォームの中で、プライバシーが失われ(個人の生活がいつもシェアされる)、海賊行為(知的財産権の無視)がさらに増えることが同時に起こるのは偶然ではない。(中略)脱物質化や脱中心化や大規模なコミュニケーションはすべて、さらなるプラットフォームを生み出していくことになる。プラットフォームはサービスの工場であり、サービスは所有よりアクセスを好むのだ。

『<インターネット>の次に来るもの』より


さらには、今後は、情報やコンテンツだけではなく、自動車のようなプロダクトでさえ、デジタル情報に還元され、クラウドに蓄積され、利用のためのコストは下がり、個人の所有物という孤立した領域から離れ、AIやその他のクラウドの利点を全面的に活かせるような共有されたクラウドの世界へと移っていくクラウドとAIは一体化し、そのメリットが大きくなればなるほど、デジタル情報化/クラウド化は進むことになる。その結果、資産保有より資産利用のメリットがスパイラル的に向上していくことになる。



 所有からアクセスにシフトする『自己』


これまでは、あるモノ(例えば自動車)を他人に妨げられることなく自由に使うためには『所有』する必要があった。自分が所有するモノには、愛着も出てくるだろうし、場合によっては一種のフェティシズム(物品や生き物、人体の一部などに引き寄せられ、魅惑を感じること)のような感情も湧くことになる。このようなモノをいきなり『シェア』してくれと言われても、いかに経済的な合理性があったとしても、いかに、綺麗に、壊れないように使われたとしても、持ち主は(しばし説明のしにくい)自らの身体を侵食されるような不快な感情を払拭できないはずだ。モノはいわば拡張された自己だったといえる。


ところが、今後は(すでに?)仕事もあらゆる楽しみもすべてクラウド上にあって自分とつながることになる。そうなるとクラウドが拡張された自己になり、そこにアイデンティティーが形成されることになる。ケリーは、拡張された自己は所有するものではなく、アクセスするものになると述べる。そして、十代の娘に約束を破ったお仕置きとして、彼女の携帯電話を没収した友人夫婦の例を紹介している。その娘は気分が悪くなって吐いたという。彼女はまるで自分の体が切断されたように感じたのだ。すでに十代の若者にとっては、クラウドによって得られた快適さや新しいアイデンティティーから引き離されることは恐ろしく耐えがたいことになっていると考えられる。


ここでは、『シェア』は『常識』だが、その『常識』は旧来の延長上にはなく、誰しも想像もできなかったものとして生起しつつある。ここまで踏み込んで初めて、『シェア』の概念を通じて見えてくる未来の本当の意味がわかってくる。


 非貨幣的価値と公共政策の方向


少々脱線が過ぎた気がするが、再び白書に戻ると、今回の白書で、私が最も興味を魅かれ、かつ、評価したいたのは、消費者のICTの非貨幣的価値に言及している部分だ。AIのような先端技術の進化の負の側面として、AIが既存の人間の仕事を次々と置き換えていく結果、その変化についていけずに大量に失業者が出たり、貧富の差が広がり、貧困の問題が深刻になる等の指摘がある。企業主導で技術進化が進む限り、弱者が置いていかれる可能性は常にあるわけだが、これが極端に進む懸念がある。


ところが、一方で、ICTの進化は、副産物として消費者にとっての非貨幣的価値を数多く生むと白書は指摘している。これはここまで述べてきたような、プラットフォームの生態系化が必然的に生み出す副産物ともいえる。白書では、これを経営学者のエリック・ブリニュルフソンの『ザ・セカンド・マシン・エイジ』*2より事例を取り上げて整理し、次のような一覧表を作成して掲載している。


社会で競争が続く限り、技術進化のスピードを押しとどめることは原則難しい。であれば、むしろそれを受け入れた上で、このような副産物を最大限に利用することを検討するほうが賢明だ。近未来の社会政策の中核として取り組むべき課題ともいえる。B to B(ビジネス to ビジネス、企業間取引)あるいは、B to C(ビジネス to 消費者)の仕組みとしてスタートしたはずのプラットフォームは、生態系化が進むうちに、C to C(消費者 to 消費者)のインフラとしての利便性も格段に向上していくであろうことも、この表からも読み取れるはずだ。それはまた、消費者と消費者の交換、すなわち『シェア』が促進されていくことが暗示されているともいえる。


また、現在では、『初期のインターネットの理想や夢』(ヒッピー的な理想主義:相互扶助や贈与で運営されるコミュニティの形成、完全な民主主義の実現等々)から皆が覚めて、あつものに懲りて鱠をふくような空気があるが、ライターのスティーブン・ジョンソンが著書『ピア: ネットワークの縁から未来をデザインする方法』*3で、『コミュニティ内の情報の流れと意思決定をコントロールする力を人にたくさん与えれば与えるほど、社会の健全性が向上する。その向上は漸進的で間欠的だが、確実に起こる』と述べているように、まだ夢のすべてを諦めてしまうのは早計だし、生態系化するプラットフォームはそのような夢の実現を再び後押しする予感もある。企業であれ、公共機関であれ、もっと小さなコミュニティであれ、少数のリーダーに権力が集中しすぎると、ハイエク社会主義体制の中央集権的計画立案者に見出したのとまったく同じ問題にぶつかることになる。意思決定に関与する人のネットワークを拡張して多様化したほうがうまくいくケースはいくらでもあるはずだ。そういう意味ではまだ未踏の領域はたくさん残っている。


このように考えていくと、低所得者や社会的弱者にこのような恩恵が及ぶような政策は不可欠ということになる。会場からの質問にもあったが、白書によれば、年収400万円以下の層のインターネット利用率は低いだけではなく、低減傾向にあるが、これは実に困った兆候ということになろう。次年度の取り組み課題として、この辺りはもっとクローズアップしていくべきだろう。


白書を通じて、私の思考(妄想?)も膨らむだけ膨らんだ感じだが、そのような思考や想像の翼を広げるきっかけとなることは大いに期待してよいと思う。そういう意味でも、この白書を熟読してみることを、あらためておすすめしておきたいと思う。

*1:

〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則

〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則

*2:

ザ・セカンド・マシン・エイジ

ザ・セカンド・マシン・エイジ

*3:

ピア: ネットワークの縁から未来をデザインする方法

ピア: ネットワークの縁から未来をデザインする方法

日本発のネット関連サービスを再び世界へ


 日本発のネット関連サービスの勝ち組


『日本の発のインターネット関連サービスの海外進出による成功はどうすれば可能なのか。そもそも可能性があるのか。』


これは本来とても重要な問いだと思うのだが、さびしいことに昨今ではそのような問い自体が少なくなってしまったという印象がある。それどころか、肝心の日本市場でさえ、強大な外資企業に伍して日本発のサービスが生き残ることができるかどうかがもっと差し迫った重大な課題だったりする。SNSサービスのmixiのように、一旦は日本市場で不動の地位を築いていたはずだったのに、いくつかのサービス設計上の判断ミスが重なったと思ったら、瞬く間にFacebookTwitterのような米国発のサービスに圧倒されて衰退してしまった事例は記憶に新しい。


もちろん、今の日本にもいくつかの優良なサービスがある。例えば、動画共有サービスの『ニコニコ動画』、ネットショッピングの『楽天市場』、メッセージサービスの『LINE』、その他にも口コミ情報からグルメ情報を探せる『食べログ』、料理レシピのコミュニティサイト『クックパッド』等、いずれも日本のユーザーの嗜好や特性を十分に理解した上で設計されたサービスで確固たる地位を築いている。


特に、ニコニコ動画にはYoutube楽天市場にはAmazon、LINEにはFacebookメッセンジャーなど、市場に強力な主要米国大手IT企業、いわゆる、GAFA(GoogleAppleFacebookAmazonの略)のサービスがありながら、押し流されることなく堂々と渡り合っているといえる。もちろんクックパッド食べログとて、Googleの検索やFacebookの友人からの情報等、代替手段が沢山ある中で、日本人の機微に触れる情報やサービスを提供して健闘している。


ソニーやシャープ等のかつては世界市場を席巻した優良企業でさえ、GAFAの攻勢に耐えかねて負け組に転落していく中、これらの日本企業が過激とも言える競争環境で生き延びていく姿は、颯爽としており、また、ここには他企業にとっても重要なヒント/教訓が潜んでいるように思えて、ずっと以前から注目してきた。



 勝っている理由


では、日本市場における『勝ち組』の勝っている根本的な理由、『コア』と言える理由は何だろう。すでにある程度評価も定まってきているこれらのサービスについては、様々な説を見つけることができる。多少異論もあるかもしれないが、大方下記のような説明が一般に認知されている内容といってよいのではないか。


ニコニコ動画

初音ミクなどの『ボカロ曲』や、それらを『歌ってみた』『踊ってみた』動画といったニコ動の人気コンテンツに見られるような、日本の独特なオタク系のテーストに溢れたコンテンツがコアなファンに熱狂的に受け入れられている。


LINE:

もともと日本人のコミュニケーションは、言語で厳密な意味を伝えるより、何気ない気持ちや感情を身振りや素振り等非言語的な表現方法を駆使して伝え合うことを好む傾向が見られるが(言葉を使いすぎることは無粋)、そこにエンタメ性を帯び、日本人の感性にジャストフィットしたスタンプのようなツールを持ち込み、それが新感覚のコミュニケーションとして特にバイラルを生みやすい若年女性を中心に口コミで広がった。


楽天市場

物を売り買いする際にも、必要最小限で事務的なコミュニケーションより、店員や居合わせた客との濃密な会話や一期一会の出会いを楽しむことを大事にして、買う物を時間をかけて選ぶことを楽しむ日本人の性向にフィットした仕組みを、ネット通販の場に持ち込むことに成功した。


効率性、ローコスト、ハイ・スピード、シンプルな使い易さ等、世界中の誰でも簡単に使うことが出来きるような、仕組みを設計することは、米国発のIT企業が最も得意とするところであり、日本市場でもそのようなサービスの多くは成功しているが、それに味気なさを感じてしまうユーザーが日本には少なくないこともあり、それを理解してサービス設計できる日本企業には独自の参入障壁を構築することが可能になる。すなわち、GAFAの出自である米国と、日本との間には明確に文化の違いがあり、これをうまく利用することは、ネットサービスにおける参入障壁構築に有効と考えられるということだ。この『違い』については、すでに言い尽くされた感もあるが、このようなケースでは、ローコンテクスト文化(米国)とハイコンテクスト文化(日本)という対比によって語られることが多い。



 ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化


ハイコンテクスト文化というのは、文化人類学者のE・H・ホールが定義した文化の区分の一つで、コミュニケーションに際して共有されている体験や感覚、価値観などが多く、『以心伝心』で意思伝達が行われる傾向が強い文化のことをいう。日本文化は、『空気を読む』ことや、『状況を察する』ことが重視されることにみられる通り、典型的なハイコンテクスト文化であり、それに対して、米国のように言語による意思伝達に対する依存の強い文化をローコンテクスト文化という。


それぞれ、下記のような特長が指摘されている。

ハイコンテクスト文化

直接的表現より単純表現や凝った描写を好む
曖昧な表現を好む
多く話さない
論理的飛躍が許される
質疑応答の直接性を重要視しない


ローコンテクスト文化

直接的で解りやすい表現を好む
言語に対し高い価値と積極的な姿勢を示す
単純でシンプルな理論を好む
明示的な表現を好む
寡黙であることを評価しない
論理的飛躍を好まない
質疑応答では直接的に答える

ハイコンテクストとローコンテクストの違い


日本では、より短い言葉で多くの状況や気持ちを表現方法することが美意識に叶うと感じる人が多く、語りすぎることことは時に無粋であり、美しくないと感じる傾向がある。もちろんこれは日本の文化、コンテクストを共有できていることが前提となっており、非常に閉鎖性が強いコミュニティケーションであることは言うまでもない。日本人、乃至日本文化に慣れてしまった人は、コンテクストフリー(関係や状況やに左右されない)のコミュニティケーション・スキルが必要とされるグローバル・エコノミーの戦場では不利になりがちだ。これは、時に、ツールとしての英語が苦手、という以上の障害になる。


世界市場に日本で設計されたサービスを直接持ち込んでも、ローコンテクスト文化の地では受け入れられにくいと考えられるし、同じハイコンテクスト文化の地であっても、日本との文化の違いが大きければ、そのままで受け入れられるとは限らない。場合によっては、無用な摩擦やトラブルを招くこともあるかもしれない。



 日本の勝ち組でさえ・・


ここで例にあげた日本における勝ち組も、それぞれ海外進出にチャレンジしている。しかしながら、残念なことにどこも捗々しい実績をあげているとは言い難い。この中では、LINEは、少なくとも海外進出で一定の成果を出してはいる。だが、 当初は、Facebook等を向こうに回して、世界市場を席巻することを宣言していたし、現実にその予感を感じさせられたこともあった。日本はハイコンテクスト文化という意味では最右翼ともいえる存在だが、世界には日本以外にもハイコンテクスト文化はいくらでもあり、ローコンテクスト文化な国家の内部にも、ハイコンテクストを好む一派やコミュニティはある。そこに『スタンプ』に代表されるコミュニティケーションツールやノウハウを提供すれば、十分世界で勝負できる、というふれこみだった。私も大いに期待していた。


しかしながら、それから数年経って、LINEが米国および日本で上場を果たし、その晴れがましい場で再び語られる世界戦略は、現在高いシェアを取っている数カ国、すなわち、台湾、タイ、インドネシア等で、メッセージサービスを軸に様々な事業に多角的に取り組んでいくというような、地域特化型戦略あるいは多角化戦略だ。世界市場全体でのメッセージサービスのシェアを上げていくという旗は降ろしている(完全に降ろしていないのかもしれないが、少なくとも優先度は下がっている)。堅実ではあるが、自ら限界を認めてしまった感がある。


もちろん、このアプローチの難易度が低いなどと述べるつもりは毛頭なく、当然熟達したローカライズ戦略/戦術が必要となるが、こちらは韓国にあるLINEの海外事業を一手に引き受ける『LINE+』に蓄積と実績があり、おそらくうまくやってのけるだろう。余談だが、LINEの経営の本体は韓国にあり、あくまで韓国系企業だが、今でもLINEを日本企業と感じているユーザーは多い。『韓国企業』の影やテーストを徹底的に消して、ユーザーがLINEを日本企業と感じるように仕掛けたローカライズの努力と実績は、賞賛に値する。


日本を代表するオンラインゲーム会社である、greeDeNAも華々しく打ち上げた海外進出は大方頓挫したと言わざるをえないし、そもそも官民挙げて大々的に推進していた、『クールジャパン』の海外展開についても、まったく消えてしまったとまでは言えないものの、すっかりトーンダウンしてしまった。



 諦めるのはまだ早い


やはり、日本の文化を活かしたサービスやコンテンツは、外資の日本市場参入障壁を阻む壁にはなったとしても、こちらから海外にその価値を訴求していくことは難しいということなのだろうか。


そうではない。諦めるのはまだ早い。少なくとも私はそう考えている。


そもそもクールジャパンのお祭り騒ぎにみられるように、はしゃいでいる自分たち自身、本当のところ何が起きていたかよく理解できていた人は少なかったのではないか。海外でオタク・コンテンツが受け入れられているといっても、その原因分析もできていたとは言い難い。まして、その背景にある、日本の文化の本質と多様性を理解できていた人がどれだけいただろうか。


例えば、 この夏、ポケモンGOが大流行しているがその理由をわかりやすく説明できる人がどれだけいるだろうか。すでにそれなりの説明も出てきているが、正直なところ、納得のいくものにはまだお目にかかったことがない。ポケモンGOは、日本では数年前に流行った『位置ゲー』であり『ARゲーム』だが、当時と比較しても、極端に目新しいわけではない。また、昨今、日本で生まれた『絵文字』がそのまま英語で『Emoji』として認知され、世界中に広まっているという。ローコンテクスト文化のはずの米国でも最近では非常に盛り上がっているというのだ。絵文字など、日本での流行はとっくに終わっているし、その発展系とも言える『スタンプ』でさえ、最盛期の盛り上がりはすでに過ぎている。『位置ゲー』『ARゲーム』『絵文字』と今更言われても、と感じている日本の関係者は多いはずだ。『米国ではスタンプは受け入れられなかった』との認識は、この業界の常識として受け入れられきた。もしかすると、私たちはまだ豊穣な可能性を前に、ただ呆然とすくんでいただけなのではないか。まだ、やれることは沢山あるということではないのか


さらに言えば、米国文化を背景にしたグローバルエコノミー/ローコンテクスト・コミュニケーションは確かに世界を覆いつつあるが、一方で、IS(イスラム国)の拡大、英国のEU離脱、米国の共和党大統領候補のトランプの躍進等、反動とも言える『主権回復・自立・個別文化重視』の方向も大きな流れになりつつあるといえる。経済、法、文化は社会の中での役割は違うし違うベクトルを持つ。効率性を重視する経済の仕組みや商法の統合等は一元化のメリットはあるが、文化は多様化=豊かさであり、その共存は本来不可能ではないし、世界は今それを志向していると言えるのではないか。



 予期せぬ成功の窓から見えるもの


経営の神様、ドラッカーは著書『イノベーションと企業家精神』*1において、イノベーションや革新の機会を見つけることができる窓、『イノベーションの7つの窓』というのを紹介していて、その一番初めに『予期せぬ成功・予期せぬ失敗』をあげている。クールジャパンも、ポケモンGOも、Emojiにしても、いずれも典型的な『予期せぬ成功』と言えよう。この予期せぬ成功という窓は、当事者ほど無視し、せっかくの機会を失ってしまう傾向があると言われるが、今こそ、その窓からイノベーション/革新を見つけるべくしっかりと取り組んでいくべきだろう。すくんで縮こまっている場合ではない。今は再び立ち上がるべきときなのだと思う。

*1:

イノベーションと企業家精神【エッセンシャル版】

イノベーションと企業家精神【エッセンシャル版】

『日本の課題を読み解く わたしの構想1(NIRA編)』を使い倒してみよう

NIRAの研究活動が一覧できる


先日、NIRA(総合研究開発機構)から発刊されている『日本の課題を読み解く わたしの構想1』*1という冊子をいただいた。私自身、ここの研究活動の一端に参加させていただいているので、本書について記事を書くことは、一種の「マーケティング」とならざるを得ないことはあらかじめお断りしておく。


本書はNIRAが取り組む研究分野ごとに、その分野の専門家にインタビューを行い、その結果をコンパクトにまとめて一冊に編集する、という構成になっている。目次を見ると、現在NIRAが取り組んでいる研究活動の全体像を一覧することができ、それぞれのCHAPTERに並ぶ専門家のインタビューを読むと、その分野で交わされている多彩な議論の一端を知ることができる。

コンテンツの概要は、以下をご参照いただきたい。
日本の課題を読み解く わたしの構想I|NIRA 総合研究開発機構 編


私自身、本書を拝読してあらためて驚いたのだは、この研究機関の活動の幅広さだ。(私が関わっているのは全体の中のほんの一部に過ぎない!)そして、インタビューを受けている専門家のレベルの高さだ。もちろん、私自身は本書に登場する専門家のすべてを知るわけでもなく、自分の知る分野でなければ論評することもはばかられる立場でしかないが、少なくとも私の知る限りで言えば、これはなかなかのものだ。この組織の底力を感じてしまう。



価値を汲むためには


但し、いかにコンパクトに整然と並べてあるとはいえ、これほど広い活動の多彩な議論をわずか150ページ程度の冊子に詰め込むのはやはり無理もある。どうしても、簡易カタログ的になっていることは否めない。読む側の問題意識や知見がかなり高いレベルに達していないと、本書の価値を汲むことは難しいかもしれない。


だが、編集する側にその責を問うのはやや気の毒な気もする。どちらかと言えば、現代の重要な問題群にはいかに様々な要素が複雑に絡みあい、場合によっては相互に矛盾して見え、トップレベルの専門家や識者であっても驚くほど見解に相違が出てしまうという現実の写し鏡となっていると理解すべきだろう。


そのことが理解できる読者なら、どこかで聞いたようなステレオタイプで、誰が読んでもわかりやすい言説など辟易しているだろうから、仮に自分とは見解が違っても、個性的でクリアカットな言説や論者を見つけることができるほうが、よほど有益であると考えているはずだ。そして、そんな読者であれば、一見全く関係なさそうなインタビュー記事の羅列にさえ、背後に緊密に絡み合う『見えない糸』を発見し、編集者さえ意図しなかった意味を次々に見出していくに違いない。



人工知能に関連する専門家5人


ちなみに、私自身も関わったのは、『CHAPTER05 人工知能の未来』だが、ここに登場する5人の専門家の名前をあらためて見てみると、実にユニークで絶妙なセレクションだ。それぞれに一家言あり、しかもその背景に人工知能を語る上で欠かすことのできない『知の蓄積』を持ち、各人がその分野を代表している(私の説明の都合上、実際に登場する順序とは少し変えてある)。


松尾豊  東京大学大学院工学系研究科 特任准教授
新井紀子 国立情報学研究所 情報社会相関研究係 教授・社会共有知研究センター長
小林雅一 株式会社KDDI総研 リサーチフェロー
塚本昌彦 神戸大学大学院工学研究科 教授
佐倉統  東京大学大学院 情報学環


ご存知の通り、現在この分野は爆発的に情報が増大しており、この5人以外にも有力な専門家や識者も数多いことは確かだが、あなたが今この分野に興味を持ち、これから探求しようと考えているなら(あるいはこの中に知らない人がいるのなら)、まずこの5人の言説をできるだけ多く集めて、精読してみることをおすすめする。決して期待が裏切られることはないはずだ。


松尾豊氏は現在の日本の人工知能研究の中心にいるといっていい。松尾氏の最新の発言をフォローしておくことで、その時点における最新の人工知能の技術レベルと今後の見通しを知ることができる。特に、松尾氏の『未来予測』は、数ある予測の中でも最も信頼性が高く、『スタンダード』と言ってよいのではないか。ただ、松尾氏の『未来予測』を片手に、現実に起きていることを綿密にチェックしているとわかることだが、実際の技術進化は、松尾氏の予測よりどんどん前倒しになって来ている。それは本人も認めていることだが、そのような進化も織り込んで『未来予測』は逐次更新されている。


http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12601000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Shakaihoshoutantou/0000113714.pdf


そんな松尾氏であっても、社会科学の知について言及する際には、思わぬ勇み足もある。例えば、MITメディアラボ所長の伊藤穰一氏との対談において、松尾氏が次のように社会主義国家について述べる機会があった。

松尾:今後社会主義国家が強くなると思う。社会主義国家というのは、努力に応じてみんな再分配し、できるだけ平等であるべきだという理想に基づく社会システム。ところがフリーライダーが出てくることで、人々は頑張らなくなり社会主義の国はおかしなことになってしまった。AIや機械が人々の労働を認識できるようになると、ホワイトカラーの労務管理も変わってくる。今までは成果報酬か時間給しかなかったのが、努力に応じて報酬を出す、というのができるようになる。努力に応じて配分すると理想ができ努力に応じて富を配分することも可能になる。
【伊藤穰一×松尾豊】激論:人工知能とデジタル通貨をめぐって | Biz/Zine


ところが、早速、『ロボット弁護士』としても知られる、花水木法律事務所の小林正啓弁護士からのクレームがついた。人工知能が実現するのは「理想の社会主義国家」か


確かに、松尾氏の『AIによって人々の労働の努力に応じて報酬を出す』という言い方もそうだし、そもそも社会主義国家の理想とは何か、社会主義の理想実現が人類社会にとって良いことなのか等、突っ込みどころが満載ではある。松尾氏ほどの研究者であっても、人工知能に関わるあらゆる分野を一人でカバーできるわけではなく、特に人工知能と社会との関係を考えるにあたっては思わぬハードルが沢山待ち構えていることを小林氏の指摘は示唆している。


新井紀子氏は、昨今では『ロボットは東大に入れるか』のプロジェクトディレクターとしても有名だが、数学者の立場から、人工知能の得手不得手を見極めるリアリズムに説得力があり、将来の人間の役割についてもあらためて考えさせられる。
CROSS × TALK データを活かした社会の知 (1/8) | Telescope Magazine


小林雅一氏については、何より著書『AIの衝撃 人工知能は人類の敵か』*2が秀逸だ。人工知能問題に取り組むにあたっての最大の困難は、短時間に状況が驚くほど変わってしまうことで、2015年3月に発刊された本書は最新とはいえないのは確かだが、それでも(特に初学者にとっては)ビジネス社会における人工知能インパクトや問題の所在等を一渡り把握することができる。


塚本昌彦氏は、私は直接お会いしたことはないのだが、氏の異名である『ウェアブルコンピューティングの伝道師』はその異形とともに以前から知っていた。しかも人間と人工知能との関係、将来像について大変興味深い発言が多く、注目もしていた。塚本氏が指摘するように、今後人工知能と脳や感覚器官は直接接点を持っていくことが確実で、そのような観点からの探求も不可欠であることを教えてくれる。


佐倉統氏は社会と科学技術の関係について造詣が深い。佐倉氏は『日本の課題を読み解く わたしの構想?』の記事における『読者に推薦する1冊』として、ケヴィン・ケリーの『テクニウムーテクノロジーはどこへ向かうのか?』*3を選んでいるが、技術の進化について驚くべき思想を展開するこの非常に難解で謎めいた書物は、社会と人工知能の未来の問題を思索する者にとっては必読書だ。


5人は最適な入り口と申し上げたが、それは5人で全て足りているという意味ではない。ただ、この入り口を通った後には、次に誰の意見を聞いてどの著作を読むべきか、視界が驚くほど開けてきているはずだ。



自分で書き込んでみる


どの問題でもそうだが、一番大事なのは自分自身で考え、探求していくことだ。どんなに優れた意見であれ、他人の意見を読んでいるだけでは、知識を自らの智慧とすることは望めない。本書の最終章は、『YOUR VISION 6人目の識者として、考える。』となっており、読者自身の構想を書き込めるように、空欄になっている。できれば、ここが真っ黒になるくらい自分で書き込んでみて、疑問が出てきたら、NIRAにどんどん質問すればよい。それはNIRAの関係者を良い意味で刺激し、この研究機関のレベルを上げていくことにつながると確信している。

*1:

日本の課題を読み解く わたしの構想?  ―中核層への90のメッセージ―

日本の課題を読み解く わたしの構想? ―中核層への90のメッセージ―

*2:

AIの衝撃 人工知能は人類の敵か (講談社現代新書)

AIの衝撃 人工知能は人類の敵か (講談社現代新書)

*3:

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

東京への人口一極集中の必然とメリットを理解すべき時が来ている


 進む東京への人口の一極集中


総務省発表による今年1月1日時点の人口動態調査によると日本の人口は7年続けて減少し、特に今年は、前年から27万1834人減り、調査を始めた1968年以降で最大の減少数だった。 一方で、東京を中心とする首都圏の人口は前年比11万人近く増加しており、特に東京はそのうち8.6万人を占め、初の1,300万人台を目前にしている。しかも、東京圏の人口の増加ペースはこの数年上がってきている。関西圏、名古屋圏ではともに減少傾向が続いているというから、東京一極集中に拍車がかかっているということになる。日経新聞では、この理由について、『都市部に人が集まる傾向は年々強まっている。働く場や商業施設が多く、住みやすい環境を求めて人が集まってくるためだ』と述べている。

東京圏への人口集中加速 13年、9万6000人流入 :日本経済新聞



 理由がうまく説明できない?


だが、一方で若者たちに東京離れの傾向が出はじめていることは、繰り返しメディアでも取り上げられてきた。若者の○○離れ 今度は地方高校生の東京離れがはじまる? - エキサイトニュース
『景気が悪い状態が長く続き、親世代が子世代を東京など遠くの大学へ出せなくなったことや、若者たちが知らない場所で暮らすことに対し恐怖心を感じていることなどが理由』だという。若者は東京離れの傾向があるのに、どうして都市部に人が集まる傾向は強まっているのか。東京が『住みやすい環境』だからなのか。


だが、本年2月には、『保育園落ちた日本死ね』というブログの投稿記事が非常に話題になったが、東京都内だけでも7,800人(平成27年4月現在)に上る待機児童がおり、解消はほど遠いと言わざるをえない。この結果、神奈川県や千葉県など都市部周辺では25〜44歳の女性の労働力率が相対的に低いという。人口が集中すればするほど、待機児童問題は悪化していくから、都心に住む女性にとっては働きづらい環境のはずだ。


しかも、今急速に進行しているのは、高齢化だ。高齢者のための介護施設の不足は今でも非常に深刻だが、今後はその度合いが極端に上がっていくことは確実だ。待機児童問題と同様、人口が集中すればするほど、状況は悪化することは火を見るより明らかだ。


そもそも東京に一極集中すれば、不動産コストは上昇するから、個人の住宅もさることながら、企業のコストも上昇することになる。その一方でインターネット等の通信インフラの質は格段にあがり、コストも下がっているのだから、経済合理性を勘案すれば、もっと拡散が進んでもよさそうなものだ。だが、実際にはそうなっていない。東京圏ではなく東京、東京の中でも中心部に人口が集中する傾向が見られる。2013年のデータだが、東京都心5区(千代田区・中央区・港区・新宿区・渋谷区)に居住する人口は都区部全体の10.7%を占めるが、都区部の2013年の総転入超過数に占める都心5区の比率は23.3%。その後も都心集中傾向には拍車がかかっているという。*1 )
どうも一極集中の理由がうまく説明できているようには思えない。従来の仮説や分析ツール、あるいは先入観は修正を余儀なくされているように思えてくる。



 変わる都市集中の理由


世界に目を転じると、都市への人口集中の傾向は世界中のトレンドといえそうだ。ただし、その原動力は従来型の製造業やサービス産業ではない。社会学者のリチャード・フロリダは著書『クリエイティブ・クラスの世紀』*2で、新たな経済の支配階級であるクリエイティブ・クラスが主導する経済発展はメガ地域(都市)に集中し、世界のどこであれその都市は相似形になっていくと述べる。


経済学者のエンリコ・モレッティは、著書『年収は「住むところ」で決まる 雇用とイノベーションの都市経済学』*3で、『イノベーション産業の乗数効果』という概念を提示して、伝統的な製造業とIT等のイノベーション産業を対比させ、イノベーション産業が現代の米国経済成長を担っている様子を詳細な調査資料によって描いてみせる。イノベーション産業従事者は互いに近接した場所に住むことで相互に学び、ビジネスチャンスも拡大していくことを実感しており、シアトルやサンノゼのような特定の都市に移り住む傾向がある。しかも、伝統産業の場合は仕事を海外にアウトソースして地域の雇用がなくなるだけだが、イノベーション産業の場合は自分たちも製造等を海外にアウトソースするものの、国内雇用も増加し、しかもイノベーション産業従事者以外の仕事で比較してもこのような都市居住者の方が高収入となっていることを詳細なデータで示している。



 東京でも見られる同様の現象


問題は東京にも、ここで語られているような『クリエイティブ・クラス』がいて『イノベーション産業』が経済成長をリードしているのか、ということになるが、日本のITベンチャーやネット系の先進企業は渋谷や六本木等に集中する傾向があることは従来から指摘されていた。しかも、職住接近のライフスタイルも特にソフトウエアエンジニアの間では進んで来ている。ライターの速水健郎氏は、著書『東京どこに住む? 住所格差と人生格差』*4で、興味深い事例を紹介している。インターネット広告代理店業である(株)サイバーエージェントは、オフィスから2駅以内に住む社員に3万円の補助を出すという制度(2駅ルール)を2005年ごろに導入した結果、社内コミュニケーションの活発化等予想外にメリットは大きく、この成功を見て、多くのITベンチャーが制度として導入していったという。情報技術を扱い、遠隔地で仕事ができるような環境にある会社ほど都心にオフィスを構え、従業員は会社の近くに住むという一種の逆転現象がこの日本でも確かに起きている。


さらに速水氏は、経済学者のエドワード・グレイザーの説を引用して、情報テクノロジーの発達が、むしろ人と人の間の直接的なコンタクトの需要を生んでいると述べる。すなわち、FacebookTwitterを通じたコミュニケーションは、実際に人と人とが対面して会う時間、人間関係の重要性を高めており、そこで深まった関係性が、リアルな現実の場で以前よりも強化/補完されるという。


そう言われてみると、この数年自分でもこれを内々に実感していたことに思い至る。情報テクノロジーの進化は、一方で必ずしもオフィスに行かずとも、自宅で勤務できる可能性を切り開いた。だが、その一方でFacebookTwitterを通じてひっきりなしに飛び込んでくる、旬な話題や、新しい考え方は、その発信者に真意を確かめたり、発信者本人ではなくとも、識者と直接議論してみたいという誘惑を喚起する。そのためにあらためて情報テクノロジーを利用することはもちろんやるにしても、実際に人に会ったり、その友人達が合流して一緒に議論を深めたりということが新たな価値を生み出し、皆の見識を深めることにつながることは、誰よりも私自身が感じていたことだった。



 政策として織り込まれるのは難しいが・・


エンリコ・モレッティの主張が正しいとすれば、日本でもクリエイティブ・クラスを増やし、活動を活発にし、人口が集中する都市の環境を(分散することではなく)改善していくことが、付加価値の高い『イノベーション産業』において日本の競争力を強くし、さらには雇用を生んでいくことにつながる。逆に言えば、これができなければ、日本には『イノベーション産業』は育たず、海外のどこかの都市に負けていくことを意味する。まさに、近未来は国家間の競争ではなく、都市間の競争になるであろうことをリチャード・フロリダも予見している。


だが、ちょうど今東京都知事の選挙戦が始まっているが、このような観点での都市育成のビジョンを持っている候補は見当たらない。(いるのかもしれないが、少なくとも伝わってこない。)企業単位で見ても、集積や近接性の重要性は必ずしも正しく理解されていないように思えてならない。単純に地価等のコストの安さだけでオフィスの立地を決めて、しかも集中より分散が良いと考えている経営者が多いように見える。このような、経営者のマインドの後進性は明らかに日本企業全体の競争力を削いでいる。日本で従来型の企業から『イノベーション産業』への脱皮がうまくいっていないのも、ここにも原因の一端があることは間違いない。


もちろん、これは東京に若年層を吸い取られている地方から見れば、聞きたくもない議論かもしれない。『クリエイティブ・クラス』などという階級の役割を重要と認めることは、同時に、現在でも急速に進む所得格差を所与として受け入れていくことも意味している。『一億総中流』幻想から抜け切れていない多くの日本人にとっては、嫌悪感さえ感じてしまうかもしれない。特に選挙等で票に結びつけることは難しく、誤解されて票を失ってしまう恐れもあるだろう。しかしながら、人口減少社会が進行する現実を受け入れれば、地方は地方で集積を進めて、魅力的な地方都市を形成していくこと、それによってイノベーション人材を引きつけるように努めることは避けられないはずだろう。そのために必要なことを貪欲に学ぶ必要もあるはずだ。



 重要な教訓


速水氏は、著書で、未来学者のアルビン・トフラー未来予測について、ほとんどすべてのことを驚くべき正確さでいい当てているのに、トフラーは『通信テクノロジーが進化すれば誰も都市には住まなくなる』といっていてこの点に限っては外していると述べている。確かに、イノベーション産業における人の集積や近接性の重要性については、トフラーほどの未来学者でも見抜けていなかったといえそうだ。だが、これは非常に重要な教訓を残してくれていると考えるべきだ。人間行動はコストや生産性、物的な合理性によって突き動かされることは今までもこれからも変わらない。だが、時に、それを度外視してでも、世界を動かしてしまう、『社会的』『倫理的』『思想的』『感情的』『歴史的』な要素を忘れてはならないということだ。先日の英国のEU離脱問題にしても、グローバルな経済合理性より国家主権が勝利した典型的な事例になったわけだが、技術が進化し、地域や国家が解体されていくと近未来こそ、人間的な要素がより強く全面に押し出されてくると考えて準備しておくべきだと思う。

*1:http://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=41936?site=nli

*2:

クリエイティブ・クラスの世紀

クリエイティブ・クラスの世紀

*3:

年収は「住むところ」で決まる  雇用とイノベーションの都市経済学

年収は「住むところ」で決まる 雇用とイノベーションの都市経済学

*4: